第79話 首を賭けた大博打(3)
加賀国(石川県南部)をちょうど南北に二分する手取川は、戦国の当時は湊川と呼ばれ、また古くは石川とも呼ばれた。石川県の県名の由来ともなった北陸を代表する大河であり、我が国有数の急流河川である。
手取川は、加賀南東の両白山地に属する霊峰・白山に源を発し、急峻な山地の細流を集めながら北へと流れ落ち、ゆるやかに西にカーブしながら金沢平野を横切り、日本海に注ぎ込む。河口付近の平野部をのぞけばその流域のほとんどが山地であるために流れが滝のように凄まじく、上流の山々で大雨でも降ればすぐさま洪水を引き起こし、太古から「暴れ川」として怖れられていた。
この手取川の河口から二里ほど南に、小松という在所がある。平安時代から鎌倉時代にかけては加賀の国府が置かれていた場所で、加賀の南北の中心という地理的事情から見ても、古くから栄えた重要な都市であったことは間違いない。
小松は、手取川より南で残った一向門徒たちの最後の拠点であった。若林長門という豪族が大将となってここに城を築き、二千人ばかりの門徒衆と共にこれを守っていた。
柴田勝家を総大将とする織田軍は、東部山岳地帯をのぞいた加賀南部をほぼ制圧し、この小松城を包囲していたのだが、天正五年(1577)八月下旬、陣中に松永久秀反乱の報が届けられた。
その確報を聞いた柴田勝家は、最初目を剥き、次いで眉間に深い皺を刻み、しばし黙り込んだ。
(畿内は空家同然――か・・・・)
口から泡を飛ばしてまくし立てていた藤吉朗の顔が頭に浮かんだ。
あのときの危惧が、まさに当たった形である。
(あの増上慢の猿めが、これでまたでかい面をして何やかやと言うて来るに違いない)
勝家にすれば、これほど不愉快で鬱陶しいことはないのだが、それでもこの非常事態を伏せておくわけにはいかない。諸将の元にもそれぞれ報せが入っているであろうし、人の口に戸は立てられないから、下手に放置して噂が一人歩きすれば実情以上に深刻な風評が立たぬとも限らず、兵たちを浮き足立たせることにもなりかねないのである。
ただちに軍議を開き、諸将と共に今後の方針を確認し、引き締めを図るべきであろう。
勝家はすぐさま遣いを走らせ、諸将を本陣に呼び集めた。
「おのおのもすでに聞いておるかとも思うが、去る十七日、松永弾正が大和の信貴山で謀叛の旗を挙げたとの報せがあった」
勝家の言葉に驚いたのは、北陸方面軍の諸将だけである。援軍の武将たちの元には、それぞれ情報が入っていたらしい。
「弾正などが寝返ったところでさしたることはない。いずれ近々のうちに上様が成敗なさるであろうが、噂に尾ひれがつけば兵たちが動揺せぬとも限らぬ。おのおのは手の者に、くれぐれも懸念無用と釘を刺しておいてくだされ」
「いやいや、松永弾正の謀叛は、御当家にとってまさに凶兆でござる」
真っ先に反論の声を上げたのは、勝家の予想通り藤吉朗であった。
「弾正に同心してさらに誰が寝返るやもしれず、またどこでいかなる異変が起こらぬとも限らず、もはや一刻の猶予もない。ここはただちに兵を退き、修理殿には加賀の南部を死守して頂き、援軍の我らだけでも近江へ兵を返すべきと存ずる」
「虚仮を申すな」
勝家は露骨に不快そうな顔をした。
「ここで兵を退くは、能登を見捨てるも同じ。筑州、うろたえたか」
勝家は、松永久秀の反乱をそう大きな事件とは見ていない。
松永久秀が率いる軍勢はせいぜい二、三千に過ぎないから、暴れようにもその程度の兵力では自分の城を守るのが精一杯で、大和(奈良県)を切り取ることさえ不可能なのである。これまでのあの老人の行動癖から見ても、状況が変わるか信長に一撃されるかすれば、すぐに降伏するものと勝家は高をくくっていた。どうやって反乱者を処理するかは信長が考えるであろうし、大敵・上杉謙信と対している自分たちにとっては直接の関わりがない。
