表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王佐の才  作者: 堀井俊貴
96/105

第96話 官兵衛の謀略――三木城合戦(3)

 兵糧攻めというのは、食糧補給の道を断って敵を飢餓に追い込む城攻めの方策である。

 これは突き詰めれば、「敵城への物資の補給をいかに遮るか」という戦いであると言っていい。


 三木城に篭る別所氏にとって最も重要な補給線は、海路であった。

 加古川の河口付近に築かれた高砂城が最大の補給基地である。別所氏を支援する毛利氏や紀州の雑賀党などは、船を使って補給物資を高砂城に集積し、加古川の水路を使って三木城へと運び込んでいる。


 軍議において、


「一刻も早く高砂城を奪い、海からの糧道を断たねばなりません」


 と小寺官兵衛が指摘したのも当然で、藤吉朗や半兵衛もこれに深く頷いた。


 高砂城は、別所氏の重臣・梶原景行という男が守っている。

 梶原氏は桓武平氏の流れの名族で、元は坂東ばんどう武者である。源頼朝の側近であった梶原景時が歴史上よく知られているが、全国に広く分布する梶原氏はいずれもその末裔で、播磨・梶原氏も室町時代からこの地に根を張る歴とした地頭であり、播磨守護・赤松氏の船手を務める水軍の将であった。赤松氏が零落して後は別所氏の被官(家来)となり、これに無二の忠誠を誓っている。


「高砂城は要害ですが、これに篭りおる兵はわずか五百ばかりでござりましょう。毛利の援軍さえ来なければ、怖るるに足りません」


 と官兵衛は続けた。

 裏返せば、毛利水軍の来援だけは怖ろしいということである。

 毛利軍は上月城を落として兵を引いたが、その気になれば海路をとって安芸(広島)から一日でやって来れるのだ。


「水軍とは厄介なもんじゃな・・・・」


 小一郎はつくづくそう思う。

 神速にして神出鬼没というのが、瀬戸内海の制海権を握る毛利氏の戦略的な強みなのである。こういう相手を敵にした経験は、藤吉朗も小一郎も――おそらく半兵衛さえも――これまで持ち合わせていない。


「高砂の梶原氏にしてもそうですが、英賀の三木氏や明石の魚住氏のように海辺に城を構える連中は、瀬戸内の海賊衆を通じて毛利との繋がりが深いのです。彼らが織田に靡こうとせぬのは、要するに毛利水軍が怖ろしいからでもありましょうな」


 官兵衛が解説してくれた。


「じゃが、来るか来んかも解らんものに怯えておるわけにもいくまい。敵の糧道を虱潰しにせぬ限り、いつまで経っても三木城は枯れんのじゃ」


 藤吉朗がまばらに伸びた顎鬚をひねりながら言った。

 それはまったくその通りであろう。


 藤吉朗は、加古川河口からわずかに北――今津という入り江に軍船を配して加古川を封鎖するよう命じ、十月中旬、大塩正貞、中村一氏、木下昌利らに千余の兵を授けて高砂城攻略に派遣した。

 羽柴軍は加古川に沿って南下し、その日のうちに高砂城へ押し寄せた。


 城将・梶原景行は武勇で鳴った男である。羽柴軍の猛攻を楽々と引き受け、機を見て自ら三百の兵を率いて城を出戦し、逆にこれを追い散らすほどの奮戦を見せた。

 城方が手強しと見た羽柴軍は、火攻を使った。竹束の盾で矢弾を防ぎながら城の外郭付近に柴や薪を山のように積み上げ、これに火を放ったのである。

 火は瞬く間に燃え広がり、外郭である三の丸が炎に包まれた。凄まじい火の粉が周辺に飛び散り、近隣の集落の家屋が数百軒も燃え落ちたという。


 ところで、高砂城の外郭の海側には、これに隣接するように高砂神社がある。牛頭天王ごずてんのうを祭神とする小社で、その境内には枝ぶり見事な松の巨木がとぐろを巻いた龍のような姿で蹲っていた。

