第2部 カナタ 17
会社を出た上田と祥子が円山町の薄暗い細道に入った。むかい側から来る若いカップルが背の高い植木に囲まれた建物の入り口に消えた。祥子は足早に上田の前を歩いている。
今夜は祥子に呼び出された上田だった。通い慣れた社員食堂への道だが、祥子にしてみれば、ふたりだけでこんなところを歩いてるところを代理店かクライアントの人間に見られでもしたら、なにを言われるかわからないとでも思ってるのだろうか。上田はやや距離をとって歩いた。
しかし今の祥子を急き立てているのは、抱えきれないほど巨大で、もはや取り除くこともできない不安と恐怖だった。
祥子の奴、なにか避難場所にでも逃げ込むように社員食堂に入って行くな、と上田は思った。上田もあとからいつものように屈み込んで邪魔な暖簾を払った。店内の常連たちに愛想よく挨拶する上田だったが、祥子は無言のまま空いていたカウンターの端に座った。無愛想な祥子を見遣ると、いつもように俯いていた。
「電話してみたんです」
ビールが出されるまで黙っていた祥子が言った。
「久世にか?」
「ええ」
「出たか?」
「いえ」
「そうか」
上田が一気にビールを飲み干し、自分でコップに注いだ。
「上田さん」
「ん?」
「一緒に、行ってくれませんか?」
「一緒って、どこに?」
「久世さんの家です」
祥子は、コップの中でビールの泡が静かに萎んでいくのを見ていた。
「とんだ迷惑かもしれんぞ」
「わかってます。でも、ちょっと、おかしくないですか?」
「いたら、どうするんだ?」
「いたら、いいじゃないですか」
「いなかったら、どうするんだ?」
「不動産屋を見つけて、大家さんに開けてもらうんです‥‥‥。わたし、ひとりで行っても怪しまれるだけで、相手にしてくれないと思うんです」
「・・・」
「・・・」
「祥子。おまえ、なにを考えてるんだ?」
はっとして祥子を見た。上田には祥子がなにを考えているのかわかったような気がしたが、それはすぐに打ち消した。
「・・・」
「・・・」
「まさか、おまえ」
上田は言葉にできなかった。
「いえ、違います」
祥子は上田が呑み込んだ言葉の意味を知っていた。
見つめていたコップのビールに、もう泡はほとんど残っていなかった。
「自分のためか? 久世のためか?」
上田にはとても明確な言葉にすることはできなかった。だから、こんな質問になってしまったのだ。
「そんなこと、わかりません」
祥子がはじめてビールに口をつけた。
「ただ、ひとのことを、こんなに思ったこと、はじめてなんです」