「弾正なぞに引きずられて兵を退き、七尾の城を見捨てれば、それこそ敵の付け入りを許すことになる。能登を征した上杉謙信が、勢いに乗ってこの加賀まで攻め込んで来るは必定。それに、我らが兵を退けば、せっかく鎮めた加賀南部でも再び一向門徒どもが息を吹き返すであろう。いま我らのなすべきは、加賀を征し、能登を救い、上杉勢をこれ以上南へゆかせぬことじゃ。なればこそ、上様もおのおのを加賀へ差し向け下されたのではないか」
勝家は、織田家随一の武勇を謳われている男であり、生粋の武人である。軍事の専門家であるがゆえに、武名が天に突き抜けた上杉謙信という軍事の巨星に対し、その像をより大きく見てしまうきらいがあった。
その勝家から言わせれば、松永久秀の事件などはほんの些事であり、枝葉に過ぎない。反織田勢力を巨大な樹に見立てるなら上杉謙信こそがまさにその幹であり、これを打ち倒すには合戦で上杉軍を破るほかないのである。上杉軍さえ破れば――信玄の西上が頓挫したときのように――反織田勢力は心の支えを失い、軒並み意気消沈するであろう。松永久秀にしても、無駄な抗戦を諦めるに違いない。
信長もそのように考えているはずであると、勝家は信じていた。だからこそ、織田家で最強の武将である自分が北陸に配され、最大の軍団を与えられたのだと解釈していたし、そのことに強烈な誇りと自負とを持っていたのである。
このあたり、藤吉朗は勝家とはまったく違った見解を持っている。
反織田勢力を樹に喩えるとすれば、上杉謙信は確かに有力な幹であるかもしれないが、これを伐ったところで、根を枯らさぬことにはまたいくらでも生えてくるであろう。藤吉朗に言わせれば、真っ先に枯らさねばならぬ根の部分こそが将軍・足利義昭であり、これと一体になった西国の雄・毛利氏であった。
たとえば上杉謙信は、足利義昭からの上洛要請に応えるということを対織田戦の大義にしている。義昭が反織田の矛を収めれば、その大義が失われることになるであろう。これは一例に過ぎないが、備後の鞆で幕府を開いた足利義昭が、将軍の権威をもって打倒・信長を叫び続けている限り、織田家の勢力がどれほど大きくなろうが諸国の地方勢力は進んで信長に従おうとはしないのである。
藤吉朗の見るところ、天下布武という信長の大目標にとっての唯一の近道は、「信長包囲網」の事実上の盟主である足利義昭の影響力を無力化することであった。義昭の後ろ盾になっている毛利氏を叩いて滅ぼすか、これを服属させるかすれば、反織田勢力はその中核を失い、有機的な連帯ができなくなるであろう。
(中国こそが、天下布武が成る成らぬの要じゃ・・・・)
藤吉朗のこの観測は――半兵衛などと何度も語り合ううちに確立されたものだが―― 一面で真実を穿っている。毛利氏を破り、中国十ヶ国を手に入れさえすれば、もはや武力で織田家に対抗できるような勢力は日本に存在しなくなるのである。残る地方勢力は、滅ぼすにせよ、服属させるにせよ、さほどの時間は要さないであろう。
だからこそ、藤吉朗の心は常に播磨に向いていた。
織田家の大将として自ら播磨に乗り込み、己の才と力を存分に振るって中国で大働きに働きたいという願望が、小寺官兵衛に初めて接した二年前のあの日から、藤吉朗の中で疼き続けているのである。その播磨の政情がどう転んでしまうかも解らないこの時期に、北陸でこれ以上、無為な時間を過ごすことに耐えられなくなっている。
勝家と藤吉朗の意識にこれほどのズレがあるのだから、両者の主張が噛み合わないのも当然であったろう。
「我らの大事は、謙信の西上を防ぎ止めることである。これはすなわち織田家の大事であり、弾正なぞにかかずりあっている時ではない」
と勝家が言えば、
「謙信は、そもそも西上するつもりなどありはしませぬ。能登を取り、加賀の北部を取った頃には秋も終わりましょう。雪が落ち始めれば、謙信は必ず兵を退きまする」
