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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第76話 紀州征伐――雑賀合戦

 天正五年(1577)正月十四日。

 京で信長が定宿にしている二条室町の妙覚寺みょうかくじにおいて、今後の中国経略に関する最初の公式な軍議が持たれた。

 播磨はりまの申し次ぎ(外交担当官)である藤吉朗はもちろん、織田家の主立つ重臣たちは、信長の上洛に従って再び京に上った。

 中国筋からは、宇喜多うきた氏によって備前を追われた浦上うらかみ宗景むねかげ、播磨最大の大名である別所べっしょ長治ながはるなどが再び上洛し、この席に顔を揃えていたことが『信長公記』に記されている。


 浦上宗景というのは、旧・播磨守護の赤松氏を奉じて備前びぜんに覇を唱え、一時は備中びっちゅう美作みまさか、播磨の一部にまで勢力を広げた堂々たる戦国大名であった。しかし、重臣の宇喜多うきた直家なおいえという男が天正二年に毛利氏と結んで叛旗はんきひるがえし、これに破れて国を奪われ、現在は播磨の一勢力という地位に甘んじている。この男は、織田の中国征伐の尻馬に乗ることで宇喜多氏と毛利氏を排除し、備前で復権を果たそうという腹づもりであったろう。


 別所長治については、この物語ですでに何度か触れた。播磨最大の大名である別所氏の当主であり、この天正五年の正月で数えで二十歳になったばかりの若者である。名門の武家貴族らしく美と義を重んじる心根の涼やかさと、温室で純粋培養されたような色白で清げな容姿を持っていた。

 別所長治が上洛して信長に謁するのは、この時で実に四度目になる。

 一度目――つまり初めて上洛したのは、一年半ほど前の天正三年七月であった。大名の当主が京に上るということは、京の支配者に対して臣下の礼を取ることと同義だから、信長は別所氏が公式に臣従を表明したことを喜び、上洛した別所長治を歓待し、名馬を贈ったという。


 ちなみに小寺官兵衛が岐阜で信長にえつし、小寺家の臣従を申し入れたのは天正三年の初秋であり、別所長治が上洛した直後である。察するに、これらの政治現象は、中央で勃興した織田氏という巨大な勢力と結びつくことで、播磨における主導権を握ろうという覇権争いの側面が色濃かったのであろう。


 別所氏は東播磨八郡を押さえていたが、小寺氏は播磨の中央部に勢力を持っていて、別所氏が播磨一国を統一するためには西の小寺氏を滅ぼすか傘下に収めるかする必要があった。別所氏は過去にたびたび小寺氏に合戦を仕掛けており、そのたびに小寺官兵衛が寡兵を率いてよく守り、その侵攻を食い止めてきた、という経緯がある。小寺氏にとれば別所氏はごく身近な敵であり、これが強大な織田家の傘下に入ったことは脅威そのものであったろう。

 別所長治の上洛を知った小寺官兵衛が、信長との結びつきを強める必要を痛感し、慌てて主君と家中を説き伏せ、岐阜に赴いた、と考えれば、このあたりの辻褄は合いそうである。


 官兵衛は先見に優れた男であるだけに、小寺氏が播磨で大を成すためには、織田氏と別所氏の間に割って入るほか道はないと見定め切っていたであろう。直接に信長との繋がりを深め、別所氏を出し抜いて播磨の旗頭はたがしらの位置をなんとか横取りし、中国征伐で大働きに働いて信長にさらに好印象を持ってもらい、織田政権下において播磨での権勢を新たに確立したいという思惑が、腹の底に当然あったはずである。

