第94話 三木城合戦(1)
信長の撤退命令を受け、織田軍が上月から兵を引いたことはすでに触れた。
最後尾で撤退した羽柴軍も書写山を経て加古川へと向かい、織田信忠の軍団に合流を果たした。
集結した織田軍は、総勢七万にも及ぼうかという大軍団である。この瞬間から藤吉朗が持っていた中国管領――つまり「中国筋における総大将」という職権と機能が消失し、指揮権が信長の嫡男である信忠に移っているのだが、ともあれこの人馬の群れが、播磨国内で織田家に敵対する別所氏とその党類が篭る小城を虱潰しに潰し始めた。
最初の標的は、信長の指示通り神吉城である。
織田軍は、六月二十七日に城を囲んだ。
ところで、この神吉城攻めに関して、藤吉朗は城攻めの主力から外されたような気配がある。ひとつには高倉山からの撤退戦で羽柴軍の兵たちが疲弊しており、すぐさま連戦できなかったということもあったろうが、藤吉朗の下風に立つことを嫌う諸将がそれを口実に働き場を与えなかったのかもしれない。
上月で面目を失い、さらに播磨の軍事指揮権さえ失った藤吉朗は、この時期、どん底の気分であったろう。とびきり陽気な男ではあっても、そこは藤吉朗も人間である。落ち込みもすれば腐ることだってある。
「羽柴家の兵は、しばらく但馬を固めることに使えば如何ですか」
半兵衛が、藤吉朗を励ますようにそう提案した。
「これほどの大軍が、半年、一年と播磨に居続けるわけには参りますまい。安土なる上様もそのようなおつもりはないはずです。遠からずお歴々は播磨から去り、肝心の三木城攻めは殿に任されることになりましょう。それまでは焦らずでしゃばらず、お歴々の顔を立ててやりなさればよい」
「三木城攻めにこそ、わしの出番があると・・・・?」
「別所がいかに手強き相手かは殿が誰よりもようご存じのはず。たとえこの全軍で攻めても、三木城はそう易々と落とせるものではありません。戦は必ず気長な長陣になりましょう」
「じゃが、わしは播磨でしくじりばかりを重ねておるでなぁ。上様はわしを見限り、新たに別の者を毛利攻めの大将にするかもしれん・・・・」
藤吉朗は若干自信を失いかけている。
「物事を悪い方に考えるとは殿らしゅうもない」
そういう主君に対し、半兵衛はいつものように微笑した。
「殿は懈怠なく懸命に励まれてきたではありませんか。殿が思われておる以上に、上様は殿の働きをよう見ておられます。殿を措いて、何者に毛利討伐が成しえましょう」
「そうか・・・・。うん。そうじゃな・・・・」
ここで藤吉朗が腐れば腐るほど、己の評価を下げることになるであろう。その程度のことは、藤吉朗は言われるまでもなく解っている。
過去を振り返ってグズグズと思い悩むよりも、心機一転、また蒔き直せば良い。それ以外に道はないのだ。
「よし。ならば先に但馬を取るか!」
上月に入って以来、渋い顔ばかりしていた藤吉朗に、ようやく生気が戻った。
「小一郎、お前に五千の兵を預けるで、今すぐ但馬へ行け。あっちの将右衛門や善祥坊らの兵と合わせれば八千やそこらにはなろう。その武威で豪族どもを脅しつけ、人質を取ってこい。織田に従わぬ者には容赦はいらん。攻め潰してまえ」
鼻息荒く小一郎にそう命じた。
『信長公記』では「羽柴筑前守は但馬国へ出動した」とある。しかし、「羽柴筑前守」の名は神吉城攻めの他の史料に頻出しているし、地元の伝承でも城攻めに采配を振るったことになっている。