 いかにも神さびた雰囲気を漂わせるこの松は、神代の昔、素盞嗚尊スサノオノミコトが手ずから植えたという伝説があり、松そのものが牛頭天王の垂迹すいじゃくしたお姿であるとさえ謳われる神木で、天禄年間に一度焼けているから松自体は二代目なのだが、それでも樹齢六百年にもなろうかという霊松である。“相生あいおうの松”という名で呼ばれ、室町時代初頭に世阿弥がこの松をモチーフに謡曲『高砂』を作ったことで全国的にも有名になっている。地元民にとってはまさに郷土の誇りであったろう。


 羽柴軍の火攻の火の粉は当然ながらこの高砂神社をも襲い、拝殿や社殿はやがて火を発し、名高い霊松をも焼き尽くすという結果を招いた。

 神木から立ち昇った凄まじい黒煙は天を覆い尽くし、幹が爆ぜる音は雷鳴のように轟き、焼け落ちた枝々が大地を叩く響きは地鳴りのようだったという。


「ご神木を焼くとは何と無道な!」


「神敵を許すな!」


 羽柴軍の暴挙に、梶原勢の軍兵たちは怒り狂った。


 この事件が象徴するように、播州人たちにとって羽柴軍はまさに侵略軍であった。彼らの敵対意識は、突き詰めれば生まれ育った故郷を外敵から守るという素朴な郷土愛に根差している。

 ナショナリズムというのは私憤が公憤に簡単に摩り替わる性質のものだが、戦争などという狂気の集団心理と結びついた場合はことさらその傾斜が強い。「悪」の侵略者を撃砕すべしという「正義」の情念は、容易に人をヒロイックにさせ、利害損得を忘れさせ、戦意に火をつけてしまうものなのである。その感情を刺激されてしまうと、人は絶望的な戦いをさえ厭わなくなるものらしい。

 ついでながら、


(織田の軍門になど死んでも降れるか)


 という播州人たちの想いは、信長を仏敵と憎み、織田家を嫌悪する一向門徒たちの感情と匂いが極めて近い。「織田」という共通の敵を持つ彼らが連帯意識を持ち、その敵意を高め合い、集団心理を形成してゆくのは成り行きとして当然であったろう。

 三木城合戦は、「織田」対「別所」という大名同士の争いというよりは、「織田」対「一向一揆」の戦いであったと見る方がどうやら真実に近い。一向宗が非常に強い影響力を持つこの播磨においては、これは必然であったと言うべきかもしれない。


 城将・梶原景行は、羽柴軍出陣の報を受けるや、すぐに早舟で毛利氏に援軍を求めている。

 備後でこの報せを受け取った毛利輝元は、事態を重視した。


「当家に頼る者の難儀を見捨てたとなれば、今後当家へ随身する者もなくなるであろう。三木で戦う別所を援ける意味でも、これを捨て置くわけにはいかぬ」


 援軍派遣を即決し、その二日後には人馬を満載した二百余隻の軍船が播磨灘に漕ぎ着けた。


 播磨の政情を探知し抜いている毛利軍はすぐには加古川河口へは入らず、軍勢を二手に割り、一軍を高砂から西へ一キロばかり離れた伊保の浦に上陸させ、一軍はそのまま舳先を連ねて海路東進し、高砂へと進んだ。

 言うまでもないが、羽柴軍には毛利水軍に対抗できるような水軍力はない。毛利の船団は加古川河口に配置されたわずかな羽柴軍の警護船を簡単に撃破した。

 一方、陸路を取った毛利軍はさらに兵を二手に分け、一隊が干潟伝いに高砂城へと向かい、さらに一隊は戦場を北から迂回して羽柴軍の背後に回り、これを隠密裏に包囲した。


 高砂城を攻めていた羽柴軍は、不覚にも毛利軍の動きを探知できていなかったらしい。気付いた時には海上は無数の軍船によって埋め尽くされていた。

 羽柴軍は慌てて城攻めの態勢を解き、備えを立て直そうとしたが、その混乱に乗じて毛利の陸軍が東西から羽柴軍を挟撃した。海上の軍船からは大砲、大鉄砲の号砲が鳴り響き、援護射撃を受けながら無数の軍船が浜へと乗り上げ、敵前上陸を敢行する。

