第81話 山陰の麒麟児
大阪平野の東に連なる生駒山地は、さながら大阪府と奈良県を隔てる衝立である。
信貴山は、その生駒山地の南端――生駒山から五キロほど南――に位置している。雄嶽と雌嶽とから成り、標高は四三七メートル。信貴山のすぐ南には大阪と奈良を繋ぐ奈良街道が通っており、この地は太古の時代から交通の要衝であるのだが、これを北から睨み下ろす信貴山は、河内・大和の両国にとって重要な戦略拠点であった。
この物語の現在から二十年ほどの昔――三好長慶の時代――三好家の重臣であった松永久秀は、信貴山を大和支配の本拠とすべくここにあった城跡の大改修を行った。雄嶽の山頂を本丸とし、天守を建て、多くの櫓をあげ、本丸から北に向かって放射状に伸びた尾根には大小・百を越える曲輪を配するなど、雄大堅固な山城に仕立て直したのである。その城域は東西に五五〇メートル、南北に七〇〇メートルと広大で、大和において屈指の要塞と言っていい。
天正五年(1577)九月二十七日、信長は、松永久秀を滅ぼすべく信貴山攻撃を下命し、嫡男・信忠を総大将に、佐久間信盛、明智光秀、細川藤孝らが率いる一万数千の軍勢を大和に送り込んだ。
大和に入った織田軍は、筒井順慶率いる大和の国衆と合流し、二十九日、まず敵の前線基地である片岡城を攻め潰し、十月三日に信貴山を囲み、これを苛烈に攻めた。
時期が時期だけに、ゆるゆると時間を掛けた長期包囲などは許されない。信貴山の堅塁と決死に守る松永勢の奮戦のために織田軍は苦戦したが、彼我に圧倒的な兵力差がある上、松永勢に援軍のあてがないこともあり、いずれ落城は時間の問題であろうと思われた。
謹慎を解かれた藤吉朗が、丹羽長秀、滝川一益、稲葉一鉄ら北陸増援軍の諸将と共に山城を南下して大和に入り、信貴山の山裾を取り巻く織田軍に合流したのは、十月六日の前後であったと思われる。
二昼夜にわたる猛攻で攻め疲れを感じ始めていた織田軍にとってみれば、新手の来着は有難かったであろう。
ちなみに今回の戦陣には、久々に小一郎も参加している。上杉謙信が去り、北からの脅威がなくなったことで北近江の人心はとりあえず安定していたし、何よりこの頃になると内治・兵站などを任せられる有能な家臣が次第に増えており、小一郎を長浜に縛り付けておく必要性が薄れていたのである。
長浜城の留守はもともと戦場働きが得手でない木下七郎左衛門(寧々の叔父)などに任せ、小一郎はほとんどすべての家来を引き連れて羽柴勢に加わっていた。
持ち場として割り振られた羽柴勢の陣地は、たまたま明智光秀の陣の隣であった。
礼儀として、着陣の挨拶をせねばならない。相応の身分の者を使者にやれば済むことだが、何事にも腰が軽い藤吉朗は、宿陣の設営を家来たちに命じるや、その間に自ら明智勢の陣屋まで出向くことにした。
ほんの四、五〇〇メートルほどの距離である。藤吉朗を先頭に、半兵衛、蜂須賀小六ら主立つ重臣と轡を並べ、小一郎はゆったりと馬に揺られた。
奈良の山々は、見ごろも終えようかという晩秋の紅葉に彩られている。そこに夕日が差し、信貴山の山肌はこの世のものとも思えぬほどに紅く染まっていた。早朝から続いていたであろう戦の喧騒は、そろそろ絶えようとしている。すでにあちこちの陣屋で炊煙が上がっており、篝火の支度をする雑兵たちの姿も見える。このまま日が落ち、辺りが闇に没すれば、今日の合戦は終わりであろう。
そんなことを考えながら明智勢の陣屋を眺めるともなく眺めていると、“水色桔梗”の旗が林立する陣地の一角に、見慣れぬ目結紋の旗と橘紋の旗が混じっていることに気が付いた。
(あれは誰の旗印であろう・・・・?)
