第90話 毛利軍襲来(2)
毛利軍・五万が侵入したとの報を受け、信長は播磨に続々と増援を投入した。
荒木村重の部隊に続き、まず大和の筒井順慶、敦賀の武藤舜秀などを派遣し、丹波攻略に使っていた丹羽長秀、明智光秀、滝川一益の軍団を播磨に回し、さらに嫡男・信忠、次男・信雄、三男・信孝に美濃、尾張、伊勢の軍勢を率いさせ、稲葉一鉄、氏家直通、安藤守就(伊賀伊賀守)、蜂屋頼隆などを付けて送り込んだ。これに加えて摂津 石山の本願寺を包囲していた佐久間信盛までを増派している。
これらの軍勢が播磨に入ったのが五月上旬である。北陸方面軍をのぞいた主力が播磨に勢揃いしたと言ってよく、さらに後日、信長自らが本軍数万を率いて出馬するつもりであるという。
丹羽、明智、滝川、筒井などの諸軍は上月の羽柴軍に合流し、その数は五万弱というところまで増えた。数の上では、毛利軍に対抗できるだけの兵力が整ったことになる。
織田信忠らの軍団は播磨中部の加古川に駐屯し、敵対した別所氏を牽制する任務に就いた。こちらは二万余というところであったろう。この大軍によって、別所氏の動きは完全に封殺された。
尼子党が篭る上月城から半里ほど東方にある高倉山が、織田方の本陣である。山頂の砦には「妙法の旗」と藤吉朗の軍旗である“総金”の大旗、“金瓢”の大馬印が掲げられ、五葉の木瓜紋の織田家の旗が数百本も風に靡いている。その周囲の高地には、“水色桔梗”、“金の短冊”、“総白”、“諸手梅鉢”といった諸将の軍旗と“織田木瓜”の旗が山並みを埋めるように立ち並んでいた。
一方、上月城の周囲とその付近の山々には、“一文字三星”の毛利家の旗が無数に翻っている。高倉山の西――上月城との中間あたりに川幅広い熊見川が地を割っているのだが、毛利軍はこの川の土手にもびっしりと防御柵を植え、その内側には長大な空堀を掘り、その土をもって土塁を掻き揚げ、野で上月城を包囲する部隊の背後をも守っている。
夜ともなれば、この双方の陣地が無数の篝火によって燃えるように輝き、闇の中に山々の稜線を浮かび上がらせた。
戦況は、完全な膠着状態と言っていい。
熊見川の川辺では小競り合いがしょっちゅう行われていたが、織田、毛利の双方の本軍が山上の陣から動かず、本格的な衝突が起こる気配はない。重厚な防御の布陣を敷いた毛利軍に対し、織田軍は攻め手がなかったと言うべきであろう。
梅雨の雨音を聞きながら、半里を隔てて静かな睨み合いが続いていた。
「尼子の衆を見捨てるようなことは絶対にせん。必ず救い出す」
藤吉朗は銅鑼が鳴るような大声で日に何度もそう言った。小一郎が傍で見ていて気の毒なほど、この兄は焦りに焦っていた。
が、実際問題、上月城を救う方法がない。
双方が大軍をもって堅固にその陣地を守っているこのような場合、先に仕掛けた側が圧倒的に不利になる。まして山襞が入り組んで地形が複雑なこの上月では、大軍を一気に動かすことができない。狭隘な平地を小部隊でぞろぞろと進むほかないが、そんなことをすれば四方の高地から毛利軍が押し寄せて来て袋叩きにされるであろう。それこそが、この山岳地帯に陣を構えた毛利方の軍略なのである。
明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、荒木村重といった百戦錬磨の将たちは、こんな不利な戦で怪我をするのはまっぴらという気分であるらしく、積極攻勢に出るような戦意はまったくなさそうであった。
なかでも藤吉朗と仲が悪い滝川一益などは、
「あんな小城のために勝算も立たぬ大戦をするなぞ愚の骨頂じゃ」
と軍議の席で露骨に言い放ったりした。
彼らにすれば、この播磨で死に狂いに戦ったところで結局は藤吉朗の出世を援けることにしかならない。切り取った播磨は担当官の藤吉朗に与えられるわけで、どれほど功を立ててもまともに褒美が貰えるかどうかさえ怪しい。つまり、働けば働いただけ無駄骨という可能性が大きいのである。奮戦する気になぞなれるはずがなく、成り上がりの藤吉朗を好まぬ者は腹の底でこの作戦の失敗をさえ望んでいたかもしれない。そこまでゆかなくとも、
(こんなつまらぬ手伝い戦で大切な子飼いの将兵を死なせられるか)
