第89話 毛利軍襲来(1)
信長は、天正五年(1577)の晩秋に松永久秀を滅ぼしたあたりから、不思議なほどゆったりと時を過ごしている。
年末は三河まで鷹狩に出かけ、天正六年の正月は安土でのんびりと茶会なぞをして過ごし、一月中旬には尾張や三河で再び鷹狩に興じている。二月の下旬には近江中から三百人の相撲取りを召し出して安土城で相撲大会を催し、これを見物したりしているし、三月上旬には安土近辺で三日にわたって鷹狩を楽しんでいる。この間、執拗なほど勤勉なはずのこの男が――藤吉朗を播磨に送り込んだことを除けば―― 一切の軍事活動を行っていない。あるいは外交や記録に残りづらい内政に専念していたのかもしれないが、少なくとも表面上、信長はほとんど半年にわたって沈黙を守っていた。
ところが、
上杉謙信死す――
その確報を掴んでからの信長は、眠りから覚めたかのように猛烈に動き始めた。
まず三月二十三日、信長は自ら上洛し、諸国に大動員を掛けた。岐阜の嫡男・信忠、伊勢の次男・信雄、三男・信孝を筆頭に、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、佐久間信盛ら軍団長クラスまで総動員し、近江、尾張、岐阜、伊勢はもとより、五畿内、若狭などの大小名にことごとく出陣を命じた。その規模は、八万を優に超えていたであろう。主立つ武将でこの動員から漏れたのは、柴田勝家の北陸方面軍と、藤吉朗・荒木村重の播磨進駐軍の諸将のみである。
織田の領国は広いから、信長が発した軍令が早馬によって通達され、これを受けた諸国の軍勢が京へと集結し、出陣の準備が整うまでには、どう急いでも十日ほどは掛かる。この大軍勢が南西を指して動き出したのは、四月四日だった。
織田信忠を総大将に戴いた織田軍は、摂津に侵攻し、本願寺の石山御坊に攻め寄せた。
信長は昨年来、荒木村重を使って本願寺との間で和平交渉を行っていたのだが、それが不調に終わったこともあり、今度は武威を見せ付けてやろうと思ったのだろう。本願寺側が篭城に徹したために本格的な合戦は行われなかったが、織田軍は本願寺領の麦苗を残らず刈り捨てにした。
長期篭城が続く本願寺にとって、兵糧の確保はまさに死活問題である。織田軍がたびたび農作物を刈り捨てにするために、篭城する門徒衆は兵糧の調達を毛利・雑賀水軍の船便に頼らざるを得ず、大阪湾の制海権がまさに命綱のようになっていた。
そうして本願寺を攻めながら、信長は外交でも次々と手を打っている。
上杉家の分国となったばかりの越中や能登の豪族たちは、上杉謙信の死に激しく動揺したらしい。“軍神”謙信あればこその上杉家である。その巨大なカリスマが死んだとなれば、当然、織田方の猛烈な巻き返しが始まるであろうことは容易に想像がつく。越中も能登も織田領の加賀に隣接しているから、この際、織田に誼みを通じておきたいという者が少なくなかったのである。
信長は、謙信に滅ぼされた越中守護・神保氏の子(神保長住)を味方につけ、これに軍勢を与えて越中に送り込み、飛騨国司・三木氏にも越中の調略を指示。さらに、同じく謙信に滅ぼされた能登の有力豪族・長氏の生き残りである長 連龍を能登に潜行させて一揆を起こさせ、柴田勝家には加賀、能登の攻略を命じた。
一方、信長自身は自ら播磨へ馬を出し、毛利氏と決戦するつもりであったらしい。そのことを三月二十七日づけの書状で藤吉朗に伝えている。
信長は、摂津 石山の包囲と監視を再び佐久間信盛に任せると、暴れさせた織田軍をわずか三日で京に呼び戻し、今度は明智光秀、丹羽長秀、滝川一益らに軍勢をつけ、丹波に出陣させた。