 官兵衛は個人的な立身出世の望みはさほどに持っていなかったが、主家想いの男であるだけに小寺家の勢力伸張のために骨惜しみなく出来る限りの手を打とうとしたのであろう。


 しかし、そんな官兵衛の裏の思惑などは、「天下布武」という大目標に向かって邁進している信長からすれば、知ったことではない。

 実際問題として、現状の領地や動員力で比べれば別所氏は小寺氏の三倍近い勢力を持っており、信長が播磨の旗頭として別所氏を考えるのはごく自然であった。別所氏はそもそも永禄年間から織田の優良な同盟大名であったわけで、その意味からも別所氏の位置は信長の中で不動であり、これと繋がりをより深めてゆくという方針に揺るぎはなかった。信長は個人としての官兵衛を気に入っていたし、働き次第ではゆくゆく大名に取り立ててやろうとさえ思っていたかもしれないが、だからといって小寺氏という小大名に特別な思い入れを持っていたわけではないのである。


 この軍議の席で、


「中国を退治するにおいては、別所殿が播磨の旗頭となって先手さきて(先鋒)を務められよ」


 と信長が言ったのは当然であったし、別所氏を喜ばせてやろうという意図もあったであろう。

「旗頭になる」とは、小寺氏をも含めて播磨の織田方の豪族たちに対する軍事指揮権を握るということだから、意味としては播磨一国の支配を認められたことに等しい。また、先鋒を命じられることは武門にとって名誉であり、危険は多いが最大の恩賞を約束されたということになる。


 もっとも、信長は外交上の約束を反故にすることを屁とも思ってない男で、遠国の大名などに対しては方便にもならぬ景気の良い空手形を乱発するようないい加減なところがある。かつて備前で威勢を誇った浦上宗景に対しては、天正元年の段階で「備前、美作みまさか、播磨の三国の支配を許す」というような約束をしているくらいだから、別所長治に対しても、「毛利を滅ぼした暁には、その領国から二、三ヶ国を分け与えよう」くらいの大口は叩いていたかもしれない。

『播州太平記』などを見ると、信長は使者をして別所氏にその意向を伝え、


「味方に合力して先陣を致し給わらば、播磨壱ヶ国は申すに及ばず、其の功にしたがい厚く恩賞をあて行うべし」


 と礼を尽くして約束した、ということになっている。


 いずれにしても、別所長治は、畏まって信長の命を受けた。


「先手を仰せ付けられるは弓矢の名誉。家の面目もこれに過ぎたるはござりませぬ。この上は、速やかに国許にて軍用を調ととのえ、人数を集め、内府ないふさま(内大臣/信長)のつかわされる大将のご下向をお待ち申し上げる所存――」


 と請け合って、信長を満足させた。

 この青年は、政治的には無知というに近かったが、信長が掲げる「天下布武」という大目標の煌びやかさと華やかさに若者らしく惹かれるところがあったし、信長が別所氏を重く遇する気遣いを見せてくれていることもあって、世間の悪評ほどに信長を嫌ったりはしていない。少なくともこの頃は、織田家の尖兵となって中国制覇に尽力し、ひいては天下制覇へと――信長と共に歩んでゆこうとする意思を固めかけていた。


「摂津の事が一段落すれば、中国に馬を進めることになろう」


 大阪の本願寺が片付けば、いよいよ毛利氏と本格的に戦うつもりである、ということである。


「別所殿もそのおつもりで、諸事抜かりなく支度を整えられよ」


 慈父のような優しげな眼差しを別所長治に向け、信長は上機嫌でそう話を締め括った。


 軍議と言っても、具体的に戦略を話し合うというような段階ではない。ようするに、播磨最大勢力である別所氏の抱きこみを確実にしておこうという「政治」であり、セレモニーに過ぎないわけだから、内容などはこの程度で十分であった。


 ただ、このとき、「中国征伐の大将として誰を播磨に派遣するか」といういわば最重要事項を曖昧なままにしておいたことは、信長の手落ちであったと言えぬこともない。信長はおそらくこの頃には、中国方面軍司令官として藤吉朗を抜擢することをすでに決めていたであろうが、そのことを公式に表明したことはなく、内々で誰かに漏らしたということもないのである。

