第82話 中国管領――播州経略(1)
松永久秀の死によって、京の近隣はひとまず平穏を取り戻した。
もちろん、摂津 石山の本願寺は依然として頑強な抵抗を続けていたし、紀州征伐を跳ね返した紀伊の雑賀党などもこれを支援して頑張り続けていたが、上洛を懸念された上杉謙信が越後に去ったこともあり、織田領はとりあえず安定した格好である。
藤吉朗が羽柴勢と共に大和から近江 長浜に戻ったのは、天正五年(1577)十月十五日。
懸案の中国出兵――播磨への出陣は、信長によって十月二十三日と決定されたから、猶予はほとんどない。
その日から、家中は長期外征の準備で大忙しとなった。
「ともかくも人が要る。領内の村という村から一人でも多く良き者を掻き集めよ」
藤吉朗は辻々に高札まで出して、兵員と人夫を大々的に募集した。
兵農分離が建前の織田家では、戦に百姓を強制的に狩り出すことはない。ただ、農業の生産性が低かった中世においては、洋の東西を問わず、戦争がまさに格好の稼ぎ場であったことも否めない。支払われる日当はもちろん、戦場での分捕り(略奪)、刈り働き(農作物の略取)、攫った人間の奴隷売買などは、雑兵たちにとって大きな副収入になるのである。季節がこれから農閑期の冬を迎えるということもあり、春までろくな働き口がない百姓たちにすれば、故郷の田畑が荒らされることもない他国での戦は、むしろ有難かった。農家の次男、三男や小作人などは生活の糧にするために喜んでこれに参加したし、「戦陣がどんなに長引いても来春の田植え時期までには国へ帰す」という風に期限を切った契約条件にすれば、一稼ぎしたいという者はいくらでも集まった。
「わしらの殿さまが、中国筋で織田家の総大将にならしゃって、あの毛利と戦をしなさるらしい」
というのはすでに村々でも評判で、この機に一旗上げようと名乗り出る浅井の旧臣や浪人者も引きを切らなかった。
半兵衛は、この動員した兵員・人夫の編成作業に忙殺された。
小一郎は家臣を走らせ、京の大寺社や堺の豪商、領内の寺社、富商などに高利を約束して銭や米を借りまくり、豪農たちには減免を条件に来年の年貢を前納させるなど、いくらあっても足りない軍資金と兵糧の調達に奔走した。
この間、藤吉朗は三度ばかり安土に赴き、中国征伐について信長と入念な打ち合わせを行った。
目まぐるしいほどの忙しさの中、二十三日はあっという間に訪れる。
予定通り夜明けと共に長浜を出陣した羽柴勢は――様々な説があってはっきりしないが――六千人であったとも一万人であったとも伝えられている。間を取って仮に八千人だったとしても、二十万石にも満たない羽柴家の分限からすれば、限界以上の人数を集めに集めたことになる。
一行は、その日の巳の刻(午前十時)過ぎに安土に入り、信長の閲兵を受けた。
小春日和の陽光の元、安土の大手馬場に羽柴家の武士たちが勢揃いした。
近習をぞろぞろと引き連れた信長が、馬場の北面の殿舎に現れ、広縁に据えられた床机に腰を降ろした。
広縁の前まで進み出、信長の御前で片膝をついた藤吉朗は、海老色の直垂にこの日のために新調した萌黄威しの鎧を着込み、金で縁取った猩々緋の陣羽織を羽織り、黄金作りの丸鞘の太刀を佩き、軍配を携えている。
「あの尾張 中村の猿が、見よい男になったものよ」
信長の口から思わず世辞が出るほど、堂々たる大将姿であった。
「先に軍律を犯し、死をもって償うが当然のところ、上様の格別のご慈悲をもちましてその罪をお許し頂き、さらにはまた、此度は中国入りの先鋒の名誉をまで賜りましたること――それがしの感謝の想い、もはや言葉では言い表せませぬ。海よりも深き上様のご厚恩、まことに、まことにもったいなく――」
演技なのかどうなのか、藤吉朗は喋りながら涙声になっていた。
門出に泣く馬鹿があるか――とでも言うように信長は苦笑し、
「出陣の餞別をくれてやる」
藤吉朗の長口上を遮って近習に顎を振った。
近習が走り去ると、ほどなく筋骨逞しい武士が三人、その「品」を持って殿舎の脇から馬場に現れた。