と考えるのが当然の人情であったろう。
要するに、藤吉朗がどれほど上月救援を吼えても、誰もこれに賛同しようとはしないのである。
皮肉な話だが、加勢に来てくれた将たちが、藤吉朗にとっては大物過ぎた。彼らは藤吉朗の家来ではなく、同格あるいは格上の同僚朋輩であるわけだから、これに「死地に飛び込め」というような無理な命令は出せないのである。藤吉朗に強力な指揮権がない以上、その一存で毛利と決戦というわけにはいかない。
が、このまま手をつかねていれば、やがて上月城の兵糧は尽きてしまうであろう。山中鹿之介や尼子勝久ら、織田を頼った尼子の遺臣たちは、あの小城に封殺されたまま惨めに餓死せねばならなくなる。
(どうにもならん・・・・)
豊臣秀吉の生涯において、この時期ほど狂おしく焦燥したことはなかったに違いない。
(やはり上様にご出馬頂き、直々に指揮をとってもらうほかない)
軍団長クラスの重臣たちの手綱が取れるのは、この地上に信長ただ一人なのである。
藤吉朗は安土の信長に何度も手紙を書き、一刻も早い出馬を泣くように懇請した。
「この筑前は、人に敬われぬ者でござれば――」
とまでこの男は書いている。
播磨の情勢はもはや上月城ひとつの話ではなく、毛利氏との渾身の決戦の様相を呈している。しかし、自分のような者が大将では諸将を顎で使うことはできないから、播磨の織田軍は兵数がどれほど増えても烏合の衆にならざるを得ない。ここは信長自身が総大将となって高倉山に立ち、ぜひぜひ全軍を指揮してもらわねばならない。
この膠着した戦局を動かすには、それより手はないであろう。
藤吉朗はまったく身動きが取れない状態に陥っているわけだが、それでもやるべきことはやっている。物見や諜者を使って敵陣の様子や近隣の国々の状況を探り、毛利軍の将の配置や敵兵の数、士気などを調べ、半兵衛や官兵衛と共に夜ごとに善後策を練った。
武力による決戦が行えない以上、主眼はもっぱら調略である。
まず目をつけたのは、備中 高松城の有力豪族・清水宗治という男だった。
毛利氏にとって外様大名である清水宗治は、義理堅く清廉な人物として知られ、毛利の重鎮・小早川隆景などからは毛利本家の重臣と変わらぬほどの厚い信頼を得ていた。もちろん、今回の合戦にも兵を率いて加勢に来ている。とても寝返りが見込めるような相手ではないが、高松城の留守を預かる清水氏の重臣のうち二人が、主君の宗治と不仲であるという情報を掴んだ。藤吉朗は小寺官兵衛を使ってそれらを調略し、宗治不在の高松城で謀反を起こさせたのである。
織田家の後ろ盾を得た重臣たちは大いに勇み、宗治の嫡男・源三郎という少年を人質に取って高松城に立て篭もった。
この謀略は上手く運んだようにも思われたが、しかし、反乱自体はあっという間に鎮定されてしまった。
小早川隆景の命ですぐさま備中へ馳せ帰った清水宗治は、武力を用いず重臣たちを説き伏せ、謀反の罪を問わぬことを条件に人質を取り戻し、事態を見事に収拾してのけたのである。
結果として、敵を多少驚かせたという程度の効果しか上がらなかった。
また、備前の宇喜多直家にも調略の手を伸ばしている。
毛利軍の軍容を探ったところ、出陣して来ている宇喜多軍の中に、大将の宇喜多直家が居ないということが解った。軍勢の指揮は重臣に任せ、自らは病気と称して備前の居城・岡山城に引き篭もっているらしい。
直家が戦場に出て来ていないのは、この戦で目立つほどの働きをして織田の恨みを買ったり信長の心証を害したりしたくないからではないか――
「これこそがかの男の迷いの表れであり、毛利と織田を両天秤に掛けておる証拠と申すべきでござろう」
小寺官兵衛がそう指摘し、調略で宇喜多を味方に引き込むべきだと強く進言した。
宇喜多直家は稀代の権謀家であり、札付きの利己主義者であるという。いま彼が毛利家に属しているのも別に忠義からではなく、保身と利害計算の成り行きからであるのは間違いない。その直家が、今度の戦に限って毛利氏のために利害を超えて挺身するとは考えにくい。もし織田が勝ちそうなら、機を見て寝返る腹であると考える方がやはり自然であろう。
