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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第86話 別所氏の離反(3)

 天正六年(1578)二月二十三日、藤吉朗は羽柴軍・五千数百を率いて予定通り再び播磨に入った。

 その足で加古川城に入城した藤吉朗は、播磨の国衆を集めて毛利攻めの軍議を開いている。この軍議が行われた正確な日時は解らないが、おそらく二十四日か二十五日であったろう。

 この日に合わせ、小一郎が会場のセッティングと国衆の招集に手を砕いたことは言うまでもない。


 軍議の場となった加古川城は、この当時、“糟屋かすや(加須屋)が屋形”と呼ばれていたらしい。


 「屋形」とは、一般に守護大名が住する守護所のことを指す。領国の家来や領民が、守護のことを「お屋形さま」などと尊称するのもこれが転じたものである。察するに、遠い鎌倉の時代には、この加古川に播磨の行政府が置かれていたのだろう。

 鎌倉幕府から加古川を与えられた糟屋氏は、この地にもう四百年も根を張っていることになる。播磨守護所で守護代を務めていたと考えられているが、室町時代に赤松氏が播磨の新たな守護になるとこれに属し、赤松氏が衰微した後は三木の別所氏に属していた。


 守護所の名残を引く加古川城は、加古川の川辺に作られた広くもない平城で、城地の東と西に加古川の本・支流が流れて外堀の役を果たしていることを除けば、要害は一重の土塁と空堀があるのみである。本丸の主殿と櫓門だけは二階建てだが、城というより居館というに近い。

 この加古川城に住する糟屋氏の現当主は朝正ともまさという男で、先代が早世してしまったために若い。この時まだ二十代後半の青年武将であった。


 ついでながら余談に触れておくと――


 藤吉朗が初めて播磨入りした昨年の十月、糟屋朝正は、異父弟の志村数正しむら かずまさを藤吉朗の小姓に加えて欲しいと懇請している。小姓といえば体は良いが、要するに人質に出したわけである。「信長の代官」たる藤吉朗との繋がりを深めておこうというのは小豪族にすれば当然の処世であったろう。

 志村数正は、寡婦になった朝正の母が再婚した嫁ぎ先で生んだ子で、朝正にとっては馴染みも情愛もほとんどないのだが、それでも同じ母親の腹から生まれた弟であることに違いはない。人質の価値は当主本人に近ければ近いほど高いから、朝正にとってこの異父弟の存在は人質としてまことに都合が良かったのである。

 藤吉朗は、糟屋氏のそんな複雑な家庭の事情はもちろん知らない。豪族の当主の縁者が養子となって他家を継ぐような事例は珍しくも何ともないから、苗字が違っても朝正の実の弟ということで大いに満足し、その申し出を喜んで受けた。


 話を少しばかり先取りすると、糟屋朝正はこの翌月に起こる別所氏の反乱に同調して織田に叛き、三木城の篭城に参加し、羽柴軍との合戦の最中に討ち死にしたと伝えられている。つまり糟屋氏は、別所氏と運命を共にして滅ぶことになる。

 一方、羽柴家の小姓たちと共に暮らすようになった志村数正は、このとき十六歳の少年であった。本来なら糟屋氏離反の報復に殺されるはずだったが、その文武の才と何より実直で可愛げのある性質を愛した藤吉朗はこの少年の命を助け、そのまま小姓として羽柴家で養うことにした。

 当然ながら、数正は己の命を救ってくれた藤吉朗の優しさに感激した。藤吉朗のことを「親父さま」と呼び、実の父に仕えるよりも懸命に働いた。糟屋氏滅亡の後に家名を継いで糟屋武則かすや たけのりと改名し、羽柴家の小姓組の組頭を務め、加藤清正、福島正則らと共に戦場を馳駆し、藤吉朗が信長の後継者の座を賭けて柴田勝家と争った「賤ヶ岳の合戦」でも抜群の功名を立て、“賤ヶ岳の七本槍”の一人に数えられるほどの男に成長するのである。藤吉朗が豊臣秀吉となって天下を取ると、累進して故郷で一万二千石の領地と加古川城とを与えられ、滅んだ「加古川の糟屋家」を再興することになる。


