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アンチ・マシーン・アイランド

作者: 獅子王


 朝焼けが南大西洋の海面を美しく照らし出す。太陽に背中を押されるように、わたしは港を出た。そのまま数日のあいだ船に揺られ、ようやく彼方に小さい島が姿を現した。

「あれが例の島だよ」

 いままで一言も発さなかった黒人の船乗りが、ぶっきらぼうに言った。わたしは双眼鏡を構える。

 島は、遠目に見れば小さかったが、近づいてみるとなかなか大きく、中央にそびえる山と森は鬱蒼としていて迫力がある。

 わたしは双眼鏡を外し、手に持った手紙に目を落とした。島の遠景は、手紙に書いてある島の特徴と一致した。

 船乗りは、波に侵食され崩れかかった防波堤の内側に人目を避けるように入りこむと、適当な桟橋にわたしを降ろしてそそくさと帰っていった。

 降りる際、金は払うから五日後も迎えに来てくれと船乗りに念を押したが、男はむっつりを決めこんで、なにも言わなかった。

 所どころ腐食した橋板を靴底で叩き、いつどこの橋板が抜けるかと怯えながらわたしは桟橋を歩く。腕時計を見るとちょうど正午をまわったところで、粗末な港は閑散としていた。

 港の奥まったところに『アケム漁港管理事務所』と汚い文字で書かれた掘っ立て小屋があり、その中から人の気配がした。

 入ってみると、中では大柄な白人男性がひとりで机に向かってなにか作業をしていた。わたしは男に声をかけた。

「やあ、あんたがホンダだな。ずいぶん遅かったじゃないか」

 返ってきたのは訛りの強い英語だった。見たところ三十そこらの男は両手をひろげ、わたしを力強く抱擁した。厚い胸板からは若干の獣臭がして、思わず顔をそむけた。

匂いから解放されると、わたしはたどたどしい英語ですぐに遅刻を詫びた。

「いいんだぜ。船の遅刻はもうなれっこだからな」

 わたしは男とともにガラスのない窓から港を一瞥する。石と土で固められた小さな防波堤の内側に、泥の中に木の杭を打って板をわたしただけの桟橋があり、そこにせいぜい四人乗りくらいのボートがくくりつけられていた。

「人力じゃ、漕ぎ手が体調をくずすこともあるしな」

 男はその体格にふさわしい大きな声で笑った。わたしは憮然として港を眺めつづけた。

「おっと自己紹介が遅れた。おれはダッジ。漁師と、この港の管理員をやってる者だ。今回はあんたのガイドをさせてもらう」

 ダッジが手を差し出したので、わたしは握手に応じた。やっぱり、近づくとにおう。

 彼はくるりと踵を返したかと思うと、小屋の奥から麻のような繊維でできた袋を持ってきて広げる。

「さて、ホンダ。さっそくなんだが、あんたの身につけている機械類をぜんぶ没収させてもらう」

 まるでホテルマンのような屈託のない笑みで、そう告げた。

 わたしは苦笑を浮かべた。ためしに、その理由を聞いてみる。

「おいおい、まさかこの島のルールを知らずに来たんじゃないだろうな」

 彼の顔からすっと笑みが引くのを見て、わたしは冗談だと言ってごまかした。

 手に持った手紙が手汗ではりつくのを感じた。グローバル化したこの時代に通信手段は手紙だけだなんて、馬鹿げているにもほどがあるのだ。普通に考えてみれば容易に推察できる。

 わたしは、心のどこかで作り話だと冗談半分に受けとめていた自分を呪った。

薄ら笑いを浮かべながら押し黙るわたしに、ダッジは念を押すように、ゆっくりと言った。

「もう一度言うぞ、ミスター・ホンダ。この島は、あらゆる機械の持ちこみ禁止だ」

 やっぱり、噂は本当だったのだ。

 アケム共和国。ここは文明の進化に逆らって、生活のすべてから機械を取り払った国であった。

 ダッジはまずわたしのリュックサックから、ノートパソコン、DVDプレーヤー、録音機、デジタルカメラ、電子辞書を取りだし、ぽいぽいと無造作に袋に投げこんでいった。もっと丁寧に扱ってくれと彼に食らいつくが、丸太のように太い腕で押さえつけられ、とても叶わない。

「さあ、つぎはその腰につけてるポーチだ」

 続けて彼はモンキーバナナみたいな指でわたしのウエストポーチを乱暴につかんできた。ポーチには細かな精密機器やもろいガラス器具などがぎっしり詰まっており、ガラスと金属が擦れる甲高い音がいまにも聞こえてきそうだった。

 握りつぶされてしまう。咄嗟にそう感じたわたしは、これだけは勘弁してくれと泣き声で言い、座ってポーチの中身をその場にぶちまけた。

 結局、携帯電話、音楽プレーヤー、充電器、懐中電灯、挙げ句の果てにはソーラー式の防水機能つき腕時計までもが汚い袋に放りこまれた。その後も税関も真っ青なほど入念な身体検査がつづけられ、わたしは危うく丸裸にされるところだった。

 ダッジに担がれた麻袋を悲壮な気持ちで眺めていると、彼はあっけらかんとした調子で、

「なあに、没収するったって盗ったりしねえよ。この島にいるあいだだけ、金庫に隔離させてもらうだけだ」と言った。

 その言葉もにわかには信じられなかった。こんな土人たちがいつ盗んだり壊したりするか見当もつかない。なにより、彼が『金庫』と呼んだそれは、小さな鍵のついた木製の机の引き出しなのである。思いきり蹴飛ばせば壊れそうだった。

