第91話 上月城の残照(1)
織田の援軍が続々と上月に来着したことは、上月城に篭った尼子党を狂喜させた。
「やがて信長公ご自身がさらに数万の大軍を引き連れ、やって来てくださるであろう。皆々、この篭城、もはや勝ったも同然ぞ!」
山中鹿之介は力強くそう断言し、城兵たちを鼓舞した。
が、その喜びも長くは続かなかった。
後詰めに来たはずの織田軍は高倉山とその周囲に陣取ったまま動かず、待てど暮らせど毛利軍に合戦を挑もうとしないのである。小競り合いはさかんに行われているらしく、連日のように銃声が遠く聞こえるのだが、山上の織田本軍が動くような気配は見られない。
「この期に及んで織田は高みの見物か・・・!」
「なにゆえ羽柴殿は我らを救いに来てくれんのじゃ・・・・!」
城兵たちは日ごと夜ごと、半里先の高倉山を睨みながら怨嗟するように呟いた。
上月城を包囲する毛利軍は、兵気が緩まない程度に城攻めを仕掛けて来る。血を流すつもりはないようで、白兵突撃で寄せて来ることはほとんどなかったが、間断なく浴びせかけられる矢と銃弾、南蛮から買い入れたらしい大砲による砲撃が、城兵たちの命と士気を日に日に削り取っていった。
それでも尼子の将兵たちは実に健気に城を支え続けていたのだが、五月が過ぎ、六月にもなると、さすがに多くの者が、
(織田はこのまま我らを捨て殺しにするつもりではないのか・・・・)
と考えるようになった。
城兵たちは、文字通り血の滴るような想いで救援を待ち続けているのである。頼りの織田軍が肉眼で見えているだけに、これほど残酷な篭城もなかったであろう。
「いま少しの辛抱じゃ。信長公が上月に参られれば戦局は動く。それまで辛抱しさえすれば、我らは必ず勝つ!」
鹿之介の言葉はそれでも常に陽気だった。それが、ともすれば暗澹と沈みがちになる城兵たちの心をどれほど励ましたか解らない。
鹿之介は他人に対して思いやりの深い性質で、城内の兵糧が欠乏し始めて以来、吸い物のように薄い雑炊を日に一度口にするほかはほとんど食事らしい食事を取っていなかった。その肌からはすでに艶が失せ、頬の辺りのやつれも目立っていたが、それでもこの男の瞳の輝きとその意気とは少しも衰えない。
よほど武将に適した男であったと言うべきであろう。
「鹿之介――」
一日、防戦の指揮を終え、本丸の殿舎に戻った鹿之介に、具足姿の壮年の武士が歩み寄って来た。
「あぁ、これは叔父上・・・・」
立原 源太兵衛 久綱という男である。鹿之介の母の弟であり、早くに父親を亡くした鹿之介にとっては父と兄を兼ねたような存在と言っていい。
「織田は今日も動かぬか・・・・」
「はい。未だ・・・・」
挨拶代わりのこのやり取りを、二人は何度繰り返したか解らない。
立原氏は尼子家譜代の老臣で、この源太兵衛は特に文武に優れ、かつては主君・尼子義久の参謀役をも務めていたらしい。尼子家が毛利氏によって滅ぼされた時、二千貫(約一万五千石)という大名並みの高禄をもって招かれたが、それを言下に断って野に下り、以来、鹿之介と共に尼子遺臣たちの中核となって主家再興に奔走している。尼子党の軍事面の代表が鹿之介であるとすれば、源太兵衛は政治・外交面の代表であったと言ってよく、たとえば各地に散らばる尼子遺臣を有機的に連携させたのも、信長に拝謁して尼子党への援助を取り付けたのもこの男の働きだった。ちなみに人間を見抜くことに鋭い信長は、面談した源太兵衛に好意を抱いたようで、「人物、振る舞いともに実に立派で、好漢である」と評している。このとき四十六歳。
重いため息をひとつついて、源太兵衛はすぐ話題を変えた。
「こちらは良き報せがある。実は、干物が出てきての」
「ほう・・・・」
源太兵衛の話によると、大砲の砲撃によって破壊された本丸の殿舎の土壁の中から、イカやイワシ、アジなどの干物が大量に見つかったのだという。慌てて周囲の土壁を掘らせてみたところ、竹小舞(竹と縄などで作られた土壁の土台部)の間に数千枚の干物がみっしりと挟み込まれていたらしい。
