第84話 別所氏の離反(1)
一方、但馬に残った小一郎の話である。
藤吉朗から与えられた「但馬一国切り取り次第」の恩典に気を良くしたわけでもないのだろうが、藤吉朗や半兵衛が羽柴本軍と共に但馬を去った後、小一郎は百姓が我が田をせっせと耕すような篤実さで着実に勢力を拡大していた。
まず分捕った岩洲城に前野将右衛門を入れ、金掘り人夫を狩り集めさせて生野銀山の採掘を再開させ、藤堂高虎に廃坑となっていた明延鉱山の再開発を命じた。続いて新領地の年貢を軽減して領民を慰撫し、地侍を懐柔して積極的に家中に組み込み、自身の家臣団を充実させると、その兵力を率いて自ら陣頭に立ち、北に兵を進めた。
先の侵攻で“山名四天王”の太田垣氏を滅ぼし、但馬最南端の朝来郡は完全に手に入れたが、その北隣の養父郡の過半は同じく“山名四天王”の八木氏が勢力を張っており、制圧が完全に済んだわけではない。
小一郎は、養父郡の地侍たちに使者を送って懐柔し、八木氏から離反させてこれを取り込み、あくまで従おうとしない者の城は虱潰しに次々と攻略し、奪った朝倉城に青木一矩を、宿南城に宮部善祥坊を、三方城に木村定重をそれぞれ置き、八木氏を八木城に封じ込めたのである。わずか二十日ほどで、養父郡を完全に奪い取ったと言っていい。
小一郎のこの辣腕ぶりは、藤吉朗にとってさえ嬉しい誤算であったろう。
(国取りとは斯様に容易いもんか・・・・)
当の小一郎自身、何やら拍子抜けするような気分でそう思った。
本人にその自覚はなかったが、小一郎は「織田家の中国征伐」といういわば時勢に乗っている。その勢いに身を任せているだけで、但馬の小豪族や地侍たちは小一郎の背後に強大な信長の像を見ざるを得ず、これに逆らうことがどれほどリスクを伴うかもよく解っていた。「自家の生き残り」が小勢力にとっての至上命題である以上、織田家の威を借る小一郎が何をやっても事は上手く回ってゆくのである。
しかし、このことが少なからず小一郎の自信になったことは間違いない。
小一郎はこれまで、常に羽柴家の裏方に身を置き、大将である藤吉朗の黒子となって縁の下で働いてきた。藤吉朗や半兵衛の仕事をもっとも間近で見てはいたが、政・戦共に自由な裁量権を与えられたことは皆無に近く、己の判断で戦をやったことさえ一度もない。
その小一郎が、
(わしも結構やれるんとちゃうか・・・・)
という自覚を持ったのである。
自信ほど、男の才気を肥えさせるものはないであろう。
小一郎がこうして但馬南部で勢力を築きつつあった十二月の中旬、上月氏を滅ぼした藤吉朗から呼び出しが掛かった。
藤吉朗は、上月氏の滅亡をもって播磨平定の完了と位置づけ、これを信長に報告するために帰国するという。小一郎に留守の大将として姫路に在番するよう命じて来たのである。
小一郎は竹田城を前野将右衛門に任せ、地侍のさらなる調略と領地の慰撫を指示し、宮部善祥坊らに八木氏への警戒を命じるなどの処置を済ませると、大急ぎで姫路へ向かった。
小一郎がわずかな供廻りを連れて姫路に入ったのは、十二月十五日の前後であったと思われる。
すでに藤吉朗は播磨を去っており、同じく留守を任された半兵衛と蜂須賀小六、小寺官兵衛らが出迎えてくれた。
「但馬でのご活躍は手紙で読ませて頂きました。このわずかな時日で、実に良い仕事をなさいましたな」
久しぶりに逢った半兵衛は――風邪でもひいているのか顔色がひどく悪かったが――口元にはいつものゆったりとした微笑が浮いていた。
「いやいや、但馬七郡の内、ようやっと二郡を鎮めたばかりにて――」
謙遜したが、褒められれば自然と笑みが出る。
「向後の但馬の仕置きに何か良き知恵があれば、是非ぜひご教示くだされ」
小一郎が請うと、半兵衛はかねて考えてあったのか、すぐさま策を授けてくれた。