と藤吉朗が反論する。
議論は常に平行線であり、無理にまとめて折衷案が出せるようなものでもなく、周囲の諸将も困惑気味であった。
一座の諸将は、丹羽長秀が藤吉朗寄りであることをのぞけばほとんどが定見を持っておらず、つまり消極的な意味での勝家賛成派だった。
織田家において、戦略単位の大軍勢を移動させるというような重要な決定は信長のみが行うところで、そういう思案をはなから放棄していたと言えば言い過ぎかもしれないが、少なくとも武将たちはその手の思考訓練ができておらず、またそんな決断をした経験も持ってはいなかった。
その彼らから言わせれば、畿内の混乱が二万もの兵を近江へ返さねばならぬほどの大事であるなら、黙っていても信長からその指令が来るはずであり、それが来ていないということは北陸から動く必要はないということになる。現状の任務を継続するのが当然の選択であったろう。
勝家は、執拗に撤退を主張する藤吉朗が、上杉謙信と戦うことを怖れているとしか思えなかった。この小男が織田家の筆頭家老である自分に対してまるで対等とでも思っているかのように張り合い、自説を少しも曲げようとしないことにそうでなくとも腹が立っており、喧々諤々の応酬をしているうちについには怒りが自制心を上回って、
「筑州、うぬは臆したか! 謙信と戦うことがそれほど怖ろしいか!」
思わず怒鳴りつけてしまった。
「馬鹿な! 謙信に臆しておるは、修理殿ではござらんか!」
売り言葉に買い言葉、というものであろう。我慢するつもりであった藤吉朗も、勝家の暴言に忍耐のたがが飛んでしまったらしい。
「筑前、そう頭に血を上らすな」
丹羽長秀が慌てて間に立ち、なだめようとしてくれたが、武士にとって絶対のタブーである「臆病」という言葉を使われてしまえば双方もはや収まらない。
「わしがいつ謙信に臆したというか・・・・!」
勝家は怒りを押さえ込むように声を低め、藤吉朗を睨みつけた。
「我らがこの場におるがその証拠。謙信が来た来たと大騒ぎをし、そうでのうても兵が出払っておる上様の元から、二万もの兵をこの北陸に引き寄せてしまわれた」
藤吉朗としても、腹に据えかねていたことだけに、ここまで言ったらもう止まらない。
「四方に敵を抱えるこの時に、畿内を空にするがどれほど危ないことであるのか、修理殿はお解りでなかったのか。案の定、弾正にむざむざと謀叛の機を与え、招かぬとも済む危難を招いてしもうたは、修理殿の責でござるぞ。修理殿は御当家の家老筆頭でありながら、真実、織田家のため、上様のためを想うて戦をしておられるのか。そうではござるまい。ただ謙信を怖れ、怖れるのあまり敵の旗も見えぬうちから上様に泣きつき、援軍を求められたのであろう」
「猿っ!」
勝家は顔を真っ赤にして激怒し、床机を倒して立ち上がるや電光のような素早さで太刀の柄を握り、それを抜こうとした。ほとんど反射的に左右の武将たちが抱きつくようにして勝家を押さえつけたが、
「おのれは言うにことかいて、このわしの忠節を疑うか!」
その身体は怒りで震え、眼光は憎悪で煮えたぎっている。
「もうよい! それほど謙信と戦うのがイヤならば、おのれは手勢を引き連れてとっとと加賀から失せよ! 誰がおのれの加勢なぞ頼むか!」
大音声のこの一言で、一座が水を打ったように静まり返った。
興奮した勝家の荒い息遣いだけが響くなか、一瞬黙り込んだ藤吉朗は、
「よう申された。それこそ我が望むところでござる。わしは近江に帰り、安土のお旗本をお守り致す」
と、怒気を押し殺すように静かに言った。
「修理殿は、せいぜいこの北陸で手柄を立てなさるがよい。それも忠義、これも忠義じゃ」
それだけ言い残すと、藤吉朗は憤然として席を立ち、幔幕の外へと消えた。
諸将は、呆然とそれを見送ったのである。
藤吉朗は羽柴勢の本陣に帰り、その日のうちに兵をまとめて加賀を去った。
