第87話 別所氏の離反(4)
“糟屋が屋形”――加古川城本丸御殿の奥にある書院の一室を、藤吉朗は自分の居室に使っている。小一郎がその襖を開くと、藤吉朗は脇息に寄りかかり、火鉢を抱え込むような姿勢で不機嫌そうに座っていた。
「播磨の衆はみな帰ってしもうたぞ」
小柄な兄は無言で睨むように小一郎を見上げた。
小一郎はその前に座り込み、言葉を続ける。
「いったい・・・・どうするつもりなんや?」
「どうもこうもあるか・・・・。西国出陣は、予定通り吉日の三月三日に行う。そのように国衆どもに陣触れするよう官兵衛に申し伝えておけ」
怒ったような困ったような複雑な表情である。
「別所が――素直に応じてくれりゃぁええがな・・・・」
小一郎の危惧は、当然、藤吉朗も持っているであろう。
「小一郎、わしは何じゃ。言うてみい」
「は? ・・・・兄者は――」
どう答えるべきかとっさには解らず、小一郎は言葉に詰まった。
「織田家の中国管領じゃ。信長さまの――天下さまの代官としてわしはこの播磨におる。ちゃうか?」
「それは、その通りやが・・・・」
「それをあの田舎者めが・・・・わしを何と心得ておるか・・・・!」
怒りを噛み殺すように低く呟いた。
藤吉朗にすれば、辛いところであったろう。
あの無礼な別所吉親に対してこちらからさらに折れて下手に出るようでは、信長の代官としての威儀と面子が保てない。かといって、吉親は播磨最大勢力・別所の執権であり、当主・長治の名代であるから、これを衆目の前で叱り付け、恥をかかせるわけにもいかないのである。そんなことをすれば吉親は藤吉朗を深く恨み、別所を毛利方に投じてしまうであろう。
別所が反織田に踏み切れば、播磨の小豪族の六、七割がこれに同調することはまず間違いない。そうなればもう毛利攻めどころの騒ぎではなくなるから、別所と決定的な決裂を回避するには、ともかくも席を蹴ってあの場を離れるしかなかったのである。
「別所のことは、孫右衛門殿(別所重棟)に何とか骨を折ってもらうほかあるまい。あの山城という男では話にならん」
藤吉朗が吐き捨てるように言った。
相手がそこいらの小豪族なら非協力的態度を口実に攻め滅ぼすことさえできるのだが、別所は二十万石近い大勢力であるから始末に悪い。万一、これが敵に回るようなことになれば、姫路に本拠を置く羽柴軍は東の別所と西の毛利に挟まれる形勢になり、想像するのも恐ろしい窮地に陥ってしまうのである。
幸い、藤吉朗が新たに引き連れて来た軍勢と合わせて播磨には八千を越える織田の兵力がある。別所以外の小豪族たちなら、この武威によって十分に靡かせ得る。別所を織田方に踏みとどまらせることさえ出来れば、後は何とでもなるであろう。
その意味で、別所だけは何としても味方に繋ぎとめておかねばならないのだが、仮に別所が味方であってくれたにしても、いつ裏切るかも知れぬ危険因子と共に果たしてあの毛利と戦ってゆけるのか――
(刃の上を渡るような危うさじゃな・・・・)
小一郎でさえそう思わざるを得ない。
この時、
(別所はむしろ滅ぼしてしまう方が良いのではないか・・・・)
という思案が、藤吉朗の頭をかすめなかったと言えば嘘であろう。
不安材料を抱えたまま敵国深く踏み入って行くのは、そもそも危険極まりないのである。たとえば西隣・備前に攻め込み、宇喜多・毛利の連合軍と対陣したとして、そのとき別所が戦場で敵に寝返れば合戦は必敗であろうし、あるいは藤吉朗に無断で陣を払い、播磨に帰って叛かれるような事態になれば、退路と補給線を断たれた羽柴軍は滅ぶより道がなくなる。
(毛利攻めには遠回りになってまうが、別所を先に討って播磨の足場をしっかりと固め、それから西国へ出てゆく方が安心じゃ)
と考えるのは、むしろ自然であろう。
別所さえ滅ぼせばあとの小勢力は問題にならないし、播磨の半国以上がまるまる藤吉朗の取り分になる。本領の北近江と奪った但馬南部などの領地をこれに合わせれば、五十万石近い大封を手にできる。
しかし――
(別所もむざとは討たれまい。三木城に篭って徹底抗戦を構えられては、これを滅ぼすに半年や一年は掛かってしまうやもしれん・・・・)
という現実計算が、藤吉朗の足かせになっている。
