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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第77話 首を賭けた大博打(1)

 惨憺さんたんたる結果になった紀州征伐がともかくも終了し、信長が雑賀さいか党と和睦して紀州から兵を引き上げたのは、天正五年(1577)三月二十一日であった。


 信長は、この帰路、泉州せんしゅう 佐野に堅固な防御拠点を築くよう命じ、佐久間信盛、明智光秀、丹羽長秀、藤吉朗、荒木村重らの軍勢・総計二万ばかりをここに留め、築城に当たらせている。雑賀党の再蜂起とその北上を怖れたのであろう。

 普請を終えた藤吉朗と羽柴勢がようやく北近江に戻れたのは、小一郎と半兵衛が播磨はりまから帰るよりもさらに遅れ、四月下旬にまでずれ込んだ。


 ほどない五月下旬、今度は北の越前で、大規模な一揆が起こっている。

 織田家の周囲というのは相変わらず不安定で、まったく呆れてしまうほどにせわしない。


 かつて朝倉氏の領国であった越前は、信長が朝倉氏を滅ぼして制圧した後、一向一揆の蜂起によって国が転覆し、織田方の大名たちが追い出され、“一揆の持ちたる国”になった、ということはこの物語でも以前に触れた。

 一年半ほど前の天正三年秋、信長は再び越前征伐を発動し、「根切り」と称する徹底した一向一揆の殲滅せんめつを行ったが、それでも宗教というのは容易に滅びぬものらしい。越前で一向門徒を本気で一掃しようとすれば、領民の大半を殺さねばならなくなるわけで、それは事実上不可能だったのである。

 越前の門徒たちは、上杉謙信が本願寺と同盟して信長に敵対したことを受け、その上洛が近いという風聞に勇み立ち、うら骨髄こつづいの織田家に対して暴発した。府中で数千人が蜂起したというから、一向宗の組織力と影響力はやはり侮れない。


 越前は、北陸方面軍の軍団長である柴田勝家の領国で、府中・十万石は「府中三人衆」と呼ばれた前田利家、佐々成政、不破ふわ光治みつはるの三人が共同統治していた。ここで蜂起した一揆勢は佐々成政の居城である小丸城を攻めたらしいが、藤吉朗の親友でもある前田利家が、佐々勢と共にこの一揆を見事に鎮圧したという。

 この合戦は、筆者の知る限り、江戸期の史書、文献の類にはまったく書かれていない。しかし、昭和七年(1932)、小丸城の跡地で行われた掘削くっさく工事の際にこの時代のかわらが多数出土し、その中に一枚、文字が彫られた瓦が混じっていたことから、その事実が明らかになった。

 発掘された“文字瓦”には、


この書物、後世二御らんしられ、

 御物かたり可有候あるべくそうろう、然者五月廿四日

 いきおこり、其まゝ前田

 又左衛門尉またざえもんのじょう殿、いき千人はかり

 いけとりさせられ候也そうろうなり

 御せいはいハ、はつつけ

 かまニいられあふられ候哉そうろうや

 如此候このごとくにそうろう、一ふて書とゝめそうろう


 という八行の文章が刻まれていた。


「この書き物を、後世にご覧になり、語り伝えていただきたい。去る五月二十四日、一揆が起こり、そのまま前田又左衛門殿(利家)が一揆勢の千人ばかりを生け捕りにした。ご成敗は、はりつけに掛け、釜に入れてあぶり殺すなどした。このことを、一筆書き留めておきます」


 という意味である。

 一揆に加わって織田軍と戦い、幸いにも命を永らえた人物か、あるいは関係者の縁者などが、後に小丸城の普請に狩り出された際、織田家に対する恨みの声を密かにやぐらかわらの裏に彫り込んだものらしい。はりつけにせよかまでにせよ、後のキリシタン弾圧を連想させるような過酷な刑罰だが、それほどの見せしめを行わねばならぬほど、織田家の武将たちにとって一向一揆は脅威であり、憎悪の対象でもあったということだろう。

 ちなみにこの“文字瓦”は、現在、越前市指定文化財となり、「越前の里・万葉館」に展示されている。文献・資料に見えないところでも、織田軍が一向一揆をいかに弾圧していたかということを証拠付ける貴重な物証である。


