1.常夜ノ國
没にした長編の冒頭を短編に直しました。
3話完結です。
通りゃんせ 通りゃんせ
細道の先に 杉の木三本
鐘を三度鳴らして 三回お回り
その先 常夜の細道なり
人の子は帰れぬ 常夜の門なり
神社の裏から続く細道を進むと三本の大きな杉の樹が門番のようにそびえ立っている。わらべ歌の通りに奥へ向かうと、古いお社が見えた。
苔生した獣道に祀られているものがなんなのか、少女は知らない。
でも、きっと自分の願いを叶えてくれる存在に違いない。いつも両親と一緒に神社参りする少女は、幼心にそう解釈していた。
鴉の社。
神に遣わされた鴉天狗の伝説があり、ずっと昔からこの土地を守っている。
わらべ歌は、この町の人間ならだれでも知っているものだった。
「おねがいします」
古びた鐘を三度鳴らす。
錆びた金具が朽ちて千切れそうだ。鐘の音色も至極歪であった。
「おねがいします」
少女はその場で三度回る。
くるくると、軸足を使って両手を広げて十歳に満たない小さな身体で回った。
「おねがいします」
手順を間違えただろうか。
三回転回り切ってもなにも起こらない様を見て、少女は不安になっていた。神社の森は鬱蒼としており、鳥の鳴き声さえ不気味なものに感じてしまう。木々の間から差し込む陽射しが揺れるたびに、得体の知れない獣の影に見えた。
「やっぱり」
迷信だったのかな?
【通りゃんせ 通りゃんせ】
リンと響く鈴の音が。
鬱蒼と生い茂る木々の間に木霊する。
それは確かに鈴の音だった。
けれども、少女には美しい歌声に聞こえる気がしてならなかった。
【常夜の門を開くかえ? 常夜の道を進むかえ?】
リン、リン。
鈴の音がすぐ後ろから響いたので、少女は反射的に振り返った。
「わ、あ……」
そこには森の古びたお社がある――はずだった。
空間を切り取ったように、「異界」への口が開いている。
それは「門」と呼ぶに相応しかった。
「本当、だったんだ?」
此処に在るのは静寂の森ではない。
鴉の模様が彫られた木製の門が囲うのは、この世とは別の世界であった。
にぎやかな明かりが絶えない、どこか異国の市場のように見えた。
昼間だというのに、あちら側は月も星も見えない夜空。されど、ホタルのような小さな赤い光が漂っており、ちっとも暗くない。
お店に灯るランプや松明の炎が揺れて踊っているように見えた。
けれども、そんな幻想的な空間など少女の目には入っていない。まんまるの両目を見開いた先にいるのは、皆、ヒトではない。
大きな牙を持った者、顔が動物の者、曲がりくねった角を持つ者、緑や青の肌……その様子は、まさに百鬼夜行。
市場の店主も客も、揃って仮装している。
否、仮装ではない。
「常夜市です。私から離れないようについて来てください」
いつの間にか、少女の隣に立つ影があった。
ギョッとして見上げたが、次の瞬間、少女は唖然として口を半開きにしてしまう。
「きれい……」
思わず呟いてしまうほど、美しい人が立っていた。
全ての色が抜け落ちてしまったかのような真っ白な髪が肩で切り揃えられている。少女を見下ろす瞳はまるでアメジストで、深い紫色だけではなくもっと複雑な輝きを湛えていた。花弁のような唇も、すっと紅の差された切れ長の瞼も、色づく頬も……なにもかも人形のように整っている。
余りに綺麗で歳も十代のようにも見えるし、もっと年上のようにも見えた。夏用のセーラー服を着ているので、たぶん、高校生くらいだろうか?