「宇喜多が織田方に寝返れば、毛利軍は背後を扼され、糧道も断たれる。とても播磨に留まってはおれなくなりましょう。結果として上月城を救うことにもなります」
官兵衛の言葉の通り、停滞し切っている戦局を大きく動かす契機になるのは間違いない。
幸い、手づるはある。宇喜多氏に属している備前 八幡山城主・明石親景が、官兵衛と縁戚なのである。
官兵衛はまずこの明石親景を調略し、そこから宇喜多直家に接触することを提案した。
藤吉朗は官兵衛の献策を入れ、官兵衛と半兵衛、蜂須賀小六にその仕事を命じた。
半兵衛と小六は官兵衛の手引きで備前に潜行し、明石親景に繋ぎを取って八幡山城へと赴いた。
この調略は成功した。
話を聞いた明石親景は驚くほどあっさりと説得に応じ、主君の宇喜多直家にも織田につくよう説くと約束してくれたのである。
しかし、宇喜多直家はさすがに利害計算には慎重で、すぐさま織田に寝返るというほど腰が軽くはなかった。
まだ織田が勝つと決まったわけでもなく、毛利が勝つ可能性だって十分にあるのである。これほどの大勢力同士の争いだから戦は長期化するに違いなく、一度や二度の合戦で勝敗のメドが立つとも思えない。最終的にどちらが勝つのか――その見極めがつくまでは、直家は動く気はなかったであろう。
ただ、合戦は何が起こるか解らない。たった一度の主力決戦で勝負がついてしまう可能性さえゼロではなく、思いのほか短期間に織田が勝ってしまうことだってあり得ない話ではない。その意味で、今のうちから織田の中国方面軍司令官と接触できるチャンネルを持っておくことは必要だった。
宇喜多直家は名うての策謀家である。藤吉朗が官兵衛を懐刀にしていることも探知していたであろうし、その官兵衛が明石親景と縁戚であることも知っていたに違いない。穿った見方をすれば、最初から明石親景を織田との交渉の窓口にするつもりで、これにあらかじめ織田に内通するよう言い含めてあったのかもしれない。
いずれにしても、半兵衛たちは明石親景の内応は取り付けたものの、肝心の宇喜多直家を動かすことはできなかった。
実はこの間、小一郎も調略で大きな成果を挙げている。
因幡の守護・山名豊国を内応させたのである。
小一郎は、先に半兵衛が示してくれた策に従い、但馬守護・山名氏の一族で味方に引き込めそうな者を物色していた。
山名豊国は、但馬の現守護・山名祐豊の甥であり、かつて因幡の守護だった山名豊数という男の弟である。
因幡の山名氏は但馬・山名氏の分家で、豊国の父の代から因幡を治めていたのだが、武田高信という重臣の下克上によって国を奪われた。因幡を追われた豊国は、兄の死後、出雲奪回を目指して戦う尼子氏の残党と手を結び、山中鹿之介らの奮戦によって因幡を取り戻すことに成功した。兄の跡目を継ぎ、因幡守護に返り咲いたのである。
しかし、尼子の残党との共闘は、山中鹿之介らを仇敵と見る毛利氏の怒りを買った。天正元年(1573)、毛利の重鎮・吉川元春が因幡に侵攻し、尼子残党軍を追い払って瞬く間にこれを制圧した。山名豊国は成す術もなく降伏し、それ以後、毛利氏に臣従することを余儀なくされていた。
これらの事情を知った小一郎は、この山名豊国に調略の目標を定めた。
山名豊国は、気位だけは高いくせに優柔不断でこらえ性のない惰弱な男であったらしい。尼子の残党たちと共闘した過去もあり、因幡の実権を奪った毛利氏に恨みを抱いていることもあって、実に組しやすかった。
織田に敵対した但馬・山名氏はいずれ滅ぼされることになろう。その時は、貴方が山名宗家を継いで但馬と因幡の守護となり、織田家の後ろ盾をもって毛利と戦えばどうか――
小一郎がそう匂わせると、軽率なほどの腰の軽さで話に飛びついて来たのである。
外交上の大成果と言ってよく、小一郎の大手柄であった。
しかし、これらの謀略・調略は、膠着した上月の戦局にはほとんど影響を与えなかった。
毛利軍は相変わらず上月城を囲んだまま動かず、織田軍はそれを攻める術がない。
上月城の窮乏は、日ごと確実にその深刻さを増していた。
(信長さまさえ播磨に来てくだされば――)
羽柴家の幕僚たちは、渇いた者が水を欲するようにそのことを思った。