 わたしがさらに口出しをしようとすると、彼の顔からみるみる笑顔が消えるとともに、こめかみに青筋が浮かぶ。

「そんなに言うなら、いますぐ国に帰ったらどうだ」

 ダッジは低い声で言い放ち、つかんだ麻袋を振り上げて睨みつける。この男が癇癪を起こして電子機器を破壊でもしたらいままでの研究の成果が水の泡だ。

 せめてプレーヤーに入ったままのDVDと、デジタルカメラのSDカードだけは返して欲しかったが、これ以上刺激するとわたし自身になにをされるかわからないので、黙って彼に従うことにした。

「聞くところによるとあんた、日本のえらい学者さんらしいじゃないか。どうしてこの島に」鍵もかけずに事務所から出ると、ダッジが尋ねてきた。

 わたしは少し不機嫌になりながら生物研究のためだと答えた。

「生物学者か。なら大歓迎だ。観光めあてで来る連中は心構えがなっちゃいねえ」

 ダッジは朗らかに言った。わたしは大股で歩く彼のあとについていく。もちろん道は地面むき出しで、舗装されていない。舗装のための重機も、持ち込みが禁止されているためだ。

「さっそくだが、この島のどこを見て回りたいんだ?」

 島の中央にこんもりと茂る森に向かって伸びる道を進みながら、ダッジは尋ねた。

 できれば人の手の入っていない森や林、海岸、鍾乳洞か地底湖、川や沢が望ましいとわたしは答えた。

「地底湖ってほどのもんはないかもしれんが、鍾乳洞はあるぞ。そしてこの森は人の手がほとんど入っていない」

 ダッジは顎をしゃくって目の前の森をさした。

「もしかしたらあんたらが言うとこの新種の生物とやらが見つかるかもしれんぜ」

 それは願ってもいないことだった。もうこの地球上には新たに発見されるより、その前に絶滅してしまう種のほうが多い。どれも人間の資源開発や森林伐採、環境汚染に起因することは明白であった。

 わたしをはじめとした一部の生物学者は、生態もなにもかもわかりきった現状の生物を取りあつかうことにいい加減嫌気がさしていた。生物学者のロマンは、新たな生命体を発見し、発表することだ。それが刻一刻とその可能性を減らしつつあり、悠長に構えていると新種の生物の発見はいよいよ難しくなる。その前にいかに多くの新種を発見し、保護し、歴史に名を残すかが、学者間での暗黙の目標になっていた。

「おれたちの先祖は自然と共存することを目的にこの島にやってきたんだ」

 歩きつつダッジが口を開いた。

「機械も科学エネルギーも捨てて、ヒトのあるべき姿に戻ろうとしたのさ」

 わたしは、先祖とはどれくらい前の先祖なのか尋ねた。

「そうだな、いちばん早くこの島にやってきたのは二十世紀初頭あたりだったと聞くぜ。資本主義が進むにつれて拡大する社会的格差が嫌になって、イギリスだかフランスだかの従業員とその家族が団結して集団渡航したんだとよ」

 それはあなたの祖先なのかと尋ねた。

「いや、おれの家族はもうちょっとあとにここに移住してきたモンだ。アメリカ人でな。世界恐慌で家も土地もなくしたらしい。もう機械と時間に縛られた生活なんてうんざりだって言って、ちょうどその時にこの島のことを知ったらしい」

 本人はこともなげに話すが、その背景にはご家族の多大な苦労と努力があったのだろう。わたしはポーチからメモを取り、彼のいままでの話の内容とわたしの体験したことのすべてをそれに記した。

「さあ、ここが森の入口だ」

 わたしたちの前には、森がぽっかりと口を開けているような洞があった。真昼だというのに、そのなかはいやに暗い。

 わたしが気圧されていると、ダッジはにやりと笑った。

「この森はすべて原生林だ。人間がいろいろ手を加えていないから、あんたらが知っているような歩きやすい森とは大ちがいだぞ。なかにはもちろん危険な生物もいる。それでも入るかい」

 わたしは息を巻いて反論した。わたしはいままでアマゾンにまで生物研究のために赴いたほどである。なめてもらっては困ると、四十肩に無理を言わせて腕を振り回した。

 ダッジは「うはは、やっぱり学者はちがうな」と豪快に笑うと、行きたい場所を訊いてきたので、わたしは鍾乳洞に行きたいと答えた。

 森は深く、短い距離でも足場が悪いために迂回したり斜面をのぼるのに時間がかかったりして、進むのに骨が折れた。空を見上げると、鬱蒼と茂る木立のすき間から、木漏れ日がわずかにさしこんでくるのが見えた。中国の奥地で見たものと似ていた。

 南大西洋にぽっかりと浮かぶこの島の生物は奇妙な進化をしたものが多かった。絶滅が危惧されているキーウィの亜種のような鳥、人の顔面を覆うような大きさの蛾。途中でダッジに、静かに迂回するように言われた。彼の視線の先には恐竜のような巨大なトカゲがいた。子供なら丸呑みにできそうなサイズで、おそらく成熟したコモドドラゴンよりも大きいだろう。ほとんどワニであった。

 森のなかを歩き、鍾乳洞までもうすこしというところで、わたしたちは数人の男と出くわした。男たちは茂みから突然姿を現したわたしたちに対して身構えたが、すぐに持っていた槍を下げた。

「や、あなたはラク村のダッジさんではありませんか」

 うち一人が大きな声で言った。

「ああ、きみはオルトセレ村のスサくんか」

 ダッジは五人ほどの武装した男衆に物怖じせずに抱きつきにいった。これは彼なりのあいさつらしい。男たちは一瞬ビクッとからだを顫わせたが抵抗せず、抱擁を受け入れた。においのためか、一人が白目をむき、卒倒しかかっていた。

 わたしはこの島に来てはじめてダッジ以外の人間を間近で見た。見た目は二十代かそこらであろう。しかしいちばん驚いたのは、スサと呼ばれた若者がどう見ても東洋人であることだった。