 この兄弟の人生の変転を思えば、運命というものの玄妙さに感じ入らざるを得ない。



 さて――


 軍議の当日、藤吉朗の触れに応じ、播磨中の豪族たちが続々と加古川城に集まって来た。

 会場は、加古川城本丸の城館の大広間である。さすがに守護所の跡だけあって城館の作りは大きく、襖を取り払った広間は評定を開くに十分な広さがあった。


 広間は板敷きである。床板は滑るほど黒々と磨きこまれていた。

 上座は一段高くなっており、ここだけは畳が敷かれている。「信長の代官」たる藤吉朗の御座になる。

 その上段の脇に、青白い顔をした二十代の青年が格別の上席を与えられ、行儀良く座っていた。播磨の若き守護・赤松則房あかまつ のりふさである。かつて中国に広く版図を誇った赤松氏も往年の勢威を失い、今では主城の置塩屋形を守ることに汲々とする有様で、羽柴軍が播磨に入って以来、その庇護下にあった。守護とは名ばかりだが、それでも播磨の豪族たちのほとんどは赤松氏の支流であるから、赤松本家の当主である則房はそれなりの敬意を払われていたし、その利用価値も皆無ではなかった。


 小一郎は、上座の段を降りたすぐの右側の壁際で蜂須賀小六、浅野弥兵衛と並んで着座し、広間に集う人々を眺めていた。

 ちなみに半兵衛は、姫路の城で留守居をしてもらっており、この場にはいない。

 半兵衛は――昨年の暮れにひきこんだ風邪はいったん治ったものの――半月ほど前からまたぞろ体調を崩したようで、本人は決して病状を語らないのだが、どうも咳と熱が収まらないらしい。ともかく暖かくなるまでは静養を第一にしてもらおう、ということで、小一郎の判断で姫路に置いてきたのである。

 事後承諾になってしまったが、藤吉朗も、


「毛利征伐がまさに始まろうという時に、ここで半兵衛殿に倒れられてはかなわんわ。養生専一で当然じゃ。何なら京から腕のええ医者を呼べ」


 と、小一郎の措置に賛成してくれた。


 広間に詰め掛けた人間は、羽柴家の人間を除いても優に四十人を越えているであろう。


(播磨の豪族が一堂に揃うと、さすがに壮観じゃな・・・・)


 見渡して、小一郎はあらためてそう思った。


 良く見知ったところでは、小寺官兵衛の顔があり、別所重棟の顔がある。別所氏傘下の東播磨の有力豪族としては、端谷城の衣笠範景きぬがさ のりかげ、明石城の明石左近あかし さこん、魚住城の魚住頼治うおずみ よりはる、野口城の長井長重、神吉城の神吉頼定かんき よりさだ、志方城の櫛橋伊定くしはし これさだ、淡河城の淡河定範おうご さだのり、高砂城の梶原景行かじわら かげゆきなどの姿があり、英賀あがの三木氏、飾磨しかま郡の宇野氏、神崎郡の堀氏、高橋氏、揖保郡の島津氏などといった播州西部・北部の地侍や豪族たちも軒並み顔を揃えていた。

 ただ、官兵衛の主である御着の小寺政職こでら まさもとだけは、なぜかこの場にいない。官兵衛が小寺氏の全権代理になっていると言えば言えるが、当の政職自身は、先年の十月以来、まだ一度も藤吉朗に挨拶さえしようとしないのである。このことは藤吉朗にとって小寺氏に対する不信感となり、小寺を背負う官兵衛にとっては大きな負い目になっていた。


 人々は、左右の者と互いに雑談しながら会議の始まりを待っている。

 羽柴家の小姓と茶坊主たちがその間を行き交い、茶菓を配って歩いていた。


 約束の刻限を少し過ぎた頃、糟屋朝正に導かれて別所吉親よしちかが最後に広間に入って来た。

 吉親は同行した家老の三宅治忠みやけ はるただと共に、最前列に敷かれた円座にのっそりと腰を下ろした。


(結局、小三郎殿(別所長治ながはる)は来んのか・・・・)


