第93話 上月城の残照(3)
織田軍が去った後の上月城の話をしておくべきであろう。
毛利軍・五万の猛攻を、尼子党はまさに死兵となって支えた。城の外郭を奪われ、水の手も失い、食料さえほとんど底を尽いていたにも関わらず、さらに三日、五日と城を保ち続けた。
毛利軍の首脳たちは、尼子党の粘り強い抗戦に辟易したらしい。尼子の残党にはこれまでさんざん手を焼かされているから、二度と再起ができぬよう尼子の血統をこの地で絶っておくのは当然としても、こんな小城を落とすためにさらに多くの死傷者を出すというのでは計算が合わない。
ついには停戦し、降伏・開城を迫る使者を出した。
「このあたりで、お互い無駄な血を流すのを止めませぬか」
と使者は言う。
尼子側を代表してこれと面談したのは立原源太兵衛と山中鹿之介である。
「我らが主・勝久とその御子の助命をさえお約束くださるならば、城を開くこと、わしが家中を説得してみせる」
と源太兵衛は言った。
開城の条件として、主君・尼子勝久の助命は、尼子党の側が譲れない一線である。
「そもそも尼子家再興を目指した此度の挙兵は、我ら家臣が勝手に企てたもの。勝久親子に咎はなく、責はこれを担いだ我らにある。無駄な血を流さぬためというなら、家中代表としてわしと鹿之介が切腹つかまつるゆえ、他の者の罪は不問にしていただけぬか」
「お覚悟はいかにもご立派ですが――」
使者は無慈悲に首を振った。
「立原殿、山中殿のご両人は、その身柄を毛利家にお預け頂きたいというのが我が主・輝元のご内意でござる」
「なに・・・・?」
源太兵衛と鹿之介は不審げに眉根を寄せた。
(首謀者の我らには切腹さえ許さず、磔にでも掛けて見せしめにするつもりか・・・・)
使者もその表情を察したらしい。
「いやいや、誤解をされては困る。我が殿は、ご両人の武勇、その人柄、これまでのお働きなどを高く買うておられましてな。いずれも殺すには惜しい人傑ゆえ、切腹するを認めず、まずその身柄をお預かりし、日をおいて後、新たなる身の振り方をお考え頂きたいと申しておるのです」
つまるところ、心を変えさせ、臣従させたい、ということであるらしい。
「ご両人の話は別として――」
使者は居住まいを正し、あらためて二人を見た。
「尼子勝久並びにその兄弟は自裁(自殺)すべきこと。勝久嫡子・豊若丸は殺害すべきこと。さらに家中の代表の者・三名の首を差し出すべきこと――この三つがこちらの条件でござる。さすれば、他の篭城の将士とその家族の者は赦免し、城から自由に退散するを許すというのが、我が殿のご意向――」
「馬鹿な! それでは話にならん!」
鹿之介が叫んだ。
そもそも城兵たちは城主の命を守るということを究極の目的に篭城しているわけで、城主の切腹を開城の条件に入れられてしまえば交渉の余地がないのである。
後世に生きる我々は、城主の切腹をもって戦争を終結させ、城兵を助命するというのが終戦のスタンダードな形式のように思いがちだが、この時代の常識においてはそうではない。たとえば信長が美濃攻略を目指して稲葉山城を攻め、これを開城させた時、城主の斉藤竜興と城兵たちは助命され、織田に臣従するを潔しとしない者は城を自由に立ち退くことを許されているし、そもそも十年前に出雲の月山富田城が開城し、尼子家が滅亡した時でさえ、毛利氏は城兵を助命することはもちろん、城主の尼子義久とその兄弟の一命を救っている。いま尼子義久は安芸(広島県)で幽閉生活を送っているわけだが、その例に倣うなら、勝敗のケジメとして家中の重臣が腹を切るのは当然としても、尼子勝久親子は助命されねばならないであろう。
城を開かせておいてから約束を破り、城主を捕らえて殺した戦国大名の例は確かにいくらでもある。たとえば信長などは美濃の岩村城を開城させたとき、城を出た武田の将兵・数百人をだまし討ちで皆殺しにし、城主の秋山信友を捕らえて“逆さ磔”に処すという戦国の常識さえ逸脱した悪辣な所業をやっているが、こういう事はあくまで終戦後の謀略であって、降伏・開城の条件とは分けて考えるべきであろう。