「そ、そちらの方は、どなたかな」

 青ざめた顔をしたスサが、ダッジのあつい抱擁から逃れるようにわたしを指さした。

「ああ、彼か。彼はホンダ。日本の生物学者で、研究のためにアケムにやってきたそうだ」

 それを聞くなり今度はスサがわたしに抱きついてきた。

「ニホンジン! 本当か! ニホンわたしのひいばあちゃんのふるさと」

 彼は不器用な日本語を耳のそばで叫び、わたしは目を白黒させた。スサもダッジほどではないが、におった。

 あとになって、彼の家族は台湾出身であることをダッジから聞いた。

 スサ率いるオルトセレ村の男たちは食料の調達に出ている最中だった。いちばん若そうな男は猟果が入っていると思われる麻袋とシュロでできた網を担がされていた。

 彼らと別れたあと、わたしはこの島にはいくつ村があるのかダッジに聞いてみた。

「この島には三つの村がある。ひとつはおれが住むラク村で、ふたつめはさっきの連中のオルトセレ村。そしてアイデム村」ダッジは灌木をかき分けながら説明した。

「オルトセレ村の村民はさっきみたいによくこの森に入って採集や狩猟をしてるんだ。それで村ごとに採れたものを交換したりしてるのさ」

 思ったよりしっかりとした流通システムが形成されていることに、わたしは驚いた。

 ダッジは地底湖はないと言ったが、鍾乳洞を下った先の水たまりにはおきまりの盲目魚がおり、これも採取して分析する必要がありそうだった。盲目魚あるいは洞窟魚の分類群に属する魚は五属六種しかおらず、新種の発見はそれだけ功績が大きい。加えて世界的にも水質汚濁や外来魚の移入によってその個体数は激減しており、保護の対象となっている。

「ホンダ、あの魚が欲しいのか。村に帰れば釣り道具と網があるぞ」

 ダッジが朗らかに訊いてくるが、わたしは沈黙を貫いた。

 この魚が新種にしろそうでないにしろ、この鍾乳洞の水たまりには目視で確認できる範囲では五匹しかいない。一匹捕獲してしまうとそれが種の存続に影響するおそれがあり、わたしは慎重にならざるを得なかった。

 鍾乳洞から出たころには日は傾き、空は橙色に染まっていた。

「おう、日が暮れかけてるな。ホンダ、今日はここまでにしよう」

 汗をかいたせいでさらに体臭がきつくなったダッジが言った。

 わたしもぶっ続けで魚や動物をスケッチしたせいで体力と集中力を使い果たしていた。普段ならデジタルカメラで一秒とかからない一枚の画像も、スケッチだと三十分近くかかってしまう。それを何枚も描いたので、わたしの右腕は顫え、にぶい痛みを感じた。

 同時に、ひどい空腹感をおぼえた。昼食はリュックにある気休め程度の携帯食料をつまんだくらいだったので、わたしの腹は年甲斐もなく食べ盛りの少年のような音をたてた。

 背後から響く腹の音を聞くと、ダッジは哄笑した。

「ホンダ、あんたも腹が減ってるのか。村に戻ってメシにしよう」

 わたしは笑ってごまかし、大股で歩く彼のあとをついていった。

 しばらく歩くと森がひらけ、集落が現れた。

「さあ、ついたぜ。ここがラク村だ」

 ダッジが両手をひろげ、仰々しく紹介した。彼の存在に気づいた何人かの村民が、歓声をあげて出迎える。しかし彼らの視線は彼の大きな背中に隠れているわたしに釘づけだった。

 村民の姿を見たわたしは、刺すような視線を浴びながらも再びメモ用紙を取り出した。この国の公用語は英語であると把握していたが、特筆すべきは、彼らの肌の色や顔つきだ。いまダッジと話している男はゲルマン系の顔立ちをしているが、その腰にはりついてこっちをじっと見ている子供は肌の色が黒っぽく、アフリカ系との混血のような顔立ちをしている。かと思えば遠くで立ち話している女たちは頭から顎の下にかけて布で覆っている。イスラム教徒だろうか。

「だいじょうぶだ、心配するな。ああそうだ。機械はぜんぶ没収した。港の事務所の金庫に保管してある。今夜の宿ももう決まってる。ああ。あんたらの家には泊めないよ」

 そんな旨を述べてダッジは村民に笑いかけながら、わたしについてこいという合図をした。わたしは背中をいくつもの視線に射られながらも、彼の岩のような背中に隠れるようにして歩く。

「肌の色が気になるか」

 ダッジが振り返った。わたしは頷く。

「おれの先祖みたいに、進みすぎた文明が嫌になったり時間にとらわれない生活をしたいと思ったりした連中が世界じゅうにいたのさ。だからいろんな民族がいる」

 しばらくのあいだ、集落を歩いた。どの家屋も木造で、鉄や機械がまったく見受けられなかった。ヤギが庭で飼われている家もあり、たまに頭の悪そうな痩せた犬がわたしに向かって吠えてきた。

 家のつくりも様々だった。いろんな人種や民族が入り乱れるこの島では、それぞれの文化の特徴をふんだんに取り入れた家屋が見られる。しかしどれもコンクリートや金属らしい金属を使っていないので、わたしは数百年前にタイムスリップしたかのような錯覚にとらわれると同時に、異様なガラパゴス化を遂げた目の前の現実に目を白黒させるばかりであった。

 ダッジは目のあった村民のかたっぱしからあつい抱擁を交わし、わたしを連れているにもかかわらず立ち話に興じる。そのたびにわたしは手持ち無沙汰になるので、ダッジから離れすぎない程度に夕焼けが照らす集落をぶらぶら見回った。

 家の軒先で、機織りしている黒人女がいた。その手さばきは慣れたもので、目にも止まらぬ速さで正確に布を織る。その機織り機ももちろん木製である。家のなかでは織った布を加工しているようで、小規模ではあるが、村人の衣料品はここで生産されているようだった。わたしは近づいてじっとその動作を眺めていたが、彼女らは目の前のよそ者に一瞥もくれることなく一心不乱に作業に打ちこむ。