 織田家に長く仕えた者であれば言葉数の少ない信長のやり方をよく解っているから、それをそのつど忖度そんたくできたであろうが、別所長治や別所家の重臣たちはまだまだ信長という男と馴染みが薄く、門閥無視、能力主義といったその人使いにも慣れていない。このとき信長が「羽柴 筑前守ちくぜんのかみ 秀吉」という名を挙げ、この下郎上がりの男がどれだけ優れた器量を持ち、信長がこの猿顔の小男をどれほど信頼し、重用しているか、というようなことを自らの口できちんと別所長治に伝え、その了解を取っていたとすれば、後の別所氏の離反はあるいはなかったかもしれないし、そうなれば中国征伐はよほど違った形になっていたであろう。

 本当に些細なことではあるが、物事のもつれというのは、案外こういう些細なところから始まるものかもしれない。信長がそれを怠ったために、実際に藤吉朗が播磨に入国した際、このことが大きな傷になってくるのである。


 ともあれ、別所氏の態度に満足した信長は、播磨経略をさらに抜かりなく続けるよう藤吉朗に命じた。

 藤吉朗は、この直後、播磨で未だ旗幟きしを鮮明にしない残る十数家の小豪族の懐柔と囲い込みのために、再び小一郎と半兵衛を播磨に派遣している。



 さて――


 天正五年二月二日、安土にいた信長の元に、朗報が届けられた。

 大阪の本願寺を横から支援する紀州の「惣国そうこく一揆いっき」勢力から、織田家に寝返る者が出たのである。


 紀州惣国一揆とは、紀伊北部に根を張る雑賀さいか党を中核に、亀山城の湯河氏や、高野山、根来ねごろ粉河こがわの三大寺院、さらに熊野三山を中心とする南部地方の諸勢力が連合した地域勢力である、ということは以前触れた。京を追われた足利義昭よしあきが紀州に逃れて以来、惣国一揆は反織田の一大勢力となっており、なかでも雑賀党は精強な鉄砲集団として天下に名が高く、本願寺側の主戦力ともなっていた。これは信長にとって頭痛の種であったのだが、この惣国一揆も必ずしも一枚岩であったわけではないらしい。


 惣国一揆の中核である雑賀党は、大雑把に捉えれば、十ヶ郷、雑賀庄、中郷、宮郷、南郷という五つの郷党集団から形成されている。雑賀党は自主自尊の意識が強く、信教を同じくする門徒が多いということもあって国外問題に対しては一致団結して事に処する伝統があったが、自国内では族党同士のいさかいが絶えなかった。中でも「三緘みからみの者」と称されていた宮郷、中郷、南郷の地侍たちと、十ヶ郷、雑賀庄の者たちは、雑賀党内で常に主導権を争っていたらしい。

 この「三緘みからみ」の地侍と、根来寺の最有力子院である「杉の坊」の僧兵たちが、織田家に敵対し続けることの危険を悟って惣国一揆から離反し、信長に味方することを申し入れ、逆に織田軍の紀州征伐を要請して来たのである。


 もちろん、これはかねてから施していた調略の成果でもあったろうが、信長はこの仲間割れに乗じて、先に紀州を押さえてしまおうと思い立った。雑賀の鉄砲衆は本願寺のまさに主戦力であったし、紀州は雑賀水軍が大阪 石山御坊に物資を補給する有力な基地でもあったから、頑強に抵抗を続ける本願寺勢を弱体化させるには、雑賀党を滅ぼして紀州を奪ってしまうのが近道であろう。


 信長はただちに全領国と同盟大名に大動員を掛け、美濃・尾張・伊勢・近江・山城・大和・摂津せっつ和泉いずみ河内かわち・若狭・越前・丹後・丹波・播磨の諸侍を京に集結させ、公称十万余――実数にしても六万を越える大軍を編成し、二月十三日、まだ肌に冷たい早春の風を衝いて京を出陣した。

