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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第88話 “軍神”死す

 姫路城がある姫山の南麓に、土地の分限者(金持ち)が建てた小さな隠居屋敷がある。

 この一月ほど、半兵衛はここで病気療養に努めている。

 狭い姫路城の城内では、千石そこそこの分限でしかない半兵衛殿一人に個室を与えるというわけにもいかないのだが、他人と同宿しながらの病臥では落ち着いて寝てもいられないだろう。半兵衛の病状を案じた小一郎が、小寺官兵衛に頼んで用意させたものである。


 地元を知り尽くしている官兵衛は、領内の名主や豪農に話を通し、すぐさま格好の物件を探してくれた。

 母屋は囲炉裏が切られた八畳間と四畳半の二間に台所と厠がついただけの簡素な作りで、長らく使われてなかったらしく床にはうず高く埃が積もり、屋根はかやを葺き替えねばならぬほどに痛んでいたが、日当たりが格別に良いというのが決め手になった。母屋の屋根を葺き替えさせ、床板を張り直し、寝室になる四畳半にはわざわざ畳を入れ、綿のたっぷり入った夜具まで調えて、半兵衛をここに住まわせたのだ。


 小一郎がその屋敷を訪ねたのは、天正六年(1578)三月中旬の某日――よく晴れた日の午後であった。山里の景観に溶け込んだ屋敷の屋根越しに見た姫山の山桜は、そろそろ盛りを終えようとしていた。

 小一郎はいつもそうするように屋敷の脇にあるけやきの大樹に馬を繋いだ。従者たちには正門から勝手口に回るよう指図し、自らは枝折り戸を押して庭からするすると中に入る。潅木の間を抜けて母屋に到り、その縁に腰掛けた。

 風さえ光って見えるようなうららかな春の陽気である。南側のこの縁は陽がよく当たり、ぽかぽかと暖かい。遠くの林にうぐいすがいるらしく、どこかぎこちない鳴き声と練達のそれとが微かに聞こえてきた。親鳥の鳴き方を真似て、未熟な雛鳥が練習をしているのかもしれない。


 病人が眠っているようなら土産だけ置いて帰るつもりだったのだが、幸い半兵衛は起きていたらしい。来客の気配を察したのか、四畳半の明かり障子が中から静かに開いた。


「あぁ、小一郎殿でしたか――」


 また少し痩せた半兵衛は、それでも口元にいつもの微笑を浮かべていた。


「お身体の具合はいかがですかな?」


「はい。もうすっかり良くなったようです」


 そういう半兵衛の顔は、血の気が失せて青白い。もともと華奢で肉薄い身体つきであったことを差し引いても、たとえば袖から出た手首や指などはさらに細くなったように見えた。


(病は重いのであろうか・・・・)


 暗鬱とした微かな不安を小一郎は顔には出さず、いつもの丸い声音で、


「――実は、ししが手に入りましてな。りょうらせようと持って参ったのです。わしも内緒でご相伴に預かろうと思いまして」


 と言って笑った。


 この時代、日本人は一般に獣肉を食さない。仏教の不殺生戒と神道のけがれ思想の影響であろう――鳥と魚に関しては別だが、牛、馬、猿、犬などの獣の肉を食べることは奈良時代あたりからタブーとされており、このことはすでに数百年来の慣習になっている。

 もっとも、このタブーは厳密に守られていたわけではなく、たとえば常に食に窮する戦場では軍兵たちは獣が捕れれば喜んでこれを食べていたし、篭城中に兵糧が尽きれば馬さえ潰して食料に換え、猫でも鼠でも食えるものなら何でも口に入れた。これは何も武士に限ったことではなく、たとえば狩猟や革のなめしを生業とする「山の民」は獣肉を常食にしていたようであり、あるいは都市でも迷信じみた慣習をものともせず普段から肉食にくじきを楽しむような者もあったであろう。肉の美味さとその滋養効果は一般によく知られていたから、方便として獣肉を「薬」と位置づけ、特別に「病人食」として黙認するようなことも広く行われていたらしい。