 毛利の大軍に包囲されたことを知った羽柴軍は、大恐慌を起こした。


 無論、高砂城の梶原景行もこの機を逃さない。

 かちん(濃紺)の直垂ひたたれ萌黄縅もえぎおどしの鎧をまとい、金覆輪きんぷくりんの鞍を置いた鹿毛かげの馬にまたがった景行は、


「ご神木を焼いた罪人どもを一人も生かすな!」


 と叫ぶや自ら五百の全軍を率いて城門を打って出、羽柴軍の中央を突き崩した。

 狼狽し切っている羽柴軍はまともに防戦さえ出来ない。


「寄手(羽柴軍)は中に取り篭められ、うろたえ廻るをここぞと切付、かしこに薙伏せ、多く海中に突込んで首を取ること限りなし」


 と『播州太平記』にあるように、まったく一方的にやられてしまったらしい。

 羽柴軍はどうにか包囲の一角を突破し、北方の今津から加古川城へと逃げ込んだが、毛利軍の追撃を受け、全軍の実に半数近くを失う大敗北を喫したのである。


 ここで、不思議なことが起こった。

 快勝を収め、勝ち鬨を上げた毛利軍は、高砂城の救援成功で事態を良しとし、三木城へ向かって羽柴本軍と決戦しようとせず、別所氏を援けようともせず、高砂城に陣取ってこれを維持することさえしないまま、軍船を廻らせて帰国してしまったのである。

 これには高砂城の軍兵たちも当惑した。

 今回はとりあえず敵を撃退したが、そう遠くない将来、再び羽柴軍が襲って来るのは間違いないのである。毛利軍に帰られてしまっては、勝った勝ったと喜んでいられるものではないであろう。


 羽柴軍の大敗を知った藤吉朗は当然驚き、また怒りもした。


「同じ過ちを二度繰り返すわけにはいかん・・・・」


 毛利水軍対策に本腰を入れることを決め、国中の船という船を掻き集め、それでもまったく足りないと見るや近隣から大工やそまを呼び集め、さらに人夫までつぎ込んでどんどんと船を建造させ、室津、砂越、網干、飾磨といった海浜に軍船を並べて封鎖し、城がない海辺には砦を築いて毛利軍の上陸を警戒する態勢を作るよう命じた。

 また、高砂城には前回に倍する兵力を即座に派遣し、これを攻めさせた。


 すでに高砂城は外郭である三の丸を焼き落とされており、防戦能力が激減している。梶原景行がいかに奮戦したところで大兵力の羽柴軍を跳ね返せるはずもなく、再び毛利氏に援軍を頼んだが二度目であるために即応してもらえなかった。

 毛利氏の側からすれば援軍を出すのもタダではなく、高砂城を攻められるたびに軍船を出して播磨へ兵を送り込んでいたのでは算盤そろばんが合わないのである。


 高砂城は結局、孤立無援のまま落ちる。

 抗戦の無駄を悟った梶原景行は、城兵の無事を条件に開城に応じた。あくまで戦い続けることを主張する梶原家の人間たちは三木城へり、自身は剃髪して世を捨ててしまったのである。降伏して織田の傘下に入る気にもなれず、さりとて毛利氏のために死んでやるのも馬鹿らしく、そうする他になかったのだろう。



 事の顛末を聞いた小一郎は、


(毛利っちゅうのは不思議な戦をする。強いのか弱いのかよう解らんな・・・・)


 などと不遜な感想を持った。


 毛利軍は戦術レベルの戦いにおいては確かに強い。兵は精強だし将の質も高く、兵力という点でも羽柴軍を大いに上回っている。しかし、戦略レベルの用兵がいかにも中途半端で、上月城にせよ高砂城にせよ、ひとつの合戦の勝利をその後の大勝に繋げようという執念とか執着とかいった部分に欠けるように思えた。


(何ゆえ毛利は我らに攻め掛かって来なんだのであろう・・・・)


