その一 小寺家と官兵衛
専門外での初作品です。
黒田長政についての創作です。
最後までお読み頂ければ幸いです。
天正五年(1577)、信長は播磨の諸侯に人質を出して忠誠を誓うことを求め、小寺家の当主・官兵衛 孝高(孝隆)にもそれを求めた。小寺は元は置塩・赤松家の分家で家老を務めてきた家系だが、赤松分家の龍野・赤松が本家を凌駕するようになったのと同じく、小寺家も赤松本家を凌ぐ勢力になっていた(実質は赤松本家が没落した)。
官兵衛は一粒種の数え十歳の松寿丸に近習・井口弥一之助(後の村田吉次)・大野九兵衛を付けて送り出し、松寿丸は信長の家臣である秀吉の許に預けられた。
実子のないねねは、手許に預かって養育していた加藤清正や福島正則が大きくなって寂しかったところに松寿丸を託されたことに喜び、松寿丸は長浜城で大層可愛がられた。
それまでは毛利方に付いていた小寺だったが。別所に大敗を喫して、城も領地も大きく減らしてしまった。最早唯一の財産は織田方の中国攻めルートとして恰好の姫山(路)城だった。
毛利方に付いて城を護るには足らない手勢しかないが。城や一国に値するという茶道具を遣り取りしていた時代でも、足場に何よりの城を献上するのは悪くない。
財も兵もなく仕方なく織田方に投降した身ではあるが、末席で足軽の如く扱き使われるのは御免蒙る。持てるものは最大限に使って少しでもマシな地位を得て、一族郎党の食い扶持を稼ぐのが当主たるものの務めと官兵衛は信じていた。
城を提供するという奇策で秀吉に取り立てられ、官兵衛は織田方へ取り付く足場を築くのに成功した。
自分が信長に忠義を尽くせば松寿丸は安泰と思っていた官兵衛に、災難は突然やってきた。
信長・秀吉との伝令役として何度も顔を合わせていた、摂津の荒木村重が突然信長に反旗を翻した。
更に小寺の分家・御着の政職が村重の謀反に同調して信長から離反する気配が出て、驚いた官兵衛は政職の説得に努めた。本家の官兵衛の半分程度の兵力しかない政職だが、仮にも一族から謀反人が出ては当主の面目が保てない。
しかし政職には、官兵衛の説得も鬱陶しいだけだった。
御着は姫山から拠点を移そうと築城され、播磨三城と数えられるほどのものであり、築城した小寺政隆は黒田氏の甥で職隆の祖父に当たる。しかし浦上村宗との戦で破壊され、小寺本家は姫山に戻った。随分と小さく支城となった御着を預かったのが、当時の当主・則職の弟の政職だった。
小寺はそれより先盛り返すのが捗々しくなかった。則職の代で得られたのは、職隆の弟休夢(高友)を養子に送り込んだ恒屋氏の有明山城・増位山くらいだった。
血縁のある黒田氏の近在となった、上月氏の元の居城・上月城(上月氏は七条赤松氏に城を明け渡して移った)に近い井手氏に職隆の弟・友氏を養子に出してもみたが立ち行かず、友氏は姫山に移った。母方の大和(奈良)・松井氏の養子に出した重孝も妻子に先立たれ居場所がなく戻った。沿岸から別所を切り崩そうと、職隆に明石氏から娶らせた嫁は早世した。則職の政略は悉く裏目に出ていた。
職隆の代になると、抱える兄弟たちの食い扶持に圧迫されて困窮した。幸か不幸か、櫛橋氏の志方近くの神吉氏から迎えた継室も亡くしていた職隆は、亡くなった母里小兵衛の妻を継室に迎えてまで、姫山の南の国府山城を持つ母里氏掌握に努める情けなさだ。
本家赤松の先々代・義村を殺害して強引に独立して播磨で跳梁跋扈した、浦上村宗の孫に娘を嫁がせた時も驚いた。職隆は浦上政宗が毛利に恭順を示したからとかどうとか言っていたが。本家と敵対する赤松政秀の天誅は敵ながら天晴れと思った。職隆の所業は貧すればの典型としか思えず、赤松家の来歴からすれば政秀の政略の方が一本筋が通っていた。
更には北の多可郡の黒田氏から次男を養子に押し込まれ、その妻はこれまた上月氏と縁組していた櫛橋氏の娘とされた。落ち目の赤松家臣から独立した、櫛橋氏の志方城は姫山や御着の東にあり別所領に近く、櫛橋氏との縁組は上月氏とも縁続きになれる一挙両得の良縁ということだったが。元の居城に戻った上月氏は織田と敵対して滅び、本家は光姫の甥たちまで抱え込む羽目になった。
南北朝時代に活躍した名門・赤松の一族ということが誇りだった。なのに尾張の成り上がりに使われるとは耐え難い。しかも信長は縁の足利将軍を蔑ろにしていた。言うなれば逆賊だ。
