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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第80話 小一郎の奔走――大和出陣

 その日、小一郎が目を醒ましたのは、常と同じく夜明け前だった。

 明り取りの障子の外は黎明れいめい。寝所はまだ薄暗い。

 夜具から身を起こすと、朝の空気は肌寒さを感じるほどに冷えていた。秋が、気付かないほどゆったりとした歩調で、しかし確実に日ごと深まっているという当たり前の現象を、小一郎はあらためて実感した。


 小一郎が暮らす屋敷は、長浜城の二の丸にある。

 太守様の弟君にして羽柴家第一の重臣が住まう邸宅であるだけにその敷地は城内でも屈指の広さで、茅葺かやぶきの母屋と棟続きの大書院は来客時の宿所も兼ねているから部屋数が多く、邸内の中庭には泉水を引き、築山をあしらい、枝ぶり見事な松とけやきが風景のアクセントになっている。中門に沿って近習らが住まう長屋が立ち並び、数十頭の馬がくつわを並べるうまやがあり、母屋の裏手には矢場までが設けられている。


 矢場のことを、古語で「あずち」と言う。

 あずちとは「あげ土」が転じたもので、土を山形に高く盛った状態のことを指す。矢場では盛った土に矢の的を掛けるから、武家の間ではそう呼ぶようになったのであろう。


 小一郎は、このあずちで弓を引くことを朝の日課にしている。


 弦をはじく音。矢が風を切る音。それがハッシと的に刺さる音。

 まだ日も昇り切らぬ静寂のあずちに、それらの音がリズムよく繰り返される。

 ゆるゆると二、三十本も射ていると、眠っていた筋肉が徐々にほぐれ、澱んでいた血液が血管の中で走り出し、新鮮な朝の空気を身体中に行き渡らせてくれる。じんわりと汗ばんでくるにつれ、全身の細胞が目を醒ましてくるような爽快さがあり、矢箱の五十本を射終えた頃には、小一郎の頭はすっかり冴えているのだ。

 弓の修練をしているというよりは、この感覚を味わうために、小一郎は毎朝あずちに通っているのかもしれない。


 百姓生まれの小一郎が、幼い頃から武芸に縁がなかったことは言うまでもない。しかし、藤吉朗の家来になってから、槍の使い方や弓の引き方などは懸命に習い覚えた。さほど上達したとも思ってないが、騎射きしゃ(馬上で行う弓射)以外なら一通りのことはなんとかこなせるようになっている。

 ちなみに羽柴家はすでに十八万石の大大名であり、馬術、弓術、槍術、剣術、鉄砲術などに関しては専門の師範をそれぞれ召し抱えてある。馬術をのぞいて戦闘術は基本的に歩卒のわざで、大将に必要な技術ではないから藤吉朗はほとんど興味を示さなかったが、小一郎はヒマを見つけては自らその手ほどきを受け、家中の武士たちにも学ぶよう奨励していた。


 矢の回収と片付けを小姓に任せ、小一郎は冷えた手ぬぐいで全身をぬぐった。

 顎を上げて見晴るかすと、幾重にも重なった伊吹の山々が初々しい朝の陽光によって新たな命を吹き込まれたように輝き始めている。天正五年(1577)の九月初旬は、現在の暦に直すと十月中旬に当たる。湖北の秋はほどよく深まり、山頂から始まった紅葉は、中腹あたりでまさに見ごろを迎えていた。


 母屋に戻った小一郎は、ようやく朝食を取る。

 小姓が据えた膳に乗っているのは、玄米の飯と琵琶湖で取れるシジミの味噌汁、炙った干魚と漬物である。健啖家の小一郎はそれらを見る間に平らげ、飯を二度おかわりした。

 着替えを済ませ、本丸の御殿に出仕する頃に、登城を命じる城の一番太鼓が鳴る。この季節は日の出が遅いから、だいたいの刻(午前六時ごろ)である。


(兄者はどうせ昼まで起きてはくるまい・・・・)


 溜まり部屋を覗いて歩きながら、小一郎は思った。


 藤吉朗は、北陸から戻り、信長から謹慎を命ぜられて以来、酔いが抜けるヒマとてない。昼間から酒宴に明け暮れ、夜は夜でやれ観月かんげつだの薪能たきぎのうだのと何やかやとイベントを作っては酒を飲み、あるいは白拍子なぞを寝所に引き入れては自堕落な生活を続けているのである。

