第85話 別所氏の離反(2)
話が少しばかり前後する。
上月城を奪った藤吉朗が、山中鹿之介率いる尼子遺臣団をその城番に入れた、ということはすでに触れた。
根拠地を得た鹿之介は、諸国に散った尼子遺臣のさらなる集結を図るため、ここに主君の尼子勝久を迎え入れることにした。
尼子勝久は羽柴軍と行動を共にせず、朗報を京で待っている。鹿之介はこれを迎えるために、天正六年(1578)一月中旬、自ら京に上った。
この隙を、宇喜多氏に衝かれた。
上月奪回を企む宇喜多氏は、狙いすましたように鹿之介不在の上月城に押し寄せ、一夜にして城を奪い取ったのである。
宇喜多氏は上月周辺の地理も上月城の構造も知り尽くしていた。上月城はまだ改修・補修も満足に済んでいなかったから、深夜に奇襲を受けた尼子勢は支えきれず、敗走を余儀なくされたのだ。
間者を放つなどして宇喜多氏の動静には注意していた小一郎だったが、
「上月が敵に奪われました!」
の報には仰天させられた。
城を落ちた尼子遺臣たちは、多くが龍野城に逃げ延びたらしい。
(兄者不在のこの時に、何ちゅう不手際を・・・・!)
藤吉朗が播磨を去って以来、そうでなくとも播磨の国衆の間で織田の信用が低下している。毛利傘下の宇喜多氏にこうも鮮やかに城を奪われては、織田の武威がさらに見くびらることになるであろう。
上月城陥落の悪影響は、すぐに現れた。
上月北方の利神城に住する別所定道が、再び宇喜多に寝返ったのである。
別所定道はもともと宇喜多の重臣であったが、藤吉朗の上月攻めの際に降伏して織田に降った男である。定道は生来病弱で、このときすでに弟の林治に家督を譲っていたとする説もあるが、いずれにせよ利神城の旗の色が再び毛利色に変わってしまったことは間違いない。
「ただちに上月に兵を出し、宇喜多を討って城を奪い返しましょう!」
蜂須賀小六や浅野弥兵衛は、今にも駆け出さんばかりの勢いで息巻いた。
が、半兵衛はこれを押しとどめた。
「今は、軽々に動いてはなりません」
半兵衛の危惧は、播磨の豪族たちの動静であった。
「信長の代官」たる藤吉朗がいない以上、播磨の国衆を招集する権限は小一郎にはない。肝心の羽柴勢は但馬と播磨に兵力が分散しており、姫路にあるのはせいぜい三千に過ぎないのである。上月攻めが一日二日で済めば良いが、再び宇喜多の援軍が現れた場合、この程度の兵力では対処しきれない惧れがある。羽柴勢が播磨西端の上月に釘付けにされれば、その間、播磨国内でいかなる不測の事態が起こらぬとも限らないし、万一宇喜多に負けるようなことにでもなれば、織田の信用は決定的に失墜してしまうであろう。
半兵衛はその危険を懇々と説明し、
「上月はいずれまた奪い返せば済むこと。宇喜多が上月からさらに東へ出て来るなら別ですが、上月で満足しておるうちは、我らが迂闊に動くべきではありません。殿が播磨にお入りになるまで、ここは辛抱すべきです」
と釘を刺した。
(半兵衛殿の申される通りじゃ・・・・)
もともと播磨の西部は毛利氏の影響力が強い。今はとりあえず静まってはいるものの、たとえば飾磨郡の宇野氏や英賀の三木氏などは当主も領民たちも本願寺の熱烈なシンパで、織田に心から服従してないことは周知の事実なのである。
(羽柴なぞ怖れるに足らん)
と彼らが思えば、たちまち毛利側に寝返ってしまうであろう。
これ以上の醜態を晒すわけには断じていかないのである。
小一郎は宇喜多との合戦を避け、蜂須賀小六と浅野弥兵衛に千余の兵を預けて龍野城に入れ、西方の押さえとすると共に、揖穂郡と赤穂郡の豪族たちに宇喜多氏に対する警戒を呼びかけ、小寺官兵衛には播磨西部の諜報を活発化するよう命じた。
驚いたのは、尼子勝久と共に京から戻った山中鹿之介であったろう。
自らの不在中にせっかく預けてもらった城を奪われ、尼子氏再興の根拠地さえ失ってしまったのである。このままでは、主君に会わせる顔がない。
「この汚名は、自らの手で雪ぎます。上月攻めをお許し願いたい!」
姫路に入った鹿之介は、噛み付くような勢いで小一郎に懇請した。
が、これはできない相談であった。
小一郎は播磨の情勢を説明し、藤吉朗の播磨入りを待つよう説得した。
