2.鴉
「あたしをキツネにしてください!」
身体中を緊張させながら言い放った一言。
愛実の隣で咲楽が面食らった様子で目を見開いていた。鴉の方は、表情から感情がよくわからない。
あとになって、もしかすると自分が突拍子もないことを言ってしまったのではないかと思えてきた。というより、明らかな説明不足だと気づく。
「あ、あの……その……なん、というか」
「失礼します」
愛実がモゴモゴと言葉を続けようとすると、咲楽がテキパキとした口調で遮った。
「昼食の時間となりましたので、準備をさせて頂いてよろしいでしょうか?」
「嗚呼、もうそんな時間なの? 気づかなかったや。適当に作っておくれ」
「わかりました。速やかに取り掛かります」
え? え? え?
ごはん?
この状況で聞こえてくるとは思わなかった会話だった。確かに、ちょうどお昼時ではあるけれど……。
わけがわかっていない愛実のことなど存在していないかのように、咲楽は部屋の奥へと歩いて行ってしまう。
「座りなよ、ツグミちゃん。コーヒーは飲めるかな? ごめんね、咲楽は時間に厳しいんだよ。予定が一分狂うと怒るんだ。好きにさせてあげて」
「え? あ、は、はい……コーヒーは……苦手、です」
「そう。じゃあ、咲楽が漬けた梅のジュースをあげよう。ソーダで割ると美味いんだ」
鴉は言うなり、手近にあったビーカーを手に取る。
指を鳴らすと、ビーカーの中に大きめの氷がゴロリと二つ現れた。
いったい、どこから? と、問う間もなく鴉は種類の違うビンを二つビーカーの中へ注ぐ。濃い琥珀色の液体と、シュワシュワと泡の出る透明な炭酸。ビーカーの中で二層となり、淡いグラデーションができあがっていた。
「はい、どうぞ」
「ど、どうも……」
マドラーを刺して、鴉はそっと愛実の前に飲み物を差し出した。
彼が言った通り、梅の香りがする。
ひかえめにマドラーを回すと、二層になったジュースの原液とソーダ水の境界が少し曖昧になった。思い切ってグルンとかき混ぜると、曖昧だった境界が完全に溶けあい、ビーカー全体が琥珀色に変じる。
「おいしい……!」
甘い。
甘くて美味しいけれど、梅の爽やかさが癖になる。炭酸のシュワッとした刺激が梅の甘さをより和らげており、バランスが良かった。
鴉の方は先ほどから沸かしていたお湯を使って、ドリップコーヒーを作っている。薬屋だと言うのでてっきり、怪しい薬草を煮詰めるためだと思っていたけれど……。
「異界のものを口にしたんだ。タダでは帰れないと思うといい」
「え?」
先ほどまでと同じのほほんとした優しい口調で言われ、愛実はギョッとした。
「鴉、嘘はいけません」
感情に乏しい声で窘めながら、咲楽が部屋に戻ってきた。
「申し訳ありません。ヒトの子は騙されやすいものだと知っているので、からかっているだけです」
「……よかったぁ」
愛実は気が抜けて椅子の上で脱力した。
「安心してください。栄養管理はきちんと行っております。しかし、鴉が注いだその梅ソーダは少々カロリーオーバーですね。ジュースの割合が大きすぎて黄金律を守れていない。私がお注ぎするべきでした。申し訳ありません」
「そ、そんな。とても、美味しいです!」
からかう鴉と違って、咲楽の口調は大真面目だった。
「咲楽の料理は美味しいから。ヒトってのは、こんなに美味いものを食べるのかと感心するよ。おかわりしようとすると、いつも怒られるけど」
「大したものは作っていないと思いますよ。今日はインスタグラムというインターネット上のサービスで人気の料理を参考にしてみました」
「この前まで、“くっくぱっど”ばっかりだったのに」
「レシピサイトを熟読しなくとも、それなりに料理することに慣れてきましたので」
「なるほど、これが成長ってヤツかな」
「私にはわかりませんが、恐らく、適切な表現だと思います」
自分で淹れたコーヒーに鴉はストローを刺した。たぶん、クチバシが邪魔でカップから直接口の中へ流し込むことができないのだ。
