第95話 水徹と如水――三木城合戦(2)
羽柴軍は、三木盆地の周辺の山々にそれぞれ布陣し、三木城を緩やかに包囲する態勢を築いている。
戦略は、兵糧攻めである。
三木城の周囲に陣城を築き、敵の補給線を断ち、別所軍を城内に封殺したまま兵糧が尽きるまで気長に待つ。三木城はいわば野天の巨大な監獄であり、羽柴軍はその牢番となるわけである。羽柴軍は荒木村重の加勢を加えても一万二、三千に過ぎず、八千もの兵が篭る三木城を力攻めで落とすのはまず不可能だから、これ以外の戦略は取りようがなかった。
藤吉朗は、三木城から北東へ半里離れた平井山に本陣を置いた。小高い平井山は包囲陣を見渡せる格好の位置にある。
小一郎は平井山から峰続きの与呂木山に陣を据えた。
簡単な陣地や付け城は播磨を去った織田信忠らが築いていってくれたが、これを長期の滞陣と敵の攻撃に耐えうる本格的な陣城に作り変えねばならない。羽柴軍の軍兵と人夫たちは、そのための普請に連日汗を流している。特に平井山の本陣は、半兵衛が新たに縄張りをし直し、空堀を掘り、曲輪を切り、土塁を築き、櫓を建て、砦どころか城と呼んで差し支えないほどの本格的な改修が加えられることになった。
包囲されている別所軍の動きは、さほど活発でなかった。
三木城を使った防戦に徹するのが別所軍の方針であり、戦陣が長期化することは毛利の援軍を待つ戦略の別所氏にとってむしろ有り難かったであろう。無論、この間、毛利氏に使者を送り、あらためて毛利方につくことを誓約し、播磨への援軍派兵を懇請している。
連日どこかで小競り合いは行われているものの、包囲陣の構築に忙しい羽柴軍が三木城に積極攻勢を加えるということがないために、三木城合戦の序盤は驚くほどの静けさの中で日が過ぎてゆき、気付けば秋もよほど深まっていた。
ちょうどこの頃、藤吉朗は小寺官兵衛と義兄弟の契りを結んでいる。
播磨を完全に織田の領国化するにはまだ多くの課題が残っているが、別所氏を三木城に封じ込めたことで、平定作業はまず一段落したと見ていい。
別所系列の小豪族を平らげることで新たに十万石以上の領地が羽柴家の物になったこともあり、藤吉朗は奪った領地の経営に手を付け始めると同時に、この期に家臣団の再編成を行い、この一、二年の間に溜まった家士の軍功を整理した。
その際、藤吉朗が頭を痛めたのは、官兵衛の働きに対する褒賞であった。
こと播州の経略において、官兵衛がいかに大きな役割を果たしてきたかというのは、今さら言うまでもないであろう。その人脈を利用して織田軍の播磨入りの下工作することはもちろん、藤吉朗が播磨に入った後も諸勢力との橋渡しをし、自ら汗をかいて調略を請け負い、あるいは福原城攻め、上月城攻めで顕著な軍功を挙げるなど、その功績はいちいち列挙できないほどなのだが、官兵衛がどれほど功績を積んでも、羽柴家の家来でないために藤吉朗は禄をもってこれに酬いることができなかったのである。
官兵衛は――これほど献身しているにも関わらず――羽柴家からも織田家からも一反半畝の土地さえ褒美として貰っていない。
藤吉朗の立場から官兵衛に報土を与えるには、小寺氏当主の小寺政職にまずそれを与え、官兵衛に下賜してもらうという手続きを取るしかない。武士にとっては俸禄を与えてくれる者こそが「主君」であり、いかに藤吉朗が「信長の代官」であっても、小寺政職の許可なく勝手に官兵衛に土地を与えるわけにはいかないし、官兵衛の側もそれを受け取るわけにはいかないのである。
だから藤吉朗は、これまで官兵衛に馬や太刀といった物品を与えることでお茶を濁して来たが、そういう物品は「後日の加増を約束する」といった意味があり、これをいつまでも放っておくことはできかねた。