藤吉朗が別所と戦い始めれば、その間、毛利がこれを黙って見ていてくれるはずがない。別所も織田と敵対するとなれば、当然、毛利と結ぶであろう。毛利は別所救援のために播磨に攻め入って来るに違いなく、羽柴軍はやはり別所と毛利の挟み撃ちにされることになる。
(叛きたければ勝手に叛け。そのときは、骨も残さず滅ぼしてやる)
という捨て鉢な気持ちもないではないが、
(やはり別所には、何としても味方であってもらわねば困る・・・・)
というのも、藤吉朗の偽らざる本音であった。
波風立てずに何とか事を収め、別所と硬い信頼関係を築いた上で、これを先陣に立てて毛利攻めを行うというのが最上であることは論を俟たない。が、極めてみれば、別所が織田につくのか毛利につくのか――この別所自身の選択の問題に帰するであろう。別所が毛利につくと決断すれば、藤吉朗が泣こうが喚こうが怒鳴ろうが、どうなるものでもないのである。
そういう意味では、別所吉親と喧嘩分かれしてしまったことで、藤吉朗は打つ手を失った感があった。得意の調略でたらし込もうにも、別所の執権があの男ではどうにもならないのである。当主の長治と直接接触できればまた違うであろうが、信長の代官たる藤吉朗の方から辞を低くして地方勢力の当主の元まで出向くということは体面上できかねたし、無理にそれをしたとしても、別所がすでに毛利に内通していた場合、出向いた三木城で殺されてしまうことだって考えられ得る。
自らの失言によって、藤吉朗は文字通りの自縄自縛に陥っていた。別所の離反を怖れつつも、別所自身の選択にすべてを委ねるほか術がなくなったのである。
一方、問題の別所吉親は、三木に帰るやただちに重臣を集めて評定を開いた。「加古川評定」の報告のためであり、今後の別所の進退について協議するためでもある。
別所長治の前に、再び重臣たちが集められた。今度は親族ばかりでなく、吉親と共に「加古川評定」に参加した櫛橋氏、三枝氏、高橋氏、後藤氏、山許氏、粟生氏といった小豪族の当主も同席していたらしい。これらの豪族は当主も領民も多くが本願寺の門徒であり、解りやすく言えば別所吉親に組する織田嫌いの者たちである。
織田派の別所重棟は、やはりこの場に呼ばれていない。つまり、織田贔屓の者は一人もいなかったことになる。
「皆も知っての通り、わしは殿の名代として加古川に参ったが――」
吉親は、「加古川評定」の経緯と藤吉朗の言動をあらためて皆に語って聞かせた。
無論、自分の非については一切触れない。毛利攻めの軍略を語り終える前に藤吉朗から発言を遮られ、采配は大将である自分が取る、播磨の衆は先陣で槍働きをしておれ、軍略に口を挟むな、と言われた旨を、やや誇張しつつ自分に都合良く説明した。
「中国征伐の先陣を任されたる我らに向かい、あの下郎あがりが何を狂ったか、軍略に口出しするなと申しおったのだぞ。我ら播磨の武士は、尾張の百姓風情にも劣るということであるらしいわ。わしは播州人として、他国者からこれほどの侮りを受けたことがない」
これを初めて聞く者たちにすれば、驚愕と怒りで顔色を変えざるを得ない。
当主の別所長治も例外ではなく、屈辱に目を怒らせた。
「羽柴が、我らに対して遠慮なく我意を振るい、我らを己が家来の如くに扱い、播州の者どもに頭を揚げさせじとするは、心得違いもこれに過ぎたるはない。羽柴を播磨に遣わしたる信長の心底、これで見えたりとわしは思うた。察するに、これは権謀なのじゃ。中国征伐の先陣を頼みながら、中国を平らげし後はあらためてこの別所を滅ぼし、播州一国を我が手に入れようとする企みに相違ない。敵の表裏を知りながら、このまま黙ってその謀に陥らんよりは、我らの方から織田に敵対の色を立てるべきではないか。おのおの方、この事、どう思われる」
吉親がそう問いかけると、一座の者たちは次々と賛意を口にした。
割りあい中立な立場を取っていた淡河定範も、もはや吉親の言葉に逆らわなかった。定範は「加古川評定」に参加し、藤吉朗の言葉を直に聞いてもいたが、織田の大将があのように傲慢な男では、たとえこれに味方したところで感謝されるはずもなく、それどころか利用価値がなくなればいずれ滅ぼされる、という観測にも現実味があると言わざるを得ない。それならば、最初から毛利に加担する方がまだしも賢明であろう。何をやらかしても不思議でない織田と違い、毛利の家風は信義に厚く義理堅いことで知られているから、後になって裏切られるようなことはないに違いない。