「羽柴の軍を動かせぬ事情はよう解りました。なれば、我ら尼子の者だけで城を奪い返してみせまする。それならば、そちら様のご迷惑にはなりますまい」
織田家の中国征伐を機に鹿之介が諸国の尼子遺臣に主家再興を呼びかけたため、二百ほどだった尼子党は五百を越えるまでに増えていた。さらに京から主君を迎えたこともあり、その士気は沸き立つように膨れ上がっている。上月奪還の鹿之介の意気込みは相当なもので、これを無理に押しとどめれば、勝手に出陣してしまいかねない剣幕であった。
「止めて聞くご仁ではないようですね」
半兵衛が苦笑し、目配せしたので、小一郎も渋々これを許可することにした。
「上月にどれほどの敵勢がおるのかさえよう解りません。くれぐれもお身を大事に、無理と思えば兵を退いてお戻りくだされ。進むを知って退くを知らぬは、葉武者の心得。将たる者の取るべき道ではありませんよ」
半兵衛の忠告を耳に入れたものかどうか――
鹿之介は三日月の前立てを打った兜の下で口元を真一文字に引き結び、闘志を滾らせて姫路を出陣していった。
この尼子勢による上月攻めは、小一郎が予想もしなかった展開を見せた。
播磨に戻った鹿之介が再び上月に攻め寄せて来たと知ると、上月城にあった宇喜多の兵たちは浮き足立ち、城を捨てて備前に逃げ帰ってしまったのである。
上月は上月氏にとっては父祖伝来の故郷であり、それこそ存亡を賭して守るべき領地であったが、宇喜多の守兵たちにとってはそこまでの思い入れはない。上月城は損傷が激しく、防戦するには不利ということもあり、ここで兵を損耗するのは損という利害計算が働いたのかもしれない。しかし、それにしても寄せ手の大将が鹿之介でなければこういう結果にはならなかったであろう。
中国一帯を支配する大毛利家を相手に臆することも屈することもなく戦い続け、ほとんど徒手空拳から出雲、伯耆の二国を奪い取る寸前までいった鹿之介の武名は、まさに生ける伝説のようになっていたのである。
尼子勢に付けた軍監から上月城奪還の詳細を聞いたとき、半兵衛すら驚きを隠さなかった。
「この中国筋においては、鹿之介殿の武名は、我らの想像を絶するほどの威があるのでしょうね・・・・」
山中鹿之介は、余勢を駆ってさらに利神城まで攻め、尼子勢の独力でこれを見事に陥落させた。
利神城は標高三七三メートルの利神山の山頂に築かれた広大な山城で、山麓から山頂の比高が二〇〇メートルもあり、そのあまりの峻険さのために“雲突城”の異名が付けられたほどの堅城である。この城を、わずか五百ほどの人数で攻め落とした尼子勢の勇猛さと強悍さは、驚異的と言わねばならないだろう。
たった一人の男の武名と尼子の残党の力だけで上月城と利神城が落ち、上月一帯が羽柴方の手に戻り、播磨の平穏が取り戻された格好である。
小一郎はほとんど呆れるような気分で、
(あの鹿之介という男の価値を、わしはまったく計り間違えておったらしい・・・・)
と痛烈に思った。
さて――
二月に入っても毛利方に大きな動きは見られなかった。
上月奪回で小一郎を慌てさせた宇喜多氏にも新たな動きはなく、小一郎は姫路と但馬を行き来しながら羽柴領の慰撫と軍備の充実に地道に取り組んでいた。
長浜に帰国している藤吉朗から再出陣の報せがあったのは、そろそろ桜がほころび始めた二月の中旬である。
藤吉朗は、信長の増援と共に二十三日の前後に播磨に入る予定だという。自分が播磨に到着し次第、毛利攻めの軍議を開くから、そのつもりで加古川に国衆を集めるよう手配りしておけ、という指示があった。
加古川は、古くは加古とか賀古とか呼ばれていたようだが、いつしか川の名が地名になったらしい。姫路から海岸に沿って東に五里ほど進んだところにあり、印南野を潤す加古川が海へそそぐあたりに開けた集落である。印南野の美しさは『万葉集』の昔からたびたび和歌の主題になり、たとえば清少納言は『枕草子』で野の美しさについて嵯峨野に次いで二番目にこの印南野を挙げているほどだから、文学作品を通じて都人の心象風景にまでその美の素晴らしさは根付いていたものらしい。
播磨灘の深い青と波間に浮かぶ島々、白砂の浜、海風になぶられる松林などが織り成すその風景は、確かに叙情的ですらあった。
もっとも、藤吉朗が軍議の場に姫路でなく加古川を選んだのは、何も風光明媚なその景観を楽しもうと思ったからではない。