ただ、差し出された手だけは滑らかではなく、古い火傷の痕が残っており、それだけが少し怖くて不気味だ。
「お姉さん、名前はなんていうの? あたしは――」
「今、ここでは名乗ってはいけません。良からぬ者に盗られてしまうから」
女の人は、少女の唇にスッと人差し指を当てる。
少女はそれ以上なにも言えず、コクコクと頷いてしまった。
「安心してください。望みのところへ連れ行きますので余所見をしないでください。余計なものに魅入られると、ここではすぐに迷子になります。逆に目的さえはっきりしていれば、ひと飛びです」
言っている意味がわからない。
でも、少女には女の人が紡ぐ言葉が全て真実であるとわかった。
「目的……」
「そのように暗い顔をしないでください。ひと飛びと言っても、本当に空を飛ぶわけではありません。言葉遊びのようなものですよ」
少女が思案していると、女の人は感情の読めない無表情のまま、そんなことを言った。考えてもいなかった方向から心配されて、少女は口を開けたまま、わけもわからず頷いてしまう。
「ほら……あなたは案外、才能がありそうですね」
「え?」
刹那になにが起こったのか理解する余地はない。
ただ、女の人が言った通りに「ひと飛びした」ようだった。
幻想的だがにぎやかで、されど異形のおどろおどろしい常夜市の光景は、もうそこにはなかった。
気がついたら、少女は女の人の手を握ったまま別の場所に立っている。
常夜市にあったホタルのような光はここでもゆらゆらと漂っていた。
けれども、市場とは明らかに雰囲気が違う。
チカチカと点滅しているのは、壊れた蛍光灯のようだ。ボロボロの提灯も垂れ下がっているが、灯はついていない。古いコンクリート造りの建物には蔦や苔が茂っていて、とても人が住んでいるようには見えなかった。
活気のあった市場とは違って、とても寂れていて退廃的だと感じる。
「ここは、どこなの?」
少女は思わず問う。
女の人はアメジストのような瞳に感情を映さないまま首を傾げる。
「あなた、よく見るとほとんどヒトの子ですね」
「え? は、はい……」
「それはいけない。早く済ませないと」
彼女には、少女が人間以外のなにに見えたのだろうか。
少女は自分の手足を確認するが、特に変わりはないらしい。
「ここは常夜ノ國。あなたの会いたかった鴉はこの奥にいます。私は案内役であり、この店の商品」
「商品?」
この人、売り物なの?
それ以前に、ここはお店なの?
先ほどまでの市場とは明らかに違う店構えだ。
「私は咲楽」
咲楽と名乗った女は軽く言って、古びた木の扉を押した。
ギギギィィと不快な音を立てながら、両開きの扉が内側に開いていく。
「そして、ここは薬屋です――さて、改めてあなたの名を聞きましょう」
ふわっと風が吹いた気がした。
自然と少女の足は中へと進んでいく。
鼻孔をくすぐるのは干した草の匂い。
壁や天井に吊るされて乾燥した植物がなんなのか、少女にはわからない。四角い箱のような部屋の中には、大小様々なテーブルや棚が並びいろんな形のガラスビンや箱が置かれていた。ビンの中には乾燥した植物の粉や得体の知れない液体、よくわからない生物の一部など少女の知らないもので溢れている。
少女の思い浮かべる薬屋は薬局やドラッグストアくらいしかなく……未知の世界に、魅了されたように中へと進んだ。
いや、魅入っていた。
「あたしの名前は……荻野愛実です」
少女――愛実が名前を口にした瞬間。
誰もいなかった部屋の奥で、音がしていたことに気がつく。
たぶん、最初からそれはそこにいた。
けれども、名を名乗るまで気がつくことができなかった。
コポコポと、水が沸騰する音。フラスコのような瓶をアルコールランプで温めている。
その前で長い足を組んでいるのは、ヒトではない。見た瞬間、直感でそう思った。
「ツグミちゃんか。なるほど、可愛らしい名だね」
たぶん、にっこりと笑ったのだと思う。
確信が持てなかったのは、彼の顔が見えなかったから――違う。愛実には、彼の表情がわからなかったのだ。
「ようこそ、吾のお店へ」
ふんわりとした雰囲気の男の声。優しくて、春風みたいに落ち着いた。
組まれた長い足も、手袋のはめられた手も大人っぽくてスラリとしている。筋肉質ではないけれど、俳優さんみたいに程よく鍛えられているのだと思わせる身体。
でも、優しそうな声を出していたのは唇ではなく、真っ黒なクチバシだった。
顔は漆黒の羽根に覆われており、まんまるの眼が愛実をまっすぐ見つめて離さない。
――その先には、鴉が住んでいるのよ。
これが、鴉。
愛実は幼い身体を乗り出し、頬を上気させた。
そして、高い声で必死に願いを告げる。
「おねがいしますっ。助けてください、鴉さん!」
願いを告げに、ここまで来たのだ。
どうしても……叶えたかった。いや、叶えてあげたかった。
「あたしをキツネにしてください!」