何より、定範も播磨の武士である。他国者からこれほどの侮辱を受けてしまえば、黙っていられるものではなかった。
(我らは欺かれておったということか・・・・)
これまで個人的な情誼をもって信長に好意的であった別所長治さえ、こうなっては失望感に打ちひしがれざるを得ない。長治も播州人である以上、織田の大将にそこまでの暴言を吐かれたとなれば、播州武者の弓矢の名誉を守るという意味でも、膝を屈して織田に属し続けるわけにはいかないのである。
(それが、信長公のやり方か・・・・)
長治の不幸は、織田嫌いの叔父がもたらす情報を鵜呑みにし、それを基礎にして藤吉朗の人物を推し量ったことであろう。たとえば長治自身が藤吉朗と直に逢い、膝をつき合わせて談合するというような事が一度でもあれば別所の運命はよほど違ったものになったであろうが、長治がそれをしようと思ったとしても、長治の若年と未熟とを理由に周囲がそれを許してこなかったのである。
長治は義と美意識を重んじる心根の涼しい好青年で、その素質も決して凡庸ではなかったが、彼の育った環境がある意味で悪かった。父を早くに喪い、わずか十二歳の時に「殿さま」に担ぎ上げられ、歳が長けて気付いた時にはアクの強い二人の叔父が別所の舵取りを専断する体制がすでに作られてしまっていた。政治の話は多くが長治のところまで上がってさえ来ず、長治が自ら家政を裁断しようにもそのための情報もモノを考える材料も与えてもらえなかった。
その意味で、この若者は極めて狭い世間の中で生きているのだが、それでも、あの強大な信長に敵対すればどうなるかということが解らぬほど馬鹿ではない。
信長が一声掛ければ、たちどころに十万を越える軍勢が京に集結するのである。長治は織田家の動員力の凄まじさを我が目で見て知っており、合戦で一度や二度敵を破ったところでその雲霞のような大軍がどうなるわけでもないことは十分に承知していた。この場に居ない別所重棟や、長治と共に先の紀州征伐に参加した将士なら、そのことはよく解っていたであろう。
しかし、たとえば別所吉親はそれを知らず、長治の親族や兄弟もそれを知らず、織田家に協力してこなかった本願寺門徒の小豪族たちもそれを知らなかった。彼らはそれを話として聞いてはいても、我が目で見て実感したわけではないのである。煎じ詰めて言えば、この評定の場で織田家の怖ろしさを現実感をもって理解していたのは、あるいは長治一人であったかもしれない。
その長治が、対織田戦争という極めて勝算の薄い大博打に向けて覚悟を固めた心境というのは、もはや悲壮と言うほかない。
(勝敗は、もとより問うところではない・・・・・)
と、この若者は持ち前の潔さをもって見極め切っていたに違いない。
武士の誇りと別所の名を折らぬためには、それでも意地を貫き通すしかないのである。
そんな長治の心中を露ほども知らず、
「もはや詮議は不要と存ずる」
と高い声を立てたのは、長治の弟・友之であった。
「この上は先の約を変じ、信長の草履取り・藤吉朗と戦すべし!」
これに応じるように、末弟の治定も声を重ねた。
「戦の要諦は、いかに敵の不意を討つかにあると聞く。長々と評定を重ねておるうちに敵に我らの変心を悟られ、逆に先手を取られて攻め込まれては、後悔してもし切れぬこととなろう。――兄上!」
兄の長治を振り仰ぎ、
「今宵にても良い、わしに人数の四、五百もお預けくだされ。夜討ちにて加古川に押し寄せ、糟屋が屋形に風上より火をかけ、同時に風下より敵陣に斬り込み、一息に猿冠者めの首を挙げてご覧に入れる」
と鼻息荒くまくし立てた。
これは、『播州太平記』にある。
友之と治定は、この時それぞれ十八と十七である。血気に逸る年頃ということはあるにせよ、藤吉朗個人に対する感情論に支配された評定の様子をよく表していると言えば言えるであろう。
(思い上がった羽柴めに、播州武士の弓矢の意地を思い知らすべし!)
