1話
「……、別れた?」
怪訝そうな顔で、向かいにいる絵美が私の言葉を反芻する。その隣では、亜紀ちゃんが彼女の前にあるベイクドチーズケーキから顔を上げて私を見つめた。フォークは中途半端に宙で停止し、開きかけた口もそのままだ。
「そんなに驚くことかなあ」
「ちょっと、それいつの話?」
絵美の声が剣呑さを含んでいる分、自分の声がなんだか間延びして聞こえた。落ち着いてよ絵美、そう言うと、一瞬の間の後に溜息をついて席に居直る。そこで亜紀ちゃんがようやくフォークを置き戻して、ぽつりと呟いた。本当なんですか。
「うん、2週間前に。」
だからもう、落ち着いてるし大丈夫だよ。お互いに。
そう言っても納得がいかないような顔をしている二人がなんだかおかしくて、でも私のことを気にしてくれている証拠だから、ありがとう、と笑う。すると、絵美がもう一度溜息をついた。多分、気づかなかった自分にいら立っているんだろう。そんなこと気にしなくてもいいのに。
「理由、聞いてもいい?まさか柚木、なんかひどいことでもしたの?」
「まさか。あの柚木くんだよ?ううん、私が別れようって言ったの。それで終わり」
「それで終わりって、」
「私が終わらせたの。だから二人とも、そんな心配しなくていいんだよ」
苦笑交じりの自分の声が聞こえた。二人の視線を流して窓の外を見て、そのまま手元のミルクティーを口元まで運ぶ。少し冷めてしまったけど、このお店のミルクティーはやっぱり美味しい。こうして寒くなってくると、私はこのカフェではついついミルクティーを頼んでしまう。
本当に、それ以外は何もなかったのだ。
2週間前の夜22時、私の部屋で。ソファーを背もたれにして、絵美に返した時のように、自分の声はなんだかのんびりしていた。別れ話をしているくせに真剣味がないなあと、他人事のように思っている自分がどこかにいた。
柚木君は、私とソファの右斜め後ろで、立ちっぱなしだった。部屋の外の雨音が、やけに耳に響いたのを覚えている。明かりは点けていたと思うが、蘇る光景は薄暗い。
なんで。
そうぽつりと呟いた彼に、私はつらつらとその理由を述べたのだった。それは熱が冷めたとか一緒にいてもお互いのためにならないとか、どこのカップルにもありえそうな原因だった。正確な内容はもう覚えていない。印象に残っていたのは、彼の黒髪の上にまだ雫が乗っていたこと。ああ、だから多分、私の家に二人で帰ってきて、そんなに時間の経たない内のことだった。
どれくらいで終わったのだろうか。私のよく動く口を、目を見開いたまま見つめていた彼は、その言い訳を聞き終えたあと暫くその場から動かなかった。彼からどんな言葉が返ってくるのか、私には想像もつかなかったし、想像しなかった。
かえってきたのは、わかった、という短い言葉だった。ソファの背にかけていたコートを手にとり、鞄を持って、彼は静かに私の家から出て行った。
それから5日後には、サークルでいつものように顔を合わせて、いつものように会話をして、私たちの関係は綺麗に終わったのだった。
月の裏側 1
2月。私の所属するラジオサークルは、1年の締めくくりである大規模な企画、「生放送しちゃいますプロジェクト」に向けて動き出していた。文字通りそのまま、ネットを使った生放送をする企画だ。
私が通うのは都内のとある私立大学。世間に名の知れた所謂有名大学の一つで、このサークルもそれなりに歴史がある。マスコミに就職したOBOGも多く、規模もラジオという地味な媒体の割に大きい。
「みなさんこんばんはー、パーソナリティの月野唯です。今日は前髪の寝癖がとれなくて機嫌が悪いでーす」
目の前のマイクに声を吹き込む。隣にはディレクター役、同期の瀬田。その彼の机をはさんだ向かいには構成作家役の田口さん。一個年上。周囲にはいくつかの機材と後輩やお手伝いの同期が何人か。
うちのサークルでは、入部してから半年はどの仕事もまんべんなくこなすが、それからパーソナリティ・ディレクター・作家の三つのセクションに別れて所属する。そうして先輩や卒業生に技術を学びながら、2年生になると何人かでグループを作ってラジオ企画書を提出。採用されればこうして番組を持ち、大学内とサークル専用のホームページで配信するのだ。作れる番組数は決まっているから、2か月単位でサークル内と一般の投票、更に卒業生の評価を受けて人気のない番組は打ち切りとなる。
現在2年生の私は、パーソナリティセクションの一人。そして、今収録中の番組のメインパーソナリティを務めている。
この番組、4月から続いているサークル内でもトップを競う人気番組の一つだ。
そして、私の相棒であるもう一人のパーソナリティは。