肝心の小寺政職は、藤吉朗が播磨に入った昨年の十月以来、一度も挨拶にさえ出向いて来ず、軍事的にも織田家にほとんど協力しようとしていない。確かに官兵衛は小寺氏を背負った代表者ではあったが、実質は己の手兵のみを率いて単独で動いているような状態で、小寺家はまるで官兵衛を無視しているかのような按配であった。
(いかに官兵衛の主君とはいえ、わしが信長さまの代官として播磨におる以上、それなりの会釈がなければならん。そんなことは当たり前ではないか・・・・)
という不満と憤りが藤吉朗には常にあり、小寺政職に褒美を出すような気にはとてもなれないし、出そうにも出向いても来ない者にはそもそも与えようがないのだが、しかし、官兵衛の真摯で勤勉な働きに対して何か酬いてやりたいという気持ちを抱いていることも事実で、この矛盾を解消するには官兵衛個人に対して報土に代わる格別な処遇を与えるしか手がなかったのである。
藤吉朗は、官兵衛を自らの義弟にすることで、いかに自分が官兵衛を大事に想い、その働きに感謝しているかを示したと言っていい。
しかしこのことは、官兵衛を好まぬ者たちにとっては面白くなかったであろう。
主君の傍近くに仕える者、主君の寵が格別に厚い者というのは、どれほど身を高潔に保とうとも人から必ず嫉視され、悪感情を持たれ、その足を引っ張られるものである。古今の多くの実例を引くまでもなく、藤吉朗が播磨にやって来てからというもの、そういう人間たちのドロドロした感情を、官兵衛はイヤというほどその身に受け、痛感させられていた。
同郷の播州人たちは、別所氏とその傘下の豪族たちを滅ぼすために官兵衛が織田を播磨に招き入れ、多くの播州人に塗炭の苦しみをもたらしたかのごとくに陰口している。また、主家である小寺家の者たちは、官兵衛が小寺を捨てて羽柴の家来になったというように白眼視している。これだけ尽くしている羽柴家の人々でさえ、新参者のくせに藤吉朗に格別に寵されている官兵衛を必ずしも快く思っていない。
官兵衛のこれまでの行動をいちいち悪意をもって解釈すれば、自己の栄達のために播州を織田に売った裏切り者であり、いち早く主家を見限って織田家に投じた不忠者であり、織田家の中国征伐に乗じて一旗上げようとする山師ということになろう。
そうでなくとも官兵衛は策士と評されるほどよく知恵の回る男であり、智謀と奸謀は紙一重であるだけに誤解を受けやすいのである。アクの強いしたたかな野心家――という風に解釈されるのはむしろ当然であったかもしれず、いわゆる佞臣・奸臣の類に見られてしまうのも無理ない部分はあった。
どれだけ誠実に働いてもそれが正当に評価されず、どれほど私心を捨てて尽くしても欲心から動いているように周囲に邪推されてしまう――それがこの時期の官兵衛の苦悩であったろう。
(誰も自分を理解してくれない)
という不遇感ほど人間を腐らせるものはないが、官兵衛が辛うじてそこに陥らずに済んでいたのは、藤吉朗という良き理解者が常に官兵衛を励ましていたからに違いない。
人の本質を見抜くことに鋭い藤吉朗は、自分に極めて似た匂いを持つ官兵衛という人間の誠実さ、その人の良さを誰よりも理解していたし、たとえば人材好きな信長が藤吉朗の才気を愛したのと同じ意味で、藤吉朗も官兵衛の器量と奇才とを愛し切っていた。だからこそ「お前のことは我が弟・小一郎同然に思っている」などといった手紙を書いたり、今回、新たに義兄弟の契りを結んだりもしたのである。
その藤吉朗の信頼に、官兵衛は全霊で応えたいと思っている。
官兵衛の日常は忙しい。
常に藤吉朗の傍らに侍して軍議に明け暮れ、平井山の築城を手伝い、あるいは三木城の敵の様子を偵察し、その周囲の味方の防御陣を見て廻り、ある時は御着の小寺本家に連絡に戻ったり、ある時は宇喜多氏調略のために備前へ潜行したりと、まさに腰の落ち着く暇もなく駆け回っていた。