城側が開城に応じるのは、城主の命と城兵やその家族の命が保証されればこそであり、そうでなければ無抵抗に開城する意味がない。攻める側がこれを保証しないならば、城側は最期まで徹底抗戦するほか選択肢はなく、その場合、城主が腹を切るのは落城の瞬間となり、城兵やその家族たちは抵抗して殺されるか、捕らえられて奴隷の境涯に落ちるか、いずれかということになる。それがこの時代の常識であり、降伏・開城には城主や城兵の無事を条件とするのがむしろ当然なのである。
ついでながら、城主の切腹をもって終戦のケジメとし、城兵やその家族を放免するという形式は、この上月城合戦から始まったように思える。無駄に人を殺すことを嫌う藤吉朗がこれを好んで採用し、三木城合戦、鳥取城合戦、高松城合戦などを通じて行ったがために世間に広く認知され、一般にも用いられるようになっていったのであろう。このために藤吉朗――豊臣秀吉は「人を殺さぬ武将」として知られるようになり、敵対した大名たちも安心して豊臣家に恭順するようになり、秀吉の天下統一の素早さの種のひとつになるのだが、いずれにしてもこの形式は、上月城合戦の以前はほとんど行われていない。
「主のために家臣が死ぬというなら解るが、家臣のために主が腹を切るなどという話は古来聞いたこともない。そのような恥知らずの条件、我らが飲めると思うておるのか!」
と鹿之介が憤慨したのも当然であった。
しかし、毛利氏の側とすれば、尼子党に二度と再起させぬために尼子の血を引く者をここで抹殺しておくことは絶対条件であり、他はともかくこの点だけは譲れない。尼子党の側がこれを飲めないというなら、城内の人間を一人残らず殺すつもりであったに違いない。
「拙者は主の意向を伝えに参ったまでにて、そう怒鳴られても迷惑でござる。飲む飲まぬはそちら様のご自由。よくよくお考えになってご返答あれ」
使者は、明日の昼に返事をもらいに来ると言い残して去った。
話を聞いた尼子党の重臣たちは、鹿之介と同じように憤慨した。
「主のみを死なせ、我ら家臣が生き残るなぞ、忠義の道にもとる! そんな恥知らずな真似ができようか!」
「こうなればいっそ潔く一戦し、我ら一同共に死のうぞ!」
が、主君の勝久の反応だけが他と違っていた。
「私が腹切れば、皆を生かすと申したのか・・・・」
呟くように言い、腕を組んで考え込んだ。
「・・・・殿、何をお考えに――?」
「毛利の申し条を飲み、私が腹を切って皆を救うことは、尼子の名を汚すことになろうか・・・・?」
こういう落城の形式は先例がなく、つまりこれまでの武士の常識にはないから、勝久は判断に迷った。
武士は見栄によって立つ生き物である。己の死をいかに意義深いものにし、その死をいかに美しく飾るかということは最大の関心事と言ってよく、ことに勝久にはその想いが強い。武士として育てられなかったこの若者にすれば、たとえば死に際に醜態を晒し、「あれはしょせん坊主よ」といった世の誹りを受けることだけは絶対に耐えられないのである。
(家名を辱めぬ武士らしく誇り高き死を――)
というのがこの若者の望みであり、進退が極まったこの土壇場では他に存念もない。
いま、自己犠牲によって家臣たちを救うという美しい道を、毛利の側がつけてくれようとしている。憎き敵の提案ではあるが、これに乗ることは、果たして恥になるであろうか。うかとこれに乗ったがために、後世の嘲笑を浴びるようなことにならないか――
「返答は明日の昼までであったな。今夜一晩、考えさせてくれぬか」
と勝久は言い、その場は重臣たちを散会させた。
その夜、鹿之介は勝久の私室に呼ばれた。
「肴は味噌しかないが、酒はまだ少しばかり残っておる。共に飲まんか」
薄暗い灯明の火の中で、勝久が穏やかに笑っていた。
向かい合う形で座が作られ、折敷に酒器が揃えられている。
「せっかくのご厚意。さればご相伴に預からせて頂きまする」
鹿之介は恐縮しつつ席につき、勝久自らの酌で盃に酒を受けた。
互いに一献かたむけ、さらに返杯し、座にしばしの沈黙が訪れた。
「・・・・あれから色々と考えた。室(妻)とも話し合うたが、毛利の申し条、私は飲もうと思う」
不意に勝久がそう言った。
「殿・・・・!」
