影
ある夜、男は部屋に帰ると照明をつけた。壁には男の影が映し出される。普段は影など気にも止めない光景だ。
その影に男は不思議な感覚を覚えた。ゆらゆらと揺らいだように感じられたのだ。酔っているせいかもしれない。
しかし、その揺らぎが蠢くように段々と大きくなってゆく。そして影は明らかに男とは違った形に変化した。
恐怖に固まった男の影が勝手に動き、やがて壁から床へと移動したかと思うと、すっと湧き上がるように男の目の前に立体化したのだ。姿は真っ暗な闇のまま、目だけが不気味に光りを放っている。
男は影に向かって声を張り上げた。
「誰だ貴様は! どうやって部屋に入った!」
すると影は喋りだした。
「どうやってだって? いつもと同じようにお前と一緒に入っただけだ」
「いつもと同じだって?」
男は訝しげに影に声を投げかけた。その声が聞こえなかったかのように影は話続ける。
「俺様は、お前が生まれた時からずっと一緒にいる者だ。人によっては仲間を死神と呼ぶ奴もいるがな」
男は死神と聞いて、恐怖心を駆り立てられた。上ずった声で影に訪ねる。
「その死神が何の用だ。まさか俺の命を奪いに来たのか」
「話を聞いてない奴だな。生まれた時から一緒にいると言っただろう。それに俺様は人の命を奪うなんてことはしないさ。」
「それじゃあ、何しに現れた。今まで通りずっと影のままいればいいじゃあないか」
「そうもいかなくなったから、こうしてわざわざ姿を見せたのさ。お前が生まれてからずっと一緒に過ごして来たんだからな。別れの挨拶のひとつも言いたくなるのが普通ってもんだろう」
男はこの言葉が何を意味しているのかすぐにピーンときた。蠢く影に向かって、恐る恐る聞き返した。
「それじゃあ、俺は死ぬのか?」
「ああ、しかし今すぐという訳ではない。お前とは、このままだとあと一週間後におさらばだ。人ってのはな、自分で寿命を決めてからこの世に生まれ出てくるのさ。」
「俺はまだ生きていたい。こんなに短く寿命を決めるわけがないじゃないか」
「そうかもな。お前は普通に生きていれば、もっと長生き出来たんだ。しかし、自分で決めた寿命をこれまた自分の手で縮めてきたんだよ。お前の働いた悪行がそうさせた訳だ。逆の場合もある。善行を施し志半ばという場合はそれを成し遂げさせるまでこの世に留まらせて置くことも稀にある。つまり、お前の場合は自業自得というやつだな」
男は愕然とした。男は社会的な名声を得始めたばかりだった。その為には同僚や友人に嘘をつき、利用するようにしてのし上がった。それは仕方のないことだと自分を偽ってやってきた。おかげで今の地位まで上り詰めることができた。
「折角ここまできたのに……」
男は自分の目指す頂にもう一歩のところまできていたのだ。
「俺様とお前とは足で繋がっているだろう。それをこの鎌でスパッと切り離せばお前の命は終わりになるという訳だ。影のある幽霊やお化けを聞いたことがないだろう?」
男は、必死になって蠢く影に縋るように助けを求めた。
「俺はまだ死にたくない。どうすれば生きられるんだ?」
「本当に話を聞いてない奴だな。善行を施すと稀に伸びるとさっき言っただろう。しかし、それがお前にできるのか? 今までと逆の生き方を」
そう言い終えると、影はまた普通の場所に収まり男と同じ動作をするだけとなった。呼びかけても返事をすることはなかった。男はしばらく首をうな垂れたままだった。
逆の生き方とは、利用してきた人々に謝罪をして、今度はその人たちの為に尽くすということだ。それは今まで築いた地位や名声を捨てることにも成り兼ねない。
だが、このままではその折角、築いた地位も名声も無駄になるのだ。そう思うと、今まで自分の行ってきた所業が走馬灯のように頭の中を巡っては消えた。
「俺は死ぬのか、あと少しで…… 今までしてきたことはなんだったんだろう……」
そう思うと男は、空しさで脱力した。その時、ふっと影の言った善行という言葉が頭をかすめた。その言葉は頭の中で次第に大きくなり、稀に起こるかもしれない奇跡にかける決心を固めた。
「このまま死ぬのはいやだ。できる限りのことをやってみよう。今までだって、精一杯できることはやってきたんだから」
都合の良い話に聞こえるが、男にとっては同僚や友人を蹴落としてまで登りつめたかった出世は精一杯やってきた成果だと未だに信じ込んでいた。だから、それを悔い改めるという考えは微塵にも浮かんでこなかったのだ。
男は考えた。影ができなければ良いのだと。そこで、男はまず電気屋に行き、買えるだけライトを買った。これを部屋中のあらゆる角度に取り付け影を消すことにしたのだ。この作戦はうまくいった。四方八方から照らされた男は影を消すことに成功したのだ。
「やった! これであの忌まわしい影も出ては来れまい。俺はこれで生き延びてやる」
会社には病気で休むと電話をし、食料も十分なだけ買い込んだ。その量はゆうに一ヶ月はもつだろう。男は安堵の気持ちから睡魔に襲われ、いつしか眠りについていた。
外で大きな音がして、男は目覚めた。そして、はっとした。なんと部屋の照明が消えているではないか。何が起こったかわからず、思わず慌てて外に飛び出した。どうやら近くの電柱に車が衝突し、その為に停電したようだ。
これが一週間後だったらと思うと男は顔面蒼白になった。うつむき目線を落とした先には影があった。男は身震いをした。その震えの為なのか影が勝手に動いたのかは定かではないが、男にはそれがまるで、無駄なことだと影が笑ったように見えた。それを見て男はまた考えた。影が出来ないようにするには光の中だけではない。闇に紛れてしまえば良いのだ。
男は今度は板を集めだした。そしてそれを釘で打ちつけ、繋ぎ合わせて人が入れる箱を作った。もちろん、光を通さないように厳重にテープを幾重にも巻きつけて。そして、携帯トイレを買出しに行き、それと一緒に食料と飲料水を箱に入れると、そこに男は入った。もちろん内側からもテープを貼った。
「これで俺の影は出来ないぞ。停電しても大丈夫だ。何しろ今度は初めから真っ暗なんだからな」
そういって、男は箱の中に篭った。
どれ位の時間が経ったのだろう。何しろ真っ暗闇なのだから時間がわからない。当初は楽天的に考えていた男も次第に不安になった。たよりになるのは自分の腹時計くらいなのだ。腹が減っては食べて寝る。そんなことを幾度と繰り返すうちに男は気が狂いそうになった。男の精神力は限界を迎えた。
「もう、大夫時間が経ったはずだ。二週間はこの中にいただろう。そうとも、俺は死ななかったんだ」
そういって、箱の中から男は出ようとした。ところが、頑丈に箱を作り過ぎたせいで、焦れば焦るほど男は箱からなかなか出られない。男は思わず叫んだ。
「助けてくれ!」
その時、偶然にも人の声が聞こえた。
「何をしてるんだ。大丈夫か!」
声の主は、男が病気だと思い心配して見舞いに訪れた同僚の一人だった。やっとの思いで箱から脱出できた男は、同僚に感謝の言葉を述べることもなく、こう言った。
「今日は何日だ?」
すると、同僚は少しむっとしながら答えた。
「お前が会社を休むと言って電話をしてきてから七日目だよ」
男は愕然とした。その下で影がゆらゆらと蠢きだしているのを見て……。