未だ態度がはっきりしない別所氏に対する配慮であった。
羽柴勢が腰を据えている姫路はそもそも小寺氏の領地で、姫路城は小寺氏の属城である。別所氏と小寺氏はこの五十年ほど争いを繰り返している因縁の間柄だから、その小寺氏が領する姫路まで出向いて来いなぞと命じれば、そうでなくとも小寺氏の下風に立つことを嫌う別所氏はさらにヘソを曲げるに違いない。
そこで、加古川を選んだ。
加古川は播磨沿岸のほぼ中央に位置し、姫路と三木からだいたい等距離にある。しかもこの地を治める糟屋氏は別所傘下の豪族であり、加古川城は別所にとって属城であった。三木からの距離はほんの四里に過ぎず、加古川を舟で下れば時間は一刻(二時間)と掛からない。
(何とか、小三郎(別所長治)に出て来てもらいたい)
というのが、藤吉朗の本音なのである。
別所当主の長治が藤吉朗の下へと出向いてくれれば、「信長の代官」としての藤吉朗の顔も立ち、毛利へ傾いている播磨の諸豪の人心はそれだけで安定するであろう。
「筑前殿の播磨入りに合わせ、糟屋の加古川城へ集まられよ」
という命令を別所に伝えたのは、別所重棟であった。
「今さら申すまでもなきことながら、筑前殿は安土様の御代官にて、この中国筋の総大将でござる。筑前殿を蔑ろになさるは、安土様を蔑ろにすると同じにて、向後、いかなる災厄がお家に降りかからぬとも限りませぬ。ここはお家のため、是非ぜひ殿御自らが加古川まで足をお運びにならねばなりませぬ」
と、重棟は誠心をもって甥の長治を説いた。
兄の別所吉親に別所家の権勢を握られてしまった重棟は、居城の阿閉城に篭って三木には帰らず、すでに別所本家から離れてしまった観がある。一向門徒が多い別所の中で織田派を貫くことはそれだけ難しかったのであろうし、身の危険を感じるようなこともあったかもしれない。藤吉朗が播磨に入った昨年の十月以来、足繁く姫路に通うようになり、今では藤吉朗の家来のようになっていた。
そういう弟の態度が、兄の吉親には余計に腹立たしい。
別所吉親は、この時もう五十代の半ばである。身の丈は高くないが恰幅が良く、重心が低いからどっしりと重々しい印象を人に抱かせる。顔はいかにも精力漢といった風に色黒で、眉が太く、やや吊り気味の目も、鼻も口も大きく、顎がよく張っている。月代を剃る必要がないほどに禿げ上がった額は脂性なのか鈍く光り、その上に白髪が多く混じった小さな髷がちょこんと乗っていた。
この男は、おそらく人間としては悪人ではなかったであろう。愛妻家であり、子煩悩でもあり、別所家に対する愛着は自己愛のように深い。世話焼きで世故にも長け、別所家中の調整をさせればこの吉親より上手くやれる者はいないし、家中の若侍たちから敬意を受けるに十分な戦場経験と武勇譚も持っていた。酒が強く、飲めば飲むほど陽気になり、くだらない冗談を飛ばすような愛嬌もあり、それなりの人気もあるのだが、ただ、機嫌が悪いと別人のように底意地の悪い顔になる。
(孫右衛門(重棟)めはすでにお家を裏切り、羽柴に尾を振る犬になりおったわ)
と思えば、今すぐ掴み掛かって殴り倒してやりたいほどの気分であった。
重棟を囲む別所の重臣たちはみな吉親と近しい気分にあり、顔つきまでが吉親に似て不機嫌そうで、目はどれも冷淡そのものである。
しかし、当の重棟にすれば別所を裏切ったつもりは微塵もなく、むしろ別所が生き残る道は織田に属すことしかないと信じていた。長治に向かって懸命に言葉を紡いでいるのも、この男の誠実さゆえと言っていい。
「殿は、加古川まで足をお運びくださるだけで結構でござる。殿のお顔さえ見れば筑前殿のご不審も解け、国衆どもも安堵して筑前殿に従いましょう。後はそれがしにお任せくだされよ。必ず筑前殿の手前を繕い、国衆どもを取り纏め、播磨の旗頭として別所の顔が立つようにしてみせまする」
長治に向かって説得の言葉を吐きながら、重棟は針の筵に座らされているような気持ちであったろう。暑くもないのにやたらと汗が噴き出し、何度もそれを懐紙で押さえねばならなかった。
そんな重棟を見つめる吉親の目の色は、冷淡というよりむしろ憎悪に近い。
(誰がおのれの言うことなぞ聞くものか・・・・!)