羽柴勢は、加賀の海岸に沿って北国街道を南下し、小松から二里ほど進んだ集落で大休止をした。
軍装を解くついでに、腹ごしらえをしようというのである。
余談だが、この当時の軍勢というのは、移動が長距離に及ぶような場合、行路の安全が確保されている地域では行軍中はみな甲冑を脱いで身軽な旅装になる。この当時の鎧兜というのは武器や装具などを含めると三十キロ近い重さがあるから、そのまま完全武装で移動などすれば軍兵も馬も疲れ果てて、数時間で使い物にならなくなってしまうのである。無論、出陣の時は全軍甲冑をつけ、指物を差し、歩武を揃えて行軍するのだが、これは城下の領民や兵たちの家族などに対して晴れ姿を見せるためであり、その後はいったん全軍が武装を解いて移動をし、予定戦場の手前で再び戦闘準備を整えるというのが常識であった。
言うまでもないことだが、加賀の南部はこの数日間でまったく平定されており、まず安全地帯と考えていい。軍装を解いても問題はなく、このまま大聖寺川さえ越えてしまえば越前であり、柴田勝家の領国になるから、それより南では周囲を警戒する必要さえないであろう。
藤吉朗は、集落の鎮守の社に軍勢を収容して休息を与え、この本殿を借り、主立つ者たちと車座になって遅い昼食をとっていた。
「それにしても――此度はまた随分と思い切ったことをなさりましたな」
半兵衛が常の微笑を浮かべながら言った。
ちなみに半兵衛はすでに甲冑を脱ぎ、侍烏帽子に小具足姿で、裾長の胴服をゆらりと羽織っている。
「・・・・已むない仕儀であった」
少しばかりうなだれ気味の藤吉朗も、同じく侍烏帽子に小具足、緋の陣羽織という姿である。
「それで、この先どうなさるおつもりですか?」
「ん〜〜〜〜、どうしたもんかのぉ・・・・」
がりがりと後頭部を掻いたが、それで妙案が出るというものでもない。
蜂須賀小六や前野将右衛門などの幕僚たちにしても、前途を思ってか軽口を叩く余裕さえ失っているようで、座の雰囲気は沈み切っていた。
それもそのはずで、このまま帰れば、藤吉朗にはおそらく死が待っている。いかなる理由があろうと、無断で持ち場を放り出して帰ってきた藤吉朗を、あの信長が許すはずがないのである。
もちろん、藤吉朗には藤吉朗なりの言い分があり、信長のため、織田家のためを想ってこその行動ではあったが、信長に無断で戦場から撤退したことには変わりがない。
信長は病的なまでに軍規にやかましい大将であり、部下の怠慢や身勝手を憎み、己の軍令が守られないことを何よりも嫌う。戦場放棄などという最悪の軍令違反を犯した藤吉朗は、斬首か切腹か、軽くても領地没収の上、追放されるか――いずれにしても、常識的に考えれば、身の破滅はまず間違いないであろう。
しかし、一方で藤吉朗は、信長の聡明さと計算高さに賭けてもいた。四方に敵を抱えるこの時期に、信長が自分を殺すような愚を犯すはずがないと、理性では信じていたのである。自分の忠心と真意を信長に伝えることができさえすれば、あるいは殺されずに済むかもしれないと、淡い期待も持っていた。
(まず五分五分か・・・・・)
これを博打と呼ぶなら、賭け物はまさに己の首であった。
「ともかく急ぎ安土に登城し、帰陣に至った経緯とわしの真意を上様に聞いていただき、平身低頭してお許しを乞うしかなかろうな・・・・」
藤吉朗がそう言うと、
「安土さまはあのご気性ですから、その場でお手討ちに逢うやもしれませんよ」
半兵衛は悪戯っぽく笑った。
「脅かさんでくだされ」
藤吉朗は笑えない。その可能性も十分にあるのである。
「殺されるくらいなら、いっそ長浜で城篭りをするという手もある。ご領内には難攻不落の小谷城もあります。上杉、武田、本願寺、毛利などと結べば、半年や一年は支えられましょう」
「半兵衛殿、何を――!」
仰天した蜂須賀小六が思わず口を挟んだ。主君に謀叛を勧めるなどは、あっていいことではない。