織田家の武将で播磨の情勢や地理にもっとも明るいのは藤吉朗である。播磨にもわずかながら織田方の豪族はおり、それらの直接の上司もやはり藤吉朗であったし、織田軍の兵站を考えた場合、後方基地の書写山や姫路城の兵糧や軍需物資を握っているのも藤吉朗であった。これが陣中に不在というのでは信忠らも何かと不便であろうから、常識的に考えて藤吉朗とその幕僚は播磨に残ったとしておきたい。
藤吉朗の手回りに三千だけを残し、小一郎は五千の羽柴勢を率いてすぐさま但馬へと赴いた。
但馬に帰って竹田城に入れば、小一郎は「四万石の大名」である。留守の間に溜まった内政、財政などの案件を片付ける傍ら、出石郡、気多郡などの豪族たちに使者を送って脅しつけ、人質を取り纏めた。
また、東隣・丹波の攻略を続ける明智軍を支援するために、山を越えて丹波へ兵を派し、西丹波の豪族・赤井氏を攻めたりしている。明智光秀が播磨へ援軍してくれたことへの返礼の意味で、藤吉朗からそれをするよう命じられていたのであろう。
小一郎は寝る間も惜しむように懸命に働いたが、二ヶ月もせぬうちに再び播磨に呼び戻されてしまったから、但馬平定は思うようには進まなかった。
さて――
神吉城というのは加古川から北へ二里ほどの山間にある。
平城ながら、小豪族が住む田舎の小城とは侮れない。神吉の集落全域を囲む総構え(外囲い)を持つ規模の大きな城郭で、中の丸・東の丸・西の丸・二の丸という四つの曲輪を持ち、『信長公記』の記述を信じるなら本丸に当たる中の丸には天守閣のようなものまで建っていたらしい。これは我々が想像するような白亜の天守ではなく、おそらく本丸殿舎が三階建て程度の高さがあったというだけのことであろうと推察するが、ともあれこの立派な城に、神吉頼定を大将として別所氏からの加勢も加えた二千余の兵が篭っていた。
神吉頼定という男については史料が少ないが、『別所長治記』や『播州太平記』などを見ると戦場において鬼神のような活躍ぶりが書かれている。そういう書かれ方をするほどの元気者であり、武勇で鳴った男でもあったらしい。
頼定の妻は小寺官兵衛の娘であったとする説があるのだが、官兵衛の年齢と結婚した時期から考えると、実の娘とするにはちょっと無理がある。神吉氏と小寺氏の繋がりを深めるために、官兵衛が養女を頼定の側室として縁付けるというようなことがあったのかもしれない。いずれにしても火のないところに煙は立たないわけで、頼定は官兵衛とは昵懇であったのだろうし、これを舅にしてもおかしくない年齢でもあったのだろう。『播州太平記』に「年の頃二十七、八」とあることもあり、二十代後半の青年武将であったということにしておきたい。
織田軍は神吉城を十重二十重に包囲し、城の東方から北方にかけては攻城軍の主力がとぐろを巻くように陣を敷いた。
攻撃が始まったのは二十七日の午後である。信長の三男・神戸信孝を先鋒に、織田軍は怒涛のごとく城に攻め寄せ、その日のうちに総構えを破り、集落を焼き払い、敵を城内へと押し込めた。
が、城兵たちは奮戦し、激しく抵抗したらしい。矢弾の猛射で織田軍も相当の被害を受け、平押しでは城門を破れなかった。
「城中に弓鉄砲の手だれ多く有りければ、手負い死人、数多射出されける程に――」
と『甫庵・信長記』にある。
卯の花縅の鎧をつけた神吉頼定は、大手の城門に迫る織田軍を高櫓の上から見下ろし、
「見よや! 我こそはこの城の主、村上(天皇)二十八代の後胤・神吉 民部太輔 頼定なり! 此度の合戦、快く討ち死にして羽林(=中将)信忠に城を渡さん! はや近う寄って攻められよ!」
と鎌倉時代の武者のような大見得を切り、爪紅の扇を開いてヒラヒラと敵を招いた。
