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その六 星

 * * *


 漸く国府山城に辿り着くと、大勢が官兵衛一行を出迎えた。九兵衛らには帰るところがあるのが、松寿丸は少し羨ましかった。

 これまでずっと弥一之助と九兵衛が支えてくれていたが、屋敷に上がった時は官兵衛がいる切りだった。

 長浜からの道中、夜には今度は姫山でのことを二人から聞かされていた。父の官兵衛には仕事があるので、細々としたことはやはり知らないらしかった。


 障子が開いて中に入ると、頭を下げたままの女と子が一人ずついた。

「殿、ご無事のご帰還、お祝い申し上げます」

「ウム」

「これ玉松、我が殿にご挨拶なさい」

「はい。加藤重徳が子、玉松にございます」

「おおそうか。見つけてくれたか、よう参った。松寿丸、ワシが有岡で牢にあった時、何かと助けてくれた加藤殿の子じゃ。助かった暁には是非預かりたいと申し入れてあった。有馬で言付けてあったが、叶ってよかった」それは官兵衛が有岡から救出された後、湯治していた頃のことだった。

「玉松、これからはこの松寿丸を兄と思うて精進せよ。歳は幾つじゃ?」

「十になります」

「されば松寿丸とは三つ違いか、丁度よい」

「小寺松寿丸でござる。兄と思うてよいぞ」

「は、勿体のうござります」

「まあ」子供の遣り取りに光姫は笑った。

 優しそうな方だな――松寿丸は新たな『母』に親しみを覚えた。

「玉松、ワシも小寺に養子に入った身じゃ。小寺の為に励めばそれでよい。我が家と思うて気楽にしてよいぞ」

「有難う存じまする」

「加藤殿が気遣うてくれねば、ワシは脚萎えどころか死んでおったやも知れぬ。お主を立派な武士にするのがご恩返しじゃ。

 して玉松、父上は如何された、ご無事か?」

「……戦からは生き延びましたが……」

「玉松を預けられた後、一家揃って行方知れずとか」

「……左様か。案ずるな。必ずや何処かで再起なさる。縁があれば当家に召し抱えたいが。荒木殿の旧臣と知れては播磨では生き辛かろう。玉松の障りになってはと、ひっそり隠れられたのだろう。ほんに奥床しい。立派な父上じゃ」

 感極まったのか、玉松はグスッとなってただ頷いた。松寿丸はまるで自分を見ている気がした。親許を離れてたった一人――玉松に親近感を覚えた。

 元服して黒田一成となった玉松は長政の片腕として活躍し、黒田八虎と讃えられる武将となる。


「殿、又兵衛は赦してやれませぬか? あれは松寿丸の兄同然、私にも弟のような者でしたのに」

「ならぬ。謀反の咎を掛けられたワシが、謀反人の一族を側に置いてはまた何を言われるやも知れぬ。あれが頭を丸めて出家するような男であれば考えぬでもないが。あれは赦されたのは武勇を惜しんでの事と鼻に掛けるであろう。尚更置いておけぬ」