 演技が巧みな藤吉朗は、人前では常に陽気な笑い声を絶やさず、酒宴となれば猿楽師などと一緒になってうたい踊り、面白おかしく日々を過ごしているように見せてはいるが、心からそれを楽しんでいるわけではないことを、小一郎は知っている。


 藤吉朗が城に篭って静まり返っていれば、想い鬱して謀叛むほんの準備でもしているのではないかと、かえって信長に邪推されぬとも限らないであろう。謹慎中にも関わらず大胆な乱痴気騒ぎを演じているのは、信長に対して反逆の心がないということを示すための擬態なのである。


 そんなわけで、藤吉朗は連日深酒を繰り返しており、この三日ばかりは昼まで起きて来ない。


「殿は、まだ御寝ぎょしなされておるか?」


 一応、宿直とのいの近侍に確認すると、


「先ほど書院で朝餉あさがれいを召し上がっておられました」


 意外な返事が返ってきた。

 この時間に起きているということは、


(寝なんだのか・・・・?)


 とも思ったが、二人きりで密談するには良い機会である。


 本丸天守の二階にある書院の前の広縁に小一郎が立った時、藤吉朗は部屋の奥で、脇息きょうそくを抱え込むような姿勢で開け放たれた右手の襖から朝日に輝く琵琶湖を呆然と眺めていた。

 いや、眺めていたものかどうか。

 藤吉朗の目は眩しげに薄く開かれてはいたが、湖畔の絶景を味わっているにしてはその表情は何かを思い詰めたように真剣で、心ここにあらずといった風情である。そこには哲理を究明している哲学者か、あるいは考案を考え抜いている学僧などが時に放つようなある種の侵し難い緊張があり、小一郎は声を掛けることを一瞬だけ躊躇した。


「殿――」


「ん? ――あぁ、小一郎か」


 兄は大儀そうに脇息ごと向き直り、無言のまま顎で「入って座れ」と促した。

 藤吉朗の膝近くまで進んで座った小一郎は、


「二人だけで話がしたい。お前たちは下がっておれ」


 近習たちを遠ざけて人払いをした。


「なんじゃ。藪から棒に」


「――――」


 覗き込むようにして見詰めた兄の顔は、思いのほか疲れていた。いかに信長に謀叛の疑いを抱かせないようにするためとはいえ、さして強くもない酒を連日こうも痛飲していればしんどくもなるだろう。ただ、その目には濁りがない。睡眠不足のためか多少充血しているが、理性の光が確かに灯っていた。


「だいぶ疲れておるようやなぁ」


「こう篭っておるのは気が滅入っていかんな。蟄居ちっきょを命ぜられてまだ十日も経っとらんが、戦場いくさばの空気が恋しゅうてならんわ」


「事情を知らん母ちゃんなぞは、北陸で兄者に狐狸こりいたモンと本気で思うとるようやぞ」


 母の なか は、狂ったように日ごと馬鹿騒ぎを繰り返すようになった藤吉朗の豹変ぶりに驚き、真顔でそんな心配をし始めている。


「信心深い母ちゃんらしいて」


 まばらに生えた無精ひげを撫でながら、藤吉朗は苦笑した。


「で、なんじゃ。なんぞ新たな遊びの趣向でも思いついたか?」


「まぁ、そういうことや」


 小一郎は本題を切り出した。


「どうせ能狂言をやっておるなら、いっそ安土の猿楽師を呼んではどうじゃろな。安土の猿楽師は信長さまのお抱えやで、それらにこの城のなかを見てもらえば、兄者が戦支度をしておらぬということを、信長さまに知っていただけるとも思うんやが・・・・」


「・・・・ふむ。悪ないな。よう気付いた」


「これから安土に出向いて要路の方々に頭を下げてくるつもりやで、そのあたりの手配りも一緒にやってこようと思うとる」


 藤吉朗はいわば未決の罪人だから、自分では動けない。陪臣ばいしんの小一郎では信長に逢う資格すらないわけで、信長の周囲に侍る人間たちの間に藤吉朗に対する同情論を喚起するくらいしか手の打ちようがなかった。ともかく一人でも多く味方を作り、藤吉朗の気持ちを代弁してもらい、その立場を擁護してもらうと共に、あらゆる伝手つてを使って信長に誠意を伝え、詫びを入れようというのである。


