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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第99話 人質の運命――摂津激震(3)

 天正六年(1578)の十一月初旬は、現在の暦で十二月初旬にあたる。晩秋というより、もはや初冬と呼ぶべき季節である。


 荒木村重の謀反によって摂津が混乱の極みにあった十一月六日――

 冬の波濤はとうを越え、六百隻もの船が舳先を揃えて大阪湾に現れた。

 約三百隻の軍船に掲げられた旗の紋は、○に「上」の文字。因島いんのしま能島のしま来島くるしまのいわゆる三島村上水軍である。瀬戸内海を牛耳る日本最強の海賊衆であり、毛利水軍の主力と言っていい。この軍船に守られるように「一文字三星」の毛利家の旗を掲げた三百隻ほどの輸送船が続いた。

 村重の謀反と機を合わせるように襲来したこの大船団は、本願寺へ運び込む膨大な兵糧と数千人の軍兵を満載していた。毛利氏が摂津で織田と決戦するために発した第一陣である。


 毛利氏の戦略では、荒木村重の謀反によって織田の支配が及ばなくなった摂津に大軍を駐屯させ、本願寺勢、荒木勢、紀州雑賀党などと共にこの地域を封鎖し、織田軍の侵攻を食い止めるつもりであったのだろう。

 摂津さえ押さえてしまえば、京はもう指呼の間と言っていい。織田軍は播磨への道さえ断たれるわけで、播磨で戦う羽柴軍、丹波で戦う明智軍は孤立せざるを得ず、毛利方の別所氏、波多野氏はそれぞれ猛烈な反攻に出る――はずであった。

 毛利水軍は海上の戦においては無敵であり、織田軍はこれを食い止めるすべがない――と、毛利方の者たちは信じていたに違いない。


 しかし、そこにこそ大きな誤算があった。


 信長は、まさにこの日のために、新たな織田水軍を創設していたのである。

 当時の常識をくつがえす鉄張りの大戦艦――俗にいう「鉄甲船」を七隻建造させ、さらに三百余隻の軍船を建造、あるいは徴発するなどしてかき集めた信長は、石山御坊の喉首である木津川河口にこれを配し、海路を封鎖していたのだ。

 織田水軍の大将は、海戦に練達した伊勢志摩の海賊大名・九鬼くき嘉隆よしたかである。


 「第二次木津川河口の戦い」とでも呼ぶべきこの海戦は、午前八時に始まり、二刻(四時間)ほどで織田水軍の完勝に終わった。

 信長が発案したという「鉄甲船」は、全長三十メートルを越える巨体に無数の大砲、大鉄砲を搭載している。機動力こそないが、まさに“浮き城”としか評しようのない威力を発揮した。その船体に装甲された分厚い鉄板が、毛利方の軍船から放たれる矢弾と焙烙火矢ほうろくびやをまったく無効化したのである。得意の火攻を封じられた毛利水軍は攻め手を欠き、鉄甲船の射程に捉えられてからは戦いは一方的となった。やがて大将が乗る旗艦を集中砲火で沈められると、毛利方は統率を失い、総崩れとなる。『信長公記』の記述によれば、壊走する毛利の軍船は数百隻が木津浦へと追い込まれ、ことごとく撃沈、あるいは拿捕だほされたという。

 石山御坊に運び込まれるはずであった兵糧と軍兵は希望と共に暗い海中へと沈み、戦国最強を誇った毛利水軍はまさに壊滅的な打撃を蒙ることとなったのである。


 これ以後、毛利水軍は二度と木津川河口へは現れなくなった。

 毛利氏の大戦略は、事実上、この日をもって破綻したと言うべきであろう。


 この戦勝を知った信長は、毛利軍の反抗の出鼻を挫いたと判断し、この機を逃さず自ら軍を率いて摂津に乗り込んだ。

 この戦陣には、信長の子弟や織田家の軍団長クラスはもちろん、柴田勝家の北陸方面軍に属する前田利家、佐々成政、不破光治らまでが参加していたらしい。織田軍の主力を総動員したと言ってよく、その総兵力は七万を優に越えていたであろう。