「さすがに上月氏は赤松氏に繋がる古き武門の家柄じゃな。不測の事態に備え、この城を建てる時にあらかじめ壁に塗り込んでおいたのであろう。これで我らの露命も数日伸びた」
源太兵衛は嬉しそうに言った。
上月城の兵糧は、それほど窮乏の度を深くしていた。今は一日分の米を三日に分けて使っているが、それもそう長くは保たないであろう。食料の不足を補うために、城兵たちはまず馬を潰し、それが尽きると鼠や蛇、虫などを捕らえては食い、草や木の皮まで食って飢えに耐えている。それから考えれば城兵一人あたり十枚ほどの干物は焼け石に水の観があるが、それでも朗報であるには違いない。
「探せば他にもまだ出てくるかもしれませんな」
「うむ。城内の壁という壁、屋根裏、床下などを調べさせておる」
二人はそのまま連れ立って暗い廊下を渡り、本丸の大広間へと移動した。
鯨油の灯明に照らされた薄暗い広間には、主君・尼子勝久を上座に、神西元通、川副常重、米原綱寛、牛尾幸信といった尼子党の主立つ重臣が顔を揃えていた。
尼子勝久は、少年のような黒く大きな瞳と白い陶器のような肌を持つ清げな若者である。
京で僧となっていたこの青年が、山中鹿之介、立原源太兵衛らに見出されて尼子党の主君に擁立されたのは、十五の時であった。以来十年、出雲で、伯耆で、因幡で、様々な艱難辛苦を舐めながら毛利氏と戦い続けている。
「織田は相変わらず動かぬか」
着座した二人に向け、勝久はそう声を掛けた。この第一声も、毎日の決まり文句のようになっている。
「は。未だ・・・・」
鹿之介は両手をつき、辛そうに応えた。
「鹿之介、どうなっておるのだ。我らはいつまで辛抱すればよい」
「高倉山へ出した密使はいずれも帰って来ん。繋ぎが取れねば織田の様子も解らんわ」
「我らは筑前殿に謀られたのではないのか・・・・」
不満を口にする重臣たちのどの顔にも疲労と焦燥の色が濃い。
「よせよせ――」
源太兵衛がそれらを制した。
「今さら鹿之介に文句を言うたとてどうにもなるまい。愚痴は男を下げるだけじゃぞ」
「我らは何も鹿之介を責めておるわけではないわ」
重臣たちは赤面し、一人が吐き捨てるようにそう弁解した。
藤吉朗が尼子党に上月城の守備をしてくれぬかと打診してきた時、源太兵衛を含めこの場の多くの者がこれを断るべきだと主張した。相手が宇喜多氏だけならともかく、毛利氏が大軍を率いて出張って来れば、城を守り切るのはまず不可能であろう。毛利氏はそうでなくとも尼子の残党を仇敵視しているから、上月城に封じ込められてしまえば尼子党は全滅する公算が大きく、主家再興の芽が完全に消え去ることにもなりかねない。リスクが高すぎるというのだ。
これを論駁し、上月城に入ることを強硬に主張したのが他ならぬ鹿之介だった。
「信長公は働きの鈍き者を決して厚遇してはくれません。上月は枢要の地であり、守るは確かに困難でしょうが、困難であるからこそ、これを守り切った時の功績はそれだけ大きく評価されましょう。筑前殿は後詰めを固く約束くだされておりますし、毛利が全力を挙げて攻めて来るようなら、その時は織田と毛利の決戦ということになる。信長公自らが来援されるでしょう。我らが捨て殺しにされるようなことにはなりますまい」
その鹿之介の見込みは、現在の織田軍の様子を見れば外れたと言わざるを得ない。
(もはや進むも退くもできん。兵糧もいくらも保たん。早う織田が救うてくれねば、我らは惨めに餓死するか、毛利に皆殺しにされるかしかないではないか・・・・)
重臣たちにすれば、そういう現状への苛立ちが鹿之介に対する口調や態度につい出てしまうのだが、
「上月城に入ることを決めたは、他の誰でもない、私である。鹿之介にその責はない。恨むなら私を恨んでくれ」
