日常
すっかり考え事をしていて、タイミングと眠気を失った深月は、寝直すことを諦めた。
叔父である蒼介は、大学の研究所に勤務しているため、朝は遅かったり早かったり、あるいは帰って来なかったりと、とても不規則だ。今日もどうやら帰って来なかったようで、こんな早い時間に起き出してきて、尚且つこの顔色の悪さをあれこれ詮索されずに済んだことに、少なからず胸を撫で下ろした。
スマホを見ると、今晩は帰れない、という旨のメールが入っていて、見る前に寝てしまったんだと思った。
深月は、都内にある小鳥遊音楽大学附属高校に通うピアノ科の一年生だ。
ついこの間までは同じ都内に居を構えていたのだが、蒼介の鶴の一声で突然の引越しが決まり、今では通学に1時間半かかる隣の県から通う羽目になっていた。
小さい頃からピアノを習っており、それこそ当時は、ピアニストになるんだ、と息を巻いていたが、現実を見つめる今は、そんな無謀な夢は抱いていない。好きなピアノで先生でもして生きていくのかな……という漠然としたところで収まっている。
ただ一つ、これは自慢出来る、ということが深月にはあった。それは、絶対音感を有している、ということだ。
実は絶対音感を持っていると一口に言っても、それはとても広く曖昧な表現だ。
英語が話せると言う人の中に、ちょっとした挨拶程度しか話せない人から、ネイティブ並に話せる人がいるように、絶対音感を持っていると言う人の中も、音階として成立する音のみをドレミで言い当てることしか出来ない人から、日常のあらゆる音がドレミで聞こえる人まで幅広い。
深月は後者だった。
苦労することもあったが、今ではこの能力のお陰で、課題や譜読み――と言っても、CDを聴いて耳から譜読みするのだが――は難なくこなせていて、友人いわく、この能力は詐欺らしい。こればかりは、3歳頃までに、如何に音感を鍛えられるかどうかで身に付く能力なので、それを見越していたかどうかは分からないが、しっかりと見極め習わせてくれた、今は亡き両親にはとても感謝していた。
軽くシャワーを浴び、見るともなしに、やけに明るいアナウンサーがはしゃぐテレビを見ながら、冷蔵庫にあった昨日の夕飯の残りを暖め直す。
カーテンを開けると、夏真っ盛りのジリジリとした日差しが、窓を通して侵入して来て、それを肌に受けながら、今日も暑くなりそうだな、と深月はげんなりした。
食欲のなくなった胃袋に、何とか昨日の残り物を詰め込み、いつもよりは少し早いが、家を出ることにする。
練習室の予約は朝早く行かないとすぐに埋まってしまうのだ。いつもはあまり学校に残って練習することのない深月だが、期末テストが間近に迫っていることもあり、今日は練習室を確保することに決めた。多分そろそろ、彼女からお声がかかるだろうと踏んで。
一歩外に出ると、家から出たことをすぐさま後悔したくなるような容赦ない陽射しに照りつけられる。朝でこれなのだから、午後になったら一体どうなってしまうのだろうか……。
最近は、天気予報を見れば、連日最高気温を更新している。どうやら、人類には、火星への移住計画を立てなければならない時が来ているようだ、と本気で考えた。
地獄の道のりを何とか駅まで辿り着き、更に地獄の満員電車をたっぷり味わい、最早満身創痍で学校の最寄り駅に到着する。あとこれを3年間も続けると思うと、間違いなく耐えられないという結論に達するので、思考はそこで停止させた。
どんよりと学校までの道を歩いていると、深月とは対照的な元気な声が後ろからかかる。
「深月! おはよ!」
そのままのどんより顔で振り返ると、思った通りの人物が、にこやかに手を振っていた。
長い癖のない黒髪を下ろしているにも関わらず、暑さなど微塵も感じさせない奇跡の爽やかさ。身長は162センチある深月よりも少し小さいが、切れ長の目元が涼しげな、間違いなく美人の蒔島花音だ。
花音はフルートを専攻しており、中間テストの時に、ひょんなことから深月が伴奏を引き受け、それを機に親しくなった。それまでは、顔を会わせれば挨拶する程度だったのだが。
「だ、大丈夫? 顔色すごい悪いよ」
花音が心配そうに覗きこんでくる。
深月は先月我慢出来ずにバッサリ切ったショートの髪を耳に掛けながら、曖昧に笑って見せた。
「何だか最近夢見が悪くて……」
「眠れてないの?」
「眠れてない訳じゃないんだけど、暑さのせいかな」
本当は例の能力の影響かなとも思ったりするのだが、勿論その話は花音には出来ないので、言葉を濁す。
「そっかぁ。深月は暑いの苦手だもんね。具合悪くなったら、我慢しないで保健室行くんだよ?」
「ありがとう。それよりさ、今日練習室取ろうと思ったんだけど」
あまり突っ込まれてボロが出てもいけないので、適当に話をそらす。花音は別段気にすることもなく、変えた話題に乗ってくれた。
「お願いしたい! 今回も引き受けてくれる?」
手を合わせて拝むポーズをしてくる彼女を見て、外見はクールなのに、その実とても可愛らしい性格の友人を微笑ましく思う。
「勿論。そのつもりだったし」
「ありがとう! CD持ってきてるからね!」
深月が耳から入るということを知っている花音は、しっかりと、そしてちゃっかりと、今回の課題曲のCDをバッグに忍ばせてきたらしい。
「それなら今日、放課後合わせてみよっか」
そう言うと、花音は嬉しそうにもう一度ありがとうと言って微笑んだ。
二人は練習室を確保するため、そしてこの暑さから一刻も早く逃れるために、足早に学校を目指した。