「但馬は、守護・山名氏の声望がことに高いと聞きます。山名は清和源氏の名流――かつては足利幕府の“四職”に数えられ、十一ヶ国の守護を兼ね、“六分の一殿”などと称された屈指の名門ですから、但馬の豪族、地侍なども、山名の支族であることに誇りを持っておりましょう。現・守護の右衛門督殿(山名祐豊)は安土さまを裏切り、毛利と結んだお人ですからこれは許せぬとしても、一族でしかるべき者を庇護し、山名の家名を存続させ、礼遇するのがよろしいでしょう」
但馬人たちは織田家の武威に一時は屈しても、心からこれに服従しているわけではないであろう。ことに西の毛利氏が常に政治的・軍事的圧力を加えて来ている現在、彼らは風向き次第ではいつでもこれに乗り換える心づもりであるに違いない。しかし、但馬守護である山名氏の権威は、但馬人たちの間では格別に神聖視され、織田よりも毛利よりも古く根深く民衆に浸透している。この山名氏の一族の者を厚く遇して現・守護と対抗させれば、但馬の豪族たちが織田に寝返る際の大義名分にもなるし、但馬人たちは自然の心情として織田の統治に親しみを持ってくれるに違いない。
藤吉朗はこれと同じ論理で、北近江の王になるやかつて湖北の守護であった京極氏の一族を見つけ出し、これに領地を与えて礼遇した。
それを間近に見ている小一郎は、半兵衛の言わんとすることがすらりと理解できた。
「さっそくそのようにします」
小一郎は生来、発想の独創性には欠ける面があったが、本人がその欠点をよく弁えており、周囲の人の意見をよく聞き、道理と思えばすぐさまそれを取り入れる謙虚さと柔軟性とバランス感覚とを備えていた。欠点を補って余りある美徳と言えるであろう。
「小一郎殿は、すでに但馬で織田の武威を示されました。向後は、調略を主とし、戦を従となさるべきでしょう。但馬よりも、この播磨が忙しゅうなりそうですからね」
半兵衛がそう続けた。
播磨の政情が、何やら油断ならぬ雲行きになってきているということを、ここで小一郎は初めて知らされるのである。
半兵衛は、この十日ほどの間に捕らえたという密使から奪った数通の書状を小一郎の前に広げて見せた。
「これは・・・・・」
宛名は播磨の豪族たちの名が並び、「別所侍従」――別所長治――に宛てたものもある。
文面はどれも似たり寄ったりで、越後の上杉謙信が来年の春に上洛戦を開始すること。これと呼応して毛利が播磨へ攻め込むこと。紀州雑賀党と本願寺がそれを支援する手はずになっていることなどが記され、時日の到来を期し、毛利が奉戴する将軍・足利義昭に忠節を尽くして頂きたいと懇請する内容になっている。署名は、毛利氏の重鎮・小早川隆景のものが多いが、足利義昭の側近のものもあり、本願寺門主・顕如のものもある。
「敵の調略がいよいよ露骨になってきたということですか・・・・」
小一郎の言葉に半兵衛が頷いた。
「問題は、こういった密使が多く播磨に入り込んでおることではなく、こういう書状が参っているということを、播磨の豪族たちが我らに注進して来ぬという点です」
播磨の豪族や地侍への密使をすべて捕らえることなぞは不可能である。これらの書状は氷山のほんの一角に違いなく、播磨の諸豪の元にはすでに何通もの密書が渡っているであろう。もし、彼らに織田家に無二の忠節を尽くす気持ちがあるなら、「こういう書状が来た」ということを藤吉朗に報せることで自らの忠誠を誇示し、得点を稼ごうとするはずで、それをしようとする者がないということは、つまり、彼らが再び織田と毛利を両天秤に掛け始めたということになる。
藤吉朗はすでに播磨を平定したつもりでいるが、内実は平定どころか、いつ誰が敵に回るかも解らない混沌とした状況になってしまっているのである。
「面目次第もござらん・・・・」
小寺官兵衛が頭を下げた。
余裕と自信に溢れる普段の姿からはかけ離れた沈痛な面持ちである。官兵衛は播磨国衆の調略を請け負って来た男だけに、大きな責任を感じているのであろう。