 まるでわたしの姿が見えていないどころか、機織りのことしか考えられないようにも見えた。

 わたしはふらりと離れると、機織り屋の隣の家を眺めた。

 古い家だった。壁はツタやコケで半ば覆われ、腐食した屋根の継ぎ目から小さな木々が芽吹き、空に向かって細い枝を伸ばしている。今にも崩れ落ちそうな木造家屋が、木々のツタや根でしめつけられてやっと立っている、そんな印象だった。

 あけ放たれた間口の両脇にはさまざまな種類の本が並び、その表紙を夕日に照らしている。ここは本屋のようだった。一度あたり見渡し、人気がないのを確認すると、本を手に取ってページをめくってみた。そこには、新聞のように正確な文字がその表記を乱すことなく羅列されていた。よく見ると、新聞紙のような紙の束を生やしている筒が店の入り口に置かれていた。

 なんだ、と私は淡い失望を抱きつつ、心の中でほくそ笑んだ。

 いくら機械の持ち込みや製造が禁止されているからといって、活版印刷術はきちんとあるんじゃないか。しかも、文字表記のこの正確さ。この仕上がりはまるで印刷機にかけたような――いや、印刷機以外考えられない。ダッジめ、表向きはああ言っているくせに、裏では機械の力を借りてるんじゃないか。どうせ、いまに電線や発電機の一つでもうっかり出てくるんじゃないか。まてよ、それなら、わたしから機械類を取り上げる必要もなかったじゃないか。どうして長い時間かけて動植物をスケッチする必要があったんだ。デジタルカメラなら、ほんのワンタッチで――。

 腹の底からふつふつと怒りが湧いてくるのを感じたわたしは鼻から長い息を吐きながら顔を上げた。今は考えるのをやめよう。帰ったらダッジを問い詰めてやる。

 開け放たれた戸口の先に目を凝らす。部屋のなかも書物がしきつめられているが、暗くてよく見えない。店は怪しい雰囲気を放っていたが、機械の力を借りて営業しているのだと分かった今となっては、見掛けだおしにしか見えない。私はつま先をすべりこませるようにして店に入った。

「なにか用かい」

 突如、暗闇から飛び出したしわがれた声に、体が硬直した。

 薄暗い店の奥ではひとりの老女がペンを片手に机に向かっていた。白い肌に深いしわを幾重にもきざみ、長い白髪を滝のように垂らしている。その姿は魔女、いや幽鬼のようにも見えた。こちらには一瞥もくれず、せわしなくペンを走らせている。

 わたしは、この書店の本はどこで印刷しているのかと尋ねた。

 こんなことを聞く必要はまったくなかったが、秘密を暴いた今となっては、いままで無礼な対応をしてきた島民に対する優越感が胸を満たし、それに裏うちされたわずかな嗜虐心が頭をもたげてきた。

老女はしばらく値踏みするようにじろじろ見ると、ゆっくり口を開いた。

「あんた、この島のモンじゃないね」

 そうだと短く答える。彼女はふたたび口を開いた。

「これはわたしが書いたんだよ」

 羽ペンを置くと、老女は懐から煙草を取りだして火をつけた。薄闇の中で煙草の燃え殻が赤く光る。ひと呼吸で部屋に紫煙が充満する。長い白髪のあいまから、シミの浮いた高い鼻が突き出した。

 鼻っつらに吹きつけられる濃い煙にむせ返りながら、わたしは印刷所はどこにあるのかと尋ねた。

「だから言ったろう。これは、わたしが書いてるんだよ。わたしと、あと何人かの従業員で」

 冗談とは思えない口調だった。

 わたしは老女が書いている原稿を見せてもらうことにした。

 原稿の字はすべて均一で、わずかなブレや滲みもなかった。

「これはこの島の週刊誌だよ。明日の日がのぼる前にはこれを村じゅうに配るんだ」

 老女は左手で煙草を吸いながら、ほんの一厘の狂いもない字で紙面を埋めていく。そこだけコマ送りされているように、右手は高速で紙面を滑っていく。やがて紙面に3つほど、ぽっかりと四角い穴が浮かび上がる。紙面上の文字のない箇所が形となって現れたのだった。