 越前の門徒たちが暴発して一揆を起こすというこの政治現象は、つまるところ、上杉謙信の西上の風聞がそれだけ北陸に響き渡っていた、ということを物語っている。



 “越後えちごの龍”とうたわれ、まさに生きた軍神のように怖れられた上杉謙信は、一向門徒を毛嫌いし、これと長年にわたって争い続けていたのだが、足利義昭よしあきの仲介によって本願寺との和睦が成ると、能登のと、加賀、越前の門徒などが謙信に味方する情勢になり、織田家の側から見ると北陸の政情が非常に不安定なものになっていた。「上杉謙信」という武名の影響力は北陸地方では圧倒的で、これまで関東方面ばかりに兵を出していた謙信がいよいよ西上の気配を見せ始めたと知るや、北陸の大小名たちは深刻に動揺し、ススキが風になびくように上杉家に寝返る者や態度を不明確にする者が続出したのである。

 謙信は去年九月、越中(富山県)へ兵を進めてこれをたちまち征服し、その勢いに任せてさらに能登(石川県能登地方)へと勢力を伸ばしつつあった。


 能登は畠山はたけやま氏という伝統ある守護大名の領国で、春王丸という幼児が当主に担がれており、家中は親織田派の重臣・ちょう 続連つぐつらが実権を握っていた。畠山氏は織田とよしみを結んでおり、上杉とは敵対していたわけである。

 上杉謙信は、天正五年の正月に二万余の兵を率いて能登に攻め込み、雪と寒さに苦しめられながらも畠山氏の枝城を次々と攻略し、あるいは畠山氏傘下の豪族を味方に寝返らせ、ついには本拠である七尾城(石川県七尾市古城町)を包囲した。


 七尾城は、かつて信長が何度囲んでも攻め切れなかった小谷城にも匹敵する難攻不落の堅城で、「日本五大山城」にも数えられている。さしもの謙信もこの城ばかりは力攻めで落とすことができず、攻め倦んだ。季節が真冬だったこともあり、戦況が膠着こうちゃく状態になったのだが、天正五年三月、関東の北条氏が上杉領である上野こうずけ(群馬県)に侵攻したために、謙信は関東に兵を返さざるを得なくなった。七尾城の攻略を家臣たちに任せ、自らは半分ほどの兵を引き連れて越後に帰国したのである。


 ちょうどこの頃、信長は紀州で雑賀さいか党を攻めていたわけだが、足利義昭と毛利輝元は、織田軍が畿内を留守にしている隙を衝いて、謙信に京まで攻め上るよう依頼したりしている。

 しかし、謙信はこの要請をさらりと無視し、五月の中旬頃に真逆の関東に出陣していった。


 信長の方も、上杉謙信に対して手を打たなかったわけではない。

 信長は上杉家臣の本庄ほんじょう繁長しげながに調略を仕掛けており、遠く米沢(山形県南部)の大名・伊達輝宗(高名な伊達政宗の父)にも使者を発し、本庄繁長と共に兵を挙げてくれるよう依頼したりしている。謙信の背後を騒がせて足がらみをしようというのだが、これは伊達氏が乗ってくれなかった。


 ともあれ、謙信の関東出兵によって危ういところで危機を回避した畠山氏は、ちょう 続連つぐつらが反攻を開始し、謙信不在の間隙かんげきいていくつか城を奪い返し、意地を見せた。しかし、遠く関東に出向いた謙信が、わずか五ヶ月で能登に戻って来ようとは思ってもみなかったであろう。

 謙信は、上野こうずけに入るや北条氏の大軍をほとんど一撃で蹴散らし、すぐさま軍を旋回させ、天正五年のうるう七月、再び大軍を率いて能登に乗り込んで来たのである。


 上杉軍の再征に窮したちょう 続連つぐつらは、周辺の防御拠点をすべて放棄し、本拠の七尾城に百姓までを篭らせて篭城し、さらに越前の柴田勝家に援軍を頼んだ。

 話を聞いた柴田勝家は――北陸方面軍だけでは手に余ると判断したのか――信長に増援を要請する。


 織田 対 上杉の最初の対決の舞台が、こうして整えられたのである。



修理しゅり殿(柴田勝家)の加勢にゆくことになった。加賀へ出陣じゃ」


 長浜城の大広間の上座で読み終えた軍令書を折りたたみながら、苦りきった顔で藤吉朗が言った。


 信長からの軍令が長浜に届けられたのは、八月八日であった。

 丹羽長秀、滝川一益、稲葉一鉄、氏家直通らの軍勢・二万ばかりと共にただちに加賀に赴き、柴田勝家を援けよ、という命令である。北陸では柴田勝家が主将となり、政戦共にその自由裁量に任されることになる。