と主君の勝久が言ったから、これには慌てさせられた。
「殿を恨むなどと――」
「我らがこの地で果てて終わるとすれば、それは私の武運の拙さゆえであろう。その時は、私はこの一命をもって皆に詫びよう。しかし、もし私に武運あらば、この戦いを無事に切り抜け、尼子再興の悲願を果たすこともきっとできるであろう。――そうではないか?」
静かに語る勝久の顔には、澄んだ微笑があった。
「運は天に任せよ。我らはただ人事を尽くすことだけを考えればよいのだ」
もともと武士として育てられなかったからか――あるいは名門・尼子氏の血の成せる業か――勝久には武士の美に対する強い憧憬とこだわりがあり、それがこの若者の言動や挙措を常に涼しくゆかしいものにしていた。尼子家再興に燃える尼子遺臣たちにとっては、この若者のそういう部分が、貴種の人のみが持つ浮世離れした神々しさのように思え、畏れ多くもあり、嬉しくもあり、また誇らしくもあったであろう。
この場に居る者たちは、十年にわたる流浪と敗亡によって世の辛酸を味わい尽くしている。彼らにすれば、この若者こそが将来への希望そのものであったと言ってよく、誰もがこの主君のために働くことを悦びとし、これに身命を捧げることを当然としていた。
言うまでもなく、鹿之介にはその想いが他の誰よりも強い。主君のこの言葉を震えるような悦びと共に聞いているのだが、同時に後悔と自責の念が心中を痛烈に苛んだ。
(わしは取り返しのつかぬ誤りを犯したのではないか・・・・)
鹿之介の苦悩は、主君をこの上月城に連れて来てしまったことであった。
たとえ藤吉朗が約束を破り、上月城を捨てるような選択をしたとしても――自分を含め尼子遺臣の多くがこの城で死んだとしても――勝久さえ生きてあれば何度でも再起はできる。夢を次代に繋ぐこともできる。しかし、担ぐべき神輿を失ってしまえば、尼子の遺臣たちはただの浮浪人の集団に過ぎなくなり、尼子家再興の道は永久に途絶えざるを得ない。
上月城に入ることは勝久自身が強く望んだことではあったが、
(やはり勝久さまだけは京にお残り頂くべきではなかったか・・・・)
と、鹿之介は思うのである。
この数日中に信長が上月に来援し、あるいは藤吉朗が毛利氏と決戦に及び、包囲軍を打ち破ってくれるならば良い。しかし、このまま戦局が動くことなくだらだらと時間が経てば、鹿之介らは毛利軍の手を煩わせることさえなく城内で惨めに餓死することになるであろう。
(筑前殿を信じるほかない・・・・・)
鹿之介は瞑目し、あの猿に似た小男の邪気のない笑顔を想った。
信じ続け――そして裏切られ続け――篭城はすでに六十日を越えている。
六月十日に再び信長が上洛したという報せを受け、藤吉朗はついに自ら京へ上る決心をした。
(他に手はない・・・・)
手紙でも使者でも埒が明かないのである。信長を動かすには、もはや藤吉朗自身が切々と出馬を訴えるしかないであろう。
四万数千もの大軍の総大将たる者が、野天で敵と対陣中であるにも関わらず、軍勢を置き捨てにしてこっそり陣を抜けるというような例は、我が国の戦国史を見渡してもあまりないように思う。自らの不在中に陣中で何か事故が起これば――あるいは毛利軍に攻められて手痛い打撃を受けるようなことにでもなれば――信長は即座に藤吉朗の首を刎ねるに違いなく、これはよほど思い切った決断であったと言わねばならない。
それだけ藤吉朗は必死だったということになろうし、なんとか尼子党を救いたいと本気で考えていたと見てやるべきであろう。
「小一郎、留守は任すぞ」
同僚の諸将には一切何も告げず、藤吉朗は蓑笠を被り、下士のような風体に化けて自ら馬を駆り、京へと走った。
『信長公記』によれば、藤吉朗が京へ到ったのは六月十六日である。
前線司令官の藤吉朗が自ら陣を抜けて来たことに、さすがの信長も驚いたらしい。
「上月のことは片付いたか」