 京を南下し、摂津北部に進軍した信長は、まず荒木方の高山右近を調略で寝返らせた。

 高槻に城を構える高山右近は、摂津の旗頭である村重に属す有力武将である。聡明で勇敢な上に志操の堅固な若者で、自己の利害損得で裏切りをするような人物ではないが、右近が敬虔なキリシタンであることを知っていた信長は、キリスト教の神父・オルガンチノを使者に立て、「右近がわしに忠節を尽くすなら、伴天連ばてれんの教会を全国どこに建てることも差し許すであろう。もしそうせぬというなら、宗門を断絶させ、信者を根絶やしにするであろう」と脅した。

 己の節義とキリスト教の危機――信教に生きる右近は苦悩しぬいた末に村重から離れ、信長に従う道を選んだ。

 ちなみにこの時、右近を説得に赴いた者の中に、佐久間信盛、松井友閑と共に「羽柴筑前守」の名がある。藤吉朗の調略の腕をそれだけ信長が買っていたということであり、藤吉朗が村重配下の武将とも懇意にしていたということの証左でもあろう。


 こうして幸先よく高槻を手に入れた信長は、摂津北部に次々と城や砦を築き、伊丹に軍を乱入させるなどして荒木方を圧迫すると共に、調略でさらに茨木城の中川清秀を寝返らせた。


 高槻城の高山右近と茨木城の中川清秀は、村重にとって両腕ともいうべき存在である。これが味方についたことで摂津北部は織田方に戻ったと言ってよく、安土・京と摂津を結ぶ大動脈――淀川の水運――を確保できることとなった。信長は摂津北部の山手を突き通すようにして播磨への通路も確保したから、織田方の各戦線を分断するという毛利方の狙いはまったく瓦解した。

 最有力の支城をふたつ失ったことで、村重は自らが篭る有岡城まで剥き身にされてしまった。信長は前線を一気に伊丹まで進め、有岡城の周囲に付け城をいくつも築いてこれを重厚に包囲した。


 当然だが、織田軍の津波のような進撃にさらされた荒木傘下の小豪族たちは深刻に動揺した。


(荒木殿の縁戚である高山、中川までが寝返っておる。我らのような者が荒木殿の滅びに殉ぜねばならぬ義理はあるまい)


 と織田方に奔る者が続出し、荒木方は有岡城、尼崎城、花隈城などの拠点に封じ込められる形となった。


 村重の謀反という驚愕すべき新局面から、ここまでわずか一月ほどである。信長はこの短い期間で危機的状況を見事に脱し、圧倒的に織田優位な情勢を再び構築してのけた。

 人の底力が逆境にこそ試されるものであるとすれば、信長の戦略眼と手腕と行動力とは大いに評価されるべきであろう。


 ついでながら触れておくと――

 信長は、村重の謀反が起こった直後、朝廷を動かして本願寺との和睦を策したという事実がある。

 本願寺側が、


「我らは毛利氏と同盟し、多年その芳志を受けているから、単独講和には応じられない。毛利氏に了解を取り、毛利氏と共にということならば受ける用意がある」


 と返答すると、信長は毛利氏との講和をも了承し、十一月下旬に毛利氏の本拠である安芸国(広島県)吉田へ勅使を下向させる手はずを整えているのである。

 それだけ信長は村重の謀反に狼狽したということだが、しかし、戦況の推移は信長の予想以上に織田方に良かった。毛利水軍を撃破した事に続き、高山右近、中川清秀を味方につけ、摂津の支配権の大半を奪い返したことで自信を回復したのであろう、信長は勅使の下向を中止させ、まとまりかけていた和平交渉を一方的にご破算にした。


