第83話 半兵衛と官兵衛――播州経略(2)
播州西部はその面積のほとんどが山林で、低い山と谷が複雑に入り組み、山襞に沿って千種川、佐用川の本・支流が地を割っている。
羽柴軍が目指す佐用郡は、播磨内陸部の西の端にあり、西に向かえばすぐ美作、南西に進めばすぐ備前という国境の要地である。
上月氏の本拠である上月城は、佐用郡の中でも西端にあり、荒神山という丘のような山の山頂に築かれている。この周囲に福原城、佐用城、利神城、櫛田城などの枝城があり、高倉山、室山、大日山、浅瀬山といった周囲の高地にはことごとく砦が置かれ、それぞれに上月氏配下の武将が守備についていた。
天正五年(1577)十一月二十六日、姫路を出陣した羽柴軍は、龍野、三日月を経由して翌二十七日の午前に佐用郡に入った。
その地形を一望した藤吉朗は、顔をしかめざるを得ない。
(聞いてはおったが、こりゃ厄介な地勢じゃな・・・・・)
四方はどちらを向いても雪化粧をした山肌である。山の尾根や谷の河原にほそぼそと道が続いてはいるが、わずかな平野部もほとんどが田か畑であり、平地が狭隘すぎて大軍を展開するスペースがなく、馬を駆け合わせるようなまともな合戦はできそうにない。そのくせ、視界の山々の山頂にはそれぞれ上月氏の砦があるはずで、これを虱潰しにしないことには最初の攻略目標である福原城に攻め寄せることさえできないであろう。
(半兵衛殿と官兵衛の策が、果たしてその読みの通りに当たるかどうか・・・・)
藤吉朗は内心、そのことに非常な興味を持っている。
この前日の夜、三日月で兵を休めた藤吉朗は、諸将を集めて軍議を開いた。
「宇喜多が加勢に出張ってくれば厄介じゃ。上月攻めは、日数を掛けず一気に事をし遂げたい」
藤吉朗にすれば、この一戦で織田家の武威を播磨の国衆たちに見せつけ、再び毛利氏に傾くことがないよう流れを完全に断ち切っておきたい。緒戦の政治効果を考えれば、非常に重要な戦いであることは言うまでもない。
「まずは福原城を落とさねばならんが、どこから攻めるがよいか?」
小寺官兵衛に尋ねた。
敵の上月政範は官兵衛の義兄で、官兵衛は佐用郡には何度も足を運んでいるから、このあたりの兵要地誌については知り尽くしている。
指名を受けた官兵衛は、佐用郡の山河の様子を克明に説明し、
「我らがまず取るべきは、これなる高倉山と考えます」
自信満々の表情で絵図を指した。
藤吉朗の隣に居た半兵衛は、これに大いに頷いた。
「私も、あの山がこのあたりのツボだと思います。佐用川を隔てて福原城を見下ろせ、上月城からも近い。あそこに我らの本陣を置き、山裾に兵を並べて道を塞げば、敵の端城と本城の連絡も絶てます」
「端城の兵たちはそれぞれ別個に討たれることを怖れ、福原城、上月城に兵力を集中しようと図るかもしれませんな。そうなれば、端城をいちいち抜く手間も省ける。北に少し外れたこの利神城は、押さえの兵を置き、さしあたり無視すればよろしいでしょう」
打てば響くように官兵衛が応じた。
「高倉山の重要なことは、敵もよう解っておりましょう。堅固に守っておるでしょうから、あえてこれを初手から攻めることはせず、周囲の端城を攻めることで敵を引きずり回せば如何でしょう」
扇子でトントンと敵の砦を三箇所指した。
それだけのことで、半兵衛はすぐさま意図を察したらしい。
「なるほど。この順番なら、赤穂から進ませておる軍兵も生きる――」
「上手くすれば、南方の櫛田城はほとんど無血で取れましょう」
