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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第75話 羽柴家の嗣子

 播磨はりまでの政務を無事に終えた小一郎と半兵衛は、天正四年(1576)十月の末、意気揚々と北近江に帰還した。


 ところが長浜では、まさに青天の霹靂へきれきとしか評しようのない思いもかけぬ悲報が待っていた。

 藤吉朗の嫡子である石松丸が、夭折ようせつしてしまっていたのである。生まれてから一年と少し――数えでわずか二歳であった。


薬師くすしは流行り病と申しておった・・・・」


 両肩を落とし、ぼそぼそと声を絞り出す藤吉朗は、心労のためかげっそりとやつれていた。


「手は尽くしたんじゃ。国中の寺社に祈祷きとうもさせたが、それもげんなく――五日ばかり高熱に苦しんで、逝ってしもうた・・・・」


 石松丸の命日は、十月十四日であった。外交任務に支障は出せないから小一郎らには報せられなかったが、すでに葬儀も済ませたのだという。長浜城下の妙法寺という寺が織田家の宗旨である法華宗であったため、藤吉朗はそこに石松丸の菩提ぼだいとむらうために塔頭たっちゅうを建てさせ、立派な少年に成長した我が子の姿を絵師に描かせてそれを収め、寺領を寄進して永代供養を頼んだらしい


「まだたった二つやぞ・・・・。いくらなんでも早すぎるやろ・・・・」


 藤吉朗は、生来身内に対する愛が深い男である。亡くした愛児を思い出すだけで涙が溢れてくるらしく、しきりと鼻をすすり上げた。


「お掛けする言葉もありません・・・・」


 さしもの半兵衛も、子を失った親の悲哀を救えるような便利な言葉は持ち合わせていないようだった。


 義弟の浅野弥兵衛やへえなどから聞いた話では、この半月、藤吉朗はほとんど廃人同然であったらしい。食事もろくに取ろうとせず、飲めぬ酒を過ごしては悲嘆に暮れ、あるいは虚空の一点を見つめて何かを考えている風情で、周囲の声にもほとんど反応を示さなかったという。滞りがちになる政務は周りの者たちが何とかフォローしていたものの、殿様がこんな調子では、いずれ家来たちにまで悪影響が出始めるであろう。


「おみゃぁさんの気持ちは解るがよ。親の嘆きも度が過ぎりゃぁ死んだ石松の成仏の邪魔になってまうっちゅうで、大概にしとかないかんよ」


「いつまでもそう塞ぎ込んでおられては、お前さまのお身体にも障りましょう」


 見かねた老母・なか や寧々は、言葉を尽くして励ましているのだが、藤吉朗の傷心が癒えることはなく、茫然自失としか見えないその日常にも大きな変化はなかった。常に多弁で騒がしいこの男がその口をつぐみ、哲学者のようになって思考の深い淵に沈み込んでいれば、外側から眺める分には廃人のようにしか見えなかったであろう。


 しかし、その実、藤吉朗の思考能力が機能停止を起こしていたかといえば、どうもそうではない。

 感情の量が多い藤吉朗は、愛児に対する憐憫れんびん哀悼あいとうの気持ちが人の数倍もあり、当然のことながら当初はその感情一色に支配され、それ以外のいかなる思考も浮かびはしなかった。ところが、五日、十日と時間が経つうちに、それらの激情がやがて心の底の方へと静かに沈殿ちんでんしてゆき、あの世に去った者に対する思慕から、この世に残った人間が新たに抱えねばならなくなった諸問題に対する処置へと、心の重心が移っていたのである。


 嫡男を失った藤吉朗が抱え込んだもっとも重大な問題は、


(羽柴家の跡継ぎをどうするか・・・・・)


 ということに尽きた。


 この先、二、三年のうちに新たな嫡子を得られる見込みと自信が藤吉朗にあったなら、跡継ぎなどという問題は緊急の課題にはならなかったであろう。子供というのは放っておいても次々出来るものであり、たとえば信長などはほとんど毎年のように側室に子を産ませている。