 このあたり、信長の周到さと抜け目なさが垣間見えて面白い。



 さて――


 「木津川河口」の大勝の報せは、その翌日には藤吉朗から飛脚をもって平井山に伝えられている。


 中国地方でその猛威を知らぬ者のない毛利水軍が、織田水軍によって壊滅的打撃を受けたという事実は、織田の興隆と毛利の衰亡を予感させるという意味でこれ以上ない宣伝材料であろう。去就に迷っている者はもちろん、毛利方に属している者も将来に不安を持つに違いなく、織田方に寝返ろうとする者さえ出るかもしれない。

 小一郎はすぐさまこの情報を播磨とその隣国にばら撒かせた。

 もちろん、これに対して毛利氏の側も迅速に手を打っていて、小早川隆景は己の名で「木津川河口では毛利水軍が大勝した」という偽情報を近隣の小豪族たちにばら撒いていたが、この情報戦は現実に海戦に勝った織田方に分があった。


 実際、毛利水軍の大敗は畿内の小豪族たちに大きな心理的影響を与えていた。たとえば中川清秀の寝返りはこれが決断の大きな要素になったに違いなく、その後、小豪族たちが次々に織田方に転んだのも、ようするに織田の勝ちを予感したからにほかならない。

 毛利水軍が絶対的優位と思われていた海戦での大敗は、毛利氏の声望を大きく失墜させた言うべきであろう。

 播磨の別所氏、丹波の波多野氏など、毛利方の諸勢力は大きな反攻を起こさなかった。起こせなかったと言うのが正確であるかもしれない。


 しかし、それで播磨に平穏が訪れたというわけではない。


 小一郎にとってこの時期の最大の懸念は、毛利方に転んだという小寺氏の動静であり、行方不明となっている小寺官兵衛の消息であった。

 官兵衛の件に関しては、藤吉朗さえまだ正確な情報が掴めていないらしい。


 官兵衛が消えて以来、小寺氏は織田方の使者を門前払いするようになった。つまり織田方と断交したわけで、これは「敵対」の意思表示と同義であり、この時代の常識においては事実上の「戦争状態」に入っている。


(困った・・・・)


 小一郎はこれまで小寺氏との交渉を官兵衛に任せ切っていただけに、肝心の官兵衛が消えてしまったことに当惑せざるを得ない。


「わしらに何の繋ぎも入らんというのはどういうこっちゃ・・・・」


 官兵衛は村重の有岡城に入ったきり消息を絶った。疑いたくはないが、主家の小寺氏に従って毛利方に寝返ったと取れぬこともないのである。


 その点、半兵衛は官兵衛に対してまったく疑義を抱いていないようであった。


「官兵衛殿に限って毛利方に転ぶというようなことはありますまい」


 寒気が厳しくなるにつれ、半兵衛は再び体調を悪くしている。血の気が失せたその顔色は幽鬼のように青白く、辛そうに咳き込むことも多い。

 それでも半兵衛は、常に柔和な表情と泰然とした態度を崩さなかった。


「繋ぎを取ろうにも取れぬような事になっておるのでしょう」


「というと・・・・?」


「考えられるのは、荒木殿に捕らえられたか、あるいは――」


 殺されたか――という言葉は、さすがに口にしなかった。


 あの官兵衛が殺されたとは小一郎も考えたくはない。しかし、もし官兵衛が有岡城で虜囚になっているのだとすれば、それは殺されているよりもよほど厄介な事態ということになる。


(もし官兵衛殿が有岡城で生きておるとすれば・・・・)


 姫路の黒田氏はどうするであろう。

 当主自身を人質に取られれば、黒田氏は村重の言いなりにならざるを得ないのではないか。すなわち、毛利方に寝返るということにならないか――


 純粋に官兵衛の安否を心配する気持ちはもちろんある。あるが、羽柴軍を預かる立場の小一郎にすれば、官兵衛の生死がどうなっているかという事より、黒田氏という有力豪族の去就の方がよほどに重大な問題なのである。