が、藤吉朗は、半兵衛の言葉で何かに気付いたように黙り込んだ。
それまでの藤吉朗は自分が受けるであろう処罰のことに頭が一杯で、信長の心中を察するところまで想いが及んでいなかったのである。
信長が藤吉朗のこの軍令違反を知ったとき、もっとも怖れるのは、藤吉朗が謀叛を起こすことであろう。
追い詰められれば、鼠でさえ猫を噛む。客観情勢を鑑みれば、普通の神経の人間であれば、信長に殺されることを怖れるあまり、身を守るために飛躍してそういう行動に走ったとしても不思議はなく、戦国のこの時代にはそういう事例はいくらでもあるのである。
信長に叛く気なぞは、藤吉朗には微塵もない。ないが、巨大な罪を犯した藤吉朗が思い詰めるあまり、窮鼠のようになって暴発せぬとも限らぬ、と信長が邪推することはあり得るであろう。信長は、誰よりも猜疑深い男でなのである。
実際、藤吉朗は北近江の王であり、その十八万石の領国で五千人を超える軍兵を養っている。これに加えて領国の百姓などまで総動員すれば、一万近い兵力を集められるであろう。しかも長浜は安土と目と鼻の先であり、万一藤吉朗が謀叛に及べば、信長は喉首に刃を突きつけられたような格好になるのである。
四方に敵を抱え、内では松永久秀の謀叛によって手一杯になっているこの時期に、藤吉朗が湖北で兵を挙げたとすれば――
この想像は、信長にとってさえ恐怖であるに違いない。
藤吉朗は、思わず半兵衛を見た。
相変わらず、半兵衛は温雅な微笑をその口元にたたえている。
「安土さまは、当然、大いにお怒りになるでしょうが、織田家を想う殿の誠心を知っていただきさえすれば、まだ天下布武の目鼻もつかぬこの時期に、殿ほど有為な働き者を殺そうとまでは思われますまい」
そこで半兵衛は辺りを憚るように声を落とした。
「ただ、安土さまはあのように猜疑の深いお方ですから、たとえば殿が長浜城なぞに篭って鬱々と塞ぎ込んでおられては、『あるいは謀叛を考えておるか』とあらぬ疑いを掛けられぬとも限りませぬ。向後は、これまで以上にご陽気に振舞われるが肝要でござりましょう」
「・・・・・・・・・・」
藤吉朗は目だけで驚いたような表情をした。
加賀戦線からの無断撤退という重罪を犯した直後のこの時、藤吉朗は、信長の処罰がどのようなものになるかさえ解らず、不安に慄き、その思考がほとんど停止していた。にも関わらず、半兵衛はすでに信長の心事を見通し、藤吉朗がどう振舞うべきかということにまで気を配っているのである。
さしもの藤吉朗も、半兵衛のこの知恵の巡りには舌を巻かざるを得ない。
「陽気にか」
「左様。ご陽気に」
「よう解った。じゃが、まずは安土で平謝りに謝らねばならん。そこで殺されるなら、それはそれまでのことじゃな」
藤吉朗も、ようやく腹が据わったようであった。
その四日後、長浜に帰り着いた藤吉朗は、その足ですぐさま安土に行き、信長に拝謁を願い出た。
が、側近から事情を聞いて激怒した信長は、会ってもくれなかった。『信長公記』には、「曲事の由、御逆鱗なされ」とある。
「わしの下知を用いず、勝手自儘に帰陣するなぞ言語道断じゃ! 猿めが、どこまでつけ上がりおるか! 追って沙汰する、それまで長浜で慎め!」
信長は藤吉朗を追い返し、長浜城で謹慎するよう命じた。
藤吉朗にすれば、信長に殴りつけられたり蹴飛ばされたりする方がまだマシで、こういう処分は逆に不気味であったが、この場で殺されなかったことに対するとりあえずの安堵感もある。
その心中は、名状し難いほどに複雑であったろう。
ともあれ、肩を落として長浜城に戻った藤吉朗は、城門に竹矢来を結わせ、あらゆる門を閉ざし、窓という窓を板でもって塞がせ、罪人らしく蟄居生活に入った。
いや、罪人らしく、というのは当たらないかもしれない。
藤吉朗は、連日のように能狂言や酒宴に興じ、遊び暮らし始めたのである。