「こんばんは!パーソナリティの柚木司ですー。うん、俺は今日の前髪いけてると思うよ!」
「どのあたりが?リスナーのみなさんに説明してみてよ」
「うん、んっとね、なんていうか、その……さっぱりしてるところがね、」
「つまりピンでとめてるから今日は前髪ないんですが」
「…すみませーん!!」
「はい、みなさん柚木くんから土下座いただきましたよー。ふふふっ、相変わらず女の子を誉めるのが下手だね!!でも大丈夫、今週この後のコーナーはそんな柚木くんにも役に立つ素敵な内容になってますから!!」
「え、どゆこと??ちょっと俺聞いてな」
「それでは始めましょう!!月野唯と」
「えっ!?…柚木司でお送りしますっ、」
強引な引きに、苦笑まじりの彼の声が響いたあと。息を吸う音が、マイクに向いている互いの顔を引き上げる。そして、私達の視線は一瞬だけ交差するのだ。どんな思いや考えも振り払って、ただ、この声を揃えるためだけに。
「ラジオ『ムーンバック!!』」
柚木くんと初めてまともに顔を合わせたのは、去年の3月のはじめのことだった。サークルの活動がない日の放課後、話し合いのために瀬田を待っていた教室で、やってきたのは彼だけではなかったのだ。
いい相方が見つかったんだよ、そういった瀬田の隣で、柚木君は困惑顔で、とりあえず私に軽く頭を下げた。右腕を瀬田に掴まれたままで、彼も状況がほとんど分かっていなかったらしい。
かくいう私も、突然の瀬田の言葉と柚木君の登場には混乱した。
「え、なに?どゆこと?」
「だから、柚木がお前の相方やってくれるって。いやー良かったよ、もう一人のパーソナリティ決まって。これでいよいよ動き出せるな!」
「え。ちょ。待ってよ!」
―――瀬田と私は入部してすぐからの付き合いで、ずっと、一緒に超人気番組を作ってやろう、と意気投合していた。2年にあがると同時に番組を始めようと決め、それまでお互い技術を高めながら構成を少しずつ考えていたのだが、いよいよ進級が近づくとなってもまだ決まらなかったのが、このもう一人のパーソナリティである。その日の話し合いというのも、このためだった。
一時は私一人にしようか、という案も出たのだが、番組のテーマに沿わない、と瀬田が意地を張り、絶対に見つけると豪語してひと月。
そしてとうとう選ばれたのが、彼、らしい。
「えっと……、柚木くん、だったよね?」
「っはい、柚木司です」
わかりやすく跳ね上がった彼の肩と声に、思わず苦い笑みが零れる。しかしこの瞬間に、私の耳は目ざとくも彼の声を拾い上げて、感じていた。
すごく、綺麗な声をしている。
「同期なんだから、敬語はやめようよ。月野唯。よろしくね」
「や、でも俺みんなより半年遅く入ったんで……」
「あ、そうだったね。でも、確かアナウンス部に入ってたんでしょ?じゃあむしろ発声とかできてていいじゃん。声綺麗だし」
9月頃に何人か新しいメンバーが入ってきたとき、自己紹介していた内容をなんとなく思い出した。それから新メンは私たちがやってきた基礎の学習に入っていたし、こちらは実習に入っていたから話す機会がこれまでは無かったわけだが。
彼は少し照れたようにありがとうございます、と呟く。その隣で瀬田がそうだろそうだろ、と彼の背中をばしんと叩きながら言った。親しくなくてもこういうところで容赦がないのが瀬田らしい。
「瀬田に言ったんじゃないよ。大体、柚木くんよくわかってないみたいだけど。番組の内容とか説明したの?」
「いや。でも『やりたい』って言ったよな?」
「あ、それはまあ、」
「……なんて誘ったのよ」
「『ラジオのパーソナリティやりたいよな?』って」
なんてざっくばらんな誘い方だ。番組の企画内容も何もかもすっとばしてる。
なんとなく予想だけど、小野君はそろそろセクションを決める時期だし、そちらと勘違いさせてるのではないだろうか。
「瀬田、それまだ柚木くん了承したうちに入らないから。セクションのことかと思うじゃんか」
柚木君ごめんね、と謝るといやいやと彼は手を前で振る。でもせっかくだし話聞いて行ってくれるかな、と応対している私とは別の頭が、彼を冷静に分析していた。
人見知り、みたいだ。
サークル内ではきついと言われている私と、へらへらしているのに切れ者としてある意味で問題児扱いされている瀬田と対面しているせいもあるかもしれないが、あまり自分を全面に押し出そうとするタイプではなさそうだ。それはラジオという、そしてパーソナリティというトークを命とする者としては、珍しい部類に入る。
とりあえず座りなよ、そう言って目の前の椅子を引いてあげた。教室の入り口に突っ立っていた二人がこちらへやってくる。と、そこで瀬田があっと言って身を翻した。