二人の軍略の天才の論議に、諸将はほとんど置いてけぼりの格好なのだが、ここで手を挙げて「話が見えん」と主張することは己の無能を声高に言い立てるようなもので、できることではない。武士は恥をもっとも怖れる生き物であり、あえてそれをしようとする者は一人もいなかった。
(この二人は、これだけのことでちゃんと話が通じよるのか・・・・)
さしもの藤吉朗でさえ、こちらの打つ手に対して敵がどう動き、結果、戦がどう流れてゆくのか読み切れていない。
しかし、藤吉朗は、半兵衛の軍略に関してはすでに絶対的な信頼を置いていた。官兵衛の軍才はまだ未知数な部分が多いが、半兵衛と意見が一致するなら心配は要らぬ気がする。
「あい解った。おことらの思うようにやってみい」
配下の能力を信じて使いこなすことが、上に立つ者の器量というものであろう。
藤吉朗は、羽柴勢千五百を半兵衛に、播磨の国衆の軍勢千五百を官兵衛にそれぞれ付け、この二人に先鋒を任せることを決めた。
この人選には、藤吉朗の裏の思惑も多少混じっている。
藤吉朗は、今後の中国経略において自分の羽翼となるであろう半兵衛と官兵衛に手柄を立てさせることで、両者の武名を大いに宣伝しておくつもりであった。
この中国筋において、たとえば毛利輝元の両腕である吉川元春、小早川隆景の両名は、中国屈指の名将として武名が突き抜けている。これに比して中央で勃興した織田家の武将の武名はあまり聞こえておらず、信長の代官である羽柴秀吉の名でさえ、認知度は山中鹿之介のそれにさえ及んでいなかった。武名だけで敵に恐怖を与えるというようなネームバリューはなく、その藤吉朗配下の武将となると、ほとんど無名というに近い。
そういう中国地方で、
「織田家の武将は、思いのほか戦達者が多いらしい。羽柴秀吉の配下でさえ、これほど優れた者がおる」
という評判を作っておくことは、中国者たちに織田家の人材の厚みを印象付けることになり、その大将たる藤吉朗の名を上げることにもなり、先々無駄にはならないであろう。
半兵衛と官兵衛を両先鋒に立てた羽柴軍は、佐用郡に入るやさっそく端城の攻略に取り掛かった。敵領深く踏み入ると、福原城も高倉山も無視して南下し、敵の意表を衝いてまず徳久城という砦を攻めた。
上月氏の側は、羽柴軍が高倉山か福原城を攻めであろうと当然のように考えており、この動きに慌てた。
上月政範はすぐさま徳久城の救援を命じ、上月城から援軍を出すと共に南方の櫛田城に篭る将兵を徳久城に走らせた。
半兵衛と官兵衛は、これを予期していたように援軍の軍勢を巧みにあしらい、返り討ちにして壊走させ、敵兵が近くの米田砦へ逃げ込むのに乗じて一気にその砦までを攻め崩した。
一方、この日の夕刻に、別働軍が赤穂から北上して佐用郡に到着した。この軍勢は、徳久城救援のために兵が出払ってしまっている櫛田城を攻め、これを一気に抜いた。
半兵衛と官兵衛の徳久城攻めが陽動になり、その陽動に引っかかって出戦した敵を討つことが、さらに次の陽動になる。
上月氏の側は各砦の防戦とその救援のために良いように振り回され、ものの半日で四つもの拠点を失い、しかも肝心の高倉山は反転した羽柴軍によって包囲された。
高倉山には、福原氏の当主・福原則尚の義弟にして筆頭老臣である福原助就が守備についている。
藤吉朗は官兵衛の献策に従い、高倉山東方の小山に布陣すると、その南北に軍勢を配置して包囲態勢を敷いた。高倉山の西方の一角は、わざと空けてある。囲師必闕(敵の軍を包囲するときは必ずどこかを開けておく)は『孫子』の説くところで、この重要拠点を一刻も早く奪うために、敵にあえて逃げ道を残しているわけである。