 大の女好きである藤吉朗は、子作りに関しては人並み以上に励んできたという自負があるが、天性子種が薄いのか、あるいは石女うまずめばかりに当たっているのか、これまでこれほど励み続けて、それでもどうしても子宝に恵まれなかった。その藤吉朗の感覚から言えば、奇跡のような確率でようやく授かった天からの下され物があの石松丸であったわけで、それだけに愛児に対する想いは深く、それを失ったことに対する絶望感も大きかった。


 藤吉朗は、この正月で数えで四十一歳を迎えようとしている。健康上の問題はなかったが、体力や気力は多少とも衰えを見せ始めていたであろう。人間五十年と言われた時代に生きている者からすれば、「あと何年生きられるか」というような重い先の見通しを、現実問題として考え始めねばならぬ時期でもあった。


(わしにゃぁもう子供は出来まい・・・・)


 と藤吉朗が諦めてしまったとしても無理はなく、その前提に立って羽柴家の相続問題を考えるとすれば、これは養子を迎えて嗣子しし(跡継ぎ)に立てるほか道はないということになる。


 藤吉朗の一族ということで言えば、姉がすでに二男を産んでおり、小一郎を別にすれば血縁ではこれが藤吉朗に一番近い。上の子・治兵衛じへえは八歳。知恵が鈍く、身体も強くない。宮部善祥坊ぜんしょうぼうに養子に出してしまっているが、返してもらうことはできるだろう。下の子・小吉こきちはまだ七歳ながら治兵衛よりは多少は子柄が良く、才知にも少しは期待が持てそうである。

 このどちらかを養子に入れ、羽柴家を継がせるというのが、ごく常識的な考え方であるだろう。


 しかし、藤吉朗は、延々とこのことを考え続けるうちに、その思考を不思議なところに飛躍させた。


(いっそ、信長さまのお子を一人養子に頂き、羽柴家を継いでもらうわけにはいかんじゃろうか・・・・)


 ということである。


 藤吉朗は、必ずしも無欲な男ではない。いや、無欲どころか、この男は人に数倍する欲を持って生まれてきたが、その我欲を意のままに制御できるだけの訓練を、信長に仕えたときから自らに課し続けていた。

 つまり、この思考の飛躍は無欲から出たものではなく、むしろ多分に保身と実利計算とが含まれている。


 信長は、猜疑さいぎが深く、人を見抜くことに鋭く、人の欲深いことを嫌悪し、部下の失策を許さず、その懈怠けたい怠慢たいまんを何より憎むという仕えることがおそろしく難しい大将である。藤吉朗はこの信長に気に入られるために「信長が好む侍」であろうとし、そういう自分を意識して創り上げてきた。織田家のために寝る間も惜しむようにして一心不乱に働き続けてきたのも、「無欲で陽気な大気者」という自分を演出し続けていることも、何より信長がそういう男を好むということを熟知しているからである。

 その懸命の努力の結果として今の異数の出世があるのだが、藤吉朗は十八万石もの大名でありながら、一面で根無し草のようにはかなく頼りない存在である自分の実像を、誰よりも正確に自覚してもいた。


 藤吉朗は確かに天下に隠れもない湖北の王ではあるが、信長という神のような存在の後ろ盾があってこそ世に立っていられるのである。その生殺与奪の権は信長が一手に握っており、この先、藤吉朗が不要になれば、信長はあごひとつ動かすだけで藤吉朗が生涯を賭けて築き上げてきた物のすべてを奪い去ることができ、羽柴家を地上から消し去ることができる。

 今でこそ藤吉朗は信長にとって「天下布武」の良き道具であるが、たとえばこのまま織田家が天下を統一すればどうなるであろう。藤吉朗の利用価値がなくなったとき、信長は羽柴家をどう処遇するであろうか。藤吉朗が生きてあるうちならば、信長も藤吉朗との個人的な友誼ゆうぎ情誼じょうぎを重んじて優遇してくれるかもしれないが、そのとき藤吉朗がすでに亡く、信長とは縁が薄い藤吉朗のおいなどが羽柴家を継いでいたとすれば・・・・。