が、余暇がまったくないわけではなく、たとえば夜、飯を食うような時は、よく半兵衛と話をした。
官兵衛が見るところ、半兵衛の健康状態はあまり良いとは言えない。夏風邪を長く引きずってでもいるのか顔色が冴えず、食欲もあまりないようである。わずかな食事の後は、決まって薬湯を不味そうに飲んでいる。
官兵衛は、半兵衛の恬淡とした風姿が好きであった。
この痩せた軍略家は、おそらく自分以上の策士であり、自分以上に藤吉朗に密着していながら、佞臣・奸臣からはもっとも遠く、毀誉褒貶の「毀」と「貶」とは不思議なほど無縁である。それは半兵衛の無欲さを人々がよく知っているからかもしれないし、その人柄の涼やかさのお陰であるかもしれないが、いずれにしても半兵衛は、謀臣としてほとんど理想的なポジションと人物像を築き上げている。
(この仁にあやかりたいものだ・・・・)
と、官兵衛は常々思っていた。
半兵衛の方も、官兵衛に好意を持ってくれているらしい。羽柴家にも小寺家にも義理を欠けない官兵衛の苦しい立場をよく察してくれ、
「足下の事について色々と取り沙汰する者もあると聞き及びますが、お気になさることはない。筑前殿もよう解ってくれておりますよ」
などと励ましてくれたりした。
官兵衛にとって半兵衛は、朋輩というより敬愛する友人というに近かった。
さて――
羽柴軍の本陣である平井山の西山麓に平岩村という集落がある。
戸数にして十数軒の小さな山村だが、今は住民はいない。村人たちは戦火を怖れて三木城へと避難したらしく家財道具どころか鋤鍬や種籾さえすべて持ち去られていたが、それでも屋根のある家屋は有益である。羽柴軍はこの村を接収し、屋敷は将校の宿舎に当て、畑を潰すなどして平地を広げ、兵舎用の長屋なども建てた。
平井山では曲輪の造成工事と共に本丸の殿舎や二の丸の兵舎の普請が進められている。それが一応の完成を見るまでの二ヶ月ほどの間、半兵衛はこの村の鎮守の社を宿舎とし、十数人の郎党と共に起居していた。
昼間すれ違いになって半兵衛と顔を合わす機会がなかった日の夜など、官兵衛はたびたびその宿舎を訪ねた。
別段、所用があってのことではない。自分の宿舎へ帰る道すがらであったし、官兵衛が半兵衛ほどの男と話せば、世間話や雑談がそのまま有益な政情分析になり、あるいは戦略論議にもなるのである。
半兵衛は、拝殿に家来たちを寝泊りさせ、社務所(土間続きの一間しかない粗末な掘っ立て小屋である)を自分の個室として使っている。気を利かせた家来が頻繁に蚊遣火を焚いているのだろう――社務所はいつ行っても松か何かを燻した残り香が匂っていた。
天正六年(1578)九月某日のその夜も、そうした経緯で官兵衛は平岩村の鎮守の社を訪れ、一刻(二時間)ばかり半兵衛と話し込んだ。
話題は、宇喜多氏の調略をいかに進めるべきか、といったところから始まったのだが、いつの間にか唐土の兵法書の解釈へと転がり、果ては官兵衛が信仰する伴天連(キリスト教)の教義にまで取りとめもなく広がった。
官兵衛にしてみれば、半兵衛ほど話し甲斐のある相手はない。半兵衛は同世代でありながら自分に匹敵する知性と教養を持ち、しかも話している方が心地よくなるほどの聞き上手なのである。対話は達人同士の舞のように呼吸が合い、気付いた時には時間が矢のように過ぎてしまっている。
夜もだいぶ更けた頃、
「そうそう、足下は筑前殿の義弟となられたそうですね」
ふと思い出したという風情で半兵衛がまた話題を変えた。
半兵衛が藤吉朗のことを「殿」と呼ばず「筑前殿」と呼ぶのは、官兵衛が羽柴家の家臣ではないからである。