話しぶりから、咲楽はとても几帳面というか細かい性格なのだと思った。無表情も相まって、ロボットかなにかのようだ。
「話は食べながら聞くよ」
「鴉、食べながら喋るのは行儀がよくありません。彼女が食べ終わってから話しましょう」
「咲楽って、ほんとそういうところキチッしてるよね。わかりましたよ。さあ、ツグミちゃん。ゆっくりお食べ」
目の前に大きめの皿が置かれる。
皿の上には、半分に切られたサンドイッチ。厚めの断面からは色鮮やかな野菜とフワフワのオムレツが覗いている。細かく刻まれた紫キャベツやニンジンに彩られ、卵焼きの黄色がとても輝いていた。サラダと小さなスープ皿も一緒に乗せてあり、さながらお洒落な喫茶店のランチプレートのようだった。
確かに、愛実が知っている「インスタ映えしそう」なご飯である。
「すごい! ママが連れて行ってくれたお店のごはんみたい!」
愛実は素直に絶賛してサンドイッチを掴み、小さな口を思いっきり縦に開いてかぶりついた。野菜と卵のフワフワが混ざり合って、シャキシャキしているがトロトロジューシーな食感が絶妙だ。本当に、お店のご飯みたいだった。
サラダのドレッシングも、小さなカップに入ったスープも美味しい。
「それで、キツネになりたいって? 君が?」
美味しい料理のせいで本題を忘れるところであった。
愛実は食べ終わった皿から目線を上げ、鴉の方へ向き直る。
「そのままの意味です……あたしをキツネにしてください」
もう一度、願いを告げると鴉は「ふむ」と足を組みながら、顎下を撫でた。と言っても、鳥類の頭に顎は見当たらないので、クチバシの下なのだが。
「君の先祖には、狐がいるんだね?」
なにも言っていないのに、どうしてわかるのだろう。
愛実自身も信じられなかった話なのに。
「ほとんどヒトのようだけどね。確かに君はキツネにはなれるんじゃないかな?」
「……ほんと?」
キツネになれる。
そう聞いて、愛実は丸い頬を口角で持ち上げて笑った。
「都合よく考えては駄目です」
喜ぶ愛実の肩に触れて、咲楽が首を横に振っていた。彼女は綺麗なお人形さんのような顔立ちだけれど、声に抑揚がなくて感情がよくわからない。
表情がわかりにくいけれど、鴉の方がよほど人間的な存在のように思えてしまう。
「まずは経緯を話してください。それで、あなたがキツネになることが最善だと思えば、私たちはそうします」
「はい……」
咲楽に諭されて、愛実はギュッと両手を握り締めた。
ぽつりぽつりと、おぼつかない指で弦を弾くように言葉を紡ぐ。
「あたしのおばあちゃんは、キツネだったんです。あたしは見たことないから、お母さんから聞いただけなんだけど……」
思えば、愛実の母はどこか浮世離れした人ではあった。ママ友の集まりを好かず、いつもなにかに焦がれているような……愛実には表現できないが、「なんとなく、他人とは違う」ということだけは感じ取っていた。
そんな母が、「実はね。お母さんはキツネの子供なのよ」と愛実に言い聞かせたのは、去年の夏だった。
「あたしだって、もう小学生だし……最初は信じてなかったんです」
しかし、今年の春。
それまで普通に過ごしていた母が突然倒れた。最初は風邪だと思っていたが、どんどん咳が止まらなくなるし、身体もベッドから動けなくなっていった。
病院へ行っても原因がわからないし、手の施しようがないと言われてしまった。
――お母さんは、キツネになりたかったんだと思う。おばあちゃんみたいな綺麗な銀色のキツネに……森を自由に駆けるおばあちゃんの姿は、本当に綺麗でね。
衰弱していく母が語るキツネの話が作り話には思えなかったのだ。
――愛実がキツネになれたら、よかったのにね。見たかったなぁ。
「なるほど。ツグミちゃんのお母さんは、いくつくらい?」
「えっと……たぶん、二十五歳って言ってました」
「ちょっと早いけど、半妖ならそんなもんかなぁ?」
どういうこと?