高倉山の包囲が終わった頃には日は稜線に没し、二十七日の夜になった。
布陣する羽柴軍の篝火が、幾重にも山裾を取り巻いている。
夜の城攻めはしないのがセオリーだが、ここで藤吉朗は全軍に攻撃を命じた。
羽柴軍に加わっている播磨国衆の戦意は決して高くはなかったが、彼我に圧倒的な兵力差があることもあり、高倉山はその夜のうちに陥落した。敵勢は夜陰に紛れて福原城へ退こうとしたが、官兵衛はあらかじめ敵の逃げ道に伏兵を配しており、城主の福原助就はじめ名のある武者の多くを討ち取る大戦果を挙げた。
(わずか一日で高倉山を奪い、敵の端城もあらかた片付けてしもうたか。なんとも鮮やかなもんじゃな・・・・)
戦況の不利を悟ったのであろう、利神城の別所定道は藤吉朗に降伏を申し入れて来ている。高倉山を押さえたことで福原城は裸になったと言ってよく、上月城への道も一気に開けた格好である。
徹夜で働いた兵たちを休ませ、福原城への攻撃は翌二十八日の昼過ぎから始まった。
先鋒は、前日に続いて再び半兵衛と官兵衛である。
羽柴軍が佐用川を渡河して城に攻め寄せると、福原勢は城を討って出てこれに応戦し、激戦になった。
藤吉朗は高倉山の砦からその戦況を見守っていたわけだが、高所から俯瞰することで二人の兵の駆け引きの見事さをあらためて実感させられた。半兵衛と官兵衛は、言葉も交わさずに見事な連携で進退を繰り返し、敵を引き付けて巧妙に半包囲態勢を築き、ものの一刻ほどで福原勢を圧倒し、城へと押し返したのである。
(半兵衛殿は言うまでもないが、官兵衛の采配もそれに遜色ない。見事なもんじゃ・・・・)
先鋒軍はさらに福原城に肉薄し、山麓に火を放って城を焼き立てた。
それ以後、福原勢は亀のように城に閉じ篭って出てこなくなった。
羽柴軍の猛攻は連日続いた。
福原城が落ちたのは、三日後の十二月一日である。
藤吉朗は蜂須賀小六に一隊を授け、これを福原城の搦め手から攻めさせると共に、大手には半兵衛と官兵衛を配し、さらに全軍を催して四方から総攻撃を命じた。
城主・福原則尚は藤吉朗が居る高倉山本陣に向けて最後の突撃を企てたが、羽柴軍の分厚い壁に阻まれて志を遂げられず、城に逃げ戻ると、ついに自ら城に火を掛け、菩提寺である高雄山の福円寺まで逃亡してそこで腹を切った。
藤吉朗は、諸将の前で今回の半兵衛と官兵衛の働きを激賞し、この戦勝をすぐさま信長へと報じた。後日、信長からは藤吉朗に対する褒詞と官兵衛に宛てた感状が届けられた。
福原城を接収した藤吉朗は、すぐさま軍を西へ進め、いよいよ上月城の山裾を包囲した。
上月城の標高は、わずか一四〇メートルに過ぎない。荒神山の尾根に沿って数箇所の曲輪を置き、小規模な堀切が切られただけの砦のような素朴な山城である。その防戦能力はたとえば小谷城などとは比べものにならないが、山は低いながらも独立峰で攻め口が少なく、しかも坂の傾斜がきつく、なかなか攻めにくい要害であった。
ここで藤吉朗は、半兵衛と官兵衛を二陣に下げ、先鋒を変更している。
(播磨の国衆に、わしが官兵衛にばかり目を掛けておると思われてもいかん)
という政治的配慮でもあったろうし、深読みすれば官兵衛に対する思いやりであったかもしれない。
敵の上月政範は官兵衛とは相婿であり、義理ながらも兄弟である。その交際の深かったことは、官兵衛の口ぶりなどから藤吉朗はよく知っている。親類縁者が敵・味方に分かれるのは戦国の習いだが、もっとも苛烈に戦うべき先鋒にわざわざ官兵衛を配するというのは、人情の上から酷というものであろう。