「俺、田口さん呼んでくるわ!ツキ、説明してやってて」
「は?ちょっと待ってよ、まだ柚木くんやるって決まってないのに田口さん呼ぶの気が早いって」
「いや、柚木やるよな?」
「ちょっと!私が言ったこと聞いてた?そんな誘い方でやるってうちに入らないって!」
なんだか話がかみ合わなくていらっときたが、瀬田はドアを開いて
「いんや、柚木はもうやってくれるよ!」
なんて言って出て行ってしまった。
「……はあ、全く!」
思わずため息をつく。それと同時に柚木君が目の前の椅子に腰を下ろしたので、ほんと強引でごめんね、ともう一度言う。
「企画について説明するから、それで面白くなさそうって思ったら辞退していいからね。田口さん来ちゃったら断りづらいかもしれないけど、」
そう言って、ずっと持ってるはずの企画案を机の下に置いていた鞄からあさり始める。と、頭上から柚木君の声が降ってきた。
それは、私にとって予想外の言葉で。
「いや、大丈夫です。是非やらせてください。瀬田さんにもそう言ったんで」
「……え?番組のこと、了承したの?セクションの方じゃなくて?」
「はい、番組のことです。」
「……えっと、じゃあ勘違いしてたのは私の方、なの?」
「ええと、そうなりますね」
そこで彼の顔が一瞬不安そうになり、俺じゃやっぱりまずいですか、なんて呟いた。
慌てて顔をあげて言う。
「そんなこと全然ないよ!柚木君ほんといい声してるし、瀬田がパーソナリティ候補で連れてきたの、何か月もあったのに柚木くんだけだよ。だから自信持っていいよ」
ただ、
付け加えた言葉に、彼の目がまっすぐこちらを向く。
「どんな番組かも知らないで、なんで話受けたの?ただパーソナリティやりたいっていうのは、後々番組が自分のやりたい内容じゃなくてしんどくなるかもしれないから、おすすめしない」
釘をさすように、率直に言った。それは彼にとってもよくないことだし、長い間温めてきた番組を始めるにあたり瀬田や私にとっても、そんなことで良い番組が作れないのはごめんだからだ。
しかし彼は、私の言葉を聞いて少し安堵した表情になる。
「それなら大丈夫です。パーソナリティやりたいがためにお話にのったわけじゃないですよ」
「じゃあ、なんで?」
そして彼は、ちょっと照れたように、ちゃんとした、しかし私にとってはある意味驚きの理由を述べたのだった。
「俺、ずっと瀬田さんと月野さんとラジオやりたいと思ってたんです。このサークル入ってすぐのころからずっと」
だから是非、こちらから宜しくお願いします。そうして頭を下げた柚木くんが、またすぐに顔をあげて。さっきより近い距離で、まだ緊張しているけど、そこには笑みが浮かんでいて。
ああ、なんだかこの子はすごそうだな、とちょっと拍子抜けしながらもそう予感した。
この後企画はとんとん拍子に進められ、無事にプレゼンと会議を通して4月からの放送が決定したのである。
「お疲れ様でしたー」
「お疲れー」
二本分の収録を終えて、みんな次々と部屋を後にする。机で今日の収録の反省点を記録していた私は、人が減っていく室内を耳で感じ取っていた。
「お疲れ様です」
綺麗な声に、顔を上げた。ドアノブを捻ったドアの向こうに彼が出ていく。
「お疲れ様」
見つめた彼の目は、いつものような優しい表情だった。番組をはじめたときから、いや出会ったころから全く変わることのない、表情。
ぱたん。ドアが閉められる。
「……こうして収録するのも、もうあと少しだなあー」
残る二人となったところで、瀬田が私の手元のノートを覗き込む。ちょうどノート終わりそうなんだな、そう吐き出した声が、瀬田らしくない感傷的な響きを持っていて、私は笑った。
「いいじゃん、一年もやれたんだよ。最初は定期審査の前に打ち切られないかひやひやするほどだったのに」
「まあなー、柚木なんかひどかったもんな。まあ、今もトークはあんまり成長してないけど」
「私は?」
「ああ、お前もあんま変わんないな。」
「ひどっ」
「なんだろな、何が上手くいったんだろう。わかんないけど、お前たち二人、本当今じゃ最強コンビだよ。俺の構成のおかげか?」
「多分田口さんのフォローのおかげだね。じゃないとこの番組、完全崩壊してる」
「お前こそひどいな」
軽口を叩きながらも、ノートの端を私の指がなぞる。
そう、もうすぐ1年を迎えるこの番組も、生放送を最終回にして終了することが決まったのだ。
最長でも1年で番組は打ち切るのが、このサークル内での暗黙の掟だった。
私と柚木君の関係も、この番組の歴史も、ここで終わりになる。
ここまで読んでくださり本当にありがとうございます。
作品について何か思うところがあれば、活動報告を読んで意見をくだされば幸いです。