 毛利軍が三木城の付近まで迫り、城を囲む羽柴軍を後巻き(逆包囲)していれば、羽柴軍はよほどの窮地に追い込まれたに違いないのである。

 そういう好機をフイにして、逃げるように帰国してしまうというのは理に合わない気がする。


 たとえば小一郎が毛利氏の立場なら、すぐさま三木城へ兵を進めるという決断をするかどうかは別にしても、とりあえず高砂城を改修補強してそこに軍を留め、播磨の陸海の拠点にしただろう。

 毛利氏は瀬戸内海の制海権を握っているから、海際の高砂城なら兵や物資をいつでも運び入れることができ、万一攻められたとしても神速で援軍を送ることができる。しかも高砂城は内陸の三木城と加古川で結ばれているから、この拠点さえ維持できれば毛利氏は別所氏と有機的な連携が取れ、三木城の補給線までが確保できるのである。


(もし毛利軍がそのまま高砂に陣取っておれば、これは一大事やったはずじゃ・・・・)


 と、小一郎は思うのである。

 毛利氏が播磨国内に橋頭堡きょうとうほを持つような事になれば、三木城包囲に掛かりきりの羽柴軍はいつ背後を脅かされるか解らず、手薄になっている周囲の織田方の小城や後方基地の書写山や姫路城などを襲われるかもしれず、さらに織田に反感を持つ勢力――神吉氏、櫛橋氏など織田に滅ぼされた豪族の残党や一向門徒など――を糾合して大兵力を作り上げることさえ出来たかもしれない。

 三木城包囲で手一杯の藤吉朗としては、数千という規模の兵力が相手となれば簡単にこれを排除することはできず、大いに困ったに違いないのである。


 その程度のことを、まさか毛利氏が解っていなかったということはないであろう。


 実は少し前にも同じようなことがあった。

 別所氏の反逆が明白となり、藤吉朗が羽柴軍を率いて三木城に最初に攻め寄せた直後のことだから半年ほど前である。上月へ向けて進軍中だった毛利氏は、別所氏を支援するために播磨東部に水軍で兵を送り、海岸線にある織田方の阿閉あべ城を攻めたのである。備前の宇喜多氏、淡路あわじの豪族、紀伊の雑賀党など、毛利と同盟する勢力が連合した数千の軍兵が軍船で播磨灘に漕ぎ寄せ、明石の浜に上陸した。

 阿閉城は別所重棟の居城で、数百ばかりの兵が守る小城である。数千もの大軍勢に攻められてはひとたまりもない。

 藤吉朗は諜者の報告で直前に敵の作戦を知ったが、織田信忠らの援軍がまだ播磨に入っていなかったから兵力がまったく不足しており、これに対して手が打てなかった。阿閉城を救援に向かえば、その背後を別所氏に襲われる公算が高く、迂闊に動けなかったのである。やむを得ず、藤吉朗は小寺官兵衛にわずか数百ばかりの兵を与え、阿閉城に急行させた。

 官兵衛は別所重棟と共に阿閉城に篭城し、毛利方の大軍を迎え撃つことになった。彼我に圧倒的な兵力差があり、絶望的な篭城戦に思えたが、官兵衛の奮戦もあって一度は敵を追い崩した。

 すると毛利軍は、わずか一日の攻防で城攻めを諦め、再び軍船に乗って去ってしまったのである。


 毛利軍の阿閉城攻めが四月一日、織田信忠らの援軍が播磨に入ったのは五月上旬――この間、実に一ヶ月以上の時間がある。しかも、あの時ならば播磨には別所系列の豪族がまだほとんど無傷の状態で残っていた。神吉氏、櫛橋氏など有力豪族はもちろん健在で、西からは毛利氏の大軍が陸路で上月へ向けて進軍中でもあり、播磨の政情がもっとも危険だった時期と言っていい。

 歴史にイフは無意味だが、もし阿閉城を攻めた毛利軍・数千がそのまま城攻めを続けていればおそらく城は落とせていたであろうし、城攻めを止めるにしても、たとえば高砂城あたりに毛利方の大兵力が留まっていたとすれば、三木にいた羽柴軍は別所軍と毛利軍の挟撃を恐れて身動きが取れなくなっていたはずだ。それどころか、毛利軍が別所系列の豪族や一向一揆勢力を糾合して大兵力を作り、三木城を囲う羽柴軍に攻め掛かっていれば、羽柴軍は絶体絶命であったに違いない。