 ついでながら、兎を一羽二羽と数えるのは、これを「鳥」に見立てて食べていたことに由来している。たとえ禁じられたとしても、美味いモノなら抜け道を作ってでも食いたいというのが、今も昔も変わらぬ人情であろう。


 ところが半兵衛は、獣肉に関しては素朴な嫌悪感を持っていたようで、


「四ツ足ですか・・・・」


 困ったようにわずかに眉を寄せ、そこで不意に咳き込んだ。

 乾いた咳がなかなか収まらない。


「薬と思うて、無理にも食べていただきますぞ。本復するまで養生専一にと、兄者からきつう命ぜられておりますでな」


 小一郎が主君の名を出すと、半兵衛も観念したように苦笑した。


 水仕事のために雇っている近所の老婆が、気を利かせて煎茶と干し柿を持って来てくれた。

 半兵衛は老婆に礼を言い、青く澄んだ遠くの空に視線を移しながら茶を一口飲み、話題を変えた。


「――別所は、未だ動かぬようですね」


「お耳に入っておりますか・・・・」


 小一郎は憂鬱そうに同じ空を眺めた。

 半兵衛も己の知行で十数人の家来を飼っている。その者たちが、半兵衛の目となり耳となって播磨や近隣の情勢を主に伝えているのであろう。


「兄者は再三、出陣を催促しておるのですが――残念ながら、もはや別所は織田に組みする意思なしと断ぜざるを得ません」


 毛利軍出陣の報を受け、藤吉朗は播磨の諸豪にすぐさま大動員を掛けた。しかし、別所氏とその傘下の豪族たちはこれに応じなかった。藤吉朗が督促するたびに言を左右して引き伸ばし続け、約束の三月八日を過ぎ、現在に到ってもなお、別所は兵を出そうとしないのである。

 藤吉朗は――あくまで武力衝突を避けるつもりなのであろう――別所を敵と決め付けることをせず、別所重棟しげむねを何度も三木に遣わしてどうにかこれを翻意させようと躍起になっている。

 これに対して別所氏は、播磨守護の赤松則房のりふさを仲介者として藤吉朗に詫びを入れるなどして交渉をずるずると長引かせていた。別所にすれば、この時点で織田と断交して単独で戦争状態になるのは得策ではない。毛利軍が播磨に侵攻して来るまでは、こうして時間を稼ぐつもりなのだろう。


「毛利の足の遅さに救われておるのですから、皮肉な話ですね」


 半兵衛が微かに笑った。


「おっしゃる通りです」


 小一郎は頷き、千切った干し柿を口に放り込んだ。


 問題の毛利氏は、吉川元春が一万数千を率いて山陰道から美作みまさかを経て備前に入り、同じく小早川隆景が二万ほどを引き連れて山陽道を備前に進み、宇喜多氏・一万数千の軍兵と合流し、兵を集結させている。さらに毛利輝元が本軍二万を率いて備中まで出て来ているという最新の諜報を小一郎は受けているが、不思議なことに毛利氏はそれ以上東進しようとせず、備前で兵を留めているのである。


 毛利軍は当主・輝元自ら出陣するという総動員態勢で、七万という途方もない大軍を繰り出して来ている。もはや羽柴家のみで対応できる規模の話ではなく、藤吉朗は信長に事態を急報し、援軍を要請した。

 事態を重く見た信長は、すぐさま摂津の荒木村重むらしげに播磨出陣を命じた。村重は五千ほどの兵を引き連れて播磨に入り、羽柴軍に合流している。

 つまり、このとき播磨にあった織田方の兵力は、羽柴勢・八千数百と援軍の荒木勢・五千。これに尼子党や播磨の味方を加え、一万七千あまりということになる。

 改修して拡張したとはいっても、姫路城では荒木勢まではとても収容し切れない。藤吉朗は小寺官兵衛の建策に従い、姫路から西北一里にある書写山を接収し、ここに本陣を移していた。それ以来、姫路城は小一郎に任されている。