理屈でなく、腹に渦巻く感情が吉親にそう命じていた。
吉親は、「孫右衛門めの口車にうかと乗ってはなりませぬぞ」と長治にあらかじめ釘を刺している。
「そのこと、よう考えておこう」
と言ったのみで、長治はついに重棟に確約を与えることはしなかった。
重棟が去ると、吉親は家中の重臣を集め、長治を前に評定を開いた。
集められたのはそのほとんどが血縁で、親族会議の観がある。長治の弟である友之と治定はもちろん、吉親の弟の安治、子の吉成を筆頭に、家老の三宅治忠(別所一門)、淡河定範(長治の義理の伯父)など十数人である。
「例の羽柴が、また播磨に来よるらしい。加古川に集まれと触れがあった」
と、まず吉親が言った。
「毛利征伐、毛利征伐と口ばかり威勢が良いが、備前の宇喜多にせっかく取った上月を奪われるような体たらくでは、お題目通りに事が運ぶとはとても思えんな」
ほとんど皆がこれに同意するように頷いた。
織田につくか、毛利につくか、という、別所の運命を決する重大な評定であるはずだが、一座に織田贔屓の者は誰もおらず、出てくる意見は愚にもつかぬ感情論が多い。
「我らは確かに大将を一人遣わせと右府(右大臣=信長)に申したが、大将には人を選ばねばならん。あの羽柴なる猿冠者はそもそも武士でさえなく、先頃まで右府の馬の口取りであったと聞くぞ。そんな下賤あがりの者の下知を、この別所が膝を屈して受けられようか」
「そんな者に頭を垂れるようでは、播州の国人どもが我らに従わぬようになるのではないか」
「この別所が従うに足る大将とすれば、右府の子の城介 信忠か、少将 信雄か、三七 信孝か、それでなければ柴田修理(勝家)か惟住(丹羽)長秀か――いずれ織田家譜代の長臣でなければならぬ。それをわざわざ羽柴なんぞというどこの馬の骨とも知れぬ者を差し下して来たは、右府に何か魂胆あってのことではないのか」
「そもそも信長という人は、表裏ある大将である。毛利攻めに我らを利用するだけ利用し、ゆくゆくは我らを滅ぼし、播磨をあの猿冠者めにくれてやろうという算段であろう」
議論というより、ほとんど藤吉朗と信長に対する悪口である。
一人、黙然とそれを聞いていた淡河定範が、不快げに眉を寄せて言った。
「信長公の人物を云々してもはじまるまい。また、羽柴がいかなる素性の者であるかなぞ、どうでも良いことじゃ。要は、織田が勝つか、毛利が勝つか――ご当家がどちらにつかれるが良いか、ということでござろう」
この淡河定範という男は別所家中では割りあい物の見える人物で、知略もあり、胆力もあり、戦も上手い。生没年は不明だが、このとき四十の前後であったかと思われる。
「差し当たり、いま考えねばならぬのは、加古川へ出向くか、出向かぬか――」
「我が殿は侍従、あの羽柴なる者は筑前守に過ぎぬではないか。殿が辞を低うして自ら出向かれるということがあって良いはずがない」
吉親が切り捨てるように言った。
官位で言えば侍従は四、五位の相当官であり、従五位下・筑前守よりも格が上である。侍従が筑前守に頭を下げる謂れはないという論法で、そう言われれば一座の者たちも、そういうものか、と思わざるを得ない。
ついでながら別所吉親は山城守を名乗っているが、これは朝廷から下された正式な官職ではなく、箔付けのためにそう私称しているだけである。無位無官の田舎者が正規の筑前守を見下し切っているわけだが、吉親の中で藤吉朗は筑前守どころか尾張の水飲み百姓の子であるに過ぎない。これに対して別所は播磨守護・赤松氏の支流にして東播磨守護代の家柄であり、赤松氏が村上源氏を称しているから吉親も自らを源氏の名流であると信じていた。
(天下の別所が、土百姓に頭を下げられるか)
というのが吉親の気分なのである。