一人目は、黄金色に輝く特大の瓢箪に真紅の吹貫を付けたド派手な馬印を掲げている。「金瓢」は藤吉朗の馬印であり、これをこの晴れの門出に新調して贈るというのは、信長流の粋な計らいであった。
二人目が握っているのは、古びた軍旗である。ところどころ汚れた黄絹の地に、「南無妙法蓮華経」の文字が太々と大書されている。織田家は日蓮宗を宗旨としているのだが、この旗は「妙法の旗」と呼ばれ、信長の祖父の頃から伝わっている織田家の家宝と言っていい。信長も一向宗の総本山である石山御坊を攻める際など、この旗を常に陣頭に立てていた。
三人目は、柄が八尺はあろうかという朱塗りの大傘を斜めに差し掛けている。朱傘は、この当時、よほど高位の公卿でなければ差すことが許されない。これを藤吉朗に授与するということは、名門の守護大名並みの格式を与えられたと考えて良く、織田家の武将でこれほどの恩典を得ている者はまだ誰もいない。
「斯様なものを・・・・ま、まことにそれがしなぞが頂戴してもよろしいのでござりますか・・・・!」
藤吉朗は一瞬呆然とし、頷く信長を見るや地面を二度叩き、躍り上がらんばかりに喜んだ。藤吉朗は元来もの喜びの激しい男だが、その喜びを表現することにかけては名人としか言いようがない。その顔も所作も芯から嬉しそうであり、何とも言えぬ愛嬌がある。それが見る者を思わず微笑させ、好意を抱かせずにはおかないのである。この小男が持って生まれた財産と言うべきであろう。
「この筑前、上様のため、ご当家のため、一命を賭し、死に狂いに働く所存でござりまする! 北国での不始末、必ず西国で償ってみせまする!」
信長は満足気に藤吉朗を見下ろしながら、
「励め」
と短く激励した。
羽柴勢は、「妙法の旗」を先陣に立て、拝領したばかりの真新しい馬印を誇らしげに掲げ、歩武を揃え、武具を陽光に煌かせながら威風堂々と安土を出陣した。
中軍を馬上で往く藤吉朗の頭上には、あの朱傘が背後から高々と差し掛けられていた。
京で尼子党・二百余人をその軍列に加えた羽柴勢は、淀川に沿って摂津に入り、そこから馬を西に向けて荒木村重の花隈城(神戸市中央区)で慰労の供応を受け、淡路島と播磨灘を弓手に眺めながら二十七日に摂播国境を越えた。
「織田家の大将・羽柴筑前守、毛利討伐のため播州に下向す」
の報はすでに播磨の諸豪に通牒されている。
播州・三十六家の豪族のほとんどは、少なくとも表面上は織田家に恭順しており、豪族の当主やその代理の重臣が明石あたりの路傍に詰めかけていた。
この播磨入りのときの藤吉朗の態度というのは、播州人の目から見るとよほど尊大なものであったらしい。
人心を攬ることにかけて稀代の名人である藤吉朗にすれば信じられないことだが、
「おぉ、おもとが音に聞いた何家の誰某か。出迎え、大儀じゃ」
なぞと下馬もせずに挨拶し、土地の人々の反感を大いに買ったという。
藤吉朗に与えられた「中国管領」という職は中国筋における「信長の代官」であり、その意味で藤吉朗は織田家の権威の体現者である。当の本人にすればそのことを天に向かって誇りたいほどの気分であったろうし、精一杯その威厳を誇示しているつもりでもあったのだろう。裏返せば、播州あたりの田舎豪族なぞにいちいち辞を低くして対応していたのでは、天下人たる信長の代官としての威儀が保てず、かえって軽んじられてしまうと考えたのかもしれない。
(いずれ中国はすべて織田家のものになるのだ)
という確信から来る驕りも、なかったとは言えないであろう。
織田家の中国征伐が始まった今、ここで織田家に敵対すれば、播州の小豪族などはたちまち滅ぶ。滅ぼされたくなければ織田家に属すほか選択肢はなく、織田家に属すとすれば播磨を含めて中国筋の切り取りを許されている藤吉朗の組下にならざるを得ない。織田系列に入ろうとする播州の豪族たちにとって、「信長の代官」という肩書きを持つ藤吉朗は、いわば直接の上司なのである。さらに言えば、この後、藤吉朗が正式に信長から播磨を与えられ、その王になったとすれば、彼らは藤吉朗を主君と仰がねばならなくなるであろう。