 ちなみに書写山というのは、「西の叡山」とまで言われた宗教的権威・円教寺がある山で、山域一帯に堂塔・伽藍、僧坊などが数多くあり、兵糧なども貯め置かれていたから、大軍が駐屯するに格好の場所であった。織田軍が書写山に迫ると、その軍兵の姿を見て一山の僧俗はことごとく逃げ散ってしまったらしい。七年前の「比叡山焼き討ち」の記憶がまだ生々しく、織田に逆らえばその二の舞になると戦慄したのであろう。


 ともあれ、毛利・宇喜多連合軍・七万に対し、播磨の織田方はわずか一万七千に過ぎなかった。別所氏という癌があるために播磨の国衆を纏めることさえできず、防戦態勢はほとんど整っていない。裏を返せば今こそが毛利氏にとっては好機であるはずなのだが、毛利軍の動きは不可解なほど慎重で、出陣から半月以上経っても未だ播備国境を越えようとしないのである。


「何ゆえ毛利は、播磨に攻め込んで来ぬのでしょうか?」


 小一郎が素朴な疑問を口にすると、


「越後の上杉謙信殿が動くのを待っておるのでしょう」


 半兵衛は当然のように答えた。


「あ――なるほど・・・・」


 上洛の軍を発すると約束していたはずの上杉謙信は、三月中旬の現在になっても未だに動きがないらしい。

 謙信は、「関東に出陣する」という名目で一月下旬に諸国に陣触れし、越中・越後などの兵を居城の春日山城に集めている。しかし、信長の側近からもたらされた最新の諜報でも、上杉軍は関東へも京へも動くような気配はないという。


 上杉軍が動かないと知った毛利氏や足利義昭は、当然ながら不信感を募らせていた。後背常ない時代である。たとえば謙信が、ここで信長と再び手を結ぶというようなことだって、絶対にあり得ない話とは言い切れない。

 上杉と毛利で織田領に攻め入るタイミングを合わせなければ、織田の兵力を分散させる挟撃の意味がなくなる。上杉軍の上洛戦がないなら、今回の挟撃作戦そのものの基礎が崩れるわけで、それに合わせて戦略を練り直さねばならなくなる。上杉軍の上洛が延期になっているのか中止になったのか――なぜ謙信が動かぬのか――事情がはっきりせぬ限り、毛利氏とすれば動きが取れなかったのだ。


 上杉氏の越後と毛利領の中国とは直線でも五百キロ以上の距離があるから、毛利氏が備中や備前から使者を往復させて事情を問い合わせるとすれば、日本海の海路を取ったとしても半月近くの時間が掛かる。


「毛利が動くとすれば、今月末か来月早々ということになるのではないかと思います」


 と半兵衛が言ったのは、そういう計算が基礎になっている。


「なるほど。ならば――いや、いずれにしても、一刻も早う別所の問題にカタをつけねばなりませんな・・・・」


 このままグズグズと逡巡しているうちに毛利軍が播磨に侵攻し、それを待っていた別所が兵を挙げるというのが、シナリオとしては最悪であろう。別所の態度が変わらない以上、どこかでこれに見切りをつけて敵として討つしかないわけで、あとは藤吉朗の決断ひとつに掛かっている。


「討つなら早く――と言いたいところですが、別所を滅ぼすとなれば、これは容易な事ではない。さすがの殿も、此度ばかりは迷われておるようですね」


「半兵衛殿が兄者の立場なら、どうなされますか?」


 半兵衛の考えを藤吉朗に伝えておくことは無益ではないであろう。


「難しいところです・・・・・」


 半兵衛は細い腕を組み、珍しく答えに窮した。


「おっしゃっる通り、別所の離反はもはや止められぬでしょう。荒木殿の加勢があるとはいえ、我らだけであの毛利を抑えるのはもともと無理の無理。これに別所までが敵に回るというのでは、正直、手の施しようがありません。なんとか互角の勝負に持ち込むには、少なくともあと三万は兵が欲しいところですね・・・・」