(官兵衛殿がおらぬとなれば、黒田家の舵は宗円殿が握るということになるか・・・・)


 何度も姫路城に滞在している小一郎は、官兵衛の父である宗円入道とももちろん面識がある。

 たとえ官兵衛が捕らえられているのだとしても、黒田氏には毛利方に寝返られては困る。つまりは官兵衛を捨て殺しにしてもらわねばならないということだが、宗円は、我が子を捨ててまで織田方を貫いてくれるであろうか・・・・。


「いずれにしても、黒田氏が今後も変わらず安土さまに忠を尽くすという立場をはっきりさせておかねば、このような状況では小寺氏に従って毛利方についたものと見做されてしまいましょう。気の短い安土さまの事です。もたもたしていては、いつ姫路を攻めよと命ぜられぬとも限りません」


 その通りだ――と、小一郎は思った。

 あの短気で猜疑深い天下人が、官兵衛が有岡城に入ったきり出て来ないなどということを知れば、官兵衛が毛利方に寝返ったと断じて黒田氏を滅ぼそうとするかもしれない。人質に取っている官兵衛の息子も殺してしまうであろう。


「事は急を要します。私がこれから姫路へ参りましょう」


「いや、しかし――それは危なくないですか・・・・?」


 官兵衛が消えてしまっている以上、黒田氏がすでに毛利方に寝返っている可能性もないわけではないのである。

 半兵衛は微笑した。小一郎を安心させるためであったかもしれない。


「小一郎殿は、たとえ敵であっても使者を害するようなことは決してせぬ人であると――私は思っています。それと同じですよ。宗円殿は智者です。仁徳の人でもある。その信義に厚いことは、子の官兵衛殿を見ても判る。無道なことを為す人ではありません」


 半兵衛は病躯を押し、黒田氏がる姫路城へと一人で赴いた。

 これを迎えたのは、もちろん宗円入道である。その顔は、焦燥でやつれ切っていた。


 半兵衛が官兵衛の安否について尋ねると、


「実は――つい昨日、摂津守殿からこのような書状が参りました」


 そう言って宗円は村重の私信を半兵衛に手渡した。

 宗円は竹中半兵衛が何者であるかを知っている。これは「織田に隠し事をしない」という態度の表明と言ってよく、黒田氏の覚悟のほどを半兵衛なら察してくれるはずだと考えたのであろう。

 手紙は、


「官兵衛殿は伊丹にてお預かり申しあげている。ご高察くださるよう」


 といった内容であった。

 半兵衛は眉をしかめ、複雑な表情をした。


 文面を信じるなら、官兵衛は生きてはいるのだろう。村重は、つまり黒田氏に対して毛利加担を強要してきたと言える。もし毛利方につかぬようなら、官兵衛を殺すぞ――という無言の「脅し」なのである。


「我らも、正直、こうじ果てました。このような紙切れ一枚では、愚息が本当に生きておるのやら死んでおるのやら――それさえ判らぬ・・・・」


 宗円は苦しそうに言った。

 実際、官兵衛がすでに殺されているというのも考えられぬことはない。村重は、たとえ官兵衛を殺してしまっていたとしても、黒田氏が毛利加担に踏み切るまでは生きているように偽装するであろう。

 官兵衛を救うために黒田氏が毛利加担を決め、織田に敵対した後で、実は官兵衛は死んでいたと知れる――というのが、考えられる中でもっともタチの悪いシナリオである。黒田氏にすれば官兵衛の死の真相を知りようがないわけで、村重は「官兵衛殿は篭城中に織田方の矢弾に当たって亡くなりました」とでも言えばそれで済んでしまう。死人に口はなく、証拠はいくらでも捏造できるのだ。