 先陣は、信長の嫡男・織田信忠のぶただが率いる美濃勢と尾張勢。佐久間信盛、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、荒木村重、筒井順慶じゅんけい、細川藤孝ら大名級の重臣がこれに続き、次男・北畠信雄のぶかつ、三男・神戸かんべ信孝のぶたからも伊勢の国衆を引き連れてこれに参加した。主立つ武将で動員されなかったのは、柴田勝家を軍団長とする北陸方面軍の面々だけであったろう。


(またまた余所の手伝い戦かよ・・・・)


 中国方面で手柄を立てたい藤吉朗は不満顔であったが、信長の命令とあれば否も応もない。自ら三千の羽柴勢を率いてこの行列に加わった。言うまでもないが、播磨に出張している小一郎と半兵衛は、ここに含まれていない。

 ちなみに播磨からは、別所長治と別所重棟しげむねが軍勢を率いて京に駆けつけ、この戦陣に参加したことが『信長公記』に記されている。別所重棟はこれまでも別所家の兵を率いて援軍に来た経験があるが、当主の別所長治が自ら馬を出したというのは初めてだから、織田家の動員力の凄まじさと信長の権力の強大さをまざまざと見せ付けられ、度肝を抜かれたに違いない。


 信長はこの大軍勢の後軍を率いて京を南下し、河内の若江から和泉いずみ香庄こうのしょうに入り、ここから大阪湾の海岸伝いに道を取り、十八日に佐野(泉佐野市)、二十二日に志立(泉南市)と慎重に紀州へとにじり寄って行った。三日で済む移動距離に十日もの時間を掛けたわけで、ひとたび動けば疾風迅雷、拙速せっそくなまでに速さを尊ぶ信長にしては珍しいほどゆるゆるとした行軍だったが、これは信長なりの用心の結果でもあったろう。

 戦国最強にして最大の水軍力を持ち、瀬戸内海の制海権を一手に握る毛利氏は、沿岸地域であればどこにでも大軍を即座に送り込むことができる。織田軍が不用意に紀州に入れば、毛利氏の側は、たとえば摂津あたりに大軍を送り、本願寺勢とひとつになって、紀州を攻める織田軍の背後から襲い掛かる、というような戦略さえ可能であるわけで、海岸沿いの狭い平野に押し込まれたような状態で前後から挟撃されることにでもなれば、いかに織田軍が大軍でもたまったものではない。

 制海権の重要さと水軍の戦略的効用を、毛利氏に嫌というほど思い知らされている信長である。いつ背中から刺されるかもしれぬという不気味さが、払拭し切れなかったのであろう。地理に不案内なこともあり、沿岸の要所に押さえのための軍勢を配置するなどの措置に手間取ったのかとも思われる。


 いずれにしても、織田軍は大阪湾に浮かぶ淡路島を右手に眺めつつ和泉いずみ山脈の手前で大集結し、そこで全軍を二手に分け、佐久間信盛・藤吉朗・荒木村重・堀秀政らの軍勢は雑賀党から寝返った「三緘みからみの者」と根来衆を道案内にして山越えの道を取り、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・細川藤孝・筒井順慶らの軍勢は海岸伝いのルートを取って、それぞれ紀州に侵攻した。

 織田軍六万余に対し、雑賀党――雑賀庄、十ヶ郷の地侍を中心とする一揆勢――は、わずか三千ほどに過ぎなかったであろう。ただしこの三千は、十数門の大鉄砲(大砲)と千数百挺の鉄砲を擁し、それぞれが射撃の名手。しかも弥陀みだに対する信仰に燃え、念仏を声高に唱えながら戦い、極楽往生のためとあれば死さえ厭わないという恐るべき集団である。その精強なことは、己の立身出世を戦いの目的とし、何よりも死を怖れる織田の軍兵たちとはそもそも比べ物にならない。