 さしもの半兵衛も、打つ手がないらしい。


「実際のところ、上杉謙信殿の上洛の可能性が消えぬ限り、安土さまは近江を手薄にはできぬでしょう。さらなる援軍をお願いしたところで、三万もの兵を送ってくれるとは思えません。寡兵の我らとすれば、書写山とこの姫路で篭城するくらいしか戦のしようがない」


 上杉氏に対する抑えは北陸の柴田勝家だが、勝家は先の「手取川の合戦」で二万もの援軍をもらいながら謙信率いる上杉軍に惨敗している。謙信は今度こそ上洛を目指して加賀を南下すると目されているから、信長としてもこれに備えぬわけにはいかないであろう。

 足利義昭が策した「信長包囲網」は、確実にその実効をあげていた。信長は常に兵力の分散を余儀なくされ、手持ちの大軍を集中して運用することができないのである。


「毛利にも弱味がないわけではありません。あれだけの大軍を維持するには膨大な兵糧が必要になりますし、毛利軍の雑兵はみな百姓ですから、此度のような大動員を半年、一年とし続けるわけには参らぬはず・・・・。どうにかして冬までしのげば、潮目が変わるかもしれません。雪が落ち始めれば、謙信殿は越後に引き篭もらざるを得ませんからね」


 謙信の脅威さえ去れば、信長も対毛利戦に本腰を入れてくれるであろう。

 しかし――


(我らだけで、冬まで毛利の大軍を支えられるやろか・・・・)


 考えれば考えるだけ絶望的な気分になってくる。


「何か、手はないもんですか・・・・?」


 小一郎が問うと、半兵衛は少し考え、


「今すぐどうこうなるというようなものではありませんが――宇喜多直家殿を寝返らせるという手はあると思います」


 と言った。


「宇喜多を――!?」


 発想の大転換と言うべきであろう。確かに宇喜多が織田に寝返れば、中国の勢力地図は一変する。

 宇喜多直家は、毛利氏にとって最大の同盟大名である。その勢力は備前を中心に美作みまさか・備中・播磨にまで及び、石高で言えば五十万石に近い勢力を持っている。これが織田方に転べば、毛利氏は播磨への道を塞がれる格好になり、一万数千もの兵力がごっそりと減り、それがそのまま敵に回ることになる。


「この苦境を脱するには、これより手はないでしょうね。宇喜多殿は主家を滅ぼしてのし上がったような仁ですから、毛利に属しておるのも義理や忠義からではなく、どうせ一時の方便。織田と毛利の勝つ方につきたいと、当然思うておりましょう。戦況が織田有利に運べば、こちらに靡かぬこともないと思います」


「宇喜多が我らの味方となれば、それは確かに・・・・・」


 宇喜多氏が毛利から織田に鞍替えすれば、七万 対 一万七千の戦力比が、単純計算で五万数千 対 三万余という対比に変わる。数の上ではまだまだ織田方が劣勢だが、三万もの兵力があれば、戦い方次第では互角以上に渡り合ってゆけるであろう。

 また、備前の宇喜多が織田方になれば、播磨という国自体が織田勢力に包囲される形勢になる。播磨の国衆たちも、そうなれば毛利につこうとは思わなくなるであろう。別所氏も、あるいは織田方に踏み止まるかもしれない。


「ただ、このためには『織田が勝つ』と宇喜多殿が確信するほどの武威を示さねばなりません。毛利を追い返すくらいのことができなければ、難しいでしょうね。そもそも上様があれほど評判の悪い男の帰順をお許しになるかどうかも解りませんし・・・・」


「あぁ――」


 信長は、地方の大勢力は極力潰し、その領地を功臣に分け与え、あるいは自分の直轄地にするという方針を取っている。宇喜多直家が調略に応じる応じぬの以前に、五十万石という大封を持つ宇喜多氏の帰順を信長が許すかどうかは微妙なところだろう。


