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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第78話 首を賭けた大博打(2)

 隣に座す藤吉朗の不快げな表情を察したわけでもないのだろうが、


修理しゅり殿よ――」


 と、丹羽長秀がまず口を開いた。


「どうであろう、孝恩寺こうおんじ殿には別室にてしばしご休息いただいては。ずいぶんとお心を乱されておるようであるし、ご心労からお疲れでもあろう」


 控えていた近習に目配せし、ほとんど有無を言わさず若い僧を別室に下がらせてしまった。

 畠山氏の関係者にこの場にいられては、たとえば畠山氏を見殺しにするというような方向の発言がしにくくなる。丹羽長秀にすれば、能登のとまで出向いて七尾城を救援しようという勝家の積極姿勢にはついてゆけなかったのだろう。


 丹羽長秀は、このとき四十二歳。丹羽氏は織田家譜代の重臣であり、長秀は柴田勝家に次ぐ織田家の二番家老である。温厚にして心の涼やかな男で、「米のように常になくてはならない」という寓意から“こめ五郎左ごろざ”の仇名がつけられたことでも知られる通り、政戦共に何を任せても卒なくこなす器用さと安定した実務力とを持っている。

 信長の本拠・安土城にもっとも近い佐和山城を与えられている長秀は、さしずめ織田家の近衛師団長であり、信長の信頼の厚さもここに表れていると言えるであろう。今回の北陸増援軍においては、自然と諸将の座長的な役割を担うようになっている。


「さて――」


 十分に間を入れ、足を組み替えた長秀が改めて発言した。


「七尾城を後ろ巻きにするという修理しゅり殿の案、“鬼柴田”の名に恥じぬ果敢な策ではあるが、いかにも気が早い。わしはいささか危険であるように思う。聞けば、加賀で御当家の威光が及ぶはまだ手取川の辺りまで。それより北は、一向門徒どもが未だ反抗を続け、地侍どもも御当家になびいておるとは言い難い。能登まで出張る気なら、まずは加賀の北二郡を完全に押さえ、足場を固めるのが先ではないか」


 至極常識的で、穏当な戦略論と言うべきだろう。

 並み居る援軍の諸将は、一様に同意するように頷いた。


五郎左ごろざの申すところももっともではある。じゃが、我らが加賀の鎮定に手間取っておる間に、七尾の城が落ちてしまわぬとも言い切れまい。此度、おのおのにご足労頂いたは、そもそも七尾の城を救うためである。城が落ち、畠山殿が滅んでしまえば、これを救えなんだ上様は天下に信を失い、御当家のご威光に傷がつこう」


 どうやら勝家は、本気で七尾城の救援を考えているらしい。


「いやいや、修理しゅり殿のご懸念もよう解りまするが、能登まで出向くは、やはり危のうござりましょう」


 たまらず藤吉朗が口を挟んだ。


「我らが能登に乗り込んだとして――その後に加賀の北で門徒どもが群がりち、これが上杉と結ぶようなことになれば、我らは退路をやくされ、糧道(補給線)も断たれることになりますぞ」


「筑州、ぬるいことを申すな」


 織田家で譜代の重臣である勝家は、下郎から成り上がり、瞬く間に自分と肩を並べるほどに出世してしまった藤吉朗にそもそも好意を持っていない。「金ヶ崎の殿しんがり」以来、藤吉朗の武勇に関しては多少認めるようになってはいたが、日頃から何かとでしゃばるこの猿の存在そのものが不快でならず、その意見となれば内容よりも感情で反発してしまうようなところがある。


「一向一揆なぞ、能登へゆく道々、地ならしするようにして潰してゆけばそれで済むことじゃ。地侍どもも、味方に就く者からは人質を取り、歯向かう者は攻め潰して進めばよい」


(それが出来るなら、加賀平定はとおの昔に終わっておるはずではないか・・・・)