丹波の最大勢力である波多野氏は播磨の別所氏と縁戚で、この両者が結びついて共闘されては面倒だから、先に波多野氏を封じ込めてしまおうという意図であったのだろう。信長が畿内を留守にするというなら、その前に周辺地域を安定させておく必要があるわけで、本願寺を大軍で脅しつけたのも、丹波攻略を急いだのも、その筋に沿った戦略であったと考えられる。
この間、播磨の藤吉朗も無論じっとしてはいない。
信長が大軍を率いて播磨に入ってくれるというなら、別所が寝返ろうが毛利がやって来ようがもはや怖いものはない。むしろ、実際に信長がやって来る前にできる限り得点を稼いでおくべきであろう。
藤吉朗は別所氏に最後通牒をつきつけ、別所がこれを拒否するや、ついに敵として討伐することを決めた。三月二十九日、藤吉朗は自ら一万余の兵を率いて書写山を出陣し、端城、枝城を無視して一気に別所氏の本拠・三木城へと攻め寄せたのである。
藤吉朗が三木城への出陣を書写山の本陣で諸将に命じた時、
「それは危のうござる」
小寺官兵衛が渋い顔で何度も諌めた。
「面倒でもまずは周囲の枝城から落とし、三木城を裸にするが肝要かと・・・・」
敵の本拠である三木城を一気に衝くというのは、戦略的に見てかなりの無理がある。三木城は難攻不落を謳われる堅城であり、これに七千とも八千ともいう敵が篭っている以上、力攻めで短時間で抜くことはまず不可能であった。三木城の周囲には別所氏傘下の小豪族の城が無数にあり、それらを放置したまま三木城を囲めば、城を囲む羽柴軍の背後を敵に襲われる公算が大きい。城に篭る別所本軍が出戦してきて挟み討ちに逢えば、いかに羽柴軍が数で勝るとは言っても苦戦は免れないであろう。
その程度のことはもちろん藤吉朗にも解っていたが、それでもあえて三木城への直撃にこだわったのは、そこに政略的な意図があったからである。
播磨の豪族たちは、備前までやって来ている毛利軍・七万の武威と、上洛を噂された上杉謙信の武名とによって織田家の将来に対して不安を抱いていた。しかし、謙信の死によって織田を取り巻く政治状況は劇的に変化しており、信長は自ら兵を率いて播磨に出陣することを公式に表明している。
十三万の兵を引き連れて信長が播磨入りする――
藤吉朗は軍議の席でもそのように吹聴し、諜者を使って上杉謙信の死の報と共に播磨中にこの噂をばら撒かせた。
このことを知れば、播磨の小豪族の中には、別所を離れて独自に織田につこうとするような者も出るに違いない。小勢力にとれば「自家の生き残り」こそが重要であるわけで、滅亡を賭してまで別所に味方する者はそう多くないであろう。
藤吉朗自らが一万の大軍を率いて敵中に乗り込むのは、いわば小豪族たちに対する脅しであり、寝返りの催促のつもりなのである。
三月二十九日に書写山を出陣した羽柴軍は、翌三十日に三木に到った。
三木城は、三木の野にこんもりと盛り上がった釜山に築かれた平山城である。
城の前には美嚢川という大河が流れて外堀をなし、南方は鷹尾山という小山が聳えてそこにも砦が置かれ、城の背後を守っている。しかし、釜山自体は丘のようなテーブル型の台地で、比高はせいぜい二十メートルにも満たないだろう。
(難攻不落と聞いておったが――大した要害でもないではないか・・・・)
初めてその城を遠望した藤吉朗は、そう楽観した。
が、よくよく観察してみると、高さはないものの台地の斜面は急角度に切り立ち、しかも天然の巨石が岩肌をむき出していて、とても這い上がれそうにない。ざっと見たところ、攻め口らしい攻め口が見当たらないのである。