 大きな落胆と共に小一郎は思った。

 播磨の国衆を纏めるべきもっとも重要な人物が、この軍議に欠けることになる。


(別所はあるいは毛利に寝返る気か・・・・)


 そう疑っても仕方ない状況であろう。


 別所長治の不参は、播磨の豪族たちの心理にも大きな影響を与えた。

 別所傘下の小豪族たちにすれば織田も毛利もなく、要は播磨最大勢力の別所と進退を共にしていこうという意識しかない。別所が織田につくか毛利につくかその後背がはっきりせぬ以上、彼らにすれば自らの進退を保留せざるを得ないわけで、織田の代表である藤吉朗が開いたこの軍議で不用意な発言ができなくなった。

 座は微妙にざわめき、どの男も左右の顔色を窺うような気配がある。


(マズいなぁ・・・・・)


 主催者側の小一郎にすれば居たたまれない雰囲気であった。


 やがて――出席者が全員揃ったことを小姓から知らされたのであろう――別室で控えていた藤吉朗が広間に現れた。

 私語が止み、人々が一斉に上座に向かって平伏する。それはまるで家来が主人に向かってする態度であり、なぜ自分たちが羽柴なる者を主の如く仰がねばならないのか――腹の中では納得しかねる者も多かったに違いない。


 そういう国衆たちの不満を知ってか知らずか、


「よくぞお集まりくだされた。いやいや、お楽になさってくだされよ」


 席についた藤吉朗は満面の笑みであった。


「此度、安土なる上様がいよいよ毛利を成敗なさるお腹を固められ、この筑前を大将として播磨に遣わされたことは、おのおのもすでに存じの通りでござる。右大臣家に無二の忠節を尽くされようというおのおの方の衷心、この筑前、感じ入っており申す」


 なぞと如才なく挨拶する。

 居丈高になってもいけないが、かといって「信長の代官」として軽んじられてもならない。藤吉朗はよほど気を使ってその役割を演じているのだが、藤吉朗を軽視し切っている別所吉親あたりにすれば、


(下郎あがりが、何を偉そうに・・・・)


 という不快感しかなかったであろう。


「されば、さっそくに軍議に移り申そう。まずは、どこから馬を進めるが良いか、おのおのの腹蔵ないところをお聞かせ願いたい」


 藤吉朗が問いかけたが、座は水を打ったように静まり返っている。


(これはいかん・・・・)


 小一郎は思った。

 誰も藤吉朗と目線を合わせようとしないのである。みな床板の木目を眺めるように視線を落とし、あるいは他人の顔色を密かに窺っているような様子で、誰も口火を切ろうとしない。いつの時代も会議の冒頭は口の重くなるものだが、この場合はむしろ積極的な発言を避けたいという空気がありありと漂っていて、咳払いの音を立てる者さえいなかった。


「どなたか意見をお持ちの方はないかな」


 しばらくは一座を見回して待っていた藤吉朗だが、沈黙に耐えられなくなったのか、


山城やましろ殿――」


 と、最前列に座る別所吉親に呼びかけた。


「この十年にわたる別所の無二の忠節、さらに此度はまた中国征伐に合力くださる事、上様もまことにご満悦でござった」


 信長の名を出して機嫌を取ると、吉親は芝居気たっぷりに畏まり、


「仰せの如く、此度の中国征伐につき、我があるじ・長治、若年にしてまた身不肖でもありまするが、御意の趣きに従いて右大臣家の御旗みはたの元につき申したてまつる上は、何事もお下知の通りにあい勤める所存でござりまする」