百姓あがりの小一郎は武家に対する基礎知識が脆弱で、家紋から諸国の武家の血統・由緒を読み解くような能力はない。
隣の半兵衛に話を振ると、
「目結紋は、近江源氏・佐々木氏縁の紋ですが――“四つ目結”といえば、尼子氏ですね」
と即座に答えが返ってきた。
「尼子――というと、中国の?」
「はい。かつて山陰一帯を支配したという出雲の大名です。出雲はそもそも佐々木氏――京極氏の領地でしてね。尼子氏はその出雲守護代だったのですが、尼子経久という傑物が下克上で国を奪いました。最盛期には出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆――八ヶ国の守護を兼ね、西日本最大の勢力を誇る大大名だったのですが、十年ほど前――経久殿の曾孫にあたる義久殿の代に――毛利元就殿によって滅ぼされました」
「ははぁ。では、その尼子の遺臣が陣借りをしておるちゅうことですか・・・・」
その連中の噂なら、小一郎も聞いたことがある。
山陰を追われた尼子家の遺臣たちは、京に上って尼子氏の一族で僧籍に入っていた少年を見つけ出し、これを主君に担ぎ、御家再興を目指して毛利氏と戦い続けているのだという。信長も陰からこれを支援しているらしく、一時は出雲の大半を奪い返すほどの勢いを見せたとも聞くが、結局は再び毛利氏の武力に屈して出雲を追われ、ここ二、三年は、因幡、伯耆などでゲリラ的な反抗を繰り返していたらしい。
播磨の申し次ぎである藤吉朗は中国方面のいわば山陽側担当だが、山陰側の担当は、丹波・丹後の攻略を任されている明智光秀である。山陰において御家再興の悲願に燃え、毛利氏と戦い続ける尼子の遺臣たちが、光秀を頼ってその指揮下にあったとしてもそう不自然ではない。
「要するに、明智殿の元で再起の刻を待っておるちゅうわけですな。上様の中国征伐を機に、織田家の後ろ盾で再び毛利と戦おうと――」
「そうなのでしょうね。・・・・しかし、あの橘紋の旗はちょっと解りません。橘氏に縁の者だとしか――あれは“菊座橘”か・・・・?」
半兵衛はわずかに首を傾げた。
「おや、半兵衛殿はご存知ないか」
二人の前を進んでいた藤吉朗が、身体を捻るように馬上で振り返った。
「尼子遺臣たちの大将となっておる剛勇の士の旗じゃ。中国筋ではその武名を知らぬ者はおらんやろな。京あたりでもちょっとした有名人やぞ」
「あぁ――では、あれが例の山中鹿之介殿の旗ですか」
山中 鹿之介 幸盛という男である。
亡国の尼子遺臣をまとめ、不撓不屈の闘志をもって破れても破れても強大な毛利氏と戦い続け、衰亡の主家を再興する悲願のために生涯を捧げた戦国武士の鑑――などと江戸期から近代にかけて講談などで大きく取り上げられた人物で、その逸話は明治時代には国定教科書にさえ載っていたらしい。
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」
と三日月に祈ったというエピソードと、尼子十勇士・山中鹿之助という名で有名であるかもしれない。その通称は自筆の書状などを見る限り「鹿介」と書くのが正確であるが、この物語ではその読みの音を重視して「鹿之介」と表記することにしたい。
「流浪の辛酸を舐めながら十年、何度負けても捕らえられても節を曲げることなく、主家再興の旗を掲げて戦い続ける忠義の士――立派なものだと思います。私などにはとても真似できません」
かつて主家であった斉藤家を見限り、これを退転したばかりか、藤吉朗に加担することで結果的に主家滅亡の片棒まで担いでしまった半兵衛である。その声音には、わずかに自嘲の色が混じっていた。
「そんな真似は、他には誰もできゃぁせんですよ」
拠るべき城も率いるべき軍勢も失い、それでもあの強大な中国王・毛利氏を相手に戦い続けるというのは、尋常のことではない。武士はそもそも執拗な生き物だが、山中鹿之介という男の執念深さ、一途さ、意志の固さというのは、我が国の戦国史を見渡してもちょっと類例を見ない。それが鹿之介という男の強烈な求心力になり、尼子遺臣たちの結束の核にもなっているのであろう。