総大将が戦陣を去っている以上、そうでなければならないであろう。
「いや、面目次第もござりませぬ」
藤吉朗は平伏し、前線の事情を泣くように述べ立てた。ひたすら信長の情に訴え、どうにか出馬してくれるよう言葉を尽くして懇請した。
が、信長は、話を最後まで聞こうともしない。不快げに眉を寄せ、
「まだそんなことを申しておるのか」
と切り捨てるように言った。いい加減にしろ、という気分であったかもしれない。
「上月でどれほど長陣を張っておっても仕方がないではないか。無駄だ。陣を払って兵を返し、別所とその党類を滅ぼすことに専心せい。まずは神吉、志方の城を攻め破り、その上で三木の別所の城を囲め」
「それは・・・・!」
藤吉朗はほとんど呆然とした。絶望的な命令と言わねばならないであろう。上月から兵を退けば、織田のために命を張って働いている尼子党を捨て殺しにすることになる。
「そればかりはお考え直しくだされませ。尼子の者どもを見捨てれば、御当家の信望――ひいては上様の御威徳に大きな傷となりまする!」
(これは諫言せねばならん)
冷や汗をかきつつ、それでも藤吉朗は肝を据えた。
(これをやれば、世間に対してだけでなく、織田家中に対してさえ悪影響が大きすぎる)
と、藤吉朗は思うのである。
そもそも中世的な武士団というのは、相互扶助の関係によって出来上がっている。たとえば豪族が主君に忠誠を誓い、その命令に従って戦場に赴き、命を預けて戦うのは、自分たちが敵に攻められて危機に陥った場合に、主君が救ってくれると思えばこそであった。
家来は主君のために戦い、主君は家来を守る――
この関係は暗黙の契約と言ってよく、主君の側が傘下の豪族を守るという義務を履行しないならば、豪族の側が主君を見限るのは不忠でもなんでもない。武士とはその本質において「自分の領地を守るために武器を持った大地主」という存在であり、「武士の棟梁」とは、その武士たちの権益を保証してくれる者を指すのである。裏返せば、家来を救おうとしない主君は「人の主」たる資格がないということにさえなるであろう。
煎じ詰めて言えば、忠義の家臣を見殺しにするという行為は、主従関係を崩壊させる絶対の禁忌なのである。近世的な絶対君主に近い強大な権力を持つ信長でさえ、救援が不可能という特別な事情があった場合を除き、このタブーだけはこれまで犯したことがない。
(ここで尼子の者どもを捨て殺しにすれば、上様の悪評はもはや取り返しのつかぬことになるのではないか・・・・)
そうでなくとも信長の評判はすこぶる悪い。天下にもっとも近い位置にありながら、地方の豪族たちが一向に織田家に靡こうとせず、かえって反織田勢力に加担するのは、信長という人間に対する不信感が大きいからであろう。
それでもまだ、敵に対して呵責がないのは武士として許容もできる。比叡山の焼き討ちにせよ一向宗勢力の容赦ない殲滅にせよ、織田家に敵対する勢力を滅ぼすことには、「天下布武」の大義も通るであろう。しかし、救える可能性のある味方を、救う努力すらせず無慈悲に見殺しにするような悪例は、断じて作るべきではない。まして上月城に篭る尼子党は、義勇軍とでも呼ぶべき織田家の協力者であって、信長の家来ですらないのである。この連中を捨て殺しにすれば、世人の憐憫と同情が尼子党に集まるのは間違いなく、その裏返しとして信長の冷酷さ、非情さが天下に大音響で喧伝されることになってしまうであろう。中国地方で信長に従おうとする者がいなくなるばかりか、いま織田家に属している者の中にさえ、
(信長は恃むべき大将ではない)
として反旗を翻す者が出るのではないか――
藤吉朗は――過激な言葉遣いだけは避けながら――信長を翻意させようと懸命に説いた。
が、信長は表情ひとつ変えない。藤吉朗を睨みつけながら、
「猿、くどいわ。わしが下知を聞かぬのか」
と額に青筋を立てた。