「まだ幼い豊若丸には哀れだが――我ら親子の命で数百の家臣の命に代えることができるなら、むしろ安いと思うのだ。ただ、武門の名を汚したと後世の嘲笑を受け、尼子家累代の御霊に恥をかかせることだけはできぬ。それだけが私の気懸かりであるのたが――鹿之介はどう思う。忌憚のないところを聞かせてくれ。私が腹を切り、城を開くことは、恥ずべきことであろうか? これは毛利の謀であろうか?」
「・・・・解りませぬ。このような話は聞いたこともなく、それをした者もおらぬと思いますので、何とも・・・・」
「私が最初か。嘲い話となるか美談となるか――いずれにせよ後世に名を残すことにはなるな・・・・」
勝久は自嘲するように笑った。
「ただ、殿に殿の選ぶ道がございますように、我ら家臣にもそれぞれに忠義の道というものがございます。主のみを死なせ、家臣が生き残るという順逆は、必ず後世の嘲りを受けましょう。これは私なぞには耐え難い恥辱。私と想いを同じうする者も少なくないと思われまする。まして私と叔父上は、毛利の申し条を飲むならば、殿を殺した憎き敵の虜囚とならねばならず、これほどの屈辱はありませぬ」
「そうであったな。私は死ねば終わりだが、お前や源太兵衛には、あるいは死よりも辛い道を歩ませることになるのやもしれん・・・・」
この城で死ぬか、毛利の虜囚となって生きるか――どちらが辛い道であるのかは鹿之介にも解らない。ただ、どちらかを選べと言われれば、鹿之介は迷わず死の方を選ぶ。それだけは断言できた。
「ここで最後の一戦をして生涯を飾り、皆うち揃うて立派な死に華を咲かすのが武門の誉れではあろう。そうではあろうが、私を信じ、私のために挺身してきてくれた者たちには何の咎もない。生かす道があるにも関わらずこれを皆殺しにしてしまうは、あまりに忍びない。それに城内には女・子供も数多おる。これらが首刎ねられるはやはり不憫じゃ。見とうはない」
勝久は盃に満たした乳白色の酒を一息に仰いだ。
「そのような事に思い煩うは、私の心が弱いせいかもしれんな。どうも私はそういう生まれつきであるらしい・・・・」
(このお方は武士となるには優しすぎたのだ)
と鹿之介は思う。
(そういう殿を、我らの身勝手で武士の世界に引きずり込んだ・・・・)
これは、尼子家再興を願った鹿之介らの罪であろう。
いま勝久は、武士として、己の命で数百の家臣の命を購おうと意を決している。武士には己の死に様を決める権利があり、この権利だけは、他の何人も犯すべきものではないであろう。
(ならば、殿を担いだ者として、私は黙ってこれに従わねばならぬのではないか・・・・)
鹿之介はしばらく悲痛な表情で黙考していたが、
「殿のお気持ちはよう解りました・・・・」
と力なく言い、酒器の乗った折敷を脇によけて深々と土下座した。
「世俗を離れ、お静かにお暮らしあった殿をこの修羅の巷に引き出し、さんざんのご苦労をお掛け申した挙句、お命までを縮め参らせるような仕儀となり、お詫びの申し上げようもございませぬ。この鹿之介の力が足りなんだばかりに――」
「よいのだ。私はむしろお前に感謝している・・・・」
勝久は鹿之介の肩に手を掛け、その顔を上げさせた。
「十年前の私は、まさに門前の小僧であったな。我が身に流れる尼子の血のことを知ったとしても、お前に巡り会うことがなければ、そのまま京で名もない雲水として世を終えていたであろう。その私が、武士としてこうして一城の主となっている。神仏の導きというが――人の縁とは玄妙なものだ・・・・」
若者は遠い目をした。
「お前ほどの男に主君と仰がれ、尼子家再興の旗をかざして自ら陣頭に立ち、あの強大な毛利を相手に一度は父祖の墓のある出雲まで兵を進めた。武士として――男としてこれに過ぎる本懐はあるまい。あの世では父祖によい土産話ができるであろう」
「殿・・・・」
「事の成否は時の運である。尼子家再興の夢が潰えるは、ひとえにこの私の武運の拙さゆえ――もとよりお前の罪などではなく、今は誰を恨む気持ちもない。心残りがあるとすれば、これまで私のために身命を捨てて奉公してくれた皆々に、ついに酬いてやることができなかったことだが――我が首をもって皆々の命が救えるとなれば、いくらかは恩を掛けたことにもなろう」
勝久はすでに覚悟を固めているらしい。その表情は澄み切っていた。