 藤吉朗は心中で毒づいたが、勝家は織田家では老臣筆頭であり、この北陸では総大将でもあるから、さすがに口に出すことは我慢した。


「左様でもござろうが、金沢の尾山おやま御坊ごぼうはなんといっても北陸の門徒衆にとって大本山。漏れ聞くところでは、その堅固さは大阪の石山御坊にも比するというではござらんか。これを滅ぼすだけでも容易なことではありますまい。たとえば仮に尾山を囲んだとして、これを攻めあぐんで悪戯いたずらに時を過ごすようなことにでもなれば、七尾城が救えぬことはもちろん、能登を征した上杉勢が加賀まで足を伸ばし、逆に我らが後ろ巻きを受けるということにもなりかねませんぞ」


 この場で織田方が取るべき戦略は、冷酷なようでも能登は見捨て、加賀の南部の固く守ることであり、兵を損なうような危険をおかすべきではない、という持論を藤吉朗は延々と力説した。


「この北陸は冬が早く、雪も深い。いかに謙信といえど、いずれ寒さが厳しくなれば兵を退きましょう。加賀の北二郡は謙信のおらぬ隙に切り取ればよく、加賀一国をしっかりと固めた後に、能登、越中の切り取りをお考えになればよい」


 さらに藤吉朗は、紀州の再征伐をやっているこの時期に、北方の加賀にこれほどの大軍が集まっていること自体、織田家にとって危険である、という意味のことを言った。


「いま、畿内は空家同然でござる。甲斐では衰えたりとはいえ武田が未だ健在であり、中国の毛利も虎視眈々と摂津、播磨はりまあたりを狙っておる。謙信と同盟しておるこれらが、呼吸を合わせて東西から攻め寄せて来たりとすれば、上様はお身をお守りになることさえ難しゅうござろう。また、畿内が空となれば、いかなる不測の事態が起きぬとも限りませぬ。たとえば謙信の西上に呼応して、比叡山や六角や浅井の残党などが一向門徒と結びつき、近江で蜂起すればどうなるか――考えただけでも怖ろしゅうござる」


 この北陸では日をできるだけ費やさぬ方がよく、長期滞陣はそもそもすべきでない、と主張すると、丹羽長秀などは大いに頷いてくれた。


「なんやかやと理屈を並べておるが、筑州ちくしゅう――」


 勝家は武辺者肌の男で、藤吉朗ほど口達者ではない。


「うぬは要は、謙信と戦うことが怖ろしいのではないか」


 などと言って議論を放り出したのは、口で敵わない者の常套手段であったろう。「おくしたか」と言われれば、武士であれば消極策に固執するわけにはいかないのである。

 これには藤吉朗もカチンときたが、ここはぐっとこらえ、


「なんのなんの。越後の軍神いくさがみがどれほどの者であれ怖れはしませぬわい。ただ、無理な戦で御当家の大切な兵を無駄に死なせ、上様からお叱りを受けることは怖ろしゅうござる。この筑前にとって、神といえばただ上様があるのみでござるゆえな」


 笑いながら巧みに矛先をかわした。


「左様さな。上様のお怒りはわしも怖ろしい」


 意外にも、普段は寡黙であまり喋らない稲葉一鉄がこれに同意する声を上げた。


修理しゅり殿、此度の戦は、極めてみればそこもとの采配ひとつにすべてが掛かっておる。ゆえに、くれぐれも間違いのないよう頼みたいもんじゃな。上様の神鳴かみなりが、我らの頭上に落ちて来ぬようにしてくだされよ」


 勝家と藤吉朗のいがみ合いで重くなっていた一座の雰囲気が、めったに聞けない一鉄のこの軽口でずいぶんと和らいだ。


 稲葉一鉄は、このとき六十二歳。この座では最年長で、織田家を見渡しても現役の武将としては最高齢の部類に入る。「一徹」という言葉の語源にもなった人物で、頑固で意固地なことで知られるが、その少し可笑しみのある奇矯な性格と、兵の駆け引きの上手さを信長から愛されている。

 かつて『西美濃三人衆』の一人に数えられたこの老人は、藤吉朗を通じて織田家に寝返ったという縁があり、藤吉朗とは関係が悪くない。また勝家も、老いてなお盛んな物師(合戦巧者)としての一鉄に少なからぬ敬意を持っていたから、この発言で毒気を抜かれたような格好になった。