名門意識を鼻に掛けた田舎者というのは、えてして夜郎自大になるものらしい。
(面子や体面なぞ、この際どうでも良いではないか)
と淡河定範だけは思っているが、吉親は別所の執権であり、家中で最大の権勢家だからそれを口に出すわけにもいかず、
「殿が出向かれぬとすれば、家中のしかるべき者を名代として遣わすのが良かろうと存ずる。来月の中頃には、毛利と越後の上杉が共に動くという。ともかくもそれまでは、我らは態度をどちらとも決するべきではない。ご当家が生き残る道は、勝つ方を見極め、勝つ方につくことじゃ」
苦り切った顔でそう言った。
「それは――その通りじゃが・・・・。まぁ、勝つのは毛利で間違いあるまいよ」
この観測は、吉親にとって動かない。
中国全土を支配し、将軍・足利義昭を奉じ、本願寺とも共闘している大毛利家が、負けるはずがないではないか。まして織田家は、噂に聞く“軍神”上杉謙信をも敵に回し、東西から挟み撃たれる形勢なのである。
「毛利が山陰・山陽の兵を挙って播磨へ出てくれば、羽柴なぞは戦わず上方へ逃げ帰るのではないか。我らが織田のために毛利と戦うてやらねばならぬ義理はあるまい」
吉親にすれば、毛利につくのが当然で、このことに議論の余地はない。毛利が勝てば己の実利にも繋がるのである。
「まして、織田なぞにつけば、家中の門徒が黙っておるまい。お家は潰れるぞ」
と、吉親は言葉を重ねた。
ここで別所が織田につくようでは、家中の門徒武士たちが一斉に離反しかねない。中世的な大名というのは絶対君主ではなく、豪族や地侍をまとめた連合勢力の盟主であるに過ぎないから、彼らの支持・信望を失ってしまえば、「別所」という勢力自体がたちまち崩壊してしまうのである。
吉親のこの発言が、意見としてはもっとも重大で、説得力を持っていたかもしれない。
「叔父御の申されることはいちいち道理ではあるが――」
ずっと議論の成り行きに聞き入っていた別所長治が、初めて口を開いた。
「事を急いては破れの端と成るが世の習い――とも聞く。別所の命運を決するに、間違いがあってはならぬ」
長治は、個人の感情としては信長を嫌ってはいない。京で逢った信長は常に温顔をもって接してくれたし、播磨の旗頭として格別に遇してもらいもした。この若者は先の紀州征伐で織田家の動員力の凄まじさを我が目で見て実感しており、信長に敵対すればどうなるかということが解らぬほど馬鹿ではなかった。確かに信長は評判が悪く、その悪評を裏付けるだけの悪辣な所業を数々やってきた男だが、別所に対する信長の態度と言葉に嘘がないなら、これに従う方が良いのではないかと密かに思っていたのである。
しかし、父を早くに失い、幼少から別所の当主に担がれた長治にとって、吉親は老臣というより父親代わりの叔父という実感が強く、その意見を否定してまで我を通すことは難しかった。まして家中の門徒武士の多さを考えれば、本願寺を敵に回すわけにはいかぬという吉親の言には一理も二理もあると思っている。
いずれにしても、何もかも不確かなまま結論を急ぐ気にはとてもなれなかった。
「毛利が動く、上杉が動くと言うても、口先だけのことやもしれぬ。右府公が信用ならぬ大将じゃと叔父御は申されるが、まずは羽柴のやり方をよく見、織田の心底を見極めることこそが肝要であろう。織田か毛利かを決めるのは、その後でも遅くはあるまい」
「なるほど・・・・。殿の申されることこそ道理――」
長治の一言で、とりあえず家中の意見は静観で固まった。
別所に対する藤吉朗の態度を観察し、織田の意中を見抜くこと。さらに来月の毛利の動きを見極め、その上で別所の方針を決める――
吉親は、長治の意を受け、その名代となって加古川へ出向くことになった。