藤吉朗は、今度は尼子遺臣団を率いる山中鹿之介と別所氏の兵を率いる別所重棟にそれぞれ兵を授け、先鋒に指名した。山中鹿之介の武名は敵にもよく知られているし、播磨国衆の最有力者である別所氏の顔も立ててやろうというのである。
上月城が羽柴軍によって包囲された頃、ようやく備前の宇喜多氏の軍勢三千が援軍に駆けつけた。
備前から美作、さらに備中と播磨の一部にまで勢力を持つ宇喜多氏の最大動員力は、一万を遥かに越える。それから考えれば三千という援軍は少なすぎる数だが、福原城の陥落があまりに早かったために、兵の動員が間に合わなかったのかもしれない。
それでも、援軍の来着は篭城の敵兵の士気を著しく高めたし、攻める羽柴軍は宇喜多軍への備えのために陣形を崩さざるを得なくなった。藤吉朗は山中鹿之介に宇喜多軍の迎撃を命じ、さらにその後備えとして本軍から部隊を引き抜いて向かわせた。
これを機と見た上月政範は城兵に出戦を命じ、雄叫びを上げた上月勢が山を駆け下って羽柴軍の先陣である別所重棟隊に襲い掛かった。
別所勢はこの勢いを支えきれず、兵たちの狼狽が混乱となって総崩れになりかけたのだが、急を知った二陣の官兵衛がすかさず援軍に駆けつけて上月氏の先鋒を押し返したおかげで、どうにか戦線の崩壊は免れた。
上月勢は疲労した先陣を城に収容し、二陣と入れ替えて官兵衛の部隊とさらに激しく戦った。
官兵衛の部隊は、前日までの奮戦とこの日の連戦のために当然ながら疲労の色が濃い。本来なら新手と交代したいところだが、しかし、官兵衛は退却するわけにはいかなかった。
敵の上月政範が官兵衛の義兄である以上、ここで官兵衛が無様に退いて敗軍のキッカケを作るようなことにでもなれば、「官兵衛は敵に通じている」というような疑いを掛けられぬとも限らない。官兵衛にすれば、たとえ義理の兄弟であろうと敵は敵であるということを態度で示さねばならず、命を賭すほどの苛烈な戦いぶりを敵・味方に見せておかねばならなかったのである。
「ここが切所ぞ! 退くな者ども!」
官兵衛は叫びつつ必死に揮下の将兵を叱咤した。
しかし、軍兵たちが疲労し切っているために次第に敵に圧倒され、苦戦に陥った。
そういう官兵衛の立場と決意は、本陣から戦況を見守っている藤吉朗には当然解っている。
「官兵衛は死ぬ気ぞ! 官兵衛を討たすな!」
怒声を張り上げるように救援を命じた。
本陣から援軍が駆け出すより早く、二陣で控えていた半兵衛の隊が上月勢に絶妙な横槍を入れ、官兵衛の苦境を救った。さらに藤吉朗の本軍が来着すると攻守は逆転し、勢いを得た羽柴軍は上月勢を大いに破り、城に押し返した。
その夜、藤吉朗は諸将の前で官兵衛の勇戦と半兵衛の機転を再び口を極めて褒めた。
半兵衛は、自身の功名に頓着しない男である。
「お味方の崩れを救い、敵を二度まで押し返したのは、ひとえに官兵衛殿のお働きの賜物。私などは、さしたる働きも致しておりません」
事もなげに言い、官兵衛にすべての功を譲った。
藤吉朗は、金履輪の見事な鞍をつけた秘蔵の名馬を曳き出して来させ、それをその場で当座の褒美として官兵衛に与えた。
「このわしは物惜しみするような男ではないぞ。このような名馬が欲しくば、皆も官兵衛に劣らぬ手柄を立てよ!」
割れるようなその大声で、官兵衛は大いに面目を施したのだった。
この敗戦に懲りたのか、翌日以後、上月氏は城に篭って守勢に徹するようになった。