半兵衛も意志の強さにおいては人後に落ちる男ではないが、執念深さを欲の強さの一側面と見るなら、水のように淡々とした半兵衛の性質は、何を犠牲にしても我意を押し通そうとするような強引さには欠ける。
これは器質の違いというべきで、半兵衛が負い目を感じるような問題ではない――と、小一郎は思ったが、それをあえて口にはしなかった。
明智勢の宿陣は、木柵が二重に植えられ、びっしりと矢楯が並べられ、即席の一夜陣が築かれていた。
馬を預け、警備の兵の間を抜け、案内されるままに幔幕に仕切られた陣屋に入ってゆくと、公家のような瓜実顔の武将が、重臣たちと広げた絵図を挟んで何やら話し合っているところであった。
「あぁ、筑前殿、わざわざのご足労、痛み入る。上様のご勘気も解けたとの事、祝着でござった」
惟任 日向守――明智 十兵衛 光秀である。先触れから訪問の趣旨を聞いていたのであろう、光秀は一行を見るとすぐさま席を立ち、穏やかな微笑で出迎えてくれた。この男はすでに五十になるかならぬかという歳のはずだが、面差しにどこか童臭が残っていて実年齢よりかなり若く見える。
「ご心配とご迷惑をお掛けしましたが、お陰をもちまして晴れてご赦免の身となりましたわ。北陸での不始末は、これからの働きでお返しする所存でござる」
藤吉朗は持ち前の人懐っこい笑顔で如才なく挨拶を返した。
光秀の左右には、明智秀満、明智光忠、藤田行政、溝尾茂朝、伊勢貞興などといった明智家の重臣たちが顔を揃えている。光秀の片腕ともいうべき斉藤利三がいないのは、平定戦が続く丹波の戦場に置いてきたのであろう。
「軍議の途上でござったか。これはお邪魔をしてしまいましたな。・・・・おぉ、京、愛宕、亀岡――というと、丹波の絵図でござるな」
木机に広げられた絵図に目がいったらしい。
「丹波攻めは、如何でござるか」
「いや、なかなか――」
光秀は首を振りつつ苦笑した。
「丹波はおよそ山家の棲家のごときところで、国中に山谷が複雑に入り組み、その山ごとに国人どもが城を構え、これをいちいち攻め潰すには怖ろしく手間が掛かる。その上、此度のように大和に河内に摂津にと、上様からあちこちに出陣を命ぜられますゆえ、丹波平定ばかりに専念するというわけにもいきませぬでな」
「上様が、それだけ日州殿を頼りになされておるということでござるよ」
「頼りに――?」
光秀は意外な顔をした。
「上様は、能ある者を好み、使える者しか使わぬお人でござる。使えぬヤツと上様から断ぜられては、御当家では生きてゆけませぬでな。まぁ、裏返せば、お主に使うてもろうてこそ、侍にとっては働き甲斐もあり、仕合せというものでもござろう」
「・・・・なるほど。その言で言えば、上様は、御家中で誰よりも筑前殿を頼りになされておるということになる。此度、中国征伐の大将を仰せつかったこと、聞いておりますぞ」
信長は、去る九月下旬、藤吉朗への勘気を解くと同時に正式に中国管領に任じ、中国征伐の手始めに播州平定を命じたのである。
羽柴勢は、この松永久秀退治が済み次第、すぐさま播磨に兵を進めることになっている。
「中国十ヶ国の毛利を向こうに回して戦をするとなれば、北国管領の修理殿(柴田勝家)をも追い抜いて、筑前殿が御当家の筆頭大将ということになる。いや、お羨ましい限りでござる」
「いやいや、切り取りを命ぜられた播磨なぞは中国のほんの入り口に過ぎませぬでな。あの毛利と戦うとなれば、我ら一手にてはどうにもならず、日州殿をはじめ御当家のお歴々のお力をお借りすることにもなりましょう。その折りは、どうぞよしなにお願い申しまする」
藤吉朗が自らわざわざ光秀の陣屋を訪ねたのは、織田家において柴田勝家に次ぐこの有力武将と少しでも親しみを深めておこうという下心でもあったらしい。
「こちらの方こそ、筑前殿が播磨に入ってくだされば、丹波を西から牽制できる。丹波の国人どもは播磨の国衆たちと繋がりが深いですからな。筑前殿のお働きには我らも期待をしておる次第です」