「ご心痛、お察し申します・・・・」


 半兵衛は目を伏せた。


 宗円の悲痛さは、毛利方の村重に官兵衛を捕らえられたことで、織田にも毛利にも人質を取られた格好になったことであろう。黒田氏の正当な後継者である官兵衛の一人息子――つまり宗円の孫――である松寿丸は、織田家に預けられている。たとえば官兵衛を救うために黒田氏が毛利方に寝返ったとすると、信長は当然、松寿丸を殺す。一方、このまま黒田氏が織田方を貫けば、有岡城で官兵衛が殺されることになる。

 子を捨てるか、孫を捨てるか、という選択であり、人としてこれほど辛い二択もない。


 が、宗円はすでに肚を決めていた。


(いざという時は官兵衛を捨てる)


 ということである。この事は官兵衛とも無言のうちに確認し合っている。

 しかし、宗円にも親としての情がある。いざ「その時」が来てしまえば、にわかに息子への愛しさがこみ上げ、油断すると涙が溢れそうになる自分をどうすることもできない。


(代われるものなら、我が身に代えてもらいたい・・・・)


 と痛切に思ったに違いない。


 この場合、宗円も辛いが、半兵衛の役も辛い。

 半兵衛の役割というのは、黒田氏に織田加担を貫かせることであり、黒田氏が官兵衛を捨て殺しにするよう決断させるところにある。煎じ詰めて言えば、「あなたの息子の事は諦めてもらいたい」と父親に迫る役なのである。


 宗円は思慮深い男である。半兵衛の来訪の意図は、もちろん察している。黒田氏が織田に従う決意である以上、信長からあらぬ疑いを掛けられぬようにするために、心を鬼にせねばならない。戦国人らしく迷いを振り切った。


「これは我が家の老臣おとなともはかったことですが――」


 目を赤らめつつ、宗円は決然と言った。


「我らは、たとえ官兵衛が殺されることになろうとも、安土さまをたのみ、これにどこまでも従う所存でござる。信義を守って一命を惜しまぬのは武門のならいゆえ、愚息もかねてその覚悟はしておりました。この事、筑前守さまにはくれぐれもよろしく申し伝えて頂きたい」


 これを聞いた半兵衛は、静かに頷いた。


「まことにご立派なお覚悟と思います。筑前殿も安土なる上様も、黒田家の方々の誠忠をお知りになれば、必ずお喜びになられましょう」


 親友ともいうべき官兵衛のことを想えば半兵衛の心中も複雑だったに違いないが、黒田氏の決断に対して胸を撫で下ろすような気持ちもなかったとは言えないであろう。


「我らは、官兵衛殿が二心を持ったとは露ほども考えておりません。此度のことは、使者を捕らえた荒木殿の無道――官兵衛殿は有岡城で必ず生きておりましょう。上様はすでに御自ら摂津にご出陣なされ、荒木一党の退治を始めておられます。遠からず、有岡城も落城とあいなりましょう。城が開けば、きっと官兵衛殿は救い出されるものと思います。お辛いところでしょうが、どうかそれまでお気持ちを落とさず、吉報をお待ちくだされ」


 多分に希望的観測だが、半兵衛はそう言ってこの哀れな父親を励ました。


 半兵衛から報告を受けた小一郎は、ただちに早馬を走らせ、その内容を摂津の藤吉朗に伝えた。

 折り返し藤吉朗が出したのであろう、宗円の弟――つまり官兵衛の叔父である――休夢斎(黒田高友)へ宛てた十一月十一日づけの手紙が残っている。


「竹中半兵衛からの報告は聞いた。そちら(黒田氏)のお覚悟が揺るがぬということ、非常に結構なことと思う。その旨、私から上様へも申し上げておいた」


 といったことが書かれており、この時点で黒田氏が小寺氏から離れ、独自に織田方に留まったこと。その説得が半兵衛によって行われたらしいこと。黒田氏の去就の情報が信長にまで伝わっていたこと、などが窺い知れる。


