その二 岩手山
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美濃の菩提山城の麓の岩手山城に戻った半兵衛は、事の推移がはっきりするまで松寿丸を匿う肚で、乳母の実家辺りで面倒を看ては貰えないかと采配していた。
庭の方できゃあと女の悲鳴が上がったのが聞こえ、半兵衛は何事かと向かった。すると地べたに横たわる子供の背中に、パックリと大きな赤い刀傷があった。
「何をする! 気が違ったか!」
「殿、殿のお考えは読めておりまする」喜多村十助直吉(不破矢足)が、亡骸の側で片膝を突いて言った。
「なに?」
「羽柴様のお屋敷を汚すのは申し訳ないと連れて出ましたが、それなら道中の河原ででも始末すれば済むこと。態々こちらまで連れて来られたからには、小寺殿のお子を匿うお積もりでござろう。さりながら」
「もし信長様に知れたら如何相なりましょうや? これは信長様のご命にて、殿には何ら咎のなきこと」半兵衛の従弟の竹中五郎作がそう続けた。
「ご命に背いて、殿を始め我らが信長様から誅殺されるような仕儀となっては。当家の存亡と引き換えに、小寺殿に忠義を尽くす道理は御座いませぬ」
「小寺殿が乗る戦とは思われぬ! ほんの半月も待てば信長様の短慮と知れたものを!」
「どれほどお怒りになられても、最早お子の命運は尽き申した」
「殿のお気が済まぬとあれば、某に腹案が」
腹案で松寿丸が蘇るとは思えなかったが、家臣によく言い聞かせないまま引き取ってきた自分の失策であったと、半兵衛は半分諦めていた。
「小寺孝高殿には男児他にこれなく。更には孝高殿は黒田家から養子に入った身の上。もし孝高殿の身の証が立って無事お戻りになったとして、その時継嗣なくばお家の跡目騒動にもなり兼ねず」
「さればこそワシは松寿丸殿を匿おうとしたのだ!」
官兵衛の父・黒田重隆が、自らの猶子(苗字を変えない養子。後見人・義理の父子の契りに近かった)とした小寺職隆の許に次男の官兵衛を養子にやった真意は不明だが。当時は黒田氏の方が羽振りがよかったので、相応な持参金があったと思われる。
官兵衛の兄・黒田城城主・九代目黒田治隆への忠誠を示す為だったのか偶々の暗合か、職隆は黒田重隆の没年(1567)に官兵衛に家督を譲り妻を娶らせた。その五年後に黒田城は赤井氏に攻められ落城、官兵衛は城と兄と母を同時に失っていた。もはや職隆の信義と己の才覚に恃むしかない身の上だった。
「ならば松寿丸殿をお返しなされば良うござる」
「年端の行かぬお子の亡骸を返せと言うか!」
「滅相もない。 小寺殿は昨年お子を羽柴様に預けたきり。であれば人相の多少など……」
「……偽者を仕立てろと申すか」
「後継ぎさえあればお家騒動は起こらぬかと。されば小寺殿にも得のあること。次のお子ができるまでの形代でござる」
信長の命に従ったからには竹中家は安泰、官兵衛に偽者とバレたところで、貸しにはなっても恨まれる筋合いではない。喜多村らにとって、やっておいて得はあっても損はない策だった。
半兵衛の承諾を得て、喜多村らは領内に触れを出し、これこれの子を城で高給で雇うと言って掻き集めた。その『高給』から子供の代金だということは親も承知だった。
背丈の合う中から人相が似ているものを選り抜いて、何人か残った中から、最終的には半兵衛に選んでもらうことにした。主の知勇は知っているから、何か見落としている条件ででも絞ってくれるだろうと思った。
庭先でズラッと八名ほど並んだ中から、半兵衛は突っ立つ子らの顔を眺めて、三名ばかり残して他は退らせた。次には草履を引っ掛けた半兵衛がその子たちの側へ寄って来た。
半兵衛は子らに両手を揃えて前に出せと言って、裏表を眺めた。喜多村は子供の手の形までは憶えてなかったと、見落としていたことに気付いた。
三人の中の真ん中の子の掌に、半兵衛は目を留めた。取った手を裏表シゲシゲと見てから、また掌を見つめた。
「お主、この黒子は? 生まれた時からあるのか?」
「へえ」
喜多村は主への態度にスワと身構えたが、半兵衛はいいと押し留め、他の二人の子を退らせた。
「お主、名は何と申す」
「三吉」