「いずれにしても、修理しゅり殿よ――」


 この空気を巧みにとらえた丹羽長秀が、


「能登に出張り、七尾城を救いたいと申されるならば、どうしても先に加賀を平定せねばなるまい。じゃが、我らは能登はおろか、加賀の地理・地勢にも暗い。短兵急に兵を動かせば、いかなることでつまずき、転んでしまわぬとも限らぬによって、手はやはり堅実に打ってゆくべきであろう」


 と話をまとめたことで、議論の方向性が慎重論でおおむね固まった。


 勝家は北陸方面の大将ではあるが、援軍の諸将は勝家の家来ではなく、織田家の重臣という意味では同格の人々である。勝家としても彼らの意思を無視して自分の手駒のように使うというわけにはいかず、あくまで自説を押し付けるということも出来かねた。


「おのおのがそうまで申されるなら、已むを得まい。我らが加賀を平らげるまでの間、畠山殿にはいま少し自力で支えてもらわねばならんな・・・・」


 苦々しい顔をしつつ、血を吸いに来た蚊を握り潰した。

 後顧こうこうれいを残したまま能登に突出することの危険さは、戦略家としての勝家ももちろん自覚してはいたのだろう。渋々ながらも自説を曲げ、まずは加賀全土の平定を急ぎ、しかる後に能登の救援を考える、という方針を決めた。


 織田軍は、この翌日から加賀南部で未だ織田家に従おうとしない地侍の掃討と一向一揆の殲滅せんめつ作戦を開始した。

 四万余にまで増えた織田軍の兵力は圧倒的で、この鎮定はわずか数日で終わることになる。勝家は敵方の拠点を虱潰しにしながら徐々に軍勢を北上させ、手取川までの地域をまず安定させた。


 ところが、織田軍がいよいよ加賀北部に攻め込もうとしていた矢先、陣中に驚くべき凶報が届けられた。

 あの松永久秀が、敵側に寝返ったというのである。



 松永まつなが 弾正だんじょう 久秀ひさひでという人物については、この物語でもこれまで何度か触れた。


 前将軍・足利義輝よしてるを殺し、東大寺の大仏殿を焼いたことでも知られる天下の大悪人である。

 信長に三度も敵対し、そのたびに降伏して許されたという稀有けうの男で、古くは長慶ながよし時代の三好家に仕え、主家の有力者を次々と暗殺したり蹴落としたりして勢力を培い、ついには三好家の執権となり、京のあるじとまで目されたが、三好三人衆と対立すると大和やまと(奈良県)を奪って独立した。

 その後、上洛を目指す信長に最初は敵対したが、織田軍の勢いが盛んと見るや一転して恭順し、まんまと大和の守護に収まった。信玄が西上の気配を見せたときは素早くこれと同盟し、「信長包囲網」が優勢と見るやすかさずこれに加担し、織田家がそれらの危機を脱すると再び信長に臣従を誓うなど、その去就は小気味良いほど利己的で、常に「より強い者に就く」という自己保存の哲学で貫かれている。


 信長は、恥や外聞を歯牙にも掛けず利と欲のままに動くこの老人が、嫌いではなかったらしい。足利義昭よしあきからの抗議を無視して将軍暗殺の罪を不問にし、この老人を織田家の諸侯の列に加え、元亀年間は大和の守護として優遇しているのである。

 しかし、足利義昭よしあきを追放し、畿内が織田領に組み込まれてからは、松永久秀は冷遇された。信長は子飼いの原田直政なおまさを大和守護に抜擢し、久秀をその寄騎大名に組み込んだのである。その原田直政が戦死すると、信長は久秀のライバルであった筒井つつい順慶じゅんけいを大和の旗頭にし、久秀をその下風に置いた。

 大和を自力で切り取ったと自負する久秀にすれば、腹に据えかねる処置であったろう。

 また、信長は「名物狩り」と称して茶道具の名品を熱心に蒐集しているのだが、久秀が愛蔵する“ひら蜘蛛ぐも”という茶釜も、何度も所望したらしい。久秀はこの要求を突っぱね続けていたわけだが、両者の感情のこじれは、案外こういうところにも原因があったかもしれない。