「ここには挿絵が入るのさ。うちの取材班自慢の絵だよ」

 右手は動き続ける。それは、それ自体が意志を持っているというよりも、まるで、原稿を書き上げるために右手があるようだった。

 わたしは唖然とした。まさか。本当だったのか。

「となりで、挿絵や装飾なんかを書いてるよ。あとは適当な記事や広告なんかだね」

 ツタのはったガラス窓の隙間から、小屋が見えた。礼もそこそこに店を出て裏手に回る。四方の窓を大きく開け放した、風通しのよさそうな小屋だった。

 窓枠からのぞいてみると、そこでは数人の男女が机に向かって羽ペンを走らせていた。

 だれも無駄口を叩かずに、一心不乱に作業を続ける。その気迫はすさまじいもので、たぶん、わたしがここからのぞき見していることにも気づいていない。

 窓際の机の端にうずたかく積まれる紙の束をよく見てみると、あす発行される予定の週刊誌の一面記事と見出しがどれも一様に、まったく均質に記されていた。

 小屋の片隅に目をやると、南米系の男たちが大きな長机で作業をしていた。個々の机で転写を行っている作業員とはまったく異なった動きをしている。

 わたしは窓枠から頭をひっこめ、より男たちに近い窓から頭を出した。

 それもまた、異様な光景だった。

 長机には、等間隔に男が並んでいる。さまざまな民族の男たちだ。彼らは、向かって左端から順に原稿を右へ、右へと渡してゆく。

 左端の男が真っ黒い液体に板のようなものの一面をわずかに浸し、注意ぶかく隣の男に手渡す。

 二番目の男が黒い液体がついた面を紙に押し当てる。

 三番目の男が素早く紙を回収し、息を吹きかける。

 四番目、五番目の男も同様に息を吹きかける。

 六番目の男は原稿を受け取ると、ぐるっと見回し、ゆっくりとていねいにカゴに入れた。

 その一連の動きが澱みなく、迅速に行われている。

 わたしはすぐに気づいた。これは版画だ。

 インクをつけ、判をつき、長い時間をかけて乾燥する。この行程はまちがいなく版画のそれである。

 カゴの中には写真のように精緻なできばえの絵が一面であろう記事を大きく飾っていた。半裸の男たちが笑顔で肩を組んでいる光景だとこの距離でもわかる。さすがに一眼レフなどで撮影した写真とは比較するべくもないが、遠目に見れば、モノクロとはいえこれが版画であるとわかる人間はそういないだろう。

 彼らの動き一つ一つは、精密かつ緻密で、老女と同じようにまったく狂いがない。手さばきから呼吸のタイミングに至るまで、無駄なものがそぎ落とされた究極の動作のリレー。

 職人。そんな言葉がよぎった。

 匠、名工。あるいはクラフトマンと呼ばれる、一流の技術者たち。その精度はコンマ1ミリにも及ぶらしい。

 ここで作業している彼らは、皆が一流の技術を持っているのだろう。それぞれの技能を、それぞれの役割で最大限に発揮している。しかし、わたしは彼らは『職人』とかそういった存在とはまた違った印象を受けた。

 限りなく精密であるが、どこか無機質で、冷たい――。

 わたしはその光景をしばらくのあいだ茫然と眺め、逃げるようにダッジのところへ戻った。

 その後もダッジが道草ばかり食うので、日はとっぷりと暮れ、あたりは夕闇に包まれた。濃紺の夜空を、星々が無窮のきらめきで彩る。空の端はまだほのかに赤い。

「時間をとらせてすまない。だがこれが重要なんだ、ホンダ」と言いながらダッジはあろうことか道を引き返した。ダッジの家は何度も目にした村の中心の大きな家だった。

「おかえりなさい」

 家に上がると、明るい部屋からダッジの妻らしき女が出てきた。色黒で、マレー系の顔つきだった。

「彼女は家内のサムコだ」

「いらっしゃい、サムコよ」

 サムコとあいさつの抱擁を交わす。彼女からもどことなくエキゾチックなにおいがした。

「昨日も言ったとおり、日本人を今日から四日間ここに泊めるぜ」

 ダッジはさも当然のようにサムコに言い放つ。わたしはそんなことは初耳だった。

「わるいな、だがこの村には宿泊業をやってるやつはいないんだ。なにせ、観光なんてもんとは縁遠い島だからな。そういうわけで、よろしくな」

 本日何度目かのマイペースな調子で語ると、彼は白い歯をきらりと光らせて笑った。このしぐさも二、三度見たことがあった。どうやら彼はこれでうまくやっているらしい。

「二人ともお疲れでしょう。さ、部屋に入って。すぐにご飯にするわね」

 そう言うとサムコは大広間のすみにある長持のような木箱から食材を取り出し、豊満なヒップを巧みに使ってふたを閉じた。

 わたしはリビングらしい部屋に通された。部屋の中心には粗末な囲炉裏のようなものがあり、そこで薪が小さく燃えている。

料理ができるまでのあいだ、わたしは部屋の隅に転がり、鍾乳洞で描いたスケッチの数々を取りだして図鑑と交互に眺めた。このスケッチが正確なら、あの盲目魚は新種の可能性が非常に高い。大陸と隔絶されたこの島ならではの進化を遂げたのだろう。

「そいつがそんなにすごいのか」

 サムコの手伝いを終えたダッジがのぞきこんできた。

 わたしは、この魚は新種の可能性が高いことと、昼間見たかぎりでは数が少ないから保護されるべきであると力説した。

「ふーん、そうなのか」

 生返事をするダッジに、わたしがことの重要性を説こうとすると、ちょうど夕飯ができあがり、目の前に木の皿が出された。香ばしいにおいが食欲をそそる。焼き魚の香りだった。

思わずわたしは手に持ったスケッチ用紙のすき間から、出された皿をのぞき見た。

 そこには、こんがりと小麦色に焼きあがった盲目魚がほかほかと湯気をたてて横たわっていた。

 わたしはぎゃあ、と跳びあがり、なにをするんだとサムコに詰め寄った。するととつぜん首元がきつく締まり、わたしは殺される寸前の鶏のような声を上げた。ダッジが後ろから襟首をつかんでいた。宙を浮いた感覚がし、わたしは子猫のようにダッジの隣に引き戻された。

サムコは顔をしかめると「焼き魚はお嫌いだった? 燻製のほうがいい?」などと見当ちがいな返答をよこす。

 そうじゃないそうじゃないと、手を振って伝える。しかしせきこんでうまく言葉が出てこないわたしの頭に、大きな手をおいてダッジは言った。

「サムコ、どうやらその魚はホンダにとって大切なものらしい」

「あら、そうなの」

 そんな次元の話ではない。この夫婦はことの重大さをさっぱりわかってはいなかった。

わたしがこれをどこで入手したのかたずねると、サムコは「今日オルトセレ村の人から譲ってもらったのよ。キャッサバひと袋で交換できたわ」と微笑んだ。

 わたしはオルトセレ村という言葉に聞きおぼえがあった。ダッジを振り返る。

「オルトセレなら、今日森で会ったあいつらだな」彼は白い歯を見せた。

 どうりで洞窟の近くにいたのだと、わたしのなかで一本の筋が通った。彼らが背負っていたあの袋にはとれたての盲目魚が詰まっていたのだ。

 わたしは二人に向かって早口で、この魚が新種の可能性があり、保護の必要性があるかもしれないから、むやみやたらに取っちゃいかんと説明した。

「おお、珍しい魚だったのか。やったな、なんか得した気分だ」ダッジが白痴のように喜んだ。

「あら、それは大変ね」

 サムコは多少重要性を感じたのか、すこし低い声で言ったが、

「でももう焼いちゃったし、ホンダも食べてみたらいいわ。とっても美味しいよ」

 と天真爛漫に笑いかけてきた。

 やるせない思いが爆発し、わたしはうなりながら数回地団駄を踏んだ。が、もうこれ以上とやかく言っても焼きあがった魚はもう戻ってこない。わたしは口が酸っぱくなるほどふたりをまくし立てると、ふらふらと席についた。