一騎討ちで名乗りを上げるというならともかく、合戦の前に「やぁやぁ我こそは――」などといった口上を叫ぶ者は織田軍には皆無である。播磨という地域がいかに時代遅れの気分の中にあったかが解るであろう。
この挑発に、まだ二十歳という若さの神戸信孝は激怒した。信孝の下知が飛び、織田軍は再び城門へと殺到した。
神吉頼定は櫓から飛び降り、白鞍を置いた鹿毛の馬にゆらりと打ち跨ると、家中から選りすぐった九十六人の屈強の武者を率いて大手から打って出た。「主君を討たせてなるか」と、城内からも多くの武者が駆け出した。神吉勢は城門に迫りつつあった千余の織田の軍兵の中に飛び込み、三百余人を討ったという。味方も百数十人が討たれたため、頼定はいったん城内に帰ったが、飯を食って一息入れると、今度は徒歩で城門に攻め寄る織田軍の中に踊り入り、重代の菊一文字を電光のごとく振り回して斬りまくり、敵兵を片っ端から薙ぎ捨て薙ぎ捨て、これに向かう者は一人も命がなかった――というから恐れ入らざるを得ない。
寄せ手はついに戦意を失い、「風に木の葉の散るごとく」逃げ去ったという。
これは『播州太平記』の記述だが、この神吉城攻めについては、筆者の知る限りあらゆる史料の中で同書がもっとも詳しい。読み本らしく、脚色も加えて実にドラマチックに描かれている。
ついでながら『播州太平記』は、『別所記』を下敷きにして書かれた軍記物語とされ、播州一円で古くから読み継がれてきたものと推定されているが、作者も製作年代も不明である。神吉頼定の超人ぶりや神吉家中の勇者たちの奮戦ぶりを読むと、これを書いたのはあるいは神吉氏に所縁の人間かもしれないと思ったりする。
ともあれ、織田軍が相当の血を流したことは事実であったらしい。
総大将の信忠は、
「このような小城のために良き武者多く討たせるは然るべからず。仕寄りを付け、井楼を挙げ、金掘りどもに城壁を掘り崩させて攻めよ」
と諸将に命じ、無理攻めを諦めた。
「仕寄りを付ける」とは、城攻めの足場を築く、くらいの意味である。
織田軍は竹束の盾を作って矢弾を防ぎつつ人夫を使って城壁の手前に土塁を高々と積み上げ、土砂や竹、木材などを放り込んで城の堀を埋めた。また城の周囲に無数の櫓や井楼を組み上げ、城内を見下ろすようにして鉄砲を撃ちかけ、矢を射かけ、矢弾を雨のごとく降らせた。さらに大砲や火箭をつるべ打ちに城内に撃ち込み、城の櫓を破壊するなどして敵の抵抗力を削ぎに削いだ。
「これが織田の城攻めか・・・・」
と、城内の人々は呆然としたであろう。
播州人が慣れ親しんだ合戦というのは、双方せいぜい数百、多くとも二、三千の軍兵が己の武技と勇気を競って争うもので、「やぁやぁ我こそは――」の時代から意識はそう変わっていない。織田軍のこの圧倒的な物量作戦、人海戦術は、彼らにとって想像もできないものであったに違いない。播磨においてこれほどの大軍が城を攻めたという例は――先の上月城合戦をのぞけば――かつて赤松円心が新田義貞の大軍・六万を白旗城で支えたという建武二年(1335)以来のことであり、つまり二百年以上昔の伝承の中にしかなく、しかもその当時は大砲や大鉄砲はもちろん、火縄銃さえなかったのである。
ところで、神吉城のすぐ北方には櫛橋氏の志方城がある。
神吉氏と櫛橋氏は縁戚であり、共に別所氏の一門衆の扱いを受ける有力豪族でもあり、良好な関係であったらしい。