 織田軍の襲来を知った雑賀党は、紀州の国境付近に流れる紀ノ川を外堀に見立てて防衛線を敷いた。

 紀ノ川は、この当時、現在の和歌山市内で二股に大きく分かれており、現在の川筋を本流に、南側にれて流れる支流を雑賀川(和歌川)と呼んでいた。この二筋の川に囲まれた沿岸の三角州地帯と紀ノ川北岸の一部がいわゆる「雑賀庄」で、雑賀党はこの地域全域を要塞化し、弥勒寺みろくじ山城やまじょう(和歌山市秋葉町)に本陣を置き、東禅寺山城・上下砦・宇須山砦・中津城・雑賀城などを枝城とした強固な防御陣地を築いた。

 紀ノ川は現在でも相当に川幅が広いが、当時はさらに広やかで、支流の雑賀川でさえ実に百メートル近くもの幅があったらしい。その川岸の土手にびっしりと防御柵を植え、川底におけつぼなどを数千個も埋め込み、逆茂木さかもぎを据え、縄を張りめぐらせるなどの罠を施した上で、織田軍を待ち構えていたのである。

 そうとは知らぬ織田軍は、山手から侵入した藤吉朗らの部隊がまず紀ノ川の川辺まで到着し、周囲の十ヶ郷の村々を景気良く焼き払い、味方に寝返った「三緘みからみの者」――宮郷、中郷、南郷の地侍たち――と紀ノ川を渡河して合流し、雑賀庄を東から圧迫する形で雑賀川の対岸に布陣した。この部隊だけで人数は二万数千にものぼり、「三緘みからみ」の地侍や高名な根来ねごろの鉄砲衆を含めれば三千挺を越える鉄砲を擁していたであろう。


 ちなみにこの当時の鉄砲は、通常の有効射程がせいぜい七〜八十メートルほどであったらしい。火薬を多く詰めれば多少射程は伸びるが、いずれにしても川を挟んで睨み合っていたのでは射撃戦も満足にできない。


 攻める織田軍は、味方の大兵力を頼んで一斉に雑賀川に馬を入れ、これを一気に渡河しようと猛進したのだが、人馬は川の中瀬で罠に掛かって次々と足を取られ、将棋倒しのようになって倒れ込んだ。しかし、事情が解らない後続軍は後ろから続々と押し出してくるから味方同士がせめぎ合って大混乱し、立ち往生しているところを雑賀党自慢の鉄砲でめった撃ちにされ、大砲の砲撃を間近に食らって吹き飛ばされ、さらに白兵突撃を受けるにおよんで総崩れとなり、まったく一方的な敗北を喫したらしい。全軍の先鋒に立って真っ先に川に馬を入れた堀秀政の部隊なぞは、ほとんど壊滅に近い惨状だったという。

 織田軍は後方に退却してなんとか敗勢を立て直しはしたものの、それ以上の積極攻勢を掛けるほどの根性はなく、川を挟んで一揆勢と睨み合いの形になった。


 一方、浜手から十ヶ郷に侵攻した部隊は雑賀党の前哨部隊を蹴散らし、防御拠点であった中野城を囲み、二十八日にこれを抜いた。さらに紀ノ川まで進み、雑賀庄を北から窺ったが、川を挟んだ射撃戦になれば鉄砲撃ちとして天下に名の通った雑賀党相手には分が悪く、こちらも攻めあぐんだ。


 信長はなぜか紀州に入ろうとせず、和泉山脈の若宮八幡(大阪府泉南郡)に本陣を置き、後方から全軍を督戦したが、聞こえてくる戦況はどうにも捗々しくない。流血ばかりが多く、敵の防戦に手を焼ききっているようであった。


 このあたり、合戦の推移が実はよく解らない。


 たとえば『信長公記』では、浜手を進んだ部隊が紀ノ川を越えて一気に雑賀党の首領格である雑賀さいか孫市まごいち(鈴木孫一)の居城・雑賀城(和歌山市和歌浦南)を包囲した、ということが記されており、城の周囲にやぐらを建て、竹束の楯をもって敵の銃弾を防ぎつつ、日夜激しく攻め立てた、ということになっているのだが、そもそも雑賀城は鈴木孫一の居城ではないと筆者は考えており、このあたりの記述がどうにも信用できない。