「上杉謙信殿と、加賀で戦え、というお下知ですか?」


 半兵衛が確認すると、


「むこうでは、上様の代官である修理しゅり殿の指図に従うことになる。そのあたりのことは修理しゅり殿の腹ひとつじゃで、行ってみんことには解らん」


 藤吉朗は相変わらず不機嫌そうに応じた。


「それにしても――謙信は関東に馬を入れておったと聞いたが・・・・」


 前野将右衛門が言うと、


「上洛の風聞はまことであったということか・・・・」


 それに応えるように蜂須賀はちすか小六が呟いた。

 この呟きを耳ざとく聞いた藤吉朗は、


「謙信に上洛する気なぞあるものか」


 と、吐き捨てるように否定した。


 藤吉朗は、世間が怖れるほどに上杉謙信を怖れてはいない。謙信が上洛などできるはずがないと高をくくっており、今度の加賀出兵にしても、


阿呆あほうなことをするもんじゃ・・・・)


 と、内心で不貞腐れるような気分になっていた。


「殿は、謙信に上洛の意志なし、と申されますか」


「意志はあるかもしれんが、できゃぁせんわい。甲斐かいの信玄入道が上洛の軍を発した時とは違うんやぞ。すでに浅井・朝倉が滅び、六角が滅び、三好三人衆が滅び――京も畿内も近江も越前も、みんな御当家の領地になっとるわ。のぉ、半兵衛殿」


 小六の問いを軽くいなし、藤吉朗は半兵衛に意見を質した。


「そうですね。このまま一気に京まで兵を進める――というようなつもりは、謙信殿にもないと思います」


 半兵衛はそういう表現で藤吉朗に同意し、さらになぜそう考えるかを理路整然と説明した。


 上杉謙信が本気で上洛する気なら、加賀、越前、近江を押し通って京まで進まねばならない。つまり、加賀の大聖寺城、越前の北庄城、近江の小谷城、長浜城、佐和山城、安土城など山ほどある織田方の堅固な防御拠点を、数ヶ月のうちにすべて攻略せねばならないということなのである。そんなことは、たとえ謙信が噂通りの軍神であろうが鬼神であろうができるはずがなく、謙信ほどの名将がそんな愚にもつかぬ妄想を基礎に戦略を描くはずもない。


 上杉軍は、かつての武田軍がそうであったように兵農が未分離で、農民兵をその主力としている。つまり、春と秋の農繁期を無視して軍役を継続することは難しく、上杉軍が戦い続けられる期間は限られている。しかも上杉氏の本拠は遠い越後えちごであり、越中えっちゅう、能登、加賀、越前など謙信が通らねばならない北陸の国々は豪雪地帯でもある。冬の軍事行動が困難な上に、補給物資の輸送にも難渋するに違いなく、長期の外征はなおさら難しいということになる。さらに付け加えれば、謙信が大軍を率いて国を空けるとなれば、関東の北条氏が上杉領の上野こうずけ(群馬県)を狙って再び兵を出すであろう。関東管領の職にこだわりを持つ謙信とすれば、関東の味方から救援を求められればこれを無視するわけにもいかないはずである。


 謙信ほどの男がこれらの客観情勢を理解してないはずはないから、今回の謙信の西進行動は、さしあたって能登の征服を目標にしていると考えるべきであろう。あわよくば加賀の本願寺勢力を吸収し、加賀の北二郡を押さえる、というあたりが想定している最大の戦果ではないか――


「謙信殿が後顧こうこうれいなく西に兵を進めるには、何よりまず関東の北条と同盟することが必要です。さらに手に入れたばかりの越中、いま攻めておる能登をしっかりと固め、その上で加賀を攻め取り、越前を奪った後に、ようやく上洛を現実の問題として考えられるようになる。どんなに急いでも、一年や二年は先の話です」