信長がさらなる大軍を率いてこの上月に入ってくれれば、彼我の戦力バランスは逆転するのである。そうなれば宇喜多直家だって慌ててこちらに寝返るかもしれないし、やり方次第では毛利軍を打ち滅ぼすことさえ不可能ではないであろう。
現状、藤吉朗は完全に打つ手を失っている。
上月城を救うには、もはや信長の出馬に一縷の希望を賭けるほかない。
その当の信長は――ほんの一月前には自ら出馬すると豪語していたにも関わらず――どれほど藤吉朗がせっつこうともなぜか動こうとしなかった。
信長は五月上旬、実際に播磨出陣の陣触れをし、諸国の軍勢を京に集めてはいた。
しかし、梅雨の大雨で京が大洪水を起こすという不運がこれに重なった。五月十一日から始まった畿内の豪雨は三日間も降り続いたらしく、五月十二日には加茂川、白川、桂川の堤防が相次いで決壊し、このため都の大路小路は水浸しとなり、ことに上京はその被害が酷く、多くの家屋が押し流され、数え切れないほどの溺死者が出たという。山城から南近江の広い地域がこの大雨に祟られたようで、京南郊の田畑は一面の泥沼と化し、安土でも水害が出たと『信長公記』に記されている。
それでも諸国の軍兵たちは川舟を仕立てるなどして続々と京に集まって来たのだが、信長は気が変わったのか播磨出陣を取りやめてしまった。史書にその記述はないが、あるいは京とその周辺の災害復興に軍兵たちを働かせていたのかもしれない。
いずれにしても、信長はそれっきり出馬を口にしなくなり、出陣はずるずると延期されていた。
信長の播磨入りを心待ちにしている藤吉朗とその幕僚たちにすれば、主君のこの煮え切らない態度はたまったものではなかったであろう。
「手紙では埒が明かんわ・・・・」
高倉山から上月城を遠く眺めることしかできない藤吉朗は、苛立ちを隠せない。
信長の出陣を強く催促するために、今度は人を遣わすことにした。
使者は、播磨の情勢と織田軍の現状、藤吉朗の窮状といったものを熟知し、あの信長を相手に不快感を与えずそれを説明でき、出馬を説得できるだけの優れた弁舌と機知の持ち主でなければならない。それほどの者となると藤吉朗の幕僚の中では半兵衛か官兵衛しかないが、織田家の臣ですらない官兵衛では信長との縁が薄すぎるから、その御前で言うべきことを言い尽くすことは難しいであろう。
「私が参りましょう」
半兵衛が自ら志願した。
「いや、しかし・・・・。長旅は身体にこたえよう」
藤吉朗は危ぶんだ。
上月から京へは直線でも百五十キロ。梅雨の雨に濡れながら馬で馳せ向かうとなれば、決して楽な旅程ではない。
しかし、上月城の兵糧は、もってもあと一月が限界なのである。事は一刻を争う。何としても信長を動かさねばならない。
「病はもう癒えております。お気持ちは有難いですが、ご配慮は無用に願います」
半兵衛はいつもの微笑を残してその日のうちに上月を発ち、京へと駆けた。
『信長公記』によると、半兵衛が信長に謁見したのは五月二十四日である。
場所は、解らない。信長が京で好んで宿舎にする施設といえば妙覚寺か本能寺か、清水寺あたりであったろうか。あるいは二条に新築したという居館であったかもしれない。
「半兵衛か、久しいな」
上座に現れた信長は、少し物憂げに口元だけで笑い、平伏する半兵衛に顔を上げるよう命じた。
「ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じまする」
「つまらぬ挨拶はいらん。話があるなら話せ」
「されば――」
半兵衛は――藤吉朗の仕事の成果を強調するために――まず成功した高松城の謀反の件を語り、明石親景を内応させた件を語り、さらに因幡の山名豊国が味方についた件を語った。
「なかでも因幡がお味方についたことは、御当家にとってまことに瑞兆と申せましょう」
別所氏が敵に回って以来、播磨からはこれまでほとんど吉報が聞かれなかったから、これらの話は信長をそれなりに喜ばせた。
半兵衛はあらためて播磨から備前、備中、美作、但馬、因幡といった近国の最新情勢を説明し、信長の出馬を言葉を尽くして懇請した。