「近習の者たちは若いのが多いで、手土産は物ではなく銭にしとけ。惜しまんと、撒けるだけバラ撒けよ」


 小一郎は頷いた。


「それと、武井夕庵せきあん殿には特にねんごろにな」


 と、わざわざ藤吉朗が念押ししたのは、武井夕庵が信長の側近筆頭だからである。


 武井夕庵はもともと祐筆(書記官)あがりで、美濃 斉藤家三代に仕え、斉藤家が滅ぶとそのまま織田家に仕えた。温雅にして誠実な人柄で、その頃すでに五十代の老齢だったが、その卓越した記憶力と優れた調整力、実務力などを信長に認められて様々な仕事を任されるようになり、近習として秘書的な役割を果たすことはもちろん、謀臣を持たない信長の知恵袋のようになって内政・外交などの分野で非常に重用された。

 たとえばこの四ヶ月後の天正六年正月、元旦の祝儀で、信長は十二人の重臣・武将・側近を招いて茶会を開いたが、夕庵の席次は嫡男・信忠の次であり、武将たちはもちろんのこと、織田家の宿老である林 秀貞よりも上席が与えられている。信長がいかにこの男を重く遇していたかが解るであろう。

 ちなみに藤吉朗は毛利氏の申し次ぎをやっていたが、毛利氏に対する書状のえ状には藤吉朗と共に夕庵せきあんの署名が付いたものが多い。夕庵が永禄年間から毛利外交を担当していたことは間違いなく、武将としての仕事が多忙な藤吉朗より、むしろ文官として常に信長の周囲に侍る夕庵の方が専任者と見るべきかもしれない。藤吉朗と夕庵の繋がりは、その意味でも濃厚なものがあった。


「あのご老人には銭では生臭いで、姉川のヤマメなり小谷山の松茸まつたけなり、うちの領地で採った物を土産にせい。信長さまにも召し上がっていただけるよう、それとのう念押ししておけよ」


「解った」


 そういう藤吉朗の気遣いがふとしたところから話題になれば、信長も不愉快ではないであろう。


(相変わらず、抜かりない才覚をするもんや)


 と、小一郎は舌を巻いた。

 大名の言動というのは、一挙手一投足に至るまですべて「政治」であるべきだが、こういう気の使い方で藤吉朗の右に出る者はないかもしれない。


 そこで兄はひとつため息をつき、眉尻を下げた情けない顔でしみじみと言った。


「・・・・おみゃぁには、なんやかやと余計な面倒を掛けてまっとるなぁ。わしのせいで、下げんでも済む頭を下げて回らにゃならん」


 藤吉朗はあらためて小一郎に頭を下げた。


「・・・・すまんが、堪忍したってくれよ」


「なにを言うとりゃぁすの」


 わざと尾張なまりを丸出しにし、小一郎はことさら明るい表情をしてみせた。


「家来が殿様のために働くんは当たり前やて。そんだし、兄者の尻拭いをわしがすんのは、今に始まったことでもにゃぁでよぉ」


 それが、本来の自分の役割であるとさえ、小一郎は思っている。


「んなことは気にせんと、せいぜい陽気に遊んどってくれりゃええて。そんでも、義姉あねうえの手前もあるで、女遊びだけはほどほどにしといてくれなイカンで」


 冗談めかして言うと、兄は片眉をつり上げて苦く笑った。



 長浜から安土までは、馬ならわずか三、四時間の距離である。

 安土山の大手道の中腹にある藤吉朗の屋敷に腰を据えた小一郎は、ここで数日間、実に精力的に動いた。多くの人に逢い、藤吉朗が無断撤退に至った事情と心情を丁寧に説明し、銭を撒き、頭を下げ、信長への取り成しをお願いして歩いたのである。


 このときに解ったのは、信長の元にはすでに柴田勝家からの報告の手紙が届いるということであった。

 当然だが、勝家は藤吉朗の非をあげつらい、不祥事の原因はすべて藤吉朗の身勝手であると断じたらしい。そのこともあって、藤吉朗に対する信長の印象は極めて悪いようで、近習や側近の者たちは藤吉朗に肩入れすることを敬遠したがる気配があり、もともと親密な堀 秀政をのぞけば感触の良い返事をもらうことはなかなかできなかった。


 そんな中で、武井夕庵せきあん老人は少なからず藤吉朗に同情してくれ、


「四方に敵を抱え、諸事多難なこの時に、筑前ちくぜん殿ほどの仁を座敷牢に入れておくなどは、御当家にとって損と、わしも思うておった。なに、上様もそこのところはよくお解かりであろうから、ご勘気の解けるのも、いずれ遠いことではあるまいよ」