というのが、この場に居る者たちに共通する想いなのである。
別所を毛利に加担させるつもりであった吉親にすれば、自分の思い通りに衆議を転がしたことになるわけで、密かにほくそ笑んでいたに違いない。
が、いきなり夜討ち、焼き討ち、というのは、ちょっと議論が乱暴すぎる。
「いやいや、お待ちくだされ。若君らの仰せはいかにも勇ましく、また播州武士としてそうあるべきとも存ずるが、いささか気が早すぎますな」
吉親の弟の甚大夫という男が口を挟んだ。
「敵が、わずかに一城を持つような者であれば不意討ち・焼き討ちもよろしかろうが、なんといっても信長公は日本の過半を征伐したような御仁でござる。羽柴のごとき者を一人二人失うたとしても物の数ともしますまい。それに、あの羽柴にしても、織田家の数多おる群臣の中で小者から立身出世を果たしたほどの武功者でござる。まさか夜討ちの備えをせぬということもござるまい。軽々に仕掛ければ、お味方大いに危うしと存ずる」
「甚大夫の申すこと、もっともなり」
吉親が重々しく頷いた。
「それよりも十分の支度をし、存分の合戦を致しましょうぞ」
甚大夫が披瀝したのは、三木城に篭る篭城論であった。
城を堅固に構え、敵が押し寄せてくればこれに篭って守り、敵が引けば野に出て戦を仕掛け、手ごわく戦って時間を稼いでいれば、他国に遠征している羽柴軍はやがて兵糧や矢弾の欠乏に困り始めるであろう。また、別所が奮戦すれば毛利からも必ず援軍が来るに違いない。そういう情勢変化に乗じ、敵の士気の下がったところを打ち崩せば、羽柴はたまらず播磨から逃げ去るであろう。その退却を追い討って京へ馬を進め、信長と雌雄を決すればどうか――
「一日京に旗を立てれば、一日ご当家が天下を取ったことになる。たとえ戦場に屍を晒すとも、別所の名は後世まで残るでありましょう。これぞ武門の本懐と申すべきではござらんか!」
この言に、一座の者たちの多くが無邪気に感動し、こぞって賛成した。
さらに三枝小次郎という者が興奮顔で進み出て、
「お説、まったくごもっともと存ずる。ご当家のご祖先・赤松円心公は、まさにその軍略をもって摩耶山に篭り、敵を迎え撃って打ち勝ち、逃げる敵を追い討って京へと攻め上られ、ついに六波羅を滅ぼし申した。我らもこの吉例に倣うべし!」
と気炎を上げた。
「いかにも理に適うておる」
吉親が膝を打って賛成し、これで衆議が一決する形となった。
「殿、お聞きの通りでござる。こうとなれば、殿にもお覚悟を定めていただかねばなりませぬぞ」
「覚悟?」
温厚なこの若者が、珍しく不快そうに吉親を睨み付けた。
「念にや及ぶ――いかに叔父御とはいえ、無礼な物言いをなさるな」
武士に向かって覚悟を問うのは、不覚悟を指摘するのと同じであり、侮辱されたことに匂いが近い。長治は名門の武家貴族らしく気位が高く、過剰なほど武士の美にこだわるところがあるから、それを知っている吉親は慌てて失言を詫びた。
長治はあらためて一座を見渡し、
「当家は毛利につき、織田と戦うこととする」
宣言するようにそう言い切った。
長治がこの言葉を吐いた瞬間、別所氏のその後の運命が決定したと言っていい。
「加古川評定」から三日後、姫路に戻った藤吉朗の元に、別所から使者が来た。
別所三大夫と名乗ったその中年男は別所一門の人間であるらしいが、当主の長治からどういう係累に当たるのか、小一郎はよく知らない。
三大夫は、まず先日の別所吉親の非礼を詫び、別所はこれまで通り織田に忠節を尽くすつもりであることを、平身低頭しながらくどくどと述べた。
このことは、
(もはや別所はいつ敵に回るかも解らぬ・・・・)
