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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第9話 西美濃三人衆の調略と稲葉山城陥落

 これは、後に小一郎が藤吉朗から聞いた話である。

 西美濃を歩き回っていた藤吉朗は、「三人衆」の筆頭格である安藤 伊賀守 守就もりなりに調略の狙いを付けていた。

 安藤守就は、半兵衛の妻の父親――つまり舅にあたる人物である。腫れぼったい目をした恰幅の良い四十男で、人並み以上に欲が深く、どちらかといえば陰謀を好み、門地と実力に対する矜持が強く、そのくせ保身感覚の鋭い男であったらしい。懐柔するにはうってつけの性格である上、主君の斉藤竜興によほど愛想を尽かしているらしいということもあり、藤吉朗にとって組し易かったのだという。

 無論、同じ「三人衆」である稲葉氏の稲葉良通よしみち一鉄いってつ)、氏家うじいえ氏の氏家直元(卜全ぼくぜん)にも調略の手を施してはいたのだが、藤吉朗の見るところ、この二人は性質が頑固な上に保守的で、いまひとつ腰が重かった。しかし、安藤守就さえ動かすことができれば、「稲葉山城 乗っ取り事件」に手を貸したときのように、守就に引きずられて二人も行動を共にするであろうと考えた。


 藤吉朗は、守就に使いを送って感触を確かめ、脈があると見るや自ら何度も足を運んで直接に面会し、斉藤家に固執することがいかに無益であり、織田家に属することがどれほど利になるかということを懇々と説いた。しかし、守就もさすがに大物であり、どれだけ説いてもなかなか首を縦に振ろうとはしなかった。

 どうやら守就は、寝返りの恩賞に不満があったらしい。


 「西美濃三人衆」というのは斉藤家が興る前――土岐家の頃から美濃の太守に仕える由緒ある家柄で、斉藤家では家老に列せられるほどの分限であり、安藤守就に到ってはその筆頭である。これほどの人物を寝返らせるとなると相当の恩賞を用意するのが当然であるのだが、守就はその恩賞の多寡と織田家における待遇に拘っていた。


「『寄らば大樹の陰』という言葉があり、『良禽は棲む木を選ぶ』とも申す。わしも武士である以上、父祖以来の家を守るためとあらば、織田家に属すること、なるほど考ぬでもない。しかし、上総介殿(信長)がどれほどの誠意をお持ちであるのかが解らぬ上は、とても話にならぬ」


 と、守就は言ったという。

 「西美濃三人衆」が揃って織田家に寝返れば、美濃はたちどころに信長のものになる。守就にすれば、自分たちを少しでも高く売り込みたいと考えるのが当然であったろう。


 藤吉朗から調略の経過報告を受けた信長は、守就のこの言い様に対して嫌悪感を持ったらしい。


(強欲者め・・・!)


 と露骨に不快そうな顔をし、寝返りの恩賞についても一切明言しなかった。

 信長は、藤吉朗からの情報によってすでに守就の弱みを知り抜いていた。主君の斉藤竜興と不仲な守就とすれば、主家の庇護を頼りにすることもできないであろう。美濃盗りにとっては多少遠回りになってしまうが、信長がその気になりさえすれば、安藤家を攻め潰すことだってそう難しくはないのである。


(滅ぼさずにおいてやるだけでも有難いと思え!)


 というのが信長の本音であり、この上多額の恩賞を要求するなどは分をわきまえぬ所業ということになる。


「本領安堵は認めてやる。人質を送れと言ってやれ」


 と言ったのみで、信長は藤吉朗がどう取り成そうと聞く耳を持たなかった。

 ちなみに、このとき信長が持った守就への悪感情は、守就が織田家に属し、信長と主従の関係を結んでからも晴れなかった。そういう信長の気持ちは自然と守就にも伝わり、それがこの二人の不仲を生み、後に守就を破滅へと追い込むことになるのだが、これは余談。