「さて、今夜は客人をまねいての宴だ。酒を飲もう」

 けろっとした表情でダッジが部屋の壁沿いに据えてある小さな水瓶から酒をくみ、差し出してきた。わたしはがっくりとうなだれたままそれを受け取る。

「この酒はうちの村のルノーという男が作ったんだ。あいつはうまい酒をいつも作ってくれるって島全体でも有名でな」

 コップをすこし傾ける。焼酎のような酒だった。市販されている芋焼酎と似た味で、知らなければそのつもりで飲んでしまいそうだ。そしてこれがまた皮肉なことに、こんがり焼けた盲目魚と合うのである。

 後ろめたい気持ちで新種の魚をつまんでいると、サムコが再び長持からなにか取り出した。

「ほら、今夜は肉もあるのよー」

 彼女は上機嫌な様子で丸鶏を持ってくると、黒曜石のかけらを研磨したナイフで手際よく解体し、木の串に刺して囲炉裏で焼いていく。まもなくして香ばしい匂いが流れてきた。

「こりゃ最高だ。サムコはよくこんなものを手に入れたな」

「これもオルトセレ村の商人から買ったのよ」

「さすが、自慢のおれの嫁だ」

 焼きあがった鶏肉は絶品だった。すこし臭みがあるが、たっぷりと脂が乗っており、柔らかい。口に入れれば舌の上でとろけた。

 サムコは鼻歌をうたいながら、石と木でできた鍋に溶き卵と鶏肉を流しこみ、火にくべて炒めものをつくった。これも最高のうまさだった。

 わたしはダッジにこの鶏はどうやって育てているのか尋ねた。

 すると赤ら顔の彼はいくぶんか呂律が回らない様子で、

「育ててるやつなんかいねーぜ。みんな森に入ってとってきてるんだ」と言った。

 ゆっくりと、わたしの体は硬直した。咀嚼をやめる。いやな予感がした。

 わたしはおそるおそる、これはニワトリではないのかと尋ねた。

 ダッジは目を丸くして「チキン」と呆けた老人のように復唱した。

「ああ、聞いたことあるな。トサカのあるやつだろ」

 彼は空になったコップをサムコに向けて、ぐははと笑う。

「昔は飼ってたけど、病気でみんな死んじゃったわよね」

 サムコは夫のコップを受け取ると、楽しげに、絶望的なことを口にした。

 わたしは火にくべられている鳥を凝視した。ホコリまみれのメガネをシャツでこすって、注意ぶかく見つめる。

 まんまるい体。太くて肉付きのよい脚。ほとんど退化してしまった羽。皮から所どころ生える黒い毛。

 それは、国際自然保護連合によって作成された『レッドリスト』に絶滅危惧種として記載されている、キーウィの丸焼きだった。しかもこれに関しても新種の可能性があった。

 わたしは悲鳴をあげ、土まみれの床をのたうちまわった。

狼狽するサムコを腕に抱き、ダッジは心配そうな視線を投げかけてくる。

「どうしたんだ、ホンダ。腹を下したのか」

「それはたいへん。はやく薬草をすりつぶして飲ませないと」

 馬鹿夫婦がなにか言っているが、まったく頭に入ってこなかった。わたしはキーウィを食ってしまったという罪悪感で押しつぶされそうだった。

 ひとしきり絶叫して力尽きたわたしに、サムコがなにかを飲ませたが、そんなことはどうでもよかった。

 この島の住人には生物保護という観念がない。

 すっかり酔いが醒めたわたしは、壁にもたれてぼんやりと天井を見上げていた。生物学者が法によって乱獲が禁じられた絶滅危惧種を丸焼きにして喰ってしまったという罪の意識が、五臓六腑に充満していた。

 夜も更け、家の窓から吹きこむ風が冷たくなってきた。廃人のようにしばらく動かなかったわたしも、窓辺の寒さにすこし身じろぎした。

「ホンダ、寒いか」

 わたしは黙って縦に首を振った。まだ囲炉裏には近づけなかった。

「なら、いい案がある」

 そういうと彼は大きな法螺貝を持ち出して、窓から外に向かって吹いた。床がびりびりと揺れる。村じゅうに響くような大音響だった。吹き終わると、彼は手早く家の窓に雨戸のような木の板をはめこみ、囲炉裏をいじって火を小さくした。とたんに部屋はほとんど真っ暗になった。薪が弾ける音は止み、家のなかは外から染みこむ虫の音に包まれた。

 わたしは驚いて、なにをしているんだと訊いた。ダッジは月光がたっぷりと差しこむ窓をひとつだけ開けて「そこもいまに暖かくなる」と囁くように言った。

 突然、ガコンという音がして、家の壁が一部開いた。それが家の壁のあらゆるところで同時多発的に起こった。わたしはかつてコンゴ紛争に巻きこまれたときに、狙撃手が小さな壁の穴からライフルの砲身を出して隣に座っていたガイドを射殺したのを思いだした。