 藤吉朗の見方もこれとまったく同様であり、だからこそ不機嫌になっているのである。謙信が来た来たと化け物でも出たように大騒ぎし、今頃から加賀に大兵力を集めるというのは、藤吉朗から言わせれば愚の骨頂なのだ。


 そうでなくともこの七月、紀州で雑賀さいか党が再び蜂起し、織田方の「三緘みからみの者」たちを攻めるという事件が起きており、信長はこの救援のために南方へも兵を割き、佐久間信盛を大将に、大和の筒井つつい順慶じゅんけい、河内、和泉、山城、南近江の国衆などを掻き集めて四、五万もの大軍勢を編成し、紀州の再征伐に向かわせている。大阪の本願寺を包囲している荒木村重らの軍勢さえ非常に手薄になっているのだが、この状態でさらに四万近い主力を北方の加賀なぞに集めれば、有力武将が出払ってしまって安土の信長の元にはわずかな旗本しか残らず、畿内は兵力的に空白地帯のようになってしまうのである。

 畿内の兵力が手薄になれば、ここで謙信の動きに呼応していかなる変事が起きぬとも限らないであろう。毛利氏が軍勢を摂津あたりに送り込んで来れば兵力不足になっている大阪の包囲環は破られるかもしれないし、信長を怨んでいる旧勢力は星の数ほどもいるから、いつどこでどんな勢力が一揆を企ててもまったく不思議はない。


 紀州に大兵力を割いているこの時期に、畿内から遥かに遠い加賀なぞに大軍を集めるのは、それほど危険な行為なのである。


(それをあの権六ごんろく(柴田勝家)め・・・・)


 と、藤吉朗は腹の中でなじっている。


(謙信の武名に脅えおったんじゃ・・・・)


 謙信を怖れるのあまり、慌てて援軍を呼んだとしか思えない。


 柴田勝家に与えられている越前の石高は、表高で約四十五万石。さらに加賀南半国 十五万石ほどがこれに加わるから、勝家の北陸方面軍だけで一万八千ほどは兵力があるはずである。勝家がこれほどの大軍団を率いているのは、まさに上杉謙信に備えるためであり、それがそもそもの役割なのだ。

 たとえば、上杉軍が能登の征服だけで満足せず、さらに加賀を南下し、織田方の重要拠点を攻撃し始めた、というのなら、まだ話は解る。それにしたところで、まずは北陸方面軍をこぞって上杉軍を足止めし、その上でなお決戦になりそうな状況になれば、その時に信長に援軍を頼む、というのが筋ではないか――


(信長さまも信長さまじゃ・・・・。何でまた援軍なぞ・・・・)


 と、藤吉朗は不遜にも信長のやり方にまで不満を覚えた。


 信長が本気で上杉謙信と決戦するつもりなら、紀州攻めに向かった佐久間信盛の軍勢を呼び返し、丹波たんば平定戦を戦っている明智光秀の軍団や美濃で武田氏を監視している織田信忠の軍団から軍兵を引き抜くなどしてできる限りの大軍を編成し、信長自らが総大将となってそれを率い、越前あたりまで出張るべきであろう。決戦する気がないのなら、柴田勝家に加賀で守勢に徹するように指示すればそれで足るではないか――

 命懸けで七尾城から救援を求めに来た畠山氏の必死さや、柴田勝家の大騒ぎについ心を引きずられたのかもしれないが、冷徹なまでに合理に徹する信長の用兵からは考えられないほど、今回の援軍派遣はいかにも中途半端だった。


 それでも、信長の命令には従わねばならない。

 長浜の留守を小一郎に任せ、藤吉朗は四千の軍勢を率いてただちに軍旅についた。



 羽柴勢は、長浜から北国街道を北上して敦賀つるがで一泊し、さらに進んで木の芽峠を越え、越前に入った。騒がしいほど賑やかな藤吉朗がこのときばかりは終始憮然ぶぜんとした表情で、大将がそんな調子だから羽柴勢全体にどこか生気がない。


 丹羽長秀が率いる若狭衆、稲葉一鉄、氏家直通らが率いる美濃衆、滝川一益が率いる伊勢衆などの軍勢も続々と集まってきており、街道は混雑し、行軍は難渋した。羽柴勢は越前を北進しつつさらに二泊を重ね、越前海岸に沿って加賀南部に入った。