「上杉謙信殿は先の手取川の戦で柴田勝家殿を大いに破りました。その謙信殿が本気で織田と決戦をする気であると聞けば、播磨の国衆たちも先行きが読めず、織田に属し続けることに不安を感じておるのでしょう。誰しもが負ける博打は打ちたくないですからね。織田が滅ぶなら毛利に就いておきたいというのが当然の人情です」
「上杉謙信が、来春、再び上洛の軍を・・・・」
毛利も本願寺も上杉の同盟勢力だから、情報の信憑性は極めて高いと言わねばならないだろう。
ちなみに頼山陽の『日本外史』では、謙信が信長に決戦状を送りつけたことになっている。
「来年の三月十五日を期し、領国八ヶ国の兵を率いて西へ上り、貴公(信長)と相見えよう。我ら北国の武士を、皮足袋を履くような腑抜けた都武士と同じに思わぬことだ」
と恫喝する謙信に対し、信長は、
「私がどうして貴公と争うことを望みましょう。貴公が上洛なさるというなら、刀剣を捨て、扇子一本を腰に差して、ただ一騎にて貴公をお出迎え致し、私自らが京への道案内を致しましょう」
と返答したとしている。
このエピソードは頼山陽の創作だろうが、謙信と信長の力関係は、謙信が上と一般に評価されていたことはどうやら間違いない。実際は経済力も兵の動員力も信長の方が遥かに優っているのだが、それでも謙信を上と見るのは“軍神”の武名の重みゆえであろう。
「まぁ、いかに心配したところで、あの軍神は播磨におる我らにはどうすることもできん。今のところ、打つ手はないということですわい。慌てて播磨の国衆たちに媚を売るようでは、かえって織田が上杉を怖れておると取られ、いよいよ信用を失わぬとも限らんですしの」
蜂須賀小六が太い腕を組みながら言った。
その通りだと小一郎も思った。
「この上は、一刻も早う殿に大軍を引き連れて播磨に戻って頂き、武威によって人心を取り鎮めるよりない――か・・・・」
藤吉朗は、期限付きで急募した兵員・人夫を含め三千人ほどを引き連れて帰国している。再び播磨入りする時には新たに募集した人員と信長からの増援を連れて来る算段になってはいたが、現状、播磨の羽柴勢は大幅に減っており、総大将の不在と羽柴本軍の兵力の寡少さが、播磨での織田家の信用を著しく低下させていたのである。
「謙信殿は、常に関東の北条に足を取られています。これと同盟でもせぬ限り、上洛なぞそう思惑通りにゆくとは思えませんが――逆に言えば、毛利にせよ本願寺にせよ、謙信殿が動く春までは大きな動きは起こしますまい。この間、謙信殿の武名も利用して調略で少しでも味方を増やしておこうというのが敵の目論見なのでしょう」
半兵衛の言に、一同が頷いた。
「ともあれ、私の気がかりは別所の動静です。万一、別所が毛利に通じて我らに敵対するようなことにでもなれば、東播の諸豪は別所に呼応してみな背くでしょう。姫路の我らは東の別所と西の毛利に挟まれる形勢になる」
この想像は怖ろしかった。
播磨には守護・赤松氏の支族だけで三十六家の豪族があるとされるが、播州東部に広く勢力を持つ別所氏はその過半を傘下に収めている。それらをすべて合わせれば二十万石近い勢力があり、羽柴家の動員力とほぼ拮抗する実力を持っているのである。これほどの大勢力が敵に回って背後を遮断されるような事態になれば、それこそどうにもならない。
「いやいや、別所は織田にとって十年来のお味方。信長さまも別所侍従(長治)のみは他とは別格と、人質さえ返されたほど深き信頼を置いておられた。まして此度の中国征伐においては、別所は播磨の旗頭として先手(先鋒)を務めることを許され、手柄も立て放題――これほど厚く遇されながら、不足を言う方がおかしい。よもや敵に通じるようなことはないじゃろう」
小六が反論したが、これはあくまで希望的観測と言うべきであった。
「私もそう願いたいですが・・・・・」
「孫右衛門殿(別所重棟)は、そのあたりはどのように?」
小一郎が尋ねた。
別所重棟は別所長治の叔父であり、別所家の執権の一人である。軍事も政治も別所氏は二人の叔父がその舵を取っており、だからこそ藤吉朗も別所重棟を格別に遇してきている。