「さりながら、御着の政職殿のお子は助けられたのに」

「あれは、大殿が望まれたからじゃ。しかもまだ元服前。又兵衛は訳が違う。もうこれはこれ切りじゃ」

 又兵衛――あの男はもうここにいないのか――松寿丸の人生を変えた男に、一目会ってみたかったが。

 数年後因果が巡ってまた小寺に戻って来るなど、誰にも思い及ばぬことだった。



 姫山は正式に秀吉のものとなり、夏に官兵衛は新たな姫路城の普請を秀吉から命じられた。

「姫路、にございますか」

「お主が姫山は中国と畿内を繋ぐ道と言うたじゃろう。似つかわしいよい名じゃろう」

「実に」

 引き換えに官兵衛は姫路から数里西に一万石を賜った。これは江戸時代に大名に列せられる石高で、松寿丸は官兵衛が大した方なのだなと改めて思った。


 翌年には光姫が身籠り、男子であったならこれで自分はお役御免になるのかもと、松寿丸は思った。

 果たして翌年光姫は男の子を産んだ。

「殿、男子誕生、おめでとう御座ります」

「うむ。長政もこれまで以上に励め」

「……しかし……」

「男は中々無事には育たん。小寺の、いや黒田の後継ぎは長政、お主じゃ」

「…………」

「不服か? 美濃へ帰りたいか?」

「いえ、それは……」

「もう初陣も果たした。お主は立派な武士じゃ」

「……有難う、存じます」

「武士は家名を残すのが使命じゃ。その為他家から養子を取るのは珍しゅうもない。何等恥じるべき事ではない。

 信長様が亡くなられ、戦はふりだしじゃ。まだまだ戦乱の世は続く。ワシらの務めは終わっておらぬ」

「……はい」

 もう幼くして散る命がないように――かつて官兵衛はそう言っていた。松寿丸の、三吉の親にしたところで、戦に駆り出されて死んでいるかも知れなかった。



 官兵衛は有岡の戦いの顛末を聞いて以降、高山右近と親しく文の遣り取りなどをしていた。

 高山右近は信長にキリスト教を盾に威され、主君だった荒木村重を説得するよう命じられていた。しかし村重に新たな人質に息子まで差し出しても説得は捗々しくなく、右近は追い詰められた。

 人質も見捨てずキリスト教も見捨てない策――右近が見出した道は、全てを捨てて信長に我が身を差し出すことだった。

 父親から継いでいた高槻城主の地位も捨てて、身一つで信長の許に――これで自分が始末されても村重から寝返った訳ではないから人質は助かるだろう――それが村重の逃亡に終わる有岡の戦いの終焉への一穴となり、官兵衛も助かった。

 己が身を犠牲にして全てに義を通そうとした右近に官兵衛は感服していた。

 政職が単身逃げ出して毛利に庇護を頼んだことを思えば尚更だった。


 熊之助を授かった二年後、官兵衛は右近の勧めでキリシタンとなった。後々秀吉に迫られて、棄教を宣言はしたものの、実際は長くキリスト教を庇護し、福岡藩がキリスト教と決別するのは官兵衛の死から九年後、長政によってだった。

「口でそう言って秀吉様の面目さえ立てばよいのだ。心の中までは誰にもさわれぬ」そう言って官兵衛は笑っていた。

 遠く九州に領地を宛がわれたのも、官兵衛の棄教が形だけのものなのを秀吉が嫌ったらしかったが。海を隔てるだけでキリシタンを庇護できるならそれでよいと気にする風がなかった。

 秀吉が築いた聚楽第を取り囲む大名屋敷には、長政の官命からの『甲斐守町』とは別に、父の姓から『小寺町』ができた。

 半兵衛の子の重門の烏帽子親は務めるし、玉松を養子に迎えて厚遇した。官兵衛が取り成して助命した人は数知れない。

 長政は官兵衛も右近に劣らず義の人だと感嘆した。


 小寺に舞い戻り、善助の家来となってやり直し始めた又兵衛は、大口に引けを取らない働きをしたが。生来の気の強さで周囲と揉め、長政自身何度も辱められた。いっそ外に出してはと官兵衛から言われたが、長政は自分の運命を変えた男を手許から放す気がなかった。又兵衛の手綱を握っている事実が唯一心を落ち着かせてくれた。

 勘のいい官兵衛は長政の異変に逸早く気付いたらしく、キリシタンになるよう勧め、又兵衛が舞い戻って程なく長政も入信していたが。キリスト教も長政の執着を断ち切ってはくれなかった。

 官兵衛の死後、又兵衛が細川家と内通する片鱗を掴むととうとう又兵衛を追放し、奉公構の措置を取って又兵衛が他家で再起するのを悉く阻んだ。

 又兵衛は京都で不遇の牢人生活の後、大阪夏の陣で活躍を見せたものの討死した。長政の妄執もこの時漸く終わった。


 熊之助が朝鮮への海で死んだこと、黒田の血が絶えてしまったことを父はどう思っていたのか――嫡男忠之の資質が気懸かりなまま、旅先の京で病に臥せった長政はふと思った。

 官兵衛の義兄弟を始め、小寺一族の多くが黒田に改姓していたが。真の黒田氏の官兵衛は小寺のまま通した。その小寺を継ぐ者は職隆が庇護した政職の子・氏職だけという皮肉だった。