 と殊勝な言葉を並べた。


「別所は弓矢の名誉の家ゆえ、良き思案もござろう。思うところを包まず申されよ」


 藤吉朗が発言を促した。


「軍議に臨みて思うところを包んで申し上げぬは、妄士のわざでござるな・・・・。されば仰せに従い、我が所存をはばかりなく申し上ぐべし――」


 吉親はそう前置きし、たっぷり間を置いて語り始めた。


 その内容を聞いて、小一郎はほとんど耳を疑った。吉親の口から湧き出したのは、赤松氏代々の軍功の話だったのである。

 村上天皇から発したという赤松氏の系図から説き始め、平安時代から続く赤松氏の歴史を語り、別所氏初代である赤松(別所)頼清よりきよの事跡を語り、赤松氏中興の名将・赤松円心入道が南北朝時代から室町幕府創設期にかけて足利尊氏に協力していかに重大な軍功を挙げたかといったようなこと――たとえば足利尊氏が京で敗れて九州へと落ちた際、赤松円心が新田義貞にった よしさだの軍勢を播磨・赤穂あこう郡の白旗城に引き受けてこれを釘付けにし、尊氏の再起を大いに援けたのだが、その時の赤松勢がいかに奮戦したかといった先祖の武功譚の類――を、ほとんど小一時間の間、吉親はひたすら喋り続けたらしい。

 このことは、『播州太平記』にある。『別所長治記』などは、長口上を述べたのは家老の三宅治忠であったとしている。あるいは『絵本太閤記』では、別所吉親と三宅治忠の二人が毛利氏がいかに強大な力を持っているかについてさんざん語り、播州の豪族たちが織田につこうという気を失わしめ、藤吉朗を激怒させた、ということになっている。

 いずれにしても、今度の毛利攻めにとってまったく益のない話を、別所長治の名代であるこの男たちは、延々とまくしたてたものらしい。


 小一郎は口を半ば開いたまま、呆れるような想いでその口上を聞いていた。


(この男は何を考えておるんじゃ・・・・?)


 気でも触れたのかと思ったが、喋っている吉親の目は正常そのものである。


(百姓あがりのわしらに対する当てこすりか・・・・?)


 氏も素性もない藤吉朗に、別所がいかに由緒ある家柄であるかを説き聞かせようというのなら確かにこれ以上の厭味もないが、わざわざ総大将の不興を買うことに何の意味があるというのか――


 それでも辛抱強く半刻ばかりも話の成り行きを聞いていた藤吉朗だったが、いつまで待っても話が毛利攻めに絡んで来ないことにさすがに苛立ったと見え、


「山城殿、そのあたりでもうよい。なかなかためになるお話ではあったが――」


 吉親の口上を大声と手振りとで遮り、ここで重大過ぎる失言をした。


「戦の指図は大将であるわしが行おう。おのおの方は先陣である。大いに槍を働かせ、先駆けの武功をお立てくだされ」


 『播州太平記』の記述を借りれば、


「所詮いくさ之法は大将の役に有り。此方こなたより指図致すべし。おのおのはただ先陣の役をもっぱらに致さるべし」


 と言ったことになっている。

 藤吉朗にすれば、手の付けられぬこの中年男をともかく黙らせようという意図の発言であったのだろうが、言い方がいかにもマズかった。「戦の軍略にはもう口出しするな。お前たちはわしの指図に従ってただ槍働きのみをしておれ」という風にも聞こえるのである。

 吉親に限らず、播州の国衆たちはこの言葉を播州人に対する侮辱と受け取り、顔色を変えた。


 たとえば同じ織田家の武将でも、織田家譜代の重臣である柴田勝家や土岐源氏の名流である明智光秀などがこの言葉を吐いたのであれば、そこまで深刻な影響は与えなかったであろう。藤吉朗にその自覚はなかったが、他の誰でもなく、藤吉朗がこれを言ってしまったというところに問題の根源があったのである。


 「羽柴 筑前守 秀吉」という存在は、信長という天才が創り出したいわば「武士の奇形」であった。生まれの卑賤にも門閥にもまったく囚われない信長であればこそ極端な能力主義に偏った人材登用と抜擢人事を行うことが出来たわけで、そうでなければ百姓の子が一軍の大将になるなどという話はお伽噺の中にすらそんな事例はなく、武士というものが日本に生まれて以来、こんな奇跡のような現象は今の織田家以外ではまったく起こり得なかった。