 それほどの好機を見逃して、あの時も毛利軍はあっさりと播磨を去ったのだ。


 今回の高砂城の場合にしてもそうだし、その前の上月城の場合にしてもそうだが、毛利氏が本気で播磨を取る気なら――本気で織田と戦う気なら――撤退よりもっと効果的な選択肢はいくらでもあったはずなのである。

 小一郎でさえそう思うくらいだから、知略家として名高い毛利の小早川隆景あたりなら軍略はいくらでも思いついたであろう。

 毛利氏の動きは、そう考えれば不思議としか評しようがない。


 ある日の軍議で、小一郎は舌足らずな言葉でそのことを指摘してみた。

 即座にそれに応えたのは小寺官兵衛である。


「そもそも毛利は、天下を取るつもりで織田と争うておるわけではありますまい。織田家が大きくなり、それに飲み込まれぬために戦わざるを得なくなったというのが正直なところでしょう。本音を言えば、毛利家の領国さえ侵されぬならば、織田と手を結んでも良いとさえ思っておったやもしれません」


 つまり毛利は、播磨への領土的野心から動いているわけではない――と官兵衛は言う。


「要するに毛利は、播磨で織田の中国侵攻を阻み、出来る限り時間を稼ぎたいと思うておるだけなのです。そのために、別所や摂津の本願寺に奮戦してもらいたい。しかし一方で、備前の宇喜多の様子も怪しい。宇喜多が敵に回れば毛利の領国は剥き身になるわけで、これは一大事です。領国から大兵力を動かすわけにはいかなくなる。毛利の動きに不自然さが匂うのは、そのあたりに理由があると私は勘考します。上月に大挙して押し寄せた時のような――本国を空にするような大動員はもはや難しい。しかし、織田と戦うておる別所や本願寺を見捨てたと思われるわけにもいかない。そんなことになれば、毛利は反織田の盟主としての信を失い、これに頼る者がいなくなる。だから結局、水軍を使って兵力を小出しにするような戦になってしまうのでしょう」


 まさに立て板に水である。官兵衛はさらに言葉を継ぐ。


「毛利は、このように織田と戦い、織田と戦う者を応援しておると、世の人々に見せたいだけなのです。そのくせ、播磨に大挙乗り込んで織田と決戦するような度胸はない。せいぜい、本願寺に兵糧を運び入れるような――自らは血を流さぬ援け方しかしようとしない。不遜な言い方ながら、そんな性根の者が右府うふさま(信長)と天下を争うこと自体が誤りであると――私は思います」


 官兵衛は――自身が中国者であるにも関わらず――毛利氏への評価が辛い。播磨の諸豪が毛利に靡く中、一人で織田加担を叫び続けたほどの男だから、それも当然なのかもしれないが、もしかしたらこの男なりの天下取りの美学のようなものがあって、それが毛利氏のやり方に合致しないのかもしれない。


「半兵衛殿も、同じお考えですか?」


 小一郎が訊くと、


「そうですね。官兵衛殿の申されたことは大筋で間違ってないと思います」


 半兵衛は静かに頷き、


「毛利には毛利の事情があるということですよ。今回の事は、官兵衛殿のお働きが効いておるのでしょう」


 官兵衛に微笑を送った。


「官兵衛殿の働きというと――」


(宇喜多か――)


 小一郎はすぐに察した。

 官兵衛は、以前から熱心に備前の宇喜多直家に調略を仕掛けている。

 備前・備中・美作みまさかに勢力を持つ宇喜多氏が織田に寝返るとすれば、毛利氏はもはや播磨のことになど構っていられないだろう。毛利氏の本領は安芸だが、備後、備中といったあたりは準本国というべき地域で、織田家にとっての尾張や美濃に等しい。これが危機に晒されれば、他国の播磨あたりに拘っているわけにはいかないというのは当然だ。