一方、備前からやって来た宇喜多軍は、上月城の南方の下秋里というところに陣を張り、山中鹿之介らの別隊と睨み合いになっている。
「あんな小城で、上月はよう粘る・・・・」
すでに上月勢は千数百というところまで討ち減らされているはずだが、山麓を焼き払い、水の手を奪っても、まったく落城の気配が見えない。
包囲から数日、さしもの藤吉朗にも焦りの色が見え始めていた。「十一月十日ごろには播州平定を終える」と信長に報告してしまった手前、十二月に入って未だ上月城が落とせないというのでは、言い訳が出来ないのである。
「ここはまず宇喜多の援軍を叩き、城に篭りおる者たちの心を折るべきかと・・・・」
見かねた半兵衛がそう献策した。
半兵衛はこの数日で風邪をひいてしまったらしく、顔色がひどく悪い。
「将を射んとせば、まず馬を――か・・・・」
「遠回りに思えるかもしれませんが、城攻めは、城に篭る兵たちの心を攻めるが上策です。無理に力攻めで落とそうとすれば、味方の怪我ばかりが多くなり、かえって時が掛かってしまうこともあります」
いくら考えたところで、このこう着状態を打ち破る方策は他に浮かばない。
「やってみるか・・・・」
藤吉朗は別所重棟に命じて上月城の包囲を厳重に固めさせ、上月勢の動きを封じると、自ら羽柴軍の主力を率いて南下し、下秋里の宇喜多軍に総攻撃を掛けた。
先鋒は、山中鹿之介と小寺官兵衛である。二陣は義弟の浅野弥兵衛を大将に子飼いの堀尾吉晴、宮田喜八郎、中村一氏、山内一豊らを配し、本軍は藤吉朗自らが率いた。
山中鹿之介が率いる尼子党の働きは圧巻で、宇喜多軍の先陣を引き受けて一歩も退かずに激烈な戦闘を繰り広げた。官兵衛は敵の側面を取るように迂回しながら攻撃を仕掛け、宇喜多軍の二陣がこれに応じて兵を繰り出すと、藤吉朗も二陣を前線に投入し、凄まじい乱戦になった。
地の利は、先に布陣して構えていた宇喜多軍にある。兵の質でも宇喜多軍に分があり、羽柴軍は終始苦戦を強いられた。特に宇喜多軍の物頭は小部隊戦闘の指揮に長けた者が多く、突出して敵の半包囲を受けてしまった羽柴軍の二陣なぞは、宮田喜八郎が討ち死にし、堀尾吉晴が重傷を負うなど甚大な被害を受けた。
藤吉朗もこれを黙視しているわけにはいかず、ついに本軍も自らの旗本までも投入して総力戦に打って出た。
数で言えば、羽柴軍には宇喜多軍の三倍近い兵力があるのである。敵が疲労困憊し、戦闘不能になるまで、兵を繰り替え繰り替えしながら攻め続けるのが、大軍を擁する側の当然の戦術であろう。
両軍、激突すること実に八度――というから、一日の戦闘としては記録的な激戦と言っていい。宇喜多軍は驚異的なまでに粘り強く戦ったが、最後はほとんど疲労に負けるようにして戦線が崩壊し、羽柴軍が圧倒する形となった。
日没前に宇喜多軍は総崩れとなり、一部の兵が血路を開いて上月城へ強行突入し、他は散り散りになって備前を指して逃げ帰っていった。
この合戦で、宇喜多軍では名だたる物頭が多数討ち死にし、六百人を越す戦死者を出したという。
この時代の野戦の常識からすれば、軍勢の十分の一も死傷者が出れば大敗北である。兵の五分の一が戦死するなどというのは普通では考えられないほどの負けっぷりであり、このことでも宇喜多軍がいかに凄まじく戦ったかが解るであろう。
(宇喜多は侮れん・・・・)
と、藤吉朗は冷や汗をかきつつ何度も思った。
ともあれ、宇喜多の援軍の壊滅によって、上月城は孤立無援となった。