多少とも政治に通じた者ならこの機微が解らないはずがなく、藤吉朗が播州人に対して主人が家来にするように接する気分も理解できなくはない。
が、人間というのは、理屈よりむしろ感情によって動く生き物である。
「あの羽柴というのは、京で我らを応接しておった小間使いのような男ではないか」
「あんな者が中国征伐の大将を務めるとは、織田家にはそれほど人がないのか」
「あの羽柴なる男は、元は氏も素性もない足軽あがりで、ここ最近ようやく侍の真似事をするようになった者と言うぞ」
やがて、こういった陰口が播州人の間でさかんに囁かれるようになるのだが、当の藤吉朗の耳にまでは当然ながら届かない。
藤吉朗は、背後から差し掛けられる朱傘の下でゆったりと手綱を操りつつ――まるで虹色の栄光に向かって進んでいるかのように――ひたすら上機嫌であった。
羽柴勢はまず糟屋氏の加古川城で一泊し、別所氏をはじめとする東播州の豪族たちの挨拶を受け、翌日さらに西進し、小寺官兵衛が預かる姫路城に入った。
「すでに主には話は通してあります。取るにも足らぬ小城でござるが、この城をご自由にお使いくだされ」
官兵衛は、姫路城をもって織田家の中国征伐の作戦本部にする覚悟であったらしい。自らは家来を引き連れて近所の国府山の砦に居を移し、空いた城と城下の武家屋敷、長屋などをそのまま羽柴勢に提供した。
しかし、官兵衛の分限というのは五百人ほどの家来を持つ程度に過ぎず、姫路城下の寺社の僧房や塔頭などを借りても八千余の羽柴勢を収容するには建物がまったく足りない。
小一郎はすぐさま播磨中の大工を呼び集めさせ、人夫を募り、軍兵の半数と連れてきた人夫のすべてを動員し、五千人が寝起きできるだけの数の仮設長屋を急造することにした。
その翌日から、官兵衛の周旋で国中の豪族たちが続々と姫路に集まってきた。
藤吉朗にとって――無論、織田家にとっても――今回の播磨入りの目的は、すぐさま毛利と戦うというようなものではない。
さしあたり、播磨の「織田分国化」を確実にすることであった。
藤吉朗が播州の申し次ぎになって以来、この二年あまりの努力の結果、播磨の三大勢力である別所氏、小寺氏、赤松氏はもちろん、播州・三十六家の豪族のうち、すでに八割以上が織田方を表明している。名実共に彼らを織田家に組み込むために、人質を受け取り、誓紙を取り交わし、彼らの大将として君臨する「信長の代官」となるべく藤吉朗が遣わされたわけである。
播磨の小豪族たちは、大げさに言えば昨日まで隣郷同士で勝手気儘に小戦を繰り返していたわけだが、同じ織田家の傘下に入る以上、これからはそういう自儘は許されない。来年早々にも始まるであろう毛利討伐へ向けて、意思統一をしてゆかねばならないのである。
また、中国征伐の大将となる藤吉朗とも馴染みを深めておく必要があるであろう。
藤吉朗がこの播磨で成すべき任務はその程度のものであり、その意味において、播磨平定は何も難しい作業ではなかった。要するに豪族たちの挨拶を受けてやるだけで良く、人質を取りまとめて誓紙と共に安土に送りさえすれば、ほとんど仕事は終わりなのである。あとは挨拶に出向いて来なかった豪族を敵として討伐し、毛利氏の影響が強い播州西部で反織田の態度を取る二、三の豪族を討てば、平定事業はまず一段落したと見ていい。
播州入りの早々、
「十一月十日ごろには播州の情勢も落着し、帰国つかまつるでありましょう」
などと藤吉朗が景気良く信長に報告したのも、そういう事情があればこそであった。
姫路に腰を据えた数日後、藤吉朗は内輪の軍議を開いた。
姫路城本丸の広間に集められたのは、羽柴勢の諸将と小寺官兵衛、別所重棟、山中鹿之介らである。別所と小寺は播磨における二本の柱であり、藤吉朗もこの二人だけは格別に丁重に扱い、常に自分の傍に引き付けていた。山中鹿之介は尼子党の代表であり、藤吉朗から客将の待遇を受けている。鹿之介が織田家の後ろ盾をもって尼子家再興を呼び掛ければ、出雲や伯耆など山陰の国々から尼子氏の遺風を慕う人数を集められるであろう。