 いずれにせよ、藤吉朗が西美濃衆の調略に手間取っていたのは、この両者の思惑の板ばさみになっていたからであったらしい。


 手詰まりになりつつあった藤吉朗に、あるとき半兵衛が、


「何かのついでで結構ですから、この手紙をことづかっていただけませぬか」


 と手紙を託した。

 宛名は「舅殿」となっており、安藤守就に宛てたものらしい。


 藤吉朗が守就を訪ねてその手紙を手渡すと、守就はその場で披見し、無言のまま沈毅な顔で長考し、手紙を灯明の火で燃やしてしまってから、


「稲葉、氏家とも相談したきことがござる。今しばらく時間を頂きたい」


 と言って、その日は藤吉朗を引き取らせた。

 「西美濃三人衆」が織田家に忠誠を誓う誓紙を藤吉朗まで揃って差し出したのは、それからほどなくのことであったという。



 「三人衆」の内応(寝返りの約束)を取り付けた藤吉朗は、すぐさま半兵衛を伴って小牧に帰り、信長に拝謁した。

 話を聞き、証拠の誓紙を見た信長は発止(はっし)と膝を打ち、


「ようした! 猿、加増してやる!」


 という表現で自分の喜びを表したという。信長はひどく吝嗇な性質で、手柄があった者に銭や物を与えることはあっても即座に領地を加増するということはめったになかったのだが、「『三人衆』の内応」に加え半兵衛までもを連れて来たのだから、この時ばかりはよほどに嬉しかったのだろう。


 藤吉朗はすかさず信長の言葉尻を捕らえ、


「いやいや、これしきのことでご加増などはもったいのうござりまする」


 とニコニコしながら言った。


「ご褒美は頂きませぬ。その代わりというわけではござりませぬが、たった1つ、猿めの無心を聞いてくだされ! お願い申し上げまする!」


 額を擦りつけるように土下座したから、藤吉朗が大手柄を挙げてきた直後であるだけに、信長も聞くだけは聞いてやらねばならなくなった。

 信長は苦笑し、


「言え!」


 とだけ言った。

 何が欲しいのか言ってみろ、という意味である。

 藤吉朗は信長の威に打たれたかの如くしばらく這い蹲っていたが、やがて意を決したように、


「半兵衛殿を頂きとうござりまする!」


「なに?」


「半兵衛殿を、猿めの寄騎に加えることをお許しくだされませ。いやいや、寄騎というのがご無理ならば、猿めの目付け(軍監)でもよろしゅうござる。なにとぞ半兵衛殿の知略と武略を、猿めにお貸しくだされませ!」


 配下である「寄騎」でも、監視者である「軍監」でも良いから、半兵衛を自分の傍に置いてくれ、と藤吉朗は言っているのである。


「・・・・・・・・・・・・・・」


 信長はしばらく考えている風だったが、やがて藤吉朗の後ろで平伏している半兵衛へ顎を向け、


「半兵衛か」


 と甲高い声で言った。


「お初にお目に掛かり、恐悦至極に存じまする。竹中 半兵衛 重治でござります」


 半兵衛は一度だけ顔をわずかに上げ、折り目正しく再び平伏した。


「若いな。それに顔色が悪い」


 信長は独り言のように感想を口にし、


「墨俣におったというのは聞いている。これは猿の知恵か? お前の知恵か?」


 と、質問を投げかけた。


「木下殿の下に付くこと。これは、怖れながら、それがしがあらかじめ木下殿にお願い申し上げていたことでござります。しかしながら、今日のことはすべて木下殿の才覚でござりまする」


 それを聞いて、信長は藤吉朗を睨み据えた。

 半兵衛が欲しいなら欲しいで、最初から正直にそう言って愁訴すべきであろう。それでこそ可愛げがあるというものなのに、手柄を質に取ってこの自分に向かって小癪な策を弄するなどは、言いようもなく不届きである。


「この・・・横着者めっ!」


 ひっ、と首を縮め、藤吉朗は一回り小さくなったように小肩を震わせて平伏したまま、顔の前で両手を合わせ、信長を拝み倒した。


「願い上げ奉りまする! どうか半兵衛殿を、猿めにくだされませ!」


 藤吉朗が真剣に訴えれば訴えるほど、その姿には頭でも小突き回してやりたくなるような滑稽さが滲む。見る者を思わず微笑させてしまうこの愛嬌こそが、藤吉朗が持って生まれた最大の美質であり、財産であり、武器と言うべきであろう。さしもの信長も、つい苦笑してしまわざるを得ない。