 播州人に限らず、織田家の影響が薄い地方に暮らす者の常識からすれば、武士になるには武門の家に生まれる必要があり、土百姓の子にはそもそも武士を語る資格すらない。その意味で藤吉朗は本来ならせいぜい足軽か荷担ぎの小者にしかなれぬはずであり、そういう男から「戦の軍略に関して差し出口をするな」などと言われたのでは、戦の専門家である武士として立つ瀬がないばかりか、「播州の武士は尾張の百姓以下である」と見下されたに等しいであろう。

 播州武士である彼らにとって、これほど誇りを傷つけられる発言も他になかったに違いない。


 吉親は血の気の失せ切った顔に目ばかりギラギラと怒らせ、


「毛利は大敵でござる。一国一城の小競り合いとは違い、五度や十度の勝ち戦を重ねても勝ったことになりますまい。あの毛利を滅ぼすほどの勝ちを得ねばならんというに、戦評定もせずに敵国に攻め入ろうとは――いやいや、恐れ入る」


 皮肉をたっぷり込めてそう言った。

 あるいは吉親は、最初から藤吉朗と喧嘩分かれする腹であったのかもしれない。織田の大将と決裂することで、別所の毛利加担を既成事実化してやろうという魂胆であったとすれば、愚にもつかぬ昔話を延々と述べ立てて藤吉朗を怒らせたことにも、喧嘩腰のこの応答にも筋が通る。


「筑前殿が喩え神の如き知恵をお持ちであろうとも、これほどの大戦でござる。我らのような智鈍き田舎者の話もよくお聞きになった上で評定を重ねられ、さらなるご思案あってしかるべしと存ずるが・・・・」


「・・・・・・・・・」


 地理地勢をもっとも良く知る地元の人間の意見を聞かず、軍議もせずに毛利と戦う気か、と突っ込まれれば、さしもの藤吉朗にも返す言葉がない。


 藤吉朗はよほど腹が立ったのであろう、不快げな表情のまま無言で席を立ち――驚くべきことだが――そのまま評定を打ち切ってしまった。

 小一郎にせよ蜂須賀小六にせよ、まったく取り成しようがなかった。

 気まずい雰囲気のまま場はお開きとなり、別所吉親と三宅治忠が真っ先に席を蹴って去ると、播磨の国衆たちも三々五々、苦虫を噛み潰したような顔で広間を出て行った。


(どえりゃぁ事になってまった・・・・・)


 小一郎は、ただ呆然とそれを見送るしかない。

 その場に残ったのは、羽柴家の幕僚を除けば、わずかに小寺官兵衛と別所重棟、赤松則房とその近臣だけだったのである。



 この日の軍議は「加古川評定」の名で後世にまで有名になる。


 この直後に起こる別所氏の離反は――豊臣秀吉の人生において最大の苦境を招いたとも言える大事件だが――橘川真一氏の『別所一族の興亡―「播州太平記」と三木合戦―』によれば、羽柴側の軍記である『播磨別所記』(『播州御征伐之事』)でも、別所側の軍記である『別所記』でも、この「加古川評定」が決定的な要因になったという書き方がなされているらしい。これは『播州太平記』でも同様であり、『絵本太閤記』では評定の場所が加古川ではなく姫路になっているものの、やはり軍議での決裂によって別所が離反したとしている。


 筆者の知る限り、これと別の見解を採っているのは『武功夜話』のみである。


 『武功夜話』では、藤吉朗が播磨に初めて入った昨年十月からすでに別所離反の兆候があり、「加古川評定」には別所から誰も人が来なかったことになっている。別所氏は、評定に参加しないことで毛利加担を天下に表明したとになり、藤吉朗にとっても小一郎を含めた羽柴家の幕僚たちにとっても、別所氏が毛利につくことは予測された既定路線であったとしている。


 筆者はこの説を採らないが、そういう記述をした史料もあるということだけは付記しておく。





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