席上、まず発言したのは小寺官兵衛であった。
「皆さまもすでにご承知とは思いまするが、この数日で播州の豪族の去就はあらかた明らかになりました。現状で織田に服さぬのは、どうやら上月城の上月政範のみでござる」
絵図を扇子で指しながら、官兵衛はあらためて情勢を説明した。
上月は播磨内陸部の西端で、地理的に隣国の備前に接している。上月氏は勃興した備前の宇喜多氏に属し、毛利氏の側に立っていた。
上月氏は播磨守護・赤松氏の支流という名門で、「西播磨殿」などと呼ばれ、最盛期には播磨西半国・十六万石に覇を唱えていたという。戦国のこの頃にはその勢力を弱めてはていたが、それでも四、五万石の勢力を持っていた。
この上月氏の現当主・上月政範は、実は官兵衛の義兄である。
上月政範の妻は播磨 志方郷の領主・櫛橋氏の娘なのだが、官兵衛はその妹を妻にしていたのである。社交的で義理づきあいの良い官兵衛は上月政範とは実の兄弟のように交際しており、播州を織田家に属させる一件についても何度も相談し、事あるごとに天下の形勢を説き、なんとか上月氏を織田方に引き入れようと奔走したのだが、すでに人質を宇喜多氏に預けてしまっている上月政範はどうしても首を縦に振らず、ついにこの日を迎えてしまったのだという。
「上月氏に従うは、福原城の福原則尚、佐用城の福原助就、利神城の別所定道(東播磨の別所氏とは別系)――これらが我らの敵ということになりましょう。福原氏は上月氏の分家ですから、本家と去就を共にする覚悟のようです。別所定道は宇喜多氏の重臣で、これも調略はできませんでした」
「ふむ・・・・。それで、敵の人数はいかほどか?」
覗き込むように絵図を睨んでいた藤吉朗が尋ねた。
「端城や周囲の砦に篭めた人数まで合わせれば、ざっと四、五千というところかと・・・・」
「手ごろじゃな。上月を鮮やかに討ち滅ぼせば、播磨の者どももあらためて織田家の武威を思い知ろう。さっそく諸豪に陣触れをし、西に馬を進めるか」
藤吉朗にすれば、この上月氏の滅亡をもって播州平定の完了と位置づけ、信長にいち早く報告し、点数を稼ぎたい。
ところが、
「お言葉ですが――我らがまず取るべきは、西ではなく、北です」
半兵衛の扇子が、播磨と但馬の国境あたりを叩いた。
播州平定しか念頭になかった一座の者たちにとって、この発言は意外であったろう。
「半兵衛殿は、まず但馬に兵を入れよと申されるのか」
蜂須賀小六が一座を代表するように質した。
「彦右衛門殿(小六)、我らに今もっとも必要なものは何だと思われますか?」
「必要なもの?」
小六は口ごもり、数秒考える風だったが、その答えを待たず、
「銭ですよ」
と言って半兵衛は微笑した。
「中国征伐はまだ緒に就いたばかり。しかも相手はあの毛利――場合によってはこの先、五年、十年と戦を続けねばならなくなりましょう。兵糧、矢弾なぞは上方で買い揃えるよりない。まして我らは分限以上の無理な人数を抱えている。人夫に払う日銭も莫大な額になる。金銀はいくらあっても足りぬのです」
「なるほど。まず生野銀山を押さえよと・・・・!」
半兵衛の意図にいち早く気付いたのは、官兵衛であった。
播磨を平定したとしても、播磨の豪族たちが織田家に従う以上、その所領はほとんど信長によって安堵される。現状、この播磨で羽柴家の直轄になるような土地はなく、米は一粒たりとも上がってこないのである。確かに上月氏を攻め滅ぼせば西播磨の上月氏の領地は藤吉朗の取り分にはなるが、来年の収穫までまだ十ヶ月近くの時間があり、この間、領地が増えたとしても実収はほとんどない。
しかし、但馬に攻め入り、その南部を羽柴家の直轄領に加えたとすれば、銀の産出量で我が国有数の生野銀山、錫や銅、鉛などが多く採れる明延鉱山など、但馬南部の山々の豊富な鉱床がすべて羽柴家のものになる。この採掘利権と運上金だけでも莫大な富を生むに違いない。