 殺される、そんな予感がわたしの身を顫わせ、動けなくした。

 しかし、いつまでたってもわたしは撃たれなかった。銃弾も、矢も飛んでこない。

 わたしは訝しく思い、おそるおそる穴に手を当ててみた。

 暖かい空気が、穴から流れてきていた。

 びっくりしてダッジを見やる。彼は右腕にサムコを抱き、白い歯を見せ、親指を立てていた。そのポーズはだいたい予想できていた。

「すごいだろ」

 わたしは考えを巡らせた。いったいどうやって暖めているのだろう。火か。ありえない。まったく煙がないからだ。それでは、ガス管が通っているのだろうか。バカな。機械のない島でガスヒーターが作れるわけがない。それも一瞬にして通風管が壁に接続されたのだ。

 やっぱり秘密の機械設備がある以外に考えられない。印刷所は職人たちの手で運営されていたが、暖房設備は人間には無理だ。ガスヒーターの通風管が、トイレのウォシュレットのようにどこからか伸びてきて、暖めているにちがいない。

 考えているうちにみるみる部屋は暖かくなる。温風にはどことなく湿りけがあり、すこしにおう気もするが、採光用にひとつ空いている窓を閉めればもっと温度が上がるのではないかと思い、わたしはダッジにそう提案した。

「ダメだ」

 笑顔で即答された。

「そんなことしたら息が苦しくなってしまうわよ」

 サムコが含み笑いを見せる。

 その表情に戸惑ったが、息が苦しくなるということはやはりガスか火だと思い、わたしは通風孔に顔を近づけてみた。

 通風孔からは、焼いたニンニクと生魚を足したような、とんでもない匂いがした。

「うぎゃあっ」

 わたしは弾けるようにその場から離れ、床を転がった。

「くっさ。くさああっ。なんやねんこれぇ」

 これまで不器用な英語に徹してきたわたしは、あまりの出来事に日本語でわめいた。

 わたしの様子を見て、ダッジが通風孔に近づく。

「あー、だれかニンニク食ったな」

 彼は耐えがたいというような表情をしたあと、ハハハと笑った。

 わたしは吐き気をこらえながら家から転がり出る。家の外には十人ほどの村人がおり、彼らは長いラッパのような末広がりの管を口にくわえて、真っ赤になりながら息を吹きこんでいた。

 わたしはそのあまりに常軌を逸した光景に口をあんぐりと開けた。

 わたしにいちばん近い若い男が、きまりの悪そうな、あるいはすこし照れたような顔でこちらにチラチラと流し目をよこしてくるのが憎たらしい。

「おいおいどうした」

 ダッジも玄関から出てくる。

「せっかく暖房をかけてるのに、外がいいのか」

 彼の困ったやつだと言わんばかりの呆れ顔を睨みつけながら、わたしはこれはどういうことかと訊いた。

「どうもこうも、暖房だぜ」

 彼の発言を理解するにはわたしは老いすぎたのかもしれなかった。まるで理解できない。

「この島には、機械がないだろ。だから、その代わりに人が暖房にならないといけないんだよ」

 彼は理解しがたい答えをわたしの大きく開いた口にポンとつめて、家の周りで管を吹く連中のところに向かった。わたしはゆで卵をまるごと飲みこむような辛さを伴いながらそれを嚥下した。

 それはつまり、この島では人が機械としての役割を持たねばならないということなのだろうか。

 家の前では、暖房屋と呼ばれる村人のなかの南米系の男が、舌を出してダッジに謝っている。ダッジはなにか言っている最中の彼の口内に両手指を無理やり突っこみ、口をこじ開けると、飴玉サイズの黒い塊を放り込んでいた。

 暖房屋の彼らの口はみな一様に大きく、やたらと鳩胸だった。まるで、息を吹き込むために発達したかのようだった。

 わたしは、考えすぎてさんざんふくらんだ頭の付け根あたりがボンという音をたてて破裂し、そこから空気と一緒にいろんなものが抜けていく気がした。軟体動物のように地面にへたりこみ、戻ってきたダッジに連れられて、よろよろと家の中に戻った。その一方で、暖房屋連中は顎の外れた同僚を抱えて帰っていった。

 家に入り、わたしが彼らになにをしたのかと尋ねると、ダッジはすこし照れた様子で「洗浄だ」と答えた。

 洗浄。なんて無機質な言葉の響きだろう。人権は。彼らは人間ではなかったのか。いや、彼らは人間だ。しかしそれと同時に彼らは――。

 その後、川から汲んできた水で行水すると、わたしは囲炉裏のそばで寝転がった。すさまじい疲労が襲ってきて、一歩も動けずに天井をあおぐ。キーウィや盲目魚の生前の姿と調理されたあとの姿が黒っぽい天井をスクリーンに交互に映し出される。

 そのとき、「ごめんください」と陽気な調子の男の声が玄関から入ってきた。

「やあやあ、待ってたんだよ」

 ダッジが男とあつい抱擁を交わす。

「アイデム村からわざわざすまないね」

 ダッジは三十代なかばくらいの英国紳士風なブロンドの男を、わたしが転がっている大広間に通した。

「さあ、ホンダも聴くんだ。彼はこの島最大の娯楽だぞ」

 寝転がっていたわたしは無理やり起こされた。

 男は何度か咳払いをすると「あー」だの「うー」だの言って声を整えている。それを見てサムコがお茶を差し出した。

「すまない」と言って男は茶をすする。

 隣には行水したおかげですこしにおいのマシになったダッジがどっかりと座った。

「今日は村のサッカーチームに入ってるおれのいとこが、アイデム村のサッカーチームと戦ったんだよ」

 だからなんだと思ったが、面倒なので黙っていた。

「今回こそは勝ってほしいところなんだがな」

 どうでもいいので聞き流そうとしたが、ふと言葉のニュアンスに引っかかるものがあった。

 もう試合は終わったのではないのか。

 つい口からこぼれた言葉を聞いて、ダッジはにやりと笑う。

「いや、いまから始まるんだ」

 そのとき、いままで喉の調子を整えていた男が立ちあがり、流暢な英語で話しはじめた。

「さあ、みなさまよろしいかな。では、ただいまからはじめさせていただきます」

 その声に、二人とも歓声をあげた。ダッジはおもむろに応援歌をうたいはじめ、サムコはそれにあわせて楽しそうに旗を振る。

 いったいなにがはじまるというのだ。

 わたしはまぶたを無理やりこじ開け、男を見た。

 彼は大きく息を吸いこむ。一拍おくとその口からは、だしぬけに女声が飛び出した。

「『さあ、今回をもちまして八二回目となりますアケム島サッカー大会、今回の開催地はアイデム村です。実況はわたくしアイデム村のクラッキーと、解説はラク村のハマーさんが担当します。ハマーさん、どうぞよろしくお願いします』