「なれば三吉、お主は今日から松寿丸、小寺官兵衛孝高殿が一子松寿丸殿となるのだ」
「あ?」
「恐らくお前は三男であろう。さればこのまま家に居ってもただの厄介者。分ける田畑もなく放り出されるのが関の山。今少し経てば己の力で糊口を凌がねば、食い物を稼がねばならぬぞ。解るか?」
三吉は辛うじて頷いた。
「ならば、ワシが田畑の代わりに城を与えてやる」
「え……」
「小寺殿のお子を預かりながら、手抜かりで死なせてしもうた。このままでは合わせる顔がない。死んでお詫びするか、それとも……」そう言って半兵衛は三吉をジッと見つめた。
「む、むちゃだ! オラなえ・たねをうえるしかしらね! できね! ぶしのこなんかできるわけねえ」
「ワシらが教えてやる。お主はまだ若いし面構えが悪くない。それにな三吉、掌の黒子は吉兆と言う」
「きっちょう……」
「ああ。掌に黒子のある子は星を掴んで生まれたと言う。三吉、お前の星がこれなのだ。お前は百姓から武士になれる星を握って生まれて来たのだ。だから必ず武士になれる、案ずるな」
「…………」三吉は到底無理だと言いたいのは山々だったが、半兵衛の背後に見える喜多村が刀に片手を掛けていた。飽くまで拒めば斬り殺されるのだろうなと思うとそれ以上言えなかった。
井口弥一之助と大野九兵衛は、この数日若君の姿が見えないことに気を揉んでいた。半兵衛の城に着いてほどなく、松寿丸だけが家臣に呼ばれて行ったきり戻らず、世話してくれる下女たちに訴えても解り兼ねるお伝えすると言われるばかりで、どうしたものかと困っていた。
ここに着いて何日経ったか、城主の半兵衛のお呼びとあって二人揃って行くと、半兵衛の側に男の子が見えて、二人は若君がいたと安堵して駆け寄った。
だが……。
「弥一之助殿、九兵衛殿、こは松寿丸殿でござる」
「似てはおりますが若君ではござりませぬ!」
「我等をおからかいでござりますか!」
「からこうてなぞおらぬ。今日からはこの方が小寺の若君でござる」そう言われて弥一之助と九兵衛は顔を見合わせ、やがて半兵衛と三吉へとまた視線を往復させた。
「よいか、お主らも詳しゅうは知らぬかも知れぬが――」
半兵衛は弥一之助らの主君の官兵衛の安否が不明なこと、またそれを官兵衛の裏切りと決め付けた信長によって松寿丸が処刑されたことを正直に告げた。
「――御首級はとうに織田様に届けられた」
若君の生首を思い浮かべて、弥一之助たちは寄り添ってガタガタ震えた。
「ワシは小寺殿を信じておる。必ずや荒木殿を説得してお戻りになると。だがこうなってしもうては……小寺殿は、孝高殿は赤松家縁の黒田家からのご養子でな、大殿の職隆殿とは生さぬ仲なのだ」
そんな小難しい話は聞かされたことがなく、嘘か誠かと二人は時々顔を見合わせながら半兵衛の説明に耳を傾けた。
そうして結局解ったことは、自分たちが若君の近習としてのお役目を何も果たせずに、若君が敢え無くお亡くなりになったということ、そしてそれは武門の恥だということだった。
「――小寺殿はまだお若い。次郎君さえお生まれになればお家騒動にもならぬ。お主らの父上もこれまで通り小寺殿にお仕えする。何等変わらぬ。ただ次郎君を授かるまでの影武者を仕立てるのだ」
それがこの――松寿丸に面差しのよく似た子供のことだなと、弥一之助たちにも解った。
「……それで我等の面目が立つのでござりますか?」
「松寿丸様へのご供養になるのでござりますか?」
「なる、いやこれしかご供養の法はない。 元々此度小寺殿が摂津へ参られたのは、御着の政職殿が仕向けたこと。このままでは政職殿は必ず騒動を起こす。小寺家が敵味方に分かれて戦おうぞ」
御着の政職が小心者で吝嗇で武士の風上にも置けないような奴とは、小耳に挟んでいる。いつでも合戦の最後にやってきて手勢を減らさぬことにばかり熱心で、まるで商人だ――家来たちが溜まり場でそんな風に論っていたものだ。
政職の罠に殿が嵌められて、その所為で若君まで――そしてその所為で父ら家臣まで分裂することになるかも知れない。そして若君を護れなかった自分たちにできることは、若君が亡くなっていない様に振る舞うこと――弥一之助たちは覚悟を決めた。