 信長とすれば、藤吉朗のこの知恵の巡り方が多少憎々しくもあり、片腹痛くもあったのだが、藤吉朗という男は、何をくれてやったところでそれを元手に信長を儲けさせようと無私無心で動き回る稀代の働き者であるということを、信長は誰よりも良く知っていたし、そのことを評価もしていた。藤吉朗の下で伸び伸びと過ごす方が半兵衛にとっても仕事がしやすいと言うのなら、この要求をかなえてやることが結局は織田家の為になるであろう。


「猿、加増はなしぞ!」


 信長は怖い顔で言い、すべてを藤吉朗の意のままに許しやることにした。

 半兵衛はこの日から織田家の臣となり、同時に信長の軍監として藤吉朗に付く、ということになった。半兵衛にとっても藤吉朗にとっても、この境遇さえ手に入れば名目などはどうでも良かったのであろう。


 小一郎が聞いた話では、藤吉朗はこうして半兵衛を手に入れた。



 信長の軍事行動というのは、入念にして周到な準備と、疾風のような素早さにその特徴がある。

 信長は、藤吉朗が「西美濃三人衆」から内応の確約を取るや、それまで伊勢の北部を攻めていた軍勢を旋回させ、


「皆、心せよ! 勝負は二度あらじ!」


 と叫んで抜き手も見せぬような早業で美濃へ侵攻した。

 以前とは違い、沿道の地侍たちは誰一人織田勢に抵抗せず、それどころか兵を率いて軍勢に加わってきた。これが藤吉朗の調略の成果であることは、言うまでもないであろう。

 織田勢は無人の野を行くごとくに進軍し、その日のうちに稲葉山まで進んだ。そのあまりの素早さのため、「西美濃三人衆」の方が軍勢を動員している暇がなく、織田勢が城下町の井ノ口を焼き払い、稲葉山城に対して包囲の普請を始める頃になってようやく信長の元まで出向き、人質を差し出すという有様であった。


 この美濃侵攻が、永禄10年の8月初旬である。

 信長は尾張の守備兵までもをごっそりと動員し、8千余というこの時期の織田家にしては限界と言うべき兵力を掻き集めた。この軍勢に、「西美濃三人衆」や美濃の地侍たちまでが加わったから、織田勢の総数は1万2千余にまで膨れ上がった。

 対する斉藤勢は、織田軍の侵攻を聞いて城に駆け集まったわずか4千余である。その兵の士気は極めて低く、誰も彼もが斉藤家に仕えた身の不運を嘆き、主君の暗愚を呪っていた。


 稲葉山から峰続きの瑞竜寺山に駆け登り、ここに本陣を据えた信長は、旺盛な戦力をもって正面から総攻撃を掛けた。さすがに天下の堅城と謳われた稲葉山城であり、その猛攻を楽々と跳ね返していたが、わずか10日ばかりの抗戦で斉藤竜興は事態を諦め、命の無事を条件にして開城した。東美濃、西美濃ともに織田家に降ってしまっている以上、どこからも援軍は来ないのである。城に篭ってどれほど粘ったところで、先はない。

 8月15日、竜興は数人の近習に守られ、長良川をくだって伊勢長島へと舟で落ち延びていった。


 こうして信長は、長年の念願だった美濃をついに手中に収めたのである。


 藤吉朗は、墨俣砦の全軍を率い、織田勢の先頭に立って稲葉山城に攻め寄せた。

 小一郎と半兵衛が、これに従ったことは言うまでもない。


 ちなみに『絵本太閤記』などによれば、このとき藤吉朗は、蜂須賀小六ら7人の決死隊と共に城の搦め手の断崖を這い上がり、城の外廓に潜入。城内に放火した上、大手門の閂を内側から外し、小一郎に率いられた木下隊を城内に引き入れ、落城のきっかけを作る大活躍をした、ということになっている。

 が、いくらなんでもこれはフィクションであろう。


 しかし、藤吉朗がこの美濃攻略に重要過ぎる役割を演じたことは間違いがなく、信長は、


「われは美濃攻めの功名第一ぞ!」


 と言って藤吉朗の働きを諸将の前で激賞した。

 このことによって藤吉朗の地位と名声は大いに騰がり、押しも押されぬ織田家の有力武将の仲間入りをすることになる。


 木下藤吉朗の名が、歴史におおっぴらに登場し始めるのは、まさにこのときからである。





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