『お願いします』」

 元気な女声で早口で喋りはじめたと思ったら、いきなりハスキーな中年男の声になった。

「『さて、ただいまキックオフです。赤がラク村、黄色がアイデム村です。おっと、ラク村のマック選手、いきなりボールを奪った。そしてそのままゴール。ラク村に一点です』

『いやーマックよく見てましたね、あれは監督の指示がよかったですね。あの監督はぼくの後輩なんですけどね。彼は……』

『さてアイデム村、開始十秒でもう一点取られてしまいました、ここは慎重に攻めたいところです。おっとアイデム村のハーツ監督、なにか指示を出しているようです。なるほど、「もっと落ち着いて攻めろ」ですか。なるほどいいアドバイスです』

『ぼくもそう思いますね』」

 男は、まるで自分がそこにいるかのようにサッカーの実況と解説をはじめた。しかしそれだけではない。この男は二色の声色を巧みに使い分けていた。

「『おっとアイデム村、積極的にボールを回しています。これは相手も翻弄されてうまく守れない。そこを、突いて、ゴール。ゴールでぇす。やったー』

『あー』

『これはすさまじい点の取りあいが予想されますねハマーさん』

『あそこはもっと落ち着いて守るべきなんだよなー』

『負けじとラク村もボールを回します。しかしこれはアイデムはいいディフェンス。なかなか攻めきれません。………………。』

 フレー、フレー、ア、イ、デ、ム。

『……あー……ふぁ……ねむ…………』

 オーオー、オオオオッオッオ、オオオオーオオー、オオオーオオー。

『……おっ。……アイデム村ボールを持った。ロングシュートです。これは決まるか。ゴール。ここで、キリがいいので審判が笛を吹きました。前半戦終了でーす』」

彼の口からはまったく音色の異なった二人の声とは別に、周囲のノイズや歓声もこと細かに伝わってきた。

 わたしの隣ではダッジがおもむろに服を脱ぎ、筋骨隆々の体を顫わせながら直立不動の男に向かって怒号ともつかない歓声を送っていた。サムコは狂ったように旗を振り回していた。

 彼の特筆すべき点は、ボールを蹴る音や鳥の鳴く声、解説員のあくびまでもを、すべて同時に一人でこなしているというところだ。そしておそらく彼はその一言一句、風の音や小さな衣擦れにいたるまでのすべて記憶している。

 わたしは確信した。彼は録音機の役目なのだ。

「『あのゴールおかしくないですか。アイデムのほうがひとまわり小さいように見えるんだけども』

『気のせいです。はい、休憩終了です。みなさん戻ってください』

『そうかなー、気のせいかなー』

『後半開始です。おお、開始早々すごいボールの取りあいです。みんなボールに群がって、土煙でよく見えません』

『困ったなあ』

『おお、あれはハンドではないでしょうか。わたしの目にはアイデム村の選手がボールを抱えて走ったように見えますが、審判の笛は、鳴りません。プレー続行です』

『三秒ルールがありますからね』

『そしてそのままゴールです。アイデム村これで二点目。しかしラクも果敢に攻める。いい攻撃です。しかしアイデムのディフェンスよさには定評があります。敵は攻めきれない』

『これはつらい展開ですな』

『おっとここで、ラクがクロスを上げる。それをそのままヘディングでゴール。同点です』

『まさにラクロスですね』

『おっとここで時間終了。試合はPK戦に入ります』」

 部屋は爆発しそうな熱狂に包まれた。過去のこととはいえ、同点でPK戦という展開に彼らは心底興奮している。

「うおお、マック決めろ」

「マックくん、がんばって」

 ふたりとも拳を固めて、PKの瞬間を待った。

 しかし、しばらく待っても試合の展開は放送されない。夫婦も怪訝な様子で顔を見合わせている。

 そのとき、わたしは気づいてしまった。男の目は泳ぎ、こめかみに脂汗が滲んでいることを。

 彼は、つぎに放送すべき言葉をど忘れしてしまったのだ。

「あれ、おかしいわね」

 サムコが立ち上がって男に近づく。

「ほらあ、試合の続きを聴かせなさい」

 彼女は男の頬を数回叩いた。

「どれ、見せてみな」

 汗だくになったダッジも近寄って小突く。男は唇を顫わせ、つぎに出てくる言葉をけんめいに探しているようだった。

「ああ、こりゃあイカレてるな」

 ダッジは呆れ顔で言った。

「ねえ、これ修理出さないとダメかしら」と、サムコが不安そうな顔で夫に尋ねる。

「いいや、そんなの待ってられない。おれは試合結果が早く知りたいんだ」

 ダッジは言葉を荒げた。

「動けこのポンコツが。動けってんだよ」

 彼は男のやや後退した髪の生え際を何度も力強くぶっ叩いた。

「ダメよう。そこばかり叩いても。もっと別の場所があるわ」

 サムコは男の後頭部を指さした。

「そうだな」

 夫婦は頷きあって、男の頭をつぎつぎと叩きはじめた。




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