 いずれにしても、松永久秀は、この八月十七日、大和の信貴山しぎさん城に篭り、織田家に反抗する態度を鮮明にした。


 鋭敏な保身感覚と時勢に対する独特の嗅覚を備えた松永久秀が、この時期を選んで織田家にそむいたというのは、ひとつ象徴的と言えるであろう。この老人は、今回の上杉謙信の西進行動を、かつての信玄西上にも匹敵する織田家の危機と規定したわけであり、信長と謙信が戦えば間違いなく謙信が勝つと見ていたのである。

 久秀がそのように観測したということは、世間の多くも同様の見方をしていた、と考えても、そう的外れではないかもしれない。

 この反乱の裏に、足利義昭よしあきの策謀があったかどうかは解らない。ただ、藤吉朗が先に危惧していたように、畿内の兵力が空洞化していたことが、その決断に大きく影響したであろうことは想像に難くない。手持ちの武将たちが出払っている信長には兵力的な余裕がないから、謀叛むほんを起こすにはまさに絶好の機だったのである。



 信長は、遅くとも八月十九日にはその確報に接したと思われる。


「なんだと?」


 報告を聞いた信長はしばらく黙り込み、何か考えている風だったが、


「いったい何の不満があっての謀叛むほんか。望みがあるなら聞いてつかわすゆえ、存分に仔細しさいを申せと伝えよ」


 微笑さえ浮かべながらそんなことを言い、松永久秀の存念を聞くために側近の松井友閑ゆうかんを使者に立て、大和の信貴山城へ赴かせている。


 普段の短気な信長からは考えられないほど、物柔らかな対応と言わねばならないだろう。説得によって謀叛むほんを思い止まらせ、穏便に事を収めようとしたというよりは、この使者を往復させて交渉を重ねることで、時間を稼ぐつもりであったに違いない。

 現実問題として、今の信長の手元には信貴山しぎさん城と多聞山たもんやま城に篭った松永勢を滅ぼせるだけの兵力がない。ここで信長が感情のままに怒気を発し、それが松永久秀まで伝われば、久秀はあらゆる外交のチャンネルを閉じてしまうであろう。ひとたび断交という形になれば、政治交渉によって日数を稼ぐことができなくなるのである。


 信長は、誰よりもプライドが高く、誰よりも気が短いが、こと政略のためとあれば己の自尊心や感情を自在に殺すことができる男であった。

 たとえばかつて浅井・朝倉が健在であった頃、「信長包囲網」の一斉蜂起に窮した信長は、土下座するような低姿勢で朝倉氏と屈辱的な和議を結び、「ごうのうえつ一和いちわ」を実現させている。武田信玄が強勢であった頃は信玄と敵対しないために媚態びたい外交の限りを尽くしているし、上杉謙信に対しては現在もまるで自分が弱者でもあるかのようにへりくだり、卑屈なまでに腰の低い外交姿勢を貫いている。「天下布武」という大目標のためなら手段や体裁ていさいをまったくいとわないとびきりの合理主義者であり、極めつきの現実政治家なのである。

 その信長にとってみれば、怒り心頭の松永久秀に微笑を送ることなどは、痛痒つうようもなかったに違いない。


 ひるがえって言えば、信長がそれだけ松永久秀の反乱に困り果てた、ということでもあったろう。


 松永久秀個人が率いる軍勢はせいぜい二、三千に過ぎないから、それ自体は怖れるに当たらない。

 問題は、あの老人が大阪の本願寺包囲部隊の本陣である天王寺てんのうじ砦を守備していたことであり、その重要拠点を放棄して大和の居城に帰ってしまったことであった。


 万一、天王寺てんのうじ砦が敵に奪われるようなことにでもなれば、石山御坊の包囲環は陸の上でも大きな穴が開き、本願寺勢が摂津で暴れ始めることは間違いない。これに連鎖して畿内の諸勢力が動揺すれば、なんとか鎮まっている河内かわち和泉いずみなどの一向一揆勢力が再び息を吹き返すかもしれず、これが地理的に近い紀州の雑賀さいか党などと結びつけば、紀州で戦っている佐久間信盛らの軍勢が退路と糧道を断たれる恐れさえあるであろう。

 また、摂津の隣国である播磨はりまでも、豪族たちが動揺するのは目に見えている。

 そうでなくともこの八月十日、播磨と備前で有力な織田の味方であった浦上うらかみ宗景むねかげが、備前の宇喜多うきた直家なおいえによって攻め殺されるという事件が起きており、毛利方の反抗が播磨でも強まっている。その矢先、摂津の本願寺が勢いを盛り返すようなことにでもなれば、一向門徒が多い播磨の政情はどう転ぶか解ったものではない。