 と、優しい言葉を掛けてくれた。


 夕庵せきあんは七十歳近い枯れた小男で、すでに頭も丸めている。風邪気味でもあるのかしきりに咳払いをしたが、足腰は達者なようで背も曲がっておらず、実に矍鑠かくしゃくとしていた。その身分は信長の側近筆頭であり、官位も法印という二位の正規の僧官職を持っている。無官にして陪臣ばいしんに過ぎぬ小一郎などに対してはその権柄を背景に頭高く出ても良さそうなものだが、この老人は好々爺然として常に柔和な笑みを絶やさず、実に愛想良く応接してくれた。

 信長は家臣からの忠言なぞにはまったく耳を貸さない男だが、この夕庵の諫言かんげんにだけは一目置くようなところがあったらしい。この老人が、豊富な経験と知識、深い教養を備えていたことに加え、信長を苛立たせない人当たりの良さと愛嬌と機知とを併せ持っていたからであろう。その意味でも、夕庵は信長にもっとも大きな影響を与えられる人間であるかもしれなかった。


「上様へのお取り成しを願うには、我らは武井さまのみが頼りでござりまする。なにぶんとも、よしなにお願い申し上げまする」


 小一郎は両手をつき、這い蹲るように土下座した。


「もちろん、折を見て申し上げるつもりではおるのだが・・・・。ただ、世情の噂では、筑前殿は蟄居ちっきょの身でありながら、長浜では連日酒宴に耽り、猿楽なども催しおると聞く。筑前殿の普段のご気質を思えばわしなどにはにわかに信じられぬが、もしそれが事実であるなら、上様の手前、いかがであろうかなぁ・・・・」


 老人はやんわりと藤吉朗の素行を批判した。

 実際、この指摘は当然で、閉門して身を慎まねばならぬ藤吉朗が、連日遊び呆けているというのでは、かみないがしろにしていると取られても仕方ないのである。

 この点は、小一郎がもっとも苦慮したところだった。信長から謀叛むほんの疑いを掛けられたくないから遊んでいる振りをしているのだ――とは、口が裂けても言えないのである。そんな言葉が信長に伝われば、怒りの炎に油を注ぐようなものだろう。


「いや、我が殿は、『上様はわしのここ数年の多忙をお哀れみになり、しばし骨休めをせよという有難いお心遣いから閉門を申し付けてくだされたのじゃ』――なぞと申しまして、この時を無駄にせず、飲んで騒いでうつを散じ、英気を養うておくこそ武士の心得であると・・・・」


「ほほ、筑前殿はそんなことを申されておるか」


 老人は乾いた声で笑った。


「しかし、よくよく考えてみますれば、神のごとき知恵をお持ちの上様が、諸事多忙なこの時に無駄なことをなさるはずがないとも思われますし、あるいは我が殿の申されることにも真実まことの一端はあるのやもしれぬと――」


「なるほどなるほど。確かに上様の深きお考えは、我らのような者には計り難きこともある。筑前殿は知恵深きご仁ゆえ、その言葉にもなにやら寓意があるのやもしれんなぁ」


 小一郎には返事のしようがない。


「まぁ、どちらにしても、筑前殿が陽気に過ごされておるのを聞いたのには安堵致した。短気を起こさず、気鬱きうつにならず、しばらく辛抱なさるよう、よくよく筑前殿にお伝えくだされ。松永弾正だんじょうの例もある。一時の気の迷いで、長年積み重ねてこられた武功を無駄にするようなことはあってはならんでな」


 謀叛むほんなぞゆめ考えるなよ、と老人は釘を刺したようである。こういう言葉が漏れるということは、信長の周囲でも、藤吉朗が謀叛を起こすかもしれぬという懸念を持っている者が皆無ではなかったのであろう。



 小一郎の奔走の甲斐もなく、信長の勘気はなかなか解けなかった。

 謹慎から十日経ち、二十日経っても一向に沙汰がなく、藤吉朗は長浜で蟄居ちっきょ生活を続けざるを得なかった。


 信長は、藤吉朗がこれまで織田家のためにどれだけ尽くしてきたかをもっとも深く知る男である。藤吉朗が無断撤退を起こした真情は、柴田勝家とソリが合わないということはあったにせよ、それより多分に自分と織田家の危機を本気で心配した末のことだと理解していたし、藤吉朗が自分に対して反逆を企てるなぞとは考えもしなかった。