「お前をついに敗軍の将で終わらせてしまったことにも、私は詫びねばならん気持ちがある。お前に十分の兵を与え、存分に働かせてみたかった。たとえあの吉川元春が相手でも、こちらに互角の兵さえあれば、お前は引けを取らなかったと私は信じている」
その言葉を聞いて、鹿之介の両目から涙が溢れ出した。
「もったいない・・・・。もったいないお言葉を・・・・」
必死で声をこらえ、肩を震わせて鹿之介は嗚咽した。
それを見た勝久は、
「天下第一の勇士が涙なぞ見せるな」
と、からかうように言った。
「私は立派に腹を切り、家名を辱めまい。私の我侭で、お前と源太兵衛は毛利へ往かねばならぬことになる。お前にとっては意に染まぬ結末であろうが――こらえてくれぬか。遺恨を忘れ、生をまっとうして欲しいと私は思っている」
「いえ。毛利に身を預けるとも、心まで変じはしませぬ。憎き毛利の家臣になるなぞ、私には考えられませぬ。いずれ殿の後を追いますので、三途の川のあちら側にてしばしお待ち頂きとうございます。敵の懐に入るを幸い、私は今度こそ吉川元春めをこの手で殺す」
毛利領の山陰側を支配する吉川元春は、出雲で、伯耆で、因幡で、常に尼子党の前に立ちはだかり、御家再興の夢を阻んだ憎むべき怨敵である。尼子残党軍はあの男のために何度も敗戦の苦汁を味わい、どれほどの血を流してきたか解らない。
「彼奴を殺さぬ限り、私の戦は終わりませぬ」
何かに誓うように、鹿之介はそう断言した。
尼子家再興の道が閉ざされた以上、そうでもしなければ死んでいった者たちの無念を晴らすすべがないであろう。
「そうか・・・・」
勝久はひとつため息をつき、頷いた。
「止めはすまい。無事本懐を遂げんことを、あちらから見ておることにしよう」
「以前に捕らえられた時もその覚悟でありましたが、ついに機会を得ませんでした。此度は焦らずにじっくりと好機を待ち、いつの日か必ず――!」
勝久は酒器を取り、もう一度鹿之介に注いでやった。
これが、この主従が水入らずで酌む最後の酒となった。
上月城の落城の日時は諸説あってはっきりしない。『播州太平記』では六月二十九日となっているが、七月三日という説や、同五日、あるいは六日だったとする説もあり、実際のところよく解らない。心情的には一日でも長く城を保ったと見てやりたいから、この物語では七月六日説を採ることにしたい。
尼子党の重臣で最年長であった神西元通という老人が、この数日前の七月二日に腹を切っている。
「どうかこの一命をもって主の命に代えてもらいたい」
という意味を込めた自殺であったと言い、尼子党の重臣たちが勝久助命のために話し合った結果であったとも言うが、いずれにしてもこの男なりの忠義の道であったのだろう。
毛利氏の側は当然ながらこの願いを聞き届けることはなく、開城の条件に変更は認められなかった。
尼子勝久の自刃は、七月五日である。
毛利方の検視を城に迎え、家臣たちと最期の盃を交わした後、勝久はまず可愛い盛りの我が子を自らの手で刺し殺し、作法通り己が腹に刃を突き立て、介錯の太刀によって首を落とされた。
辞世として、
都渡劃断す千差の道 南北東西本郷に達す
という偈を誦したとされている。本人のものか後世の創作かは判然としないが、この凄惨な光景を尼子党の人々がどういう想いで眺めていたのかは察するに余りある。
勝久には血縁として義兄(氏久)と実弟(通久)があったらしい。尼子党が勝久を主君に奉戴して京で挙兵した後、彼らはそれぞれこれに合流していたのだが、この二人も勝久に続いて見事に自裁して果てた。さらに主君とその兄弟の介錯をした池田久親が腹を切り、この池田を介錯した加藤彦四郎は自ら首の頚動脈を切って死んだ。
先に切腹した神西元通を含め、都合七名の首が毛利軍の陣屋に運ばれ、首脳陣の実検に供された。
城兵たちは、悲しみに暮れながら自刃した者たちの血を拭い、その首のない遺体を埋葬し、城を掃き清めるなどの作業を終えた後、翌六日に城を明け渡した。
毛利軍は開城の約定を遵守し、城の受け渡しは新たな血を流すことなく無事行われた。
尼子党の者たちは、ある者は故郷の身寄りを頼り、ある者は京を目指し、あるいは羽柴軍に合流するなど思い思いの方角を目指してそれぞれ落ちていった。
山中鹿之介や立原源太兵衛の妻子も、無事に命を永らえている。