 ところが、信長はこの直後、黒田氏の人質である松寿丸を殺すよう命じたらしい。

 官兵衛が有岡城から帰って来ないことを知った信長は、確たる証拠も掴まぬまま、官兵衛が毛利方に寝返ったものと断定したのである。


 信長は村重に手ひどく裏切られたばかりであり、そうでなくとも猜疑深いこの男は、さらなる味方の裏切りに対してひどくナーバスになっていた。そういう信長の目から見れば、官兵衛の行動はいかにも疑わしい。官兵衛は策士と評されるほど切れ者であり、村重の元にのこのこ出向いて無様に捕らえられるというような間抜けさは、印象として似合わないのである。小寺氏や村重をそそのかして毛利方に奔らせ、有岡城に自ら入って村重の軍師になったという方が、まだ似つかわしい。


 信長は愛憎の情が深い男で、いったん愛したり信じたりした者に裏切られると、異常なまでに感情が激し、受けた屈辱以上の報復を行わねば気が済まないようなところがある。信長は官兵衛が気に入っており、愛刀を手づから与えるほど厚遇し、陪臣ながら気に掛けてやっていたつもりであったから、その「裏切り」がなおさら許せなかったのであろう。

 さらなる裏切り者を出さないために、味方の全軍に対しての見せしめという意図ももちろん含まれていたに違いない。


 しかし、それでも松寿丸の処刑は理不尽と言わねばならない。

 盟とは家と家とで行うものであり、松寿丸は官兵衛個人というより黒田氏が差し出した人質なのである。黒田氏が官兵衛を捨ててまで織田に味方すると表明している以上、信長には松寿丸を殺すいかなる法的根拠もない。

 にも関わらず信長はそれを命じたわけで、やはりこの事は信長の私的な鬱憤晴らしという色合いが濃かったのであろう。


 松寿丸は、藤吉朗の長浜城に預けられている。

 信長は藤吉朗を呼びつけ、機械のような冷酷さで松寿丸の殺害を命じた。


「それは・・・・!」


 藤吉朗は当惑したであろう。

 播磨の切り取りを許され、ゆくゆくその国主となる藤吉朗にとって、黒田氏は組下の大名であり、いわば家来である。その黒田氏が当主の官兵衛を捨ててまで織田家への忠節を誓っているのに、人質を殺すわけにはいかないではないか。そんな理不尽なことをすれば、せっかく織田方に留まろうとしてくれている黒田氏も、敵方に奔らざるを得なくなるのではないか・・・・。

 そもそも官兵衛が本当に織田を裏切ったのかどうかさえはっきりしていない。有岡城ですでに殺されているのかもしれず、あるいは捕らえられて生きているかもしれない。毛利方に寝返ったという証拠はどこにもないのである。無論、裏切っていないという証拠もないわけだが、ただ、藤吉朗の感触で言えば、官兵衛は己の信念に忠実な男である。織田が勝つと官兵衛が信じていた以上、その織田を離れて毛利に味方するとは到底思えない。


(松寿を殺してまえば、後々取り返しのつかぬことになるんとちゃうか・・・・)


 という懸念が、藤吉朗の面貌から陽気さと明朗さを消した。

 信長は他人の心の動きに鋭い。藤吉朗の肚の底を瞬時に見て取り、


「筑前、わしが下知が不服か・・・・」


 と言った。

 その目と声の冷たさが、藤吉朗の背筋を凍りつかせた。


(ここで下手に官兵衛を庇えば、わしと官兵衛が通じておると疑われかねん・・・・)


 藤吉朗は窮した。

 松寿丸は義兄弟の盟を結んで友情を誓った官兵衛の子であり、まだわずか十二歳である。当然、殺すことには倫理的な抵抗感も憐憫の情もある。

 しかし、ここで信長に逆らえば、信長は自分にまで疑いの目を向けるであろう。

 そうなれば、身の破滅である。

 沈黙を長引かせるわけにはいかなかった。


「・・・・承りましてござりまする」


 藤吉朗は大声で言い、蜘蛛のように平伏した。




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