「おめでとうございました」
半兵衛は笑顔でそれを寿いでくれた。
「すでにお聞き及びでしたか」
官兵衛は少し照れたように頭を掻いた。
「私なぞには分不相応なお話とは思いましたが――」
「いやいや、筑前殿はそれだけ足下の器量を買うておられるのですよ」
官兵衛は懐から大き目の守り袋のようなものを取り出し、それを頭上に捧げた。
「この誓紙は、私の宝です」
藤吉朗と兄弟の契りを誓った神文である。官兵衛はそれを小さく畳んで守り袋に入れ、常に肌身離さず携帯していた。
官兵衛はすでに主君の小寺政職から半ば捨てられたようになっている。その官兵衛にとって、藤吉朗は己の価値をもっとも高く評価してくれる最大の理解者であり、この世で唯一の庇護者であり、その意味で官兵衛の新たな主君とも言える存在なのだが、しかし、一方で官兵衛は未だ歴とした小寺家の臣であるという現実があり、藤吉朗の家来というわけではない。
つまり官兵衛という存在は、社会的には立場が極めて曖昧で、根無し草のように不安定なのである。
官兵衛にしてみれば、藤吉朗と兄弟になることを誓ったこの神文は、己の立ち位置を示す唯一の拠り所と言えなくもない。
「誓紙を持ち歩いておられるのか・・・・」
官兵衛の仕草を眺めていた半兵衛は、わずかに表情を曇らせている。
「拝見させてもらってもよろしいか?」
「どうぞ――」
官兵衛は守り袋から油紙の包みを取り出し、それを開き、畳まれた熊野誓紙の神文を差し出した。
誓紙を受け取った半兵衛は、それを開いてゆっくりと目を通し、読み終えると無言のまま四つに畳んだ。
そして――驚いたことに――それをおもむろに二つに裂いたのである。
「!?」
呆気に取られる官兵衛の目の前で、半兵衛は破った誓紙に傍らの灯明から火を移し、十分に火を大きくしてからそれを囲炉裏の灰の中に放り込んだ。
「なんということをなさる!」
いかに敬愛する半兵衛の行為とはいえ、官兵衛にとればこれは暴挙以外の何ものでもない。忘我の衝撃が去ると怒りが勃然と沸き上がり、顔面がみるみる紅潮し、唇がわなわなと震えた。
「は、半兵衛殿、これはどうした理由でござるか。返答次第によっては、いかに半兵衛殿とて許せるものではありませんぞ・・・・!」
半兵衛は無言である。
燃えてゆく誓紙を感情の篭らない瞳で静かに眺め、それがすべて灰になると、顔を上げて官兵衛を見た。
「あのようなものは、ない方が御身のためです」
「何を申される! これは半兵衛殿のお言葉とも思えぬ――!」
官兵衛は早口でまくし立てた。
「口約束は消えても、書き付けがあればこそ証拠は末代までも残る。それを――!」
半兵衛は手を上げ、官兵衛の興奮を制した。
「そういうお考えでおることが、身を誤る元だと申し上げています」
「・・・・?」
官兵衛は大きく息を吐いて無理やり怒気を収め、上げかけた腰を下ろすと、話を聴く姿勢を取った。
「筑前殿が、その約定を交わした時のお気持ちを後々まで変えぬとするなら、あのような書き付けはそもそも不要。しかし、もし筑前殿がどこかでお気持ちを変えたとすれば、あの紙切れは官兵衛殿にとっても小寺家にとっても災いの種にしかならない――」
世に存在させておいてもプラスはなく、ただマイナスだけがある、と半兵衛は言うのである。
官兵衛は一を聞いて十を知ることが出来るような男で、誰よりも頭の回転が早い。半兵衛の短い言葉で、その言わんとするところをすべて領解した。