別所重棟や小寺官兵衛などに詳しく聞いてみたところ、三木城は釜山全域を要塞化しているために城域はなかなかに広く、本丸、二の丸、三の丸、東の丸、西の丸、中嶋丸、平山丸などの曲輪が切られているらしい。しかし、城内へと通ずる道は大手、搦め手を含めてわずか数箇所しかないそうで、それらはいずれも小道のように細いという。ここに数千もの兵が篭っているとすれば、力攻めで落とすのは容易なことではないであろう。頭上から攻撃を受けながらあの急斜面を登攀するにはよほどの被害を覚悟せねばならず、無理に攻めれば味方にどれほどの死傷者が出るか知れたものではない。
三木城に迫った羽柴軍は城下の集落を焼き払い、一度は大手口がある北側から城に寄せてみたが、応戦に出た別所軍の矢弾が激しいために美嚢川さえ越えられず、まったく攻め倦んだ。
(こりゃ無理じゃな・・・・)
藤吉朗は日暮れと共に兵を引き、城から少し離れた鳥町というところに本陣を据え、軍勢は四方に配って城を遠巻きに包囲する態勢を敷いた。
とりあえず敵を三木城に封じ込めにし、別所とその傘下の豪族たち連絡を断ってやろうというのである。わずかな人数で周囲の小城に篭る小豪族たちは、単独の自衛力などないに等しいから、三木城への道を塞いでやればそれだけで激しく動揺するであろう。
(力ない者は、いざとなれば長いものに巻かれようとするもんじゃ)
と、藤吉朗は高をくくっていた。
人間というのはギリギリの土壇場に追い込めば保身に走るのが当然であり、命惜しさに慌てて織田に擦り寄ろうとし、自分に頭を下げて来るに違いない。
が、これはまったく藤吉朗の読み違えだった。
この時、東播磨の小豪族の多くがすでに城を捨て、一族郎党を引き連れて三木城に入ってしまっていた。自分の居城で篭城していたのは、独自の防戦能力がある有力豪族だけだったのである。
別所傘下の豪族たちは、「加古川評定」での失言によって藤吉朗を仇敵のように憎んでおり、織田に属す気を失くし切っていた。彼らは家中の多くが本願寺門徒ということもあって、一向宗を庇護する別所氏と進退を共にする覚悟を固めていたのである。その意味で彼らが連合した別所軍というのは宗教一揆的な色合いが濃く、その結束は並みの大名家よりよほど堅固であった。
寝返りの使者なぞはどの豪族からも来ず、来ないどころか彼らは羽柴軍に猛烈なしっぺ返しを食らわせてきた。
四月五日、野口城の長井長重、志方城の櫛橋伊定、神吉城の神吉頼定、高砂城の梶原景行ら有力豪族たちが連携して千余の兵を集め、三木城を囲む羽柴軍の背後から夜襲を掛けたのである。
夜襲部隊は、大村坂というところに置かれていた羽柴軍の陣屋を急襲した。この突入に合わせ、三木城からも別所友之を大将に千余の兵が出戦して大村坂の陣屋に斬り込んだ。
大村坂の羽柴軍の軍兵たちは――おそらく二、三千の規模であったろう――前後も忘れて寝入っていたらしい。藤吉朗ほどの男が旗下の将兵に夜警の注意をしなかったとは思えないが、『播州太平記』では、軍兵たちは昼間の城攻めの小競り合いで疲れ切り、夜の酒宴で酔い伏していたことになっている。
いずれにせよ、突然の夜襲を受けた大村坂の陣屋は大混乱し、恐慌状態に陥った兵たちはろくに抗戦もできず、ひとたまりもなく敗走した。どれほどの死傷者が出たかは詳らかでないが、名のある武者さえ数名討たれ、捨て置かれた兵糧、武具、鉄砲、矢弾などはことごとく奪い取られたという。
急を聞いた藤吉朗は本軍を率いてすぐさま出陣したが、駆けつけた時には大村坂には陣屋の無残な跡があるのみで、すでに敵兵は影も残っていなかった。
(なんなんじゃこの醜態は・・・・!)