兵力が豊かな織田軍は、櫛橋氏が神吉城を後詰めできないよう信長の次男・北畠信雄と明智光秀をして志方城を抑えさせ、毛利氏の援軍がやって来た場合に備えて神吉城の西方の山に丹羽長秀を陣取らせ、さらに信長の甥・織田信澄に兵を預けて高砂の海浜に配置し、砦を築かせ、高砂城の梶原氏を抑えると共に毛利氏が水軍を使って上陸することを警戒した。
櫛橋氏は神吉氏への義理から援兵を出したが、人数といえば数百が限界である。当然だが、この兵たちは織田軍の反撃に逢ってほとんど全滅したらしい。これを知った別所氏は出戦することを怖れたのか三木城から動かず、上月城を落とした毛利軍も播磨から去ったため、神吉城は孤立無援となった。
織田軍は丹羽長秀らの軍兵をも前線に投入し、連日連夜、神吉城を攻めあげた。
神吉頼定はその武勇をもって攻める織田の軍兵を何度か切り崩し、追い崩した。城兵も実に勇猛に戦い、寡兵よく敵を防いだが、織田軍の圧倒的な兵力の前には焼け石に水の観がある。援軍のあてもなくなったため、頼定もさすがに抗戦の無駄を悟り、城兵の無事を条件に降伏・開城を打診した。
信忠が安土にこれを問い合わせたところ、信長は、「神吉頼定だけは必ず殺せ」と命じたらしい。「城主の切腹によって城兵を助命する」などといった通例がないこの時代の常識で言えば、「降伏を認めない」という意味になろう。信長にとれば織田 対 別所の合戦としてこの神吉城の戦いがいわば緒戦であり、緒戦はあえて厳しく攻めて織田の怖ろしさを宣伝するという方針であったのかもしれないし、武勇抜群の神吉頼定を生かして逃れさせ、三木城に入られてしまえば後々厄介だと考えたのかもしれない。
いずれにしても信忠はこの命に従い、神吉氏の降伏を認めず城攻めを続けた。
やがて、前途を悲観した城内から裏切り者が出た。神吉藤太夫という男である。頼定の伯父に当たる人物で、神吉城の西の丸を守備していたところから「西の丸殿」などとも呼ばれていたらしい。
藤太夫と懇意にしていた荒木村重が、これを調略した。信長から摂津を与えられていた村重は、藤吉朗が播磨の申し次になる以前にその役を勤めていたという関係上、播磨の豪族の当主やその家老とは親しかったのである。
七月十五日の夜半、藤太夫は荒木勢を西の丸に引き入れ、これが落城の決定的な契機となった。味方の裏切りで城内は大混乱し、この混乱に乗じて織田軍は全軍で城に夜討ちを掛け、丹羽長秀、滝川一益らが東の丸を陥落させた。
神吉城の落城は、翌十六日である。
神吉頼定は最期まで戦って闘死したらしい。これを討ち取った者の名は伝わっていないから、名もない雑兵であったのかもしれず、あるいは首を持ち帰れなかったのかもしれない。『播州太平記』では裏切った神吉藤太夫が主君の首を掻いたことになっているが、これは創作であろう。
中の丸(本丸)の天守は、火矢によって焼け落ちた。城兵は大半が討ち死にし、あるいは焼死したという。
偉大な父の言葉に忠実な信忠は、寝返った神吉藤太夫をも許さず、これを刑殺するよう命じた。
しかし、藤太夫を調略した荒木村重はこれに頑強に反対した。
「かの者は拙者の言葉を信じ、降って来たのです。神吉城の落城の契機を作った大功もあり、本領を安堵した上、恩賞を与えるというのが筋でありましょう。これを殺すなぞは、織田の不実を天下に喧伝するようなもの」
信忠は冷笑した。
「己の主を裏切るような不忠者を生かしておくことが、世のためになるか」
「でもござりましょうが、藤太夫を殺したのでは、拙者はかの者を騙したことになり、武士としての面目が立ちませぬ!」
村重は藤太夫とは昵懇であり、これを殺すのに忍びなかったのだろう。
「余に何の報せもなく調略などを使い、かの者を寝返らせたは、そちの出すぎではないか。己の都合を余に押し付けるのか」