 信長にとれば松永久秀などはほんの小物に過ぎないが、この反乱の鎮め方を誤まり、あるいはぐずぐずと時間を掛けたりすれば、反乱の炎がどこに飛び火するかも解らず、思いもかけないような大火に発展せぬとも限らないのである。

 打つ手に間違いは許されず、一刻の猶予もないと言うべきであろう。


 信長は、紀州征伐を断念せざるを得なかった。

 松永久秀との間で和平の使者を往復させて時間を稼ぐ一方、佐久間信盛とその軍勢を紀州から呼び返し、穴の開いた大阪の包囲部隊を補強したのである。また、同じく紀州に出向いていた筒井順慶じゅんけいを大和に戻して松永勢に備えさせると共に、大和の国衆や寺社勢力がこの反乱に同調して背かないよう多くの使者を走らせて「松永に同心する者は、同罪なるべし」と伝えさせ、諸勢力の引き締めを図るなど、事態を沈静化させる対策を矢継ぎ早に打った。


(あの腹黒じじいめ・・・・いっそ殺しておくべきであったわ・・・・!)


 何度も命を助けてやった恩をまたもあだで返され、あんな小物のために己の大戦略を無茶苦茶にされてしまった信長である。

 そのはらわたは、煮えくり返っていたに違いない。



 さて――


 畿内で起こったこの混乱が、加賀で戦う織田軍へいつ伝えられたものか、実はよく解らない。

 増援軍の諸将の元には、国許で留守を預かる者たちから早飛脚が来たであろう。無論、長浜城で留守を守る小一郎も、早馬を飛ばすなどして藤吉朗に危急を報せたに違いない。常識的に考えれば、それらが加賀に到着したのは八月の下旬――二十四日の前後ではなかったかと思われる。


 羽柴勢の本陣で小一郎からの手紙を見た藤吉朗は、


「ほれ見たことか! 松永弾正だんじょうそむきおったわ!」


 と、叫ぶように言った。

 畿内の兵力の空洞化は藤吉朗が危惧していたところでもあり、松永久秀の前歴を考えれば、今さら驚くに当たらないと言うべきかもしれない。


「弾正の謀叛むほんは、当然、上杉謙信の動きに合わせたものであろう。謙信と同盟する毛利、本願寺、武田なぞとも通じておるやもしれぬ・・・・」


 この想像は怖ろしかった。この機に合わせて本願寺、紀州の雑賀さいか党、毛利が西から、武田が東から、さらに上杉謙信が北から織田領に攻勢を掛ければ、いかに織田方が大兵力を擁するといっても手当てが追いつかないかもしれない。そうなれば織田領内でも諸勢力が動揺するに違いなく、近江、越前、伊勢などでは一向門徒や信長に滅ぼされた旧勢力の残党が蜂起する可能性さえある。


「もはや、四万もの軍勢が北陸に張り付いておる場合ではありませんね」


 常と変わらぬ落ち着き払った声で、半兵衛が言った。


「北方の手当ては柴田殿に任せ、援軍の二万は安土に戻るべきでしょう。弾正だんじょう殿の謀叛むほんだけでどうこうなるとは思いませんが、これに連鎖して次に何かの異変が起これば、さしもの安土さまも手の打ちようがありますまい」


「もっともじゃな。弾正だんじょう謀叛むほんで事が終わるという保証はない。本願寺、毛利の巻き返しもきつくなろう。播磨の政情も気掛かりじゃ・・・・」


 藤吉朗にすれば、こんなことで苦労して積み上げている播磨経略が瓦解がかいしてはたまったものではない。そういう危急の時期に、自分の持ち場とは関係ない北陸などで、あの柴田勝家のために骨を折ってやろうという気を失くし切っていた。


「ともあれ軍議じゃな。修理殿に、援軍だけでも近江に返すよう言うてみよう」


 藤吉朗に促されるまでもなく、この報を聞いた柴田勝家はただちに諸将を本陣に集め、再び軍議を開いた。





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