己の見通しの甘さと兵たちの気の緩みに対し、後悔と怒りとで腸が煮えるようであったに違いない。
三木城を囲い続ける危険を痛感した藤吉朗は、いったん三木から兵を引き、糟屋氏が三木城に入ったために打ち捨てられた加古川城を接収してここに本陣を置いた。
四散し壊走した敗兵の収容と、態勢を立て直す作業に数日を費やす。
緒戦の無様な敗戦は、織田に属する者たちの意気を消沈させ、別所方の戦意と士気をさらに高揚させていた。豪族たちは誰も藤吉朗に靡こうとせず、結局、東播磨で織田方に残ったのは、わずかに阿閉城の別所重棟と明石城の明石左近のみであった。
この現実を受け、藤吉朗は小寺官兵衛らと協議し、戦略を変更することを決めた。
まずは枝城の豪族たちを虱潰しに攻撃し、三木城を裸城にする。別所が出戦して枝城を救援に来るようなら、それこそこちらの思う壺である。これを野戦に引きずり込んで、叩き潰してしまう。篭城する別所本軍を短期間で滅ぼすのはまず不可能だが、野戦なら兵数に勝る羽柴軍が有利であり、勝敗も一日でつくであろう。
まず手始めに、加古川城からほど近い野口城を攻めることにした。
野口城は別所氏の重臣・長井長重の居城で、わずか五百ほどの人数が篭る小城だが、城の三方を泥田や沼に囲まれているために攻め口が一筋しかなく、ひどく攻め難い。
藤吉朗は軍兵と人夫を総動員し、まず城の周囲の沼に付近の山から切り出した木や草などを大量に放り込み、沼を埋めさせ、大軍にものを言わせて四方から城を攻め、これを四月十三日に抜いた。
さて――
半兵衛は、四月に入ると咳が収まり、血色もずいぶんと良くなった。
「病はもうすっかり癒えましたので――」
半兵衛は自ら隠居屋敷を出、姫路城に詰めて小一郎を補佐してくれるようになった。
小一郎と半兵衛は姫路から東方の羽柴軍の別所攻めを見守っていたわけだが、一方、西方・備前に腰を据えていた毛利軍は、同じく四月上旬、ついに行動を開始した。播備国境を越えて上月の地に続々と兵を集結させ始めたのである。吉川元春と小早川隆景が率いる軍団に宇喜多氏の援軍を加えた五万ほどの大軍で、さらに毛利輝元が率いる本軍・二万が後詰めとして備中に控えているらしい。
上月城には山中鹿之介率いる尼子党・七百人ほどが篭っているが、とても防ぎ切れるような数ではない。
鹿之介はすぐさま姫路へ早馬を走らせ、援軍を要請した。
(尼子は絶対に捨て殺しにするわけにはいかん・・・・)
小一郎は思った。
尼子党はそもそも出雲人の集団で織田家の家臣ではない。毛利征伐を目指す織田家と「毛利打倒・尼子家再興」を目指す尼子党の利害が一致したために彼らは信長を頼ったわけで、織田家の側が尼子党を利用するだけ利用し、その危機を救わず、これを見捨てるようなことをすれば、今後織田家を頼ろうとする者はいなくなり、いま味方になってくれている外様衆――官兵衛の小寺氏や播磨守護・赤松氏、別所重棟など播磨の国衆たち――も織田家を白眼視し始めるであろう。
小一郎からの急報を受けた藤吉朗も、小一郎が危惧する程度のことには当然ながら気付いている。
腹立たしくはあったが、別所討伐をひとまず諦めた。
(すぐにも東から上様の援軍がやって来てくださるはずじゃ。たとえわしらがこの場を退いても、別所はうかうか城を出戦できまい・・・・)
別所は確かに厄介な相手だが、織田にとって本当の敵はあくまで毛利である。毛利軍さえ播磨から追い返せば、別所は播磨東部に孤立することになるわけで、やがては勝手に立ち枯れてゆくだろう。
藤吉朗は、五千ほどの兵を奪った小城にそれぞれ篭め、別所方の動きを掣肘すると、本軍を率いて書写山に駆け戻った。大急ぎで軍勢を再編成し、残る全軍を率いて上月城救援に出陣したのである。
小一郎、半兵衛も、これに付き従うことになった。
羽柴軍が上月に到着し、高倉山に陣を敷いたのは四月下旬である。
毛利軍の襲来からすでに十日以上が経過しており、上月城は当然ながら毛利の大軍に蟻の這い出る隙間もない勢いで重厚に包囲されていた。
毛利軍は、五万もの大軍で上月の小城ひとつを何重にも包囲し、周囲の高地に陣を敷き、木柵を植え込み、櫓をいくつもあげ、堅固な陣城を築き上げていた。これは、たとえば『長篠の合戦』で武田軍を叩くために織田軍が構築した野戦陣地にも似ていた。