「孫右衛門殿ご自身は、我らの無二のお味方であると思います。ただ、別所に調略が入っておることは知らぬご様子で、要領を得ませんでした。これは私の憶測に過ぎませんが、別所家中で孫右衛門殿は浮いておるのやもしれません」
「浮く――?」
「別所のもう一人の執権・山城守殿(別所吉親)は孫右衛門殿の実の兄だそうですが、このお二人がどうも犬猿の仲であるらしいのです。別所は、織田派の孫右衛門殿と、毛利派の山城守殿の二派に割れ、家中が毛利に傾き始めるにつれ、孫右衛門殿は徐々に疎外されるようになったのではないかと・・・・」
この半兵衛の推測は、半ば当たっている。
弟の別所重棟が織田方に深く組し、畿内の戦などで活躍し、名を挙げるようになると、兄の別所吉親はそれが面白くなかったらしい。弟に対する嫉妬心と対抗心から織田を毛嫌いし、毛利に肩入れしていた。播磨は一向宗がことに盛んな地域で、別所家中もその大半が本願寺の門徒である。門徒は潜在的に仏敵・信長を憎悪しているから、自然の流れとして門徒武士たちは親毛利の吉親の元に集まり、それを核として強大な派閥を形成するようになっていった。
別所の執権の一人である吉親にとって、重棟は弟というよりこの世でもっとも憎むべき政敵である。このまま播磨が織田家の勢力下に入れば、別所家中では必然的に織田派の重棟の株が大きく上がり、毛利派の自分の権勢は失墜することになるであろう。
(播磨が織田のものになるより、毛利のものになる方がマシだ)
と吉親が考えたとしても無理はない。
毛利氏や本願寺の方でもそういう別所家中の事情をよく心得ていて、この吉親の調略を播磨経略の最重要課題と位置づけていた。織田を滅ぼし、毛利が天下を取った暁には、毛利から吉親個人に別に領国を与え、大名として自立させてやる、くらいの約束は出来ていたかもしれない。
いずれにしても、今の別所家中はこの別所吉親という男が権勢を握っており、弟の重棟は中枢から遠ざけられていた。
(言われてみれば、先の但馬攻めにせよ上月攻めにせよ、別所から加勢に来たのは孫右衛門殿だけで、別所長治も別所吉親も顔を見せなんだな・・・・)
藤吉朗の肩書きが「信長の代官」である以上、本来であれば当主の別所長治自身が兵を率いて駆けつけねばならないであろう。
そういう別所の不審さは、当然、この場に居る誰もが気づいている。
「肝心の別所侍従殿のお気持ちは、どちらにあるのであろう・・・・?」
執権の権力がいかに強かろうと、当主の別所長治が首を縦に振らぬことには織田も毛利も決められないであろう。信長と長治の信頼関係が損なわれていなければ、まだ望みはある。
「私が二度ばかり三木に赴きましたが、侍従殿は、織田のことは孫右衛門殿に任せておると申されるのみで、こちらも要領を得ませなんだ」
官兵衛が渋い顔で首を振った。
皮肉なことだが、この官兵衛という男の存在が、播磨の政情をよりややこしくしている。
別所の人間はほぼ例外なく官兵衛を毛嫌いしており、官兵衛が三木城で別所長治と会見した時などは、傍らに居た別所の重臣たちは露骨に不愉快そうな表情をし、ほとんど口をきこうともしなかったのである。
別所氏は、信長から直々に「播磨の旗頭となり、中国征伐の先鋒を務めよ」というお墨付きを得ている。織田家から派遣される総大将を上に戴くにしても、播磨国衆を率いるのは実質的に別所氏であるはずであり、平定した播磨は別所氏のものになると当然のように考えていたのだが、蓋を開けてみれば司令官の藤吉朗は播磨の国衆を自分の家来のように扱い、別所氏に一切の指揮権を与えなかった。それどころか小寺氏の家老に過ぎぬ官兵衛をあからさまに重用し、藤吉朗の手足となって播磨の豪族たちとの橋渡しや調略をやったのも官兵衛であったし、上月攻めで先鋒の名誉に浴し、功を立て名を上げたのも官兵衛であった。
(小寺の家老に過ぎぬあの官兵衛なる男は、羽柴に取り入って播磨の旗頭にでもなったつもりか・・・・!)