藤吉朗が危惧した程度のことは、信長はもちろん承知していたであろう。
それでも信長は、上月城を捨てるという決断をし、そのことに一切の迷いはなかった。ひとつには対毛利戦争における軍事的な利害計算からであり、ひとつには大阪湾の制海権奪取のために建造させていた新たな織田水軍が、この時期、伊勢で完成を見つつあり、信長の興味が播磨からそちらに移っていたということもあったであろう。
いや、そういう形而下のことよりも、信長が力の信奉者であったということが大きかったに違いない。
すでに織田家は日本の過半を征服するほどの勢力を持っている。眼前の敵である毛利氏さえ潰せば天下に武力で織田家に対抗できるだけの勢力はなくなるわけで、弱小勢力の離反に怯えねばならないような時期はとうに過ぎていた。
信長は、
(叛きたい者は叛け。すべて潰してやる)
とでも思っていたに違いない。
純粋な意味での武力による天下統一を、信長ほど徹底して考えていた男は後にも先にもないであろう。尾張一国の太守として美濃や伊勢を攻めていた昔とは違い、天下を動かせるほどの大勢力を築いてからの信長は、敵の頭を撫でてやり、その自尊心を満足させつつ利を喰らわせて味方につけてゆくというような政略――後に豊臣秀吉が行って瞬く間に天下を得たようなやり方――を、まったく使おうとしていないのである。ひとたび敵対した者は一片の情も掛けずに攻め潰し、殺し尽し、敵を消滅させてゆくというのが、この時期の信長の方法論であったと言っていい。
つまるところ、自分が誰よりも強大な武力を握っている現在、滅亡を怖れる者なら織田家に叛きようがないはずであると、信長は高をくくっていた。尼子党を捨てようが殺そうがその影響は大したことはなく、上月城から撤退することで失うものよりも得るものの方が遥かに大きいと判断したわけである。
信長のこの尊大な油断は、四ヶ月後に起こる荒木村重の謀反という思わぬ形で信長に跳ね返り、結果、大きな代価を支払うハメになるのだが、この時期の信長はそんな不穏な空気をまったく察知していなかったし、目を掛けて一軍の大将にまで引き立ててやった者が自分に背くなどという事態が起こり得るということを、夢寐にも考えていなかった。
「上月に帰って速やかに陣を払い、別所討伐に掛かれ。まずは神吉城から攻めよ。これはわしの下知である」
信長はほとんど機械のような冷酷さでそう言った。
藤吉朗には、これをどうすることもできない。
「・・・・しかと承りましてござりまする」
と平伏せねば、その場で信長に手討ちにされかねない。
(なんちゅうことじゃ・・・・!)
平蜘蛛のように床に伏せつつ、藤吉朗は奥歯を噛み締めるしかなかった。
信長は、藤吉朗が自分の命令に従うかどうかを見るために、わざわざ手元から近習を派遣している。大津伝十郎、水野九蔵、長谷川竹、菅屋九右衛門、万見仙千代といった若者たちで、彼らは交代で神吉城攻めを監視することになった。
信長がここまで念を入れるというこの一事を見ても、藤吉朗が上月城救援によほどこだわっていたということが察せられるであろう。
(猿め、わしが居らぬのをいいことに、さらに上月で無駄な時を使い、尼子の者どもに情けを掛けようとするかもしれん・・・・)
と、信長は直感したのに違いない。
信長は藤吉朗のそういう甘さが嫌いではなかったが、こういう場合は煩わしくもあった。情に流されて無理な軍事作戦を起こし、無駄に兵を死なせるような者には大将は任せられないのである。藤吉朗がそこまで馬鹿でないことを信長は知っているし、自分の命令に従順に従うであろうことを疑ってもいなかったが、念には念を入れるのがこの男の流儀であった。
この翌日、藤吉朗は悄然と京を去り、上月の軍陣へと帰った。
天正六年の六月下旬は、現在の暦に直すと八月上旬である。
梅雨はすでに明け、真夏の日差しに照らされた上月の山並みは黒々とした深緑に覆い尽くされていた。