高倉山の山頂の砦から敵陣の様子を遠望した小一郎は、
(なんじゃこれは・・・・)
半ば呆れるように思った。
上月城を守る尼子党は、千にも満たないのである。五万の毛利軍が本気で攻めれば、山中鹿之介らがどれほど奮戦しようと羽柴軍到着の前に城は落とせていたであろう。しかし、毛利軍はそれをせず、兵の一部で上月城をああして締め上げながら、せっせと防御陣地を築いていたということになる。
「猫どころか――虎が鼠をいたぶるような話ではないか・・・・」
小一郎は呻いた。
「上月城は、いわば我らをおびき寄せる餌――」
小一郎の傍らに立った半兵衛が言った。
「無理攻めをせず、ああしてただ囲んでおるのは、上月救援に出て来る我らを叩こうという軍略なのでしょう」
この上月周辺の地形は、平地が狭隘で大軍を進退させるに不利である。不用意に上月城へと向かえば、周囲の高地に布陣した毛利軍が一斉に山を駆け下り、四方から羽柴軍に攻め掛かるであろう。
山上の毛利軍を叩こうにも、ああも堅固に野戦陣地を構えられてはどうにもならない。城攻めは敵の数倍の兵力が必要だが、五万の毛利軍に対し、播磨の各地の城に守備の人数を配った羽柴軍は一万二千ほどに過ぎないのである。
「しかし、これで敵の意図がはっきり見えました」
半兵衛が事も無げに言った。
「毛利は、負けぬ戦をするつもりなのでしょう。播磨に深く踏み込んで来るほどの気概は、もはやないのだと思います。上杉謙信殿が卒したからかもしれませんね」
もし毛利が、信長の播磨入りの前に羽柴軍を潰し、別所と合して播磨を併呑しようと考えていたとすれば、上月城は力攻めで一気に落とすか、あるいは抑えの兵を二千ほども残し、無視して播磨平野に雪崩れ込んだに違いない。毛利軍は五万であり、羽柴軍を滅ぼすには十分過ぎる兵数がある。羽柴軍とすれば野戦では勝ち目がないから、書写山に篭城して時間を稼ぎ、信長の援軍が来るまで敵を支える、という展開になっていたはずだ。
「しかし、毛利はそれをせず、ああして陣城を堅固に構えている。我らが毛利を怖れる以上に、敵は安土様を怖れておるということです」
半兵衛はそう言って微笑した。
「どういうことですか?」
「広い野で戦えば、戦は兵の数が大きくものを言いますからね。毛利とすれば、この山間で織田の大軍を迎え撃ちたいのでしょう」
いかに毛利が大軍でも、兵の数を競えば織田にはかなわないのである。
たとえば毛利軍が播磨平野に雪崩れ込み、書写山に篭城する羽柴軍を攻めたとして、信長が十万を越すような大軍を率いて播磨に入り、書写山を攻める毛利軍を逆包囲するような事態になれば、毛利は必敗であろう。毛利にすれば信長が連れて来るであろう凄まじい大軍を意識せざるを得ないから、広闊な平地で野戦になるかもしれぬような危険は冒せないのである。
一方、狭隘な山岳地帯で局地戦をするというのであれば、先に布陣して地の利を得た側が圧倒的に有利であり、裸の野戦をする場合と比べて兵数の寡多が勝敗に影響する割合がはるかに小さくなる。信長の援軍が現れたとしても、五万の兵があのように高所に布陣し、防御陣地に篭って防戦するのであれば、そうそう負けるものではない。
「慎重な上にも慎重――おそらく小早川隆景殿の軍略でしょうね」
毛利軍は、山陰では吉川元春、山陽では小早川隆景がそれぞれ主導権を握るというのが慣例らしい――という意味のことを半兵衛は続けた。
毛利輝元の叔父である吉川元春と小早川隆景は、“毛利の両川”と謳われ、共に中国屈指の名将として名が高いが、その個性は水と油ほども違う。武勇に優れる吉川元春は積極果断な軍略を好み、知略に優れる小早川隆景は重厚で慎重な軍略を好むという。
「あのように守勢に徹せられては迂闊に手出しもできません。此度の戦は――どうやら気長な対陣になりそうですね・・・・」
小一郎は苦しげに眉根を寄せた。
「上月城の兵糧は、せいぜいあと二月ほどしか保たないはずです。それまでにこの状況をなんとかせねば――」
尼子勝久、山中鹿之介はじめ城内に篭る尼子の遺臣たちは、残らず餓死せねばならなくなるであろう。