「織田と毛利の力は今は拮抗しているように見えますが、我らが播磨を押さえ、備前を取れば、形勢は一気に織田に傾きます。織田が勝つと見れば、毛利にとって外様の諸豪は争って織田に靡くでしょうからね。つまりはこの播磨の戦で、天下の事が決まると言っても過言ではない・・・・」


 空を仰ぎつつ大きく嘆息し、返す返すも別所を味方につけておけなかったことが悔やまれる――という意味のことを半兵衛は言った。


「申しても詮無いことですが――安土さまが今すぐにても自ら馬を出され、畿内の兵を率いて播磨に入ってくだされば・・・・」


 信長が五万、六万という規模の大軍を率いて自ら播磨に入れば、別所もその武威を怖れ、離反を思い止まるかもしれない。その大軍勢で毛利と互角の対陣をし、農兵主体の毛利軍が我慢し切れず備前から去るまで戦況を維持できれば、もうこちらのものである。毛利本軍さえいなくなれば、矢面に立たされる宇喜多氏もたまらず織田に寝返るに違いない。その後の中国経略は、よほど容易になるであろう。


 しかし、これは現実的に不可能であり、そのことは半兵衛もよく解っていた。

 上杉謙信の脅威がある以上、信長は安土を動けないのである。


「宇喜多の調略については、兄者に話してみようと思いますが――」


 調略せよと言ってみたところで、羽柴軍が毛利軍に敗れれば話はそれまでである。毛利との直接対決の緒戦で織田が大敗など喫すれば、中国地方での織田家の信用は決定的に失われてしまうであろう。

 差し当たり、眼前に迫っている毛利の大軍をどうするか――織田に従おうとしない別所をどう処置するか――というところに話が戻らざるを得ない。


 小一郎は言葉を失い、半兵衛もまた沈黙した。


 やがて、味噌の良い香りが屋敷の中から漂ってきた。連れて来た従者たちが、猪肉の調理を終えたらしい。


「あぁ、どうやら支度ができたようですな」


 小一郎が促し、半兵衛と共に隣間に行くと、囲炉裏の自在鉤に鍋が吊られ、先ほどの老婆が火に薪を足していた。

 鍋は、味噌仕立ての牡丹汁である。

 葱、白菜、椎茸などと共に煮込まれた猪肉は、ことのほか美味かった。



 この時、その動静を日本でもっとも注目されていたであろう上杉謙信は、実はすでにこの世にない。謙信は去る三月九日、脳卒中で倒れ、意識が戻らぬまま三月十三日に死んでいたのである。

 信長にとって最大の危機になるはずであった謙信の上洛戦は、こうして呆気なく――しかも絶妙のタイミングで――未然についえていた。信長という男の凄まじいまでの強運を、あらためて裏書きするような事態と言えるであろう。


 ついでながら触れておくと、謙信が遺言も残さず突然没してしまったために、上杉家では謙信の後継者を決めることさえできず、二人の養子の家督争いから内乱が起こりかねぬ状況になっていた。もはや上洛戦どころの騒ぎではなく、毛利氏との共闘の約束などは重臣たちの議論の俎上そじょうにも上らなかったであろう。上杉家の重臣たちにすれば、少なくとも跡継ぎが決まるまでは対外的に謙信の死を秘しておきたいというのが当然であり、上杉方から使者を発して毛利氏にそれを急報するようなこともなかった。


 つまり、この時期、「謙信の死」はまだ中国まで伝わっていない。

 織田方がこの驚くべき情報を掴んだのはおそらく三月下旬であり、毛利氏がその事実を知ったのも同じ時期であったと思われる。

 いかに半兵衛が深謀遠慮の男でも、こんなことを予見することはできるはずもない。


 この巨星の死は、織田家を取り巻く政治状況を劇的に変化させた。

 小一郎ら織田に属する人々にとってジリ貧だった播磨の情勢は、ここから大きく旋回するのである。




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[一言] 天下統一には 天の時 地の利 人の和とされますが 信長は見事にこの3つを持ってましたね 天の時は 1.足利義昭が頼ってきた 2.武田信玄が西上中に病没 3.上杉謙信も毛利と東西包囲網予定直…
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