播磨の過半を支配する別所氏から見れば、小寺氏なぞはほんの小勢力に過ぎない。官兵衛はその小寺の当主でさえなく、一家老に過ぎない分際なのである。
下郎あがりと噂のある羽柴とかいう風采の上がらない小男の家来の如く扱われることにそうでなくとも別所氏は腹を立てているのだが、官兵衛の存在がその悪感情をより根深く複雑なものにしていた。この不愉快さは別所系列のほとんどの豪族たちに共有された感情と言ってよく、大げさに言えば官兵衛は――その性格や能力とはまったく関係のないところで――播州人の間でもっとも嫌われている人間であるかもしれなかった。
「他はともかく、別所だけは何としても我が方に繋ぎ止めておかねばならん・・・・」
小一郎は呟くように言ったが、現状、打つ手は考え付かない。
「半兵衛殿――」
縋るように視線を向けると、
「別所のことは、孫右衛門殿から侍従殿を説いてもらうほか手はないですね」
半兵衛も難しい表情をしていた。
「小六殿もおっしゃっていたように、ここで我らが弱味を見せるようではかえって逆効果になりかねません。我らは山のように泰然とし、動かぬことこそが最良かと。別所を含め播磨の諸豪は、少なくとも春までは、あからさまに織田に敵対しようとする者はないでしょうから、殿が再び播州にお入りになるのを待って、武威をもって威伏せしめるしかないと思います」
動かぬことが、最善の策、ということになるのであろう。
それからの小一郎は、半兵衛の助言を受けつつ実に精力的に出来るだけのことをやった。
藤吉朗にはマメに書状を送り、播磨の情勢を伝えて早期出陣を促す一方、敵の密使の横行に少しでも歯止めが掛かるよう播磨国内の諜報を活発化させた。
さしあたって戦務がない羽柴家の軍兵・人夫らには姫路城の拡張工事を命じ、半兵衛と官兵衛にその指揮を執らせた。また、但馬の鉱山から採れる銀や銅などを集積するために浅野弥兵衛と前野将右衛門を奉行にして駆け回らせ、さらに増田長盛に命じて銀を堺に運ばせ、これを鉄砲・弾薬・兵糧などに換えてせっせと姫路城に蓄積し、来るべき大戦のための戦備を整えた。
忘れてはならないのが、上月氏から奪った佐用郡の慰撫である。上月城には山中鹿之介ら尼子党を入れて守らせているのだが、彼らはいわば城番で、領主がいなくなった佐用郡の民政は羽柴家で行わねばならない。各村に代官を派遣して名主や豪農と折衝させ、自作農と小作人の台帳を作り、検地をして土地台帳を作り、村の安全と土地の安堵を保障する代わりに年貢と諸役(雑税)を定め、これらをすべて決済して村ごとにいちいち朱印状を出す。さらに寺社には、兵の乱暴狼藉を禁じ、領地を保障する朱印状と引き換えに、本願寺との手切れを迫って羽柴家への協力を約束させる。
湖北の慰撫をやってのけた小一郎にとっては手馴れた仕事だが、量が多いだけに煩瑣で手間の掛かる作業でもあった。
幸い――半兵衛の予見の通り――天正六年(1578)が明けても毛利方には大きな動きがなかった。
別所氏を含む播磨の豪族たちは、毛利が動かぬ以上、織田与党の擬態のまま動かない。
表面上、播磨で迎えた新年はどこまでも平穏であった。
しかし、その実、別所氏は三木城に兵糧、弾薬などを大量に集積し始めていたし、別所系列の豪族たちの人数をも動員して堀を深くし、塁を高くし、柵を植え込むなどの城の拡張工事を始めていた。
これはあからさまな篭城支度であり、反乱の準備のようにも取れる。
これを知った小一郎は、別所重棟を使者にして事情を問い合わせたが、
「敵の毛利は大国、その兵力は強大で、戦は長期に渡るであろう。ことに瀬戸内海は毛利水軍の庭のようなものであり、軍船を使って明石あたりに大軍を送り、一気に我らの三木まで攻め込んで来ることも十分に有り得る話である。これに備えるに、城を堅固にし、兵糧・矢弾を蓄え置くは当然のことではないか」
と反論されれば返す言葉がなかった。
別所氏の戦支度に関しては放置するほか術がなく、小一郎は日々の雑務に追われながらひたすら兄の播磨再出陣を待ち続けた。
藤吉朗は、正月を近江 長浜で過ごした。
元旦はもちろん安土城に上り、信長に拝謁して新年を寿ぎ、信長の重臣・側近らと共に朝の茶会に招かれ、その後は酒宴に列席したりしているし、四日には嫡男・信忠の茶道具の披露会に出席していたということが『信長公記』に記されている。
激務が続いていた藤吉朗にしては珍しく、ゆったりと正月気分を満喫したらしい。
無論、藤吉朗の元には小一郎からの書状が連日のように届いており、播磨の不穏な状況については掴んでいる。しかし、藤吉朗は藤吉朗で、留守中に領国内で溜まった政治案件や財政案件の処理に忙しく、しかも家臣団の主要な人材が播磨と但馬に出払っているために――何より小一郎が不在なために――これにひどく手間取った。
藤吉朗がそれらの雑務をともかくも片付け、兵糧・矢弾を山と買い揃え、新たな兵員・人夫を集めてそれを編成し、さらに信長と今後の中国征伐に関する入念な打ち合わせを行い、出陣の準備を整え終えた頃、暦は二月の中旬に差し掛かろうとしていた。
結局、藤吉朗が再び播磨に入ったのは、天正六年二月二十三日である。
信長から預かった寄騎・二千を含め、五千数百の軍兵がこれに付き従っていた。