 しかし――


「ですが、宇喜多直家はまだ織田についたわけではないでしょう。しかと返事を寄越さぬままと――」


 小一郎はそう聞いている。宇喜多直家は慎重で、返事を曖昧にしたままなかなか内応の確約はくれないのだという。織田と毛利を両天秤に掛け、勝つ方を見極めようとしているのだろう。


「疑心、暗鬼を生ず――と申します。宇喜多が実際に寝返るというようなことはしばらくはないでしょうが、それを知っておるのは我らのみ。毛利の側が『宇喜多はいつ寝返るかもしれぬ』との疑いを抱いておるだけで、十分に効き目は出るのですよ」


「安芸では百姓までが『宇喜多はすでに織田に通じておる』と思うておりましょう」


 と、官兵衛がしたり顔で言った。

 どうやらそういう風評を流させているらしい。

 中国地方の人間なら誰もが宇喜多直家という男の腹黒い性情を知り抜いている。いつ裏切っても不思議でない男だけに、「やはりそうか」と思うだけかもしれない。また、この噂は外堀を埋める効果もある。宇喜多直家にしても、そういう噂がまことしやかに囁かれていると知れば、自分が毛利氏から疑われていることを察し、戻ろうにも戻れぬようになるだろう。


「宇喜多直家殿といえば、こういう話がある」


 すでにお聞き及びかもしれませんが――と言いながら半兵衛は続けた。


「先の上月城の戦――宇喜多殿は、病気と称してご自身は出張って来なかったでしょう? おそらく宇喜多殿は、上様が織田家の主力を率いて上月に来援し、織田と毛利の決戦となり、結果、織田が勝つ――と見ておったのだと思います。しかし、実際は、我らは上月を捨て、戦は毛利が勝った。目算が外れた宇喜多殿は、慌てたでしょうね。再び毛利に礼を尽くさねばならなくなった・・・・」


 宇喜多直家は、上月城合戦が終わるや、病は小康を得たとして上月までのこのこ出て来、毛利軍の戦勝を寿ぎ、祝宴を張って戦陣の苦労をねぎらいたいから、帰路に自分の城(岡山城)へ寄ってくれと、毛利の両川(吉川元春・小早川隆景)を招いたのだという。


「ところが、『宇喜多殿は両川を暗殺し、その首を手土産に織田に寝返る腹である』というような風評が立った――」


 その話を再び官兵衛が受けた。


「毒を盛るのは宇喜多直家お得意の謀略ですからな。それを聞いてしまえば、いかに毛利の両川とて寝覚めが悪い。吉川元春殿は美作みまさかから山陰へと、小早川隆景殿は播磨から船で備後へと、わざわざ備前を避け、逃げるように帰国したということです」


「噂の出元を私は知りませんが――」


 半兵衛は意味ありげな微笑のまま官兵衛をわずかに見た。


「いずれ火のないところに煙を立てた者があったのでしょうね」


 官兵衛はその視線を静かに受け流している。


 疑心暗鬼――

 なるほど、そういうことか――と小一郎は感心したが、冷静になって考えればちょっと怖い話でもある。

 この離間策――もう謀略と呼ぶべきであろう――が官兵衛の仕業であるとするなら、官兵衛や半兵衛のような人間を敵に回せば、誰を信じてよいやら解らなくなりそうではないか・・・・。


「すると――毛利はもう播磨には出て来れない、ということになるのでしょうか? 毛利は別所を見捨てると?」


 備前の宇喜多を疑うなら、毛利は播磨に大軍を送ることはできまい。


「それなら我らは楽ですが――そう上手くはいかないでしょうね。毛利にとって別所や本願寺は、まさに盾なのです。盾がなくなれば、我が身で織田の攻めを受けねばならなくなる。そうならぬために、打てる限りの手を打って来るはずです。毛利は何といっても中国十ヶ国を切り靡かせた西国の雄――侮っていい相手ではありません」


 安易な楽観を諌めるように、半兵衛がぴしゃりと言った。


 その毛利氏は、驚天動地の巻き返し策を持っていた。

 半兵衛さえ予想だにしなかったその策は、この数日後に現実となって現れる。


 荒木村重が、毛利氏に通じて織田家に叛いたのである。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