 紀州藩が編纂した『紀伊続風土記』では、孫一の鈴木氏が雑賀城を居城に七万石ばかりの領地を持っていたとする記述があり、それを下敷きに孫一を戦国大名に見立てて考える向きもあるようだが、これは明らかに間違いであろう。

 ご自身が雑賀党の末裔であり、雑賀党の研究を長らく続けてこられた鈴木眞哉まさや氏が著わされた『紀州雑賀衆 鈴木一族』などの著作によれば、鈴木氏は十ヶ郷の土豪であって、雑賀庄を中心に七万石もの勢力を持つ大名だったとは到底思えない。さらに付け加えれば、先にも触れた通り雑賀党の本陣は弥勒寺山城であり、雑賀党の大将であった孫一は当然こちらの城に本拠を置いていたであろう。雑賀城は本城の背後を守る出城であるに過ぎないのだが、この雑賀城が落ちたかどうかさえはっきりしない。『信長公記』では落ちたとは書いてないが、『甫庵・信長記』では落城したことになっている。


『信長公記』などの織田側の軍記は当然ながら信長贔屓びいきで、その論調は織田軍の圧倒的優位のまま戦況が推移したように書かれているから、このあたりは研究者の間ですら混乱が見られる。

 一方で、地元の紀州では雑賀党が勝利したと今でも語り継がれているらしい。政治的な宣伝という思惑も当然あったであろうが、足利義昭よしあきや毛利輝元は織田の敗北を諸国の勢力に対して声高に喧伝したというから、やはり織田方の勝ちと言えるような状態ではなかったようである。

 実際のところは、織田軍の主力は雑賀川で釘付けにされ、川を越えることさえできず、わずかに海側の河口付近を渡河して進んだ別働隊が、雑賀崎に突き出た雑賀城を攻めたが、これも頑強な抵抗にあって攻めあぐみ、戦況が膠着こうちゃく状態になった、というところではなかったか――と筆者は考えている。


 それが証拠に、信長は六万もの大軍を擁しながらわずか半月ばかりで雑賀党を滅ぼすことを諦め、これと和睦しているのである。『信長公記』では、滅亡の危機を悟った雑賀党の側が降参した、ということになっているが、実際は、戦の泥沼化と長期化を嫌った信長が、織田家の名誉が損なわれない形で停戦・講和に持っていった、というあたりが真相ではなかったかと思われる。一説には毛利氏の大船団が来襲して畿内を窺う形勢を見せ、これがために信長は兵を返さざるを得なかったのだともいうが、いずれにしても、四方に敵を抱える信長にすれば、畿内を手薄にしたままこれほどの大軍を紀州に長期間釘付けにしておくことはできなかったのであろう。


 三月十五日、鈴木孫一を含む雑賀党の領袖・七人と誓紙を交換し、両軍の間で正式に和睦が成立した。戦後処理を済ませた信長は、三月二十一日に紀州から兵を退いた。


 敗北――とまでは言わないが、この結果は信長にとって勝利からはほど遠いものであったろう。

 肝心の雑賀党がその力をほとんど失っていなかったことは間違いなく、このわずか四ヶ月後には再び兵を挙げ、惣国一揆を裏切って織田方となった「三緘みからみの者」を攻めている。織田方の「三緘」衆を救うために、信長は佐久間信盛を大将に再び数万の大軍を紀州に派遣したが、雑賀党は粘り強い抗戦の末にこれを見事に打ち破り、追い返した。その後も一貫して紀州の自主自尊を守り続け、本願寺を支援し続けたのである。


 信長は、伊勢 長島や越前では「根切り」と呼ばれる門徒の徹底的な殲滅せんめつを行っている。同じく本願寺に味方する雑賀党を許すつもりはなかったに違いないが、それにしてもこの連中は、信長にしてみればうずく虫歯のように悩ましく腹立たしい存在であったに違いない。




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