 謹慎中の藤吉朗が、連日連夜、酒宴にうつつを抜かしていることを噂に聞いた時も、


不埒ふらちなヤツめ・・・・)


 と腹を立てはしたが、同時に安堵もしていたわけである。


 信長にすれば、藤吉朗が自分の命令より己の判断を優先したというそのつけ上がり様が不愉快であり、無断撤退によって北陸方面軍の士気を大いに疎漏させたであろうことが腹立たしかったが、中国征伐を間近に控えた多忙なこの時期に、藤吉朗ほど有能で忠良な男を殺すようなつもりは元からなかった。

 しかし、「泣いて馬謖ばしょくを斬る」という故事もあるように信賞必罰は武門の寄って立つところで、無断で戦場を放棄するという最悪の軍令違反を犯した藤吉朗の罪をそのまま不問にすれば、信長の威厳は大いに失墜しっついし、家中の規律が立ち行かなくなるであろう。

 わずか数日の謹慎で事を済ますというわけにもいかなかったのである。


 信長が、いつ藤吉朗への勘気かんきを解いたのか、この日時は正確には解らない。

 ただ、信長は九月二十七日づけの美作みまさかの豪族・江見えみ為久ためひさに宛てた書簡で、藤吉朗を中国に遣わす旨を明記し、「以後は羽柴の命に従って忠節を尽くす」よう命令している(『美作江見文書』)から、遅くとも九月下旬にはその罪が許されていたと推察できる。これから逆算すると一ヶ月ほどは謹慎していたことになるが、いずれにしても確証はないと言うしかない。


 この間、羽柴軍が去った北陸では、大きな動きがあった。


 柴田勝家を総大将とする北陸方面軍は、九月中旬ごろにようやく小松城を攻略し、背後の安全を確保すると、満を持して手取川を渡り、加賀北部に攻め込んだ。この日時ははっきりしないが、九月二十日の前後であったと思われる。

 しかし、このときすでに能登の七尾城は陥落してしまっていた。畠山家中で親上杉派の重臣・遊佐ゆさ続光つぐみつ温井ぬくい景隆かげたからが謙信に内応し、城内で謀叛むほんを起こし、ちょう 続連つぐつらの一族・百数十人を皆殺しにして上杉家に寝返ったのだ。

 九月十五日、七尾城を接収した上杉謙信は、織田軍の北上を知るやただちに軍勢を南下させ、加賀北部へと乗り込み、手取川からわずか十キロ北方にある松任まっとう城に本陣を据え、決戦の態勢を整えて待ち構えていたのである。


 柴田勝家は、上杉軍が目と鼻の先に布陣していることを川を越えてからようやく知り、ここで初めて七尾城の陥落を悟ったわけで、このことは戦場諜報の不備と断ぜざるを得ない。

 慌てた勝家は夜陰に紛れて全軍を総退却させようとしたが、この退却に上杉軍が食いつく形で遭遇戦となり、逃げる織田軍はほとんど無抵抗に蹴散らされ、折からの雨で増水していた手取川で多くの者が溺れ、数千人ともいう死者を出す大惨敗を喫した。


 勝家は加賀の南端まで逃れて大聖寺城で敗勢を建て直し、さらなる上杉軍の襲来に備えたが、上杉謙信は不思議なことに追撃で戦果を拡大しようとせず、手取川の線で進軍を留め、加賀北部の一向一揆勢力の吸収と地侍の家臣化などの戦後処置を済ますと、あっさりと越後えちごに帰ってしまった。

 この結果から考え合わせても、謙信がこの時点での上洛を意図してなかったことは、どうやら間違いがない。


 ともあれ、上杉謙信が去り、北方の脅威がなくなったと判断した信長は、松永久秀退治に本腰を入れることを決め、九月末に北陸から増援軍を呼び戻し、この軍勢をそのまま大和(奈良県)に移動させ、松永久秀が篭る信貴山しぎさん城を攻め滅ぼすよう命じた。

 すでに九月二十九日から、嫡男・信忠、佐久間信盛、明智光秀、細川藤孝、筒井順慶じゅんけいなどは大和で松永勢と戦っている。十月一日、織田軍は片岡城(奈良県王寺町)を落とし、さらに十月三日、信貴山城に押し寄せ、これを包囲した。


 北陸増援軍が近江に帰陣したのが、これと同じ十月三日である。

 藤吉朗は、このとき軍勢を引き連れて安土に赴き、諸将と共に大和へ出陣している。




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