と光秀が返したのも当然で、播磨の北東は丹波に繋がっているから、羽柴勢と明智勢の共闘が、播磨攻略にとっても丹波攻略にとっても有益なのである。
「話のついでというわけでもござらんが――」
ここで一転、光秀が話題を変えた。
「ここまでご足労を頂いたを幸い、筑前殿にお引き合わせしたい御仁がおるのです。尼子遺臣の話はお聞き及びですかな?」
「例の山中鹿之介の一党ですな?」
「左様。尼子党はしばらく我らが寄騎となっておったが、此度、筑前殿が中国征伐に出るに当たり、上様は、尼子党に筑前殿に付いて働くよう仰せられた」
丹波と丹後の攻略が終わらぬうちは、光秀は中国筋には出られない。播磨の隣国である但馬、因幡、美作などはかつて尼子氏が強大だった頃にその影響下にあった地域だから、藤吉朗に尼子党を付けておけば何かと使い道があると、信長は考えたのであろう。
光秀の小姓が使者に走り、噂の男はすぐに現れた。
「お呼びと伺い、参上仕りました」
髭の剃り跡が青々として、野性味のある端正な顔立ちをしている。大きい目。やや色素の薄い茶色がかった瞳。戦場焼けした小麦色の肌。歳は、小一郎が想像していたより遥かに若い。まだ三十代前半であろう。一見してまさに活力の塊といった感じで、武勇抜群という噂に恥じない六尺を越える雄偉な体躯を持ち、緋威しの古風な大鎧がよく似合っていた。
「おぉ、おもとが名高い尼子の山中鹿之介か。雲州、因州、伯州と、数々の合戦の功名、遠く聞いてはおったが、いや、思うておったよりずっと若いな。驚いた」
藤吉朗がまず声を上げた。
「山中殿、こちらが先日お話した羽柴筑前守殿じゃ。お見かけ通りの気さくなお人柄だが、仕事の手早さにおいては御当家随一の御仁であられる」
若者はそこで藤吉朗に顔を向け、改めて挨拶した。
「筑前守様にはお初に御意を得まする。尼子勝久が臣・山中幸盛でござりまする」
その挙措は洗練されていて、泥臭いところは微塵もない。
光秀から鹿之介を見ると、ちょうど息子の世代ということになるであろう。光秀は苦労人だけにそもそも他人に親切な男だが、この若者には並々ならぬ好意を抱いているらしく、その眼差しも口調も慈父のように優しかった。
「おもとら尼子一党は、この大和の戦が済み次第、羽柴殿の手に付いて播磨へ向かわれるがよい。中国筋での働きが上様のお耳にまで届けば、御家再興の尼子が悲願も、いずれ叶う日も来よう」
「日向守様には、これまでひとかたならぬご厚情を頂き、我が主・勝久以下、尼子一党、衷心より感謝致しておりまする。また、この度、晴れて毛利攻めの先鋒に加えて頂けるとのこと、日向守様のお口添えがあってこそと推察致しまする。重ね重ねのご好意、感謝に絶えませぬ。有難くお受けつかまつりまする」
堂々として実にハキハキとして――まったく絵に描いたような好青年である。
(この男はとても正しい・・・・)
というのが、小一郎の第一印象であった。
「正しい」という以外に、それを的確に表現する言葉がない。
「尼子はさすがに名門じゃな。滅んですでに十年も経つというに、その遺徳を忘れず、再興のために尽くすおもとらのような譜代の武士がおる。見事なもんじゃ」
藤吉朗の言葉も、まんざら世辞ばかりではなかったであろう。
「我ら尼子一党、憎き毛利が相手とあれば水火も辞さず働く所存でござりまする。如何様なりとも、筑前守様のご存分にお使いくだされ。必ずお役に立ってみせ申す」
「これは頼もしいわ。その面魂なれば、何を任せても必ず事をし遂げてくれよう」
「中国十ヶ国を見事平らげ、毛利討伐の成った暁には、旧領・出雲の半国なりとも褒美にお下しくださり、我が主・勝久を織田家の諸侯の列に加えて頂きますよう、安土様にお取り成しくだされれば幸甚に存じまする」
働きもせぬうちから恩賞を云々するというのも生臭い話だが、鹿之介は悪びれもせず、笑顔でそう言った。陰に篭ることなく、こう明け透けに言われると、それがかえって不愉快ではない。ひたすら主家再興のために尽くしているこの男の心の涼やかさのためか、そこに功利的な臭いが感じられないのである。