 柴田勝家はすでに北陸方面軍を集結させており、加賀南端の大聖寺城(加賀市大聖寺町)に本陣を構えていた。


 加賀は、現在のところ織田領の北端である。

 そもそも加賀は本願寺の北陸における本拠であり、“一揆の持ちたる国”であったが、かつて信長が越前の再征伐を行ったときに余勢を駆って加賀の南半国までを切り取り、簗田やなだ広正ひろまさ(=戸次べっき右近)に「一国切り取り次第」の恩典を付けて与えた。しかし、簗田広正は一向一揆の頑強な抵抗に手を焼き、加賀平定を思うように進められなかったので、やがて信長は結果を出せぬ簗田広正を見限り、これを左遷させんして、以後は柴田勝家に加賀平定を任せていた。

 加賀南部の大聖寺城、檜屋ひのや城などが織田方の拠点である。加賀北部二郡は本願寺の勢力圏で、城郭寺院を拠点にして未だに各地で根強い抵抗を続けているが、豪族の何割かはすでに織田側に就いている。


 北近江に本拠を置く藤吉朗は北陸への移動は比較的容易だが、伊勢から来る滝川一益などは移動距離が長いから、どうしても時間が掛かる。正確な日時は伝わっていないが、織田の援軍が大聖寺城の付近で大集結を終えたのは、おそらく八月十四日の前後であったろう。

 柴田勝家は、援軍の諸将が揃うのを待って、大聖寺城で軍議を開いた。


 大広間に、錚々たる織田家の武将たちが集結した。勝家が座する上座から向かって左側に前田利家、佐々成政、不破光政、金森長近ら北陸方面軍の武将たちが居並び、右側に丹羽長秀、滝川一益、藤吉朗、稲葉一鉄ら援軍の諸将がそれぞれ席についている。


「おのおの、ご苦労に存ずる」


 織田家の老臣筆頭おとながしらである柴田勝家が、まず口火を切った。


 勝家は、このとき五十五歳。むっちりと筋肉が詰まった大柄な体躯で、もみあげから顎にかけて大髭を蓄え、濃い眉に大きなまなこと、いかにも頼もしげな武者面むしゃづらをしている。

 沈毅にして豪胆な男で、信長が織田家の家督を弟と争った時にはいったん敵に回ったが、信長の器量を知るに及んで改心し、以後は信長のもっとも忠烈な家臣になった。信長も勝家の武勇を愛し切っていたようで、朝倉氏を滅ぼして越前を奪うやこれを勝家に与え、織田家で最初の軍団長に指名し、織田家中でもっとも大きな軍団を任せ、上杉謙信に対する備えとした。

 “かめ割り柴田”、“鬼柴田”と仇名されるほどの猛将で、武人としての名が高いが、勝家は領主としてもなかなかの名君だったようで、越前を任されるや豊臣秀吉に先駆けて「刀狩り」を行い、一向一揆の勢力弱体に務めつつ、領内には善政を敷いたと伝えられている。

 人間の才を見抜くことに鋭い信長が惚れ込んだほどだから、政戦共によほど有能な男であったのだろう。


「おのおのもすでに聞いておるとは思うが、越後の上杉謙信が、昨年来、この北陸を騒がせておる。すでに越中を飲み込み、さらに能登に侵出し、先ごろからは畠山殿の七尾城を攻めておるらしい」


 まず勝家は、上杉軍侵攻の様子を概括がいかつし、七尾城の畠山氏から救援の要請が来たことなどを簡潔に説明した。


「詳しきことは、この孝恩寺こうおんじ殿から話していただこう」


 自らの傍らに座していた僧形の青年を諸将に紹介した。

 墨色の法衣を纏ったこの若い僧は、畠山氏の重臣で家中を牛耳っているちょう 続連つぐつらの子で、後にちょう 連龍つらたつと名を変える人物である。七尾城に篭城する畠山氏からの使者であり、七尾城の様子や上杉軍の戦いぶりをもっとも詳しく知る人間と言えるであろう。


「上杉謙信が率いるは越後の精兵二万。越中、能登の門徒衆、地侍などがこれに加わり、その数はおよそ三万というところでござりましょう。さりながら、我らが七尾の城は堅牢無比。謙信がどれほど戦上手であろうとも、そうやすやすと落とせるものとは思われませぬ」