と戦々恐々としていた藤吉朗とその幕僚たちをとりあえず安堵させた。この使者の言葉に嘘がなければ、最悪の事態だけはどうにか回避できたということになろう。
「さて、此度の使者の趣きでござるが――」
三大夫は見るも哀れなほどに大汗をかきつつ、実に申し訳なさそうに言った。
「中国征伐のご陣触れにつき、出陣にしばしのご猶予をお願い申したいのです」
「出陣を延引したいと?」
藤吉朗は片眉を吊り上げて不快な表情をした。
中国征伐――差し当たって隣国・備前の宇喜多攻めになるが――を、まさに始めようとする矢先なのである。ここで待ったを掛けられるほど不都合なことはない。
「・・・・何ゆえでござろうか?」
「いやいや、余の儀にては非ず、これも毛利と戦うためでござる。毛利は大敵でござれば、一朝一夕に勝負は決せず、必ず気長の合戦となりましょう。お味方が勝つこともあれば、また負けることもあり、たとえ西国へ討ち入るとも、いったんまた引き退くようなこともございましょう。敵が播磨に攻め入って来るようなことになった時、城の要害を丈夫に構えてさえおけば、守るにせよ攻めに転じるにせよ、その後の駆け引きが容易になりまする。このため、我らは三木の城普請を急いでおりまするが、これが未だ終わっておらず、もうしばらくだけ時を頂きたいので・・・・」
別所が篭城支度を始めていたことは、藤吉朗はすでに小一郎から聞いている。話の筋は通っているが、謀反のための時間稼ぎと取れぬこともない。
しかし、こう筋と道理を通して願い出られれば、別所が敵対の色を見せているわけでもない以上、これを突っぱねることは藤吉朗としてもできかねた。別所に疑いの目を向けることでこれを怒らせ、かえって敵に回らせるようなことになれば、それこそ薮蛇になってしまう。
「どれほど待てと申されるのか?」
と、折れて出たあたりが藤吉朗の辛さであろう。いつ敵に回るかも知れぬ別所が相手では、どうしても扱いが腫れ物を触るようにならざるを得ない。
「事はもう七分通り済んでおりまする。さほどには掛かりませぬ。まず十日ほどもお待ち頂ければ・・・・」
「・・・・あい解った。されば、十日後の三月八日をもって西国出陣の日と決め申そう。異存はござるまいな?」
「ありがとうござりまする。主にもそのように申し伝えまする」
藤吉朗は身体を前に倒し、三大夫を睨めつけるようにして問うた。
「此度の出陣には、侍従殿(別所長治)自らが馬をお出しくだされような?」
「それは申すまでもなきこと。我が主自ら播磨の衆を率い、右大臣家の先陣を駆ける所存でござりまする」
三大夫はそう確約し、丁寧すぎるほど腰低く何度も礼を述べ、いそいそと三木へ帰っていった。
羽柴軍の西国出陣はそうしてしばし延期されたが、事態は刻々と動いている。
三月に入ると、安芸(広島県)に配ってある複数の諜者から、いよいよ毛利氏が動き出したという急報が入ったのである。
諜者の報告では、去る二月の末、毛利氏は全領国に播磨出陣の大動員を掛けたという。続々と届けられる諜報を総合したところ、毛利軍は、山陰を支配する吉川元春、山陽を支配する小早川隆景を両先鋒に、本軍を当主の毛利輝元自ら率いるという総動員態勢で、その規模は五万とも七万とも見積もられた。要するに、ほとんど全力の出陣と言っていい。
(いよいよ来たか・・・・!)
この三月にも行われるという上杉謙信の上洛行動に合わせ、毛利が軍を動かすであろうことは予測された展開であり、小一郎もすでに覚悟してはいたが、雲霞の如き大軍の襲来を現実に知らされれば、水平線の向こうから津波が押し寄せてくような恐怖をあらためて感じざるを得ない。