亡国の臣――何度も辛酸を舐めた悲運の大将でありながら、この明るさと前向きさはどこから来るのか、不思議なほどであった。これほどの溌剌さも健全さも、小一郎はとても持ち合わせていない。
素晴らしい男である、というのは衆目の一致するところであろうが――
(何となく苦手じゃな・・・・)
と思ってしまうのは、武勇抜群にして志操堅固、英気凛々にして威風堂々、おまけに容姿端麗――非の打ち所のないこの若武者の存在自体が、小一郎の劣等感を否が応にも刺激してしまうからであろう。
何というか――男として出来過ぎているのである。
そんな小一郎の感想を余所に、藤吉朗はうんうんと上機嫌でそれを聞いていた。
「あい解った。褒美は働き次第じゃから今のうちから皮算用で約定するわけにはいかんが、悪いようにはせぬ。わしも出来る限りのことをするつもりでおるで、毛利との戦いに是非力を貸してくだされ」
わずかばかりのやり取りで、藤吉朗はこの若者がたいそう気に入ったようであった。
「おもとの武勇譚なぞも色々と聞いてみたいが、あいにくと戦場ではその時間がない。陣中ではゆるりと酒を酌むというわけにもゆかぬしの。いずれ播州入りの時日が決まれば、そちらに報せも致そうほどに――」
藤吉朗は鹿之介に尼子主従の滞在先を聞き、後日、京で再会し、播磨へ同道することを約束した。
さて――
信貴山攻めは、なかなか思うように捗らなかった。
死兵となった松永勢の奮戦と、信貴山城の要害が、攻める織田軍を苦しめた。
膠着していた戦局が大きく動いたのは、十月九日の夜である。
筒井順慶の軍兵が、信貴山から忍び出た松永久秀の密使を捕らえたことがきっかけになった。
篭城に窮した松永久秀は、隣国・摂津 石山の本願寺に援軍を求めようとしていた。
密使を捕らえた筒井順慶はこれを逆利用することを思いつき、手兵の精兵・二百に弥陀の名号を大書させた旗を持たせ、本願寺からの援軍と見せかけてこれを信貴山城内に潜入させ、「数日後には本願寺の大軍が救援に駆けつける」などと嘘の情報を流し、松永久秀に信じ込ませることに成功したのである。
これを聞いた織田信忠は、九日の夜を期して全軍で信貴山に夜襲を掛けることを決めた。
夕日が落ちて山並みが闇に溶け、さらに数刻経った夜半、織田軍の総攻撃が始まった。
織田方の四万の軍兵たちは喚き声を上げ、四方から一斉に山道を駆け上がった。これを機とし、城内の二百の味方が「裏切り者が出たぞ!」なぞと叫びつつ城内のあちこちに火を掛けたために松永勢が大混乱し、同士討ちが起こり、あるいは逃亡が相次ぎ、曲輪が次々と落ちた。
信貴山は炎に包まれ、山腹に威容を誇った朝護孫子寺までが焼亡した。余談だが、この寺はかの聖徳太子が開基と伝えられる名刹で、後に藤吉朗の子・豊臣秀頼によって再建されることになる。
十月十日の未明、松永久秀は信貴山山頂の天守に追い詰められた。
織田軍は、ここで久秀に降伏を勧告している。
久秀愛蔵の“平蜘蛛”の茶釜を差し出せば、命だけは助けるという条件である。信長にすれば、天下の大名物である“平蜘蛛”さえ無傷で回収できるなら、久秀の命なぞはこの際どうでもいいという気分でもあったのだろう。あらかじめその意向を佐久間信盛あたりに伝えてあったらしい。
松永久秀は、織田軍のこの降伏勧告を突っぱねた。
“平蜘蛛”に火薬を詰め、これに火をつけて自ら爆死し、天守と共に灰になったのである。
見事と言えば、確かに見事な最期であった。
松永久秀は日本で初めて天守閣(多聞櫓)をもった城を建てたことで知られ、茶道や連歌など芸術にも極めて造詣が深く、何事にも独創的な男であった。爆死というのはおそらく日本史上初めての自殺の方法であったろうが、かの男に相応しい死に様であったとも言えぬでもない。
“乱世の梟雄”と呼ばれ、一時は京の主と目され、天下に手の届くところまで登りつめた松永久秀にすれば、自分から何もかもを奪った信長に、己の首と自慢の茶釜までくれてやる気にはなれなかったのだろう。