再び羽柴軍によって包囲された上月氏は、捨て身の夜襲を敢行するなど決死に抵抗したが、それも失敗に終わると、前途に絶望した家臣の中から裏切り者が出た。十二月十日、一部の家臣が城内で謀叛を起こし、城主の上月政範の首を打ち、それを手土産に降伏を申し入れて来たのである。
(無駄な血を流さずに済む。こりゃ手間が省けたわ)
藤吉朗は内心で喜んだが、無論、それは顔には出せない。
上月政範が、官兵衛の義兄だからである。
武士が戦場で華々しく散ったというなら誇れもするが、上月政範は身内の裏切りという恥ずべき形で無念のうちに死なねばならなかった。こういう我が身可愛さのための裏切りや進退の見苦しさは武士にとって敵・味方を越えた軽蔑の対象であり、ことに義兄を殺された官兵衛にはその想いが強いであろう。
そういう者たちの降伏を喜んで受け入れるようでは、藤吉朗の品性が疑われることにもなり、官兵衛から侮蔑の眼差しを向けられぬとも限らない。
藤吉朗はわざと不快げな表情を作りつつ、この降伏に対する諸将の意見を求めた。
それぞれ様々な意見が出たが、
「命惜しさに己が主の首を打ち、敵に寝返ろうなどという恥を知らぬ奴輩――許すような先例を作ってはなりません」
発言を促された半兵衛は毅然としてそう言った。
「城を受け取った後、その者たちを捕らえ、親族縁者まで余さず磔になされよ」
普段の半兵衛からはなかなか聞けないような冷酷な言葉であった。
半兵衛にすれば、忠義の道を弁えぬ裏切り者たちに対する憎しみよりも、そのことによる政治効果に重きを置いていたのであろう。播磨の国衆たちに対しては「裏切るような者は、決して許さず族滅するぞ」という脅しになり、備前、美作など毛利氏の側の豪族たちに対しては「織田家に逆らえばこうなるぞ」という威嚇になる。
「あまり気は進まんが、半兵衛殿が申すことも道理ではある・・・・」
藤吉朗は不快そうな表情を崩さないが、
(さすがに半兵衛殿は、よう解っておるわ)
と、内心では思っている。
播磨の豪族たちはほとんどが播磨守護・赤松氏の支族で、嫁取り、婿取りなどを通して豪族同士が濃厚な縁戚関係を持っている。彼らにとって敵に回った上月氏も情誼の上では同族、同郷の仲間であり、同情的な気分を持つ者が多いのである。
藤吉朗の立場は「播磨の国衆の大将」だから、彼らの信を失うようなことはしたくない。播磨の者たちが藤吉朗という人間に対して興を醒ますかもしれぬ悪辣・冷酷な行為をせねばならぬというなら、自らが率先してそれをするのではなく、せめて、誰かに勧められて仕方なく――という格好にしておきたい。
そういう藤吉朗の気分が解っている半兵衛は、いわば汚れ役を買って出たわけである。
藤吉朗は、半兵衛を意見を容れる形で処置を決めた。
敵の降伏を認めて上月城を受け取るや、謀叛した城兵たちとその家族・親族をすべて捕らえ、播磨と備前・美作の国境に連れ出してことごとく首を刎ね、それを晒した。女は磔に掛け、幼い子供は串刺しにし、その数二百余人にのぼったという。
逆に、生き残った城兵で謀叛に加担しなかった者たちの命は助け、これを放免した。
ついでながら、『黒田家譜』の記述を信じれば、この落城の夜、城主・上月政範の妻が、二人の子を連れて官兵衛の陣屋を訪れ、助命を乞うている。この女性は官兵衛の妻の姉であり、無論、面識もあったであろう。官兵衛は今回の義姉の悲運にひどく同情し、藤吉朗の許可を得て彼女らを引き取り、給養したという。
敵からその妻子を託されるという事例も珍しいが、官兵衛という男は、そういう信頼を敵にさえ持たれるような人物であったらしい。