「但馬は、守護・山名氏の威勢衰え、“山名四天王”と呼ばれる太田垣、八木、垣屋、田結庄といった名族がそれぞれ自領に盤踞しております。これらは毛利の吉川元春殿に誼みを通じておる由にて、いわば織田家の敵。攻め入るに名分もある。さしあたり、太田垣氏が拠る朝来、養父の二郡を押さえれば、但馬南部の山々はすべて我らのものとなり、播磨から因幡、丹波への道も通じます」
この日のためにあらかじめ二度にわたって自ら播磨に入り、近隣の情勢を探知し抜いていた半兵衛である。その言葉に淀みはなかった。
「目指すべきは、太田垣輝延が居城・竹田城。その枝城である山口城、岩洲城。山城ゆえ攻めるに難いですが、それぞれの兵は千にも足りぬはずです」
腕を組んだ藤吉朗はしばらく考えている風だったが、
「よし。ならばまずは但馬に兵を入れ、その後、上月を攻めると決めた。日数を掛けず一気に攻め潰し、織田家の戦ぶりを中国の者どもに見せ付けてやるとしよう」
勢い込んだ顔でそう宣言した。
羽柴軍は、十一月の初旬、姫路を出陣した。官兵衛の小寺勢、別所重棟の別所勢を筆頭に、播州の諸豪がそれぞれ人数を出してこれに加勢している。総勢は、おそらく一万五千ほどであったろう。藤吉朗がいきなり隣国の但馬に兵を向けたことは、播磨の人々はもちろん、但馬の人々をも驚かせたに違いない。
一行は姫路から北上して福崎、大河内と進み、山を越えて但馬に乗り込んだ。
但馬に入ると、そこが生野である。
羽柴軍は山口城、岩洲城を津波のような勢いで攻め落とし、さらに北上して竹田城を囲み、これを猛攻して十日ほどで太田垣氏を滅亡させた。
落とした竹田城は、高峻な虎臥山の山頂にある。山麓を流れる円山川から立ち昇る朝霧が急斜面の曲輪を霞ませている様などは、城がまるで雲海に浮かんでいるようで、“天空の城”の異名に相応しい美しくも神秘的な姿であった。
早暁、奪った本丸の屋形からその絶景を眺めていた藤吉朗は、
「小一郎、この城はお前にやる。お前はここに残って、但馬を切り取り次第にせい」
と命じた。
「ま、まことでござりまするか!?」
制圧した但馬南部二郡は、ほぼ四万石。小一郎は藤吉朗の一言で、一躍、四万石の城持ち大名になったわけである。さらに切り取りを許された但馬一国は、約十一万石。国持ち大名となると、織田家数万の武士の中にも十人とはいない。
もっとも、小一郎一手で但馬を切り取るなどはもちろんまったく不可能で、藤吉朗にすれば但馬南部をしっかり守ってくれれば良い、という程度の気持ちであったろう。しかし、同じ言うなら「但馬一国切り取り次第」という景気の良い言い方をした方が、人は遥かに発奮するということを藤吉朗は知っている。
但馬の南部は、播磨にも丹波にも因幡にも山道が通じる交通の要衝である。中国征伐の大戦略的視点で見れば山陰と山陽を繋ぐ重要拠点であり、ここを羽柴軍で押さえておくことは絶対条件であった。
「ただし、生野銀山はじめ但馬の鉱山は、羽柴家の直轄にする。お前は代官じゃ」
この措置は当然であろう。小一郎に何の異存もない。
「織田家の福威を見せ付けるためにも、ここに立派な天守を建て、曲輪には石垣を累々と積み、但馬の田舎者たちの度肝を抜いてやれ。こう見ると、城の縄張りはなかなか立派なもんじゃ。曲輪なぞはそのまま使えばええじゃろ」
「わしの城を・・・・!」
夢でも見ているような気分である。この“天空の城”をさらに華麗な白亜の城に変えた上、それが小一郎の居城になるのだ。
「土地の者たちを上手いこと懐かせ、一揆なぞ起こさせんようにしてくれよ。まぁ、お前の腕のほどは、北近江でわしはよう知っとるで、何も心配はしとらんがな」
兄はニヤリと笑い、
「頼んだぞ」
小一郎の肩を痛いほど叩いた。
藤吉朗は、前野将右衛門、宮部善祥坊らを小一郎に付け、二千ほどの兵を与えて竹田城に留めることとし、自身は播磨へ軍を返し、あたらめて上月氏討滅のために兵を西に向けた。
『信長公記』によれば、上月攻めが始まったのが、十一月二十七日である。