「康子」という名が伝わる尼子勝久の妻は、家臣に守られて京へ行き、仏門に入ったという。勝久には毛利側に知られていない次男があったとする説があり、このとき乳飲み子であったともいうが、真偽は解らない。いずれにしても尼子の姓を継ぐ者が武士として歴史の表舞台に上ることはこれ以後なかったから、この日をもって尼子残党軍は消滅したと言うべきであろう。
上月城を受け取った毛利軍は、あらためて勝ち鬨を上げ、合戦の勝利を宣言した。その場で城を元の持ち主である宇喜多氏に返還し、数日後には播磨から兵を引き上げている。
半兵衛が予期したように、やはり播磨深くまで侵攻するような意図はなかったものらしい。
鹿之介と源太兵衛は、開城の条件に従って毛利軍に身柄を拘束された。
この二人の処遇については、毛利軍首脳の中でも意見が割れていたらしい。当主の毛利輝元は、この両人の――ことに話に聞く鹿之介の武勇と数々の武功に対して若者らしい憧憬にも似た敬意を抱いており、これと直に面談し、できれば臣従させることを望んでいたようである。一方、長年にわたって尼子残党軍に煮え湯を飲まされた続けた吉川元春は、両人の処刑を頑強に主張したという。
「私情で申しておるのではない。山中にせよ立原にせよ、心変わりなぞするはずがないのだ。以前に捕らえた時もそうだったではないか。命を永らえさせれば機を見て必ずまた脱走し、再び我らの敵として現れるぞ」
「しかし、両人との面談は輝元殿たっての御所望。そのお言葉を聞き流しにするわけにも参りますまい」
「それはそうだが・・・・」
実弟の小早川隆景に諭され、吉川元春も渋々これを認めざるを得なかった。
二人は毛利輝元が待つ備中の松山城に護送されることになった。
鹿之介の数々の武勇譚は中国地方に響きわたっており、毛利家の武将たちもこれに敵味方を越えた敬意を抱いていたらしい。鹿之介は護送される土地土地の豪族たちから酒食の接待を受け、手厚く持て成されている。
それに油断をしたわけでもなかっただろうが、松山城のすぐ手前――高梁川の阿井の渡しで鹿之介は暗殺される。川幅広い高梁川には橋がなく、渡し舟でこれを渡らねばならなかったから、鹿之介とその従者を切り離すのに都合が良かったのだろう。
『中国兵乱記』によれば、毛利の衛兵と共に真っ先に川を渡った鹿之介は、後続を運ぶために舟が往復するのを眺めながら待っていた。その鹿之介の背後から、川の土手に隠れていた十名ほどの討ち手が殺到した。鹿之介は気配を察し、とっさに身を庇ったが、太刀を防ごうとした右腕に深手を負ってしまった。篭手をつけていれば受け流せもしたであろうが、護送中の鹿之介は当然ながら平装で、具足を付けていなかったのである。それでも鹿之介は左手で太刀を抜いて戦い、武装した討ち手を三人まで斬り殺し、四人に怪我を負わせたという。さすがと言うべきだが、やがて失血のために動きが鈍り、最後は三人がかりで組み伏せられ、首を取られた。
山中鹿之介――享年三十四。
自ら七難八苦を月に祈念したというこの男の生涯は、こうして無念のうちに終焉を迎えることになった。
この暗殺は、吉川元春の指示であったと言い、護送の任についた家臣の独断であったとも将軍・足利義昭がそれを命じたとも言うが、むろん真相は解らない。
一方、立原源太兵衛は――篭城による心労と栄養不足で身体が衰えていたのであろう――病を発して病床にあり、護送を延期されていたために命を永らえた。鹿之介が殺されたことを知った源太兵衛は身の危険を察し、牢を破って脱走し、京へと逃れ、事の顛末を信長に訴えた。
その後、源太兵衛は武士を辞めている。信長からも藤吉朗からも仕官の誘いがあったに違いないが、それらを頑なに固辞して僧体となり、勝久や鹿之介、命を落とした尼子遺臣たちの菩提を弔いながら諸国を放浪したという。どういう心境であったかは察するほかないが、鹿之介の死ですべての希望を失ってしまったのかとも思える。
戦国乱世の辛酸と苦汁を味わい尽くしたこの男は、信長よりも藤吉朗よりも長生きし、何と「大阪の陣」の前年まで生き続け、慶長十八年(1613)に八十二歳で鬼籍に入った。
人間五十年と言われた時代である。大往生とすべきであろう。