 唯一の心残りは関ヶ原の折に九州を平定できなかったこと――この島だけでもキリシタンの国にしたかった――晩年にそう漏らしたが、それは長政しか知らない。


 おもいおく ことのはなくて ついにいく みちはまよわじ なるにまかせて

 語るような思い残しはない ただ自然の摂理に従うまで――それが本心であってくれればよいが。


 少なくとも先々への憂いはなかったかも知れない――その官兵衛と自分と、どちらが幸せだったろう。

 長政がしたかも知れない親不孝が二つあった。一つは関ヶ原をさっさと終戦へ導く活躍をしてしまったこと。

 もう一つが官兵衛の晩年に蜂須賀の姫と離縁して家康の養女を娶ったこと――長政の信心が薄いことは官兵衛も知っていたが。室まで変えるとはと嘆いていた。

 しかしイトは蜂須賀小六の娘ではあっても、秀吉の養女となって嫁していたから、豊臣派と見做される危険があった。親家康派の蜂須賀家政と豊臣、生者と死者の板挟みとなるのは避けたかった。

「蜂須賀殿もとうに亡くなられたと言うに。むごい真似をしてまで家康殿に媚びることもなかろうに」

「媚びるのではござりませぬ。キリシタンを抱える当家が生き残る為の方策にございます」そう言うと官兵衛は溜息を吐いただけだった。


 ただ確かに、この手は星を掴んだ――長政の手が宙に伸ばされ、力なく落ちた。


 このほどは うきよのたびにまよいでて いまこそかえれ あんらくのそら

 戦乱の世を流離ってしまったが、漸く静かな世界で自分に戻れる――長政の辞世の句の真の意味を知る者はない。



 長政の血筋も六代で完全に途絶えたが、養子を迎えた福岡藩は幕末まで黒田が治めた。

 長政の悩みの種だった忠之は、太平の世に向かう中にあって理由を付けては家臣を処分し、結果として幕末まで続く福岡藩の礎を確かにした。戦乱の世で名を馳せた黒田二十四騎の多くがその影響を被ったが、福岡藩が幕末まで残ったのは、忠之が時代に見合った資質を備えていた故かも知れない。



官兵衛に長政の兄に当たる隠し子がある、という説があるそうですが。

官兵衛が職隆の実子なら、

そして大河であるように一家臣とは言え嫡男なら、

数え二十二まで独身なのは少し不自然ですよね。


重隆が手駒として養子に出す腹があり娶らせなかったので

信長にとっての庶子の兄同様、長政にも兄がいた、ということではないかなと。


側室腹のが長政の 弟 なら 浮気 ですが。

どうやら 異母兄 らしいので。

この当時は まあ そういうもの だったのではないでしょうか

異母弟 がいるとない限り

官兵衛の貞操観念や主義とは別次元の話ではないかなと。


個人的に穿てば、播磨中赤松の支族で殺し合っていたのに倦んだ、とかではないかなと。

分家するほど増え盛っても、結末が同族の殺し合いでは仕方ない。

だから血縁に拘らず才能のある者は取り立てて養育して厚遇したのではないかなと。



政職が官兵衛に有岡城に向かわせた点についてですが。

政職が主なら、無礼を働いたとして官兵衛を手打ちにするのは難しくない。

逆だったからこそ、主君殺しの汚名を恐れて村重に押し付けた。

つまり政職・則職の舎弟説は正しい。 のではないかなと。


官兵衛殺しを押し付けられた村重の内心はいまだ不明のようですが。

・官兵衛の才能は買っていて、殺すより生かして味方にしたかった。

・密約した政職の人柄・才能は信じていなかった。

 指示通り官兵衛を殺したところで、西の八代氏(後の吉田氏)・南の母里氏などの支城まであり、

 また本家(職隆)縁の姻戚(明石氏・神吉氏・三木氏・広峰氏etc)も多く。

 政職が巧く職隆を説き伏せられなければ意味がない。

  しかし官兵衛を幽閉しておけば、安否不明のままでは相続もできず、小寺本家は身動きが取れないはず。

 敵に付くか味方になるか読めない小寺氏は動けないようにしておくのが、政職の手腕に恃むより確実

 と村重が読んだのではないかなと。

 政職の一家臣風情で取るに足らぬ手勢しかないなら、官兵衛を幽閉するリスクを負うのは不自然な気が。


官兵衛と休夢の距離感とか赤井忠家が再起しにくかったことなど、他にも傍証と言えそうな事柄がありますね。

天海=光秀説からなら、運に恵まれないどころか始末されそうな気がします。キリシタンになった官兵衛が放置し、秀吉や家康は取り立てないようにしていた、辺りかなと。


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