藤吉朗は、遠からず播州の王となり、中国征伐を無事に終えた暁には数ヶ国を統べる大大名へと出世するであろう。官兵衛は今でこそ藤吉朗にとってかけがえのない男だが、たとえば中国の経略が終わった頃にはその利用価値は大いに減じているに違いない。そういう将来、藤吉朗が官兵衛を義弟にするという誓いを忘れてしまったとしても、官兵衛の立場からはこれをどうすることもできないのである。そのことに腹を立てれば藤吉朗に対して不満も生じるであろうし、畏れながらと古い証文を振りかざして出たところで気持ちを変えてしまった藤吉朗は不快に思うだけで、かえって官兵衛に悪意を持つようなことになりかねない。約束だ誓いだと言ったところで、官兵衛の側からは藤吉朗を縛ることはできないのだ。
まして、官兵衛本人が生きてあるうちなら兎も角、官兵衛の死後、その子や孫がその誓紙を受け継いだとすればどうなるであろう。自分の父祖が藤吉朗とこれほど親密であったと知れば、自然、小寺家の主家となっているであろう羽柴家に対して驕りも生じ、頭も高くなるに違いない。半兵衛の言う通りで、やはり災いの種にしかならないということになる。
そこまで思い至った時、官兵衛の怒気は水を掛けたように消えていた。
「筑前殿が足下を自分の弟のように思うてくださるという、そのお気持ちとお志だけを頂戴しておけば、それで十分ではありませんか」
灯明のやわらかい光を半顔に受け、半兵衛は微笑のままそう言った。
「足るということを知らねば、我らのような者はいずれ必ず身を滅ぼします。ご自戒なさるがよろしかろうと――老婆心ですが・・・・」
「我らのような者・・・・」
官兵衛は惚けたような顔で、その頭脳を猛烈に回転させていた。
教養人でもある官兵衛は、謀臣と呼ばれる存在がいかに危ういものであるかを知っている。たとえば官兵衛が暗記するほど読んだ『三略』という中国の兵法書に「高鳥死して良弓蔵われ、敵国滅びて謀臣亡ぶ」という言葉があるが、「事が成ってしまえば、それまで役に立っていたものも必要なくなる」という冷徹な方程式は、古今東西を問わず人類の歴史に共通するひとつの真理であろう。
そういうことを官兵衛は知識として知ってはいたが、自分の実感として解っていたかと言われれば怪しい。韜晦よりも自らの才能を表現することを求め、謙譲よりも自らの才能に相応しい評価を得ることを求めてしまう感情を、官兵衛自身、抑えかねていたからである。
おそらくはその部分こそが官兵衛と半兵衛の決定的な差異であり、それがそのまま周囲の人々が両者に抱く印象の差へと繋がるのであろう。それは官兵衛の若さのせいであったかもしれず、あるいは半兵衛の方が老熟していた――あるいは枯れていた――と見るべきかもしれないが、もしかしたら官兵衛の横溢な生命力に対して、半兵衛のそれが甚だ微弱であるといったところに起因するのかもしれない。
いずれにしても――
(つまり半兵衛殿は足りておるわけか・・・・)
官兵衛はあらためて半兵衛を見た。
功を誇らず財を貪らず――むしろそれを避けるようにして――常に現状に満足して不満を一切漏らさず、ただ淡々と誠実に職務を遂行し続けて来た結果として今の半兵衛の評価があり、人々の信頼があるのだとすれば、半兵衛のようになることが、官兵衛のような人間にとって己の身を守る唯一の方策と言えるのではないか――
(いや、真実、半兵衛殿が足りておるかどうかは問題ではない。半兵衛殿は足りておると、周りが思うておること――裏返せば、周りがそう思うように半兵衛殿が仕向けてきたということでもある・・・・)
それがそもそもの半兵衛の人柄なのか、あるいは深謀遠慮の結果であるのか――それは官兵衛にも解らないが、どちらでも良いのかもしれないし、あるいはそれは同じことであるかもしれない。
そこで官兵衛は、不思議なほど清浄な心持ちでいる自分に気が付いた。
自分の裡で、何かが、収まるべきところにストンと落ち着いたような感覚だった。