「いま上様が御自ら播磨にお入りになれば、播磨は言うに及ばず、因幡、但馬までがたちどころに上様のご威光に靡きましょう。備前の宇喜多直家も御当家に寝返るやもしれず、毛利を追い返すことも容易かろうと存じます」
しかし、信長が動かねばそれは難しい――と、半兵衛は続ける。
「我が殿では御当家のお歴々の手綱を取れませず、毛利との戦はままなりませぬ。このまま悪戯に日を過ごせば、孤軍奮闘しておる上月城は兵糧が尽き、惨めに落城とあいなりましょう。万一、尼子の者どもを見捨てるようなことになれば、御当家は天下に信を失いまする。御当家に靡こうとしておる者たちも、興を醒まさぬとも限りませぬ。我が殿は、上様の一刻も早いご出馬を祈るようにして待ち望んでおりまする」
藤吉朗が何度も手紙で書いているのと同じ内容であり、そんなことは信長は百も承知している。信長にとっては耳の痛い話であるだけに、それを聞いているのがだんだん不快になってきた。
「播磨には――いずれ馬を出そう」
何となく言葉を濁し、
「が、今しばらくは無理である。お前も見た通り、山城、南近江は水害が酷く、この後始末をせぬことには戦どころではない。上月のことは筑前に任せてある。良きようにせよと申し伝えよ」
ついに自らの出馬を明言しなかった。
「しかしながら――」
半兵衛はなおも食い下がろうとしたが、
「もうよい。大儀であった。下がって休め」
と命ぜられれば、それ以上どうしようもない。
(やんぬるかな・・・・!)
己に対する無力感に打ちひしがれざるを得なかったであろう。
半兵衛が控えの別室に下がると、しばらくして三方を捧げた小姓がぞろぞろと現れ、
「上様よりの下され物でありまする」
と言って、藤吉朗に黄金百枚、使者の半兵衛には銀子百両を当座の褒美として置いていった。
半兵衛はそれを受け取ると、肩を落として京を去り、播磨への帰路についた。
信長が、なぜこうも播磨出陣に消極的だったのか、理由はよく解らない。
播磨に主力を投入し切っているこの時期、信長がその直属軍まで率いて播磨に入れば、京周辺はまったく無防備になる。本願寺や紀州 雑賀党、信長に恨みを持つ勢力の残党などにとっては絶好のチャンスであり、確かに危険がなかったとは言えないが、それだけが理由であったとも思えない。
察するに信長は、毛利氏との主力決戦で勝つ自信がなかったのであろう。
実際問題、狭隘な山岳地帯の高地に陣城を構え、守勢に徹する毛利軍を打ち崩すのは、たとえ信長が総大将であったとしても難しい。信長の脳裏には、防御陣地を構えて守勢に徹し、武田軍に壊滅的打撃を与えた『長篠の合戦』の記憶が浮かんだであろう。無理に攻め寄せれば大怪我は確実であり、毛利軍があくまで守勢に徹するようなら、泥沼の消耗戦に引きずり込まれる公算が高いのである。
天下人たる信長が自ら出陣して、毛利軍に勝てぬばかりか上月城さえ救えなかったとなれば、その威信は地に落ちる。信長にすれば、自分が出てゆく以上は、絶対に勝てるという戦でなければならなかったのである。
本音を言ってしまえば、信長は上月城など落ちてしまっても構わないし、尼子の残党がどうなろうが知ったことではなかったであろう。信長の頭の中は、徹頭徹尾、現実的な利害計算で出来上がっているのである。わざわざ敵が有利な地点で決戦するなぞまっぴらであったろうし、織田軍の足枷にしかならない上月城はむしろ早く落ちろと思っていたかもしれない。
裏返せば、信長が播磨入りを引き延ばしていたのは、上月城が落ちるのを待っていたと見ることもできる。信長が播磨に入る前に上月城が落ちれば、尼子党を見殺しにした汚名は現場主任の藤吉朗が被ることになるであろう。上月の地にこだわらなければ毛利軍の陣城に付き合う必要もなく、広闊な播磨平野に敵をおびき出して戦うことさえできるのである。信長にとれば、その方が万事に都合が良い。
が、これはさすがに口に出すわけにはいかなかったであろう。
信長は、安土の水害を視察すると言い残していったん京を去った。
六月十日には再び上洛するが――上月城の窮状を知りながら――京の祇園祭りを見物したり、あるいは京周辺で鷹狩りに興じるなどして遊んで過ごしている。
つまるところ、やはり播磨には行きたくなかったらしい。