赤松家は足利尊氏を助けて足利家の礎を担った名門だったが、満祐が嘉吉の乱を起こして本家は絶えた。赤松貞村や黒田氏は満祐討伐に加わったが、満祐の同族故か然したる恩賞もないままで、満祐から召し上げられた領地は戻らなかった。
遺族を守り立てて、満祐の大孫に再興させたのが小寺を筆頭とする家臣団だ。赤松・小寺は足利家と共にあって栄える家なのだ。それを将軍義昭を庇護する毛利に敵対するなど愚かだ。
黒田家は南北朝時代に兄・赤松範資に背いて勝手気儘にこうもりのように暗躍した則祐が叔父・赤松円光の子・従兄弟の重光を山城(京都)丹波ルートの要だと黒田城に据えた家系だ。小寺はそれより前に赤松家から分家され、南北朝時代も赤松の家老を務めていた由緒正しい家柄だ。
黒田と同時代に赤松から分家された、山城摂津ルートを担う別所と黒田が覇権を争っていたのも片腹痛い。赤松家(つまりは小寺だ)あってこその山城ルートということを忘れている。
丹波の赤井忠家と南の別所長治が共に丹波の波多野氏から娶り、危機感を抱いた黒田重隆は次男の官兵衛を小寺本家に送り込み、南ルートを確保しようと足掻いたが。置塩からも姫山からも二日掛かる遠方の黒田に、援軍などそう出せる訳もない。結局黒田家は丹波の赤鬼・赤井(荻野)直正に攻められて滅んだ。
更には官兵衛の祖父・近江佐々木氏の娘を娶った黒田重範が舟岡山の合戦で赤松家に叛いて敵方に付いたことも忘れていない(後に浦上村宗討伐に参戦したのは当然だ)。
なのにかの則祐の気質を受け継いでいるかのような官兵衛に翻弄される気はなかった。
荒木の離反に呼応しただけだから、殿が荒木を説得して謀反を取り止めさせれば自分もそれに倣うと言って、政職は官兵衛自ら荒木村重を説得するよう促した。その実政職は荒木村重に官兵衛を始末してくれるよう使いを出していた。
政職が官兵衛を手に掛けるのは簡単だが、それでは主君に仇為した浦上村宗と同列に堕ちてしまう。
少し前には小寺本家の三倍以上の兵力を誇ったとは言え(不確かな伝記に拠れば、官兵衛の父・重隆がいざこざのあった家との私戦に他家からも総数数千動員し、数え二十の官兵衛も小寺からの援軍として伴っている。領地争いの戦ではなく戦場は置塩城下で、あわやというところで赤松家が取り成して戦は未遂に終わった)、もはや滅亡した黒田家から押し付けられた、小寺本家を乗っ取った養子の官兵衛が主君など耐えられない。
当主となってからの官兵衛の専横は政職の目に余った。別所との境界に位置する栗山氏の善助を召し抱え(しかも栗山氏は別所麾下だ。善助は『幻の』私戦の黒田勢の大軍に度肝を抜かれ、黒田に仕えるのは差し障りがあろうと養子の官兵衛に仕官してきたという変わり者だ)。土器山の戦で母里武兵衛らが討ち死にしたのをいい事に、黒田家譜代家臣の曽我氏から無理矢理太兵衛を母里家に押し込んで国府山城を乗っ取った。その太兵衛の曽我氏と遠くない、栗山氏の善助と義兄弟の契りを交わさせたなどどうでもよい。職隆とその娘婿の三木通秋の援軍がなかったら、あの戦も勝てなかった。
その後小寺が織田方に下ったのも、職隆・休夢(高友)兄弟が奮戦しても敵わず、姫山の北の守りである有明山城・増位山を奪われ、置塩の赤松本家と共に別所氏の麾下とされてしまったからだ(責任は姫山城にあった当主の官兵衛にある)。
国境の要城・黒田城落城の翌年の大敗北で、政職には官兵衛が黒田家の不幸を小寺一族に呼び寄せた気すらしていた。
もはや小寺本家は政職が信用するに値しなかった。
村重が官兵衛を排除してくれれば重石が取れる。
今後は他の家臣たちと謀って自分が当主になってもいいし、隠居の身の職隆の実子を後継に据えて自分が後見に就いてもいい(少なくとも小寺の嫡流に戻せる)。
荒木村重が信長に謀反を起こした理由も、官兵衛を殺害せずに幽閉した理由も不明だが、とにかく官兵衛は囚われの身となった。
信長が思い直せば不問にしてやると譲歩したのに荒木は改心せず、そこへ説得に向かった官兵衛もいつまでも戻らない。
信長は官兵衛も荒木村重に同調して籠城したものと激怒し、秀吉に見せしめとして松寿丸を殺すよう命じた。
竹中半兵衛重治は、人質も城も差し出している官兵衛が寝返るとは思われないからと信長に具申したが聞き入れられなかった。
半兵衛は自分が松寿丸を処分すると秀吉に申し出て、二人の近習共々自分の居城まで連れて帰った。
恐らくこのジャンルでは最初で最後の投稿と思いますが。
訂正・推敲が趣味なので
言葉遣いなど参考サイトがあればお教え頂けるとありがたいです。