信忠は不快げに言った。
このとき信忠と村重の間に感情的な軋轢が生じ、敵に過剰なまでの情けを掛けようとする村重に対して諸将も違和感を持ったらしい。このことが、この三ヵ月後に起こる村重の謀反の遠因のひとつになったとする説さえある。
村重と共に西の丸攻撃に当たっていた佐久間信盛が、見かねて助け舟を出した。
「まぁまぁ、ただ殺すというのは芸がありませぬで、せっかく捕らえたを幸い、かの者を志方の城に送り、開城の使者と致せば如何でござろうかな。志方が開城に応じれば、無駄な血も流さずに済み、城攻めの日数を掛けずとも済む。かの者は志方の衆とは縁続きにして昵懇、我らの城攻めの怖ろしさをよう知る生き証人でもありまするし、使者とするにうってつけでござりまするよ。もし無事に城を開いた時は、その功をもって命を助けてやればよろしゅうござろう」
結局、この佐久間信盛の案が採用されることになった。
織田軍は全軍をもって志方城を囲み、圧倒的な武威を見せ付けた上で、藤太夫を城へと送った。
開城の条件は、「城を明け渡すならば城内の者の命ばかりは助ける。何処へとも去れ」というもので、本領安堵どころか所領の一切を召し上げるという過酷さであった。
当然ながら、城主・櫛橋伊定も最初は開城を拒否した。
しかし、櫛橋氏は先に神吉城に援軍を出し、これが皆殺しにされてしまったためにすでに兵の主力を失っていた。しかも志方城は土地柄が悪く低湿地にあり、季節が真夏であったこともあって城を包囲されて日が経つうちに城内の衛生状態が悪化し、疫病が発生してしまったらしい。城内の士気はすっかり低下し、篭城どころの騒ぎではなくなったのである。
やがて櫛橋伊定は諦めて条件を飲み、開城に応じた。
櫛橋家の人々は播磨北部へと逃れ、多くの者が武士を辞めて帰農したという。あるいはそれを潔しとせず、武士として別所氏の三木城へと赴き、篭城に加わった者も少なくなかったであろう。
ついでながら小寺官兵衛の妻は櫛橋氏の娘であり、城主・櫛橋伊定の妹である。官兵衛は義兄とその一族の悲運に同情し、伊定とその家族を迎え入れ、信長の許可を得てこれを給養した。後に官兵衛は小寺氏から離れ、黒田官兵衛として藤吉朗の家来となり、累進して大名となるが、櫛橋氏の一族は黒田家の客分として厚遇されたという。
神吉城、志方城という別所氏の最有力の支城を潰した織田軍は、さらに衣笠範景の端谷城を力攻めで攻め落とした。衣笠範景は寡兵で城を守ることを諦め、数百の兵を率いて打って出て戦い、さんざんの奮戦の後に見事な討ち死にを遂げたという。
ともあれ、これで別所方の西方と南方の防衛線は壊滅した。本拠の三木城は剥き身になったと言ってよく、織田軍はこれを囲み、周囲に付け城や砦を築いて城を長期包囲する態勢を敷いた。
ここで、織田信忠は陣を藤吉朗に任せ、全軍を播磨から引き上げさせている。
(たとえ十万の兵で攻めても別所の退治には相応の時間が掛かる。今はともかく播磨を鎮めておいて、別所の相手は猿めに気長にやらせる)
というのが、信長の当初からの戦略であったのだろう。
毛利氏が上月城を囮として織田軍をおびき寄せたように、三木城を包囲してこれを囮とし、毛利軍を呼び寄せるという目論見もそこに入っていたかもしれない。
『信長公記』によると、信忠が五万数千の軍勢を引き連れて安土に凱旋したのは八月十七日である。
播磨の三木城包囲陣には、藤吉朗と荒木村重だけが残された。
この時から、足掛け五百日にもわたる三木城合戦が始まることになる。