鴉の言葉に愛実はキョトンと首を傾げた。
「魔者とヒトの子は半魔とか、半妖って呼ばれていてね。基本的にヒトの寿命より短いヤツがいるんだよ。たまに極端すぎるくらい長いのもいるけど、最近じゃそういうのは減ってきているからねぇ……残念だけど、ツグミちゃんのお母さんは、もうすぐ常夜のヒトになるね」
「常夜の、ヒト……?」
「死ぬんだよ」
鴉の声は優しいままだった。暖かい春の陽気のようにのんびりとしていて、穏やかだ。
だからこそ、彼の言葉が胸に突き刺さる。
「半妖っていうのは中途半端なんだ。特に狐は血に呪詛を宿しているからね。普通の狐なら問題ないし、むしろそれが妖力の源だったりするからないと困るものなんだけど。たぶん、お母さんは自分の血に流れている呪詛に負けたんじゃないかな? よくあることだよ。だいたい三十歳くらいで死ぬことが多い。君のほうも、そんなもんだろう」
最初は咲楽よりも、鴉の方が感情豊かのように思えていた。
でも、実際は――。
「愛実」
初めて、咲楽から名を呼ばれた。
彼女は肩に乗せていた手を、愛実の頭の上へと移す。そして、優しい手つきで撫でた。
「愛実はお母さんに、自分が狐になった姿を見せたいのですか?」
「……うん」
おばあちゃんのような、綺麗な銀色のキツネになりたい。
愛実にその血が流れているなら、できるはずだ。
「1/4となれば、ほとんどヒトです。1/2のお母さんでも無理なことを、愛実はやりたいって言うのですね?」
「うん……」
クォーターとかハーフとかわかりにくいけれど、外人さんと似たようなものだと解釈した。
愛実が頷くと、咲楽はしかし首を静かに横に振る。
「愛実、それはヒトを辞めるということです。あなたは常夜の住人になりたいのですか?」
「え」
言葉が詰まった。
愛実はただ、母に見せたかっただけ。
おばあちゃんみたいに、綺麗な銀色のキツネを。
それだけなのだ。
「わかりました」
なにを察したのか、咲楽は短く言った。
愛実を撫でる手つきは優しいが、ぎこちない。まるで、繊細な飴細工に触れるかのように、恐る恐る触れているような気がした。
「鴉は愛実を狐にしてくれる薬を調合するでしょう。愛実の中に眠ったままになっている狐の血を強めてくれます。愛実がヒトであることを辞めると望むなら、それを飲むと良いです。きっと、強まった呪詛に蝕まれて狐になるか、お母さんと同じく死ぬでしょう」
「えっと、その……」
愛実は口籠り、回答を詰まらせた。
「しかし、私は愛実のお母さんの願いを叶えない代わりに、愛実の願いを叶えることができます」
「え?」
どういうこと?
愛実は咲楽を見上げて、パチパチと目を見開く。
「本当に愛実が望むのは、お母さんに最期の夢を見せることではありませんよね?」
咲楽は身を屈め、愛実に視線を合わせる。
複雑な色合いの瞳はただただ綺麗で……それ以上に、優しかった。
「最初に言ったでしょう? 私はここの商品です。私に処方させて頂けませんか?」
咲楽の言っている意味は、半分もわからない。
でも、
でも、それでも、
彼女の瞳があまりに優しくて――。
「うん……お願いします」
彼女の瞳は無機質だけれど、あまりにも優しくて、そして、嬉しそうだった。