 憔悴しょうすいし切った表情で、青年はまずそう言った。


「ただ、我らは百姓までを城に込めて篭城致しておりますゆえ、その人数は一万五千にもなり、これがために城内では糞尿なぞの始末が追いつかず、タチの悪い病に倒れる者が後を絶たちませぬ。ご当主・春王丸さまも、我が父・対馬守(長 続連)も、すでに病に臥しており――」


 真夏のことでもあり、城内の衛生状態が悪化し、疫病えきびょう蔓延まんえんしたものらしい。


「篭城では、城を守る者たちに、心の支えが要りまする。ご当主の春王丸さまはご幼少、我が父・対馬守も病身となり、さらに城内に病が蔓延はびこるとなれば、城衆も前途に望みが持てず、士気は日に日に下がる一方でござりました。この上は、織田さまの後詰めのみが城兵たちの一縷の希望でござりまする。我が父母・兄弟は言うに及ばず、命懸けで城に篭りおる者たちのことを想いますれば――」


 若い僧は言葉を詰まらせ、涙を流しながら土下座した。


「なにとぞ、く能登に馬を進めてくださいますよう、伏してお願い申し上げまする」


「――聞いての通りである」


 と、勝家がその後を受けた。


「御当家によしみを通じた畠山殿がこのように窮しておられる今、我らがこれを見捨てるは不義理。そのようなことをすれば、かつて朝倉が浅井を見捨てた時のように、御当家に対する世間の信が失われよう。まして七尾の城が落ちれば、謙信が全軍を率いて加賀に攻め込んで来るは必定。これを防ぐには、むしろ我らの方から能登へ押し出し、七尾の城を囲む上杉勢を後ろ巻きするが上策と思うが――」


 二万もの援軍の来着で気が大きくなったのか、勝家は主戦論である。加賀で謙信の南下を防ぐどころか、能登の七尾城を救援し、その場で上杉軍と戦うつもりであるらしい。

 同盟勢力を見捨てたとなれば織田家の評判が地に落ち、今後の北陸征伐に少なからず悪影響が出るであろうから、北陸方面攻略の主将である勝家とすれば、畠山氏の救援要請を無下に断れないというのは解らなくはない。

 しかし、そういう政治的な事情を加味しても、


(こいつは正気で言うておるのか・・・・?)


 と、藤吉朗は勝家の頭の構造を疑いたくなった。


 藤吉朗に言わせれば――これは半兵衛も同意見であるが――この時期に加賀に四万もの大軍が集中するだけでも大間違いなのだが、さらに戦略的に考えても、能登の七尾城を救援するなどはまったく論外であった。


 織田軍が大挙して能登などに乗り込んでしまえば、それこそ上杉謙信の思う壺なのである。

 謙信は越中から倶利伽羅くりからとうげを使って軍勢の一部を加賀北部に回し、加賀の一向一揆勢力を吸収して織田軍の退路を断ってしまうであろう。織田軍は拠点もない能登半島に閉じ込められる格好になり、無類の合戦上手とうたわれる謙信お得意の野戦で良いように叩かれ、壊滅してしまうに違いない。


 いま、安土の信長の元にはわずかな旗本しか残っていない。この状況で四万の織田軍が消滅するようなことにでもなれば、加賀、越前、北近江は軍事的空白地帯となり、上杉軍は楽々とここを押し通って織田家の本拠・安土にまで一気に馬を進めることができるであろう。

 織田軍の残存兵力といえば、美濃に織田信忠の軍団があり、丹波たんばに明智光秀の軍団があるが、明智光秀は丹波の地侍相手に泥沼の焦土戦を戦っており、上杉軍に即応できるとは思えない。武田氏に対する備えのために東方に張り付いている信忠軍団と、紀州へ出ている数万の佐久間軍が近江へ急行できなければ、信長は身を守る術さえなく、謙信の馬前に土下座して和をうか、あるいは城を枕に討ち死にするしか選択肢がなくなってしまう。


 貸しはあっても借りはない畠山氏を救援するために、それほどの危険を冒すというのは、常識から言っても損得勘定から見ても、まったく馬鹿げている。


「おのおの、存念があれば申されよ」


 と勝家は真面目腐った顔で言うのだが、藤吉朗にすれば脱力するやら阿呆らしいやらで、もうどこから反論すればいいか解らないほどであった。





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