「・・・・半兵衛殿は、これまでどうされたのですか、その・・・・たとえば頂いた書状などは・・・・?」
官兵衛が尋ねると、半兵衛は微笑のまま答えた。
「筑前殿から頂いたものにせよ安土なる上様からのものにせよ、書状、書き付けの類は、後日どうしても必要になる物を除き、そのつどすべて燃やしています」
「なるほど・・・・」
半兵衛は、自分に伝えようとしてくれたのだ――と、官兵衛は悟った。
官兵衛の「宝」を無断で破り、燃やすという一見乱暴な半兵衛のあの行為は、禅僧が至らぬ弟子を警策で叩くことと同じであったのだろう。
禅僧は、制裁でも処罰でもなく、ただ伝えるために叩く。
そうすることでしか伝えられない心を伝えるために――
上手く言葉で表現できない感情が、官兵衛の胸を満たしている。それは感謝であり尊敬であり敬愛であったが、それだけではない。喩えるならわざと悪戯をした生徒が大好きな教師に叱ってもらった時のような――ほろ苦さやむず痒さや嬉しさや気恥ずかしさを伴っていた。
「ご教示、身に沁みました」
官兵衛は居住まいを正し、あらためて半兵衛に頭を下げた。
「私なぞは、まだとても半兵衛殿の心事には到りません。足るどころか、常に目先の小事に囚われ、煩悩に腸を焼かれておるようなものです。どうすれば半兵衛殿のように恬淡にして澄明な心を持ち続けることができるのか・・・・」
「私とて凡人です。官兵衛殿が言われるほど悟った人間ではない」
半兵衛は苦笑してわずかに首を振った。
「あぁ、悟るといえば――この中国陣が終われば、世俗を離れて出家でもし、どこぞ日当たりの良い山裾にでも閑居して日を送りたいと思うておるのですよ。まだ当分は先のことですが――」
「世を捨てる、と――?」
官兵衛は目だけで驚いた。
「毛利の事さえ済めば、織田家の天下はもはや動きますまい。四国、九州、関東、東北と、上様に靡いておらぬ者はまだ残ってはおりますが、いったん峠さえ越えてしまえば、あとは下り坂のみにて、転がるに任せておるだけで天下布武は成りましょう」
その時には自分が藤吉朗のために果たすべき役割は終わっているはずだ――という意味のことを半兵衛は言った。
「情けない話ですが――私は生来多病でどうにも身体が弱いですから、どの道そう長う生きられるとは思えません。残りの生を、花鳥に戯れ風月を友とし、気ままに暮らすのも悪くないと思いましてね」
「それで出家を――」
「もう号も考えてあります」
語っている半兵衛の表情はどこか楽しげですらある。
「水徹――と付けてみました。水に徹すると書く」
「水のような心に徹する、と・・・・」
「水とは不思議なものだと思われませんか――」
詠うように言った。
「水は、それを容れる器により様々にその形状を変えますが、水そのものには些かの変わりもない。静かな水面は鏡のようにものを映し、斬ることも砕くこともできず、どこまでも滑らかでしなやかでありながら、滴となって落ち続ければ石に穴を穿ち、濁流となって流れれば地を削り岩をも砕く。常に高きから低きへと動くことを止めず、何ものにも囚われない。それを無理に矯めぬ限り、濁ることも澱むこともない――」
「水――ですか・・・・」
「心も、常にそのようでなければならぬと――そう思います」
「水徹――」
官兵衛は口の中で何度もそれを呟いた。
後年、官兵衛は自ら「如水円清」と号し、黒田如水の名で有名になる。
一般に、この号の由来は、「水は方円の器にしたがう(荀子)」、「身は褒貶毀誉の間にあるといえども、心は水のごとく清し」という中国の古語によったものとされている。
ただ、筆者はここで少しだけ想像の翼を広げたい。
如水――水のように
この「水」とは、半兵衛のことではなかったかと思うのである。