 藤吉朗の後継者を、あの信長が藤吉朗と同様に可愛がってくれるという保証はどこにもないのである。この動かし難い現実を前に、「羽柴家を誰に継がせるか」などということをいくら考えたとしてもほとんど意味がないであろう。


(羽柴家なぞというもんは、砂で作った城と一緒やな。波ひとつで簡単に世から消え失せるわ・・・・)


 ということのはかなさを、愛児を失った失意の中で、藤吉朗は痛烈に感じた。

狡兎こうと死して走狗そうくらる」という中国の故事を、学のない藤吉朗はもちろん知りはしないが、それと同様の現実を、実感として思い知ったと言っていい。


(ならばいっそ、羽柴家を信長さまのお子にやってしまえばええ。我が子の家であれば、信長さまとてわざわざ潰すようなことはせんじゃろ・・・・)


 羽柴家は、藤吉朗が人生を賭けて創り上げたいわば作品と言っていい。これを地上から消し去ることは、藤吉朗にすれば己の人生のすべてをなかったことにされるようなもので、むなしくもあり、馬鹿馬鹿しくもあり、何より辛かった。これを後々まで確実に遺してゆくには、そのすべてを信長の子にくれてやるしか方策がないのではないかと思った。

 どうせ藤吉朗は愛児を失ってしまっている。家を継がせる実子がおらず、養子を入れてそれを相続させるしかないのであれば、羽柴家という作品を遺すために、信長の子に相続してもらう方がむしろ得なのではないか――


 信長が大変な子福者であるということは以前に触れた。このときすでに「織田家の公子」として認められている男子だけで九人も子がおり、さらに他にも複数の子があるという噂さえある。


 少々余談になるが、この時代の大名が、公式の正室あるいは側室以外の女性に手をつけて妊娠させたというような場合、生まれた子を「相続権を認めない庶子しょし」として城に引き取らず、しかるべき家臣などの家で養育させるというような事例はそれほど珍しいことではなかった。もちろん隠し子というほど後暗いことでもないのだが、家督相続などの問題に支障を出さないよう「大名の公子」とは厳密に区別され、このため世間的には知られないことが多い。ちなみに織田家の嫡男は織田信忠のぶただだが、近年の研究の結果、信長には信忠の前にも男の子があったとする説さえあり、「織田家の公子」として史上知られる十一人の男子の他に、複数の子が生まれていたとしても何の不思議もない。


 いずれにしても、信長にたくさんの子があることは間違いなく、その気になればいくらでも養子に出せるであろう。

 あとの問題は、あの信長が自分の子を、藤吉朗のような者の養子にくれるであろうか、というこの点である。


 こういう思案と自問自答を、この時期の藤吉朗は沈黙の中で繰り返し続けていた。

 が、周囲の者たちにはもちろんそれが解らない。

 小一郎にしても藤吉朗の心中が計れず、ただ茫然自失しているものとばかり思い込んでいた。


(可哀そうじゃが、泣いておっても死んだもん黄泉よみ返りゃぁせん。気鬱きうつを散じるにゃぁ、いっそ長浜を離れて、仕事に打ち込むのが一番じゃろ・・・・)


 なぞと思ったのは、だから多少ピントの外れた見解だったことになる。

 幸い、と言うべきかどうか――藤吉朗には京で重大な政務があり、すぐにも上洛せねばならない。



 小一郎が長浜に帰って数日後―― 十一月四日に信長が上洛した。先にも触れたが、内大臣昇進に関する根回しと準備、祝儀などの政治日程をこなすためである。

 この上洛に合わせて、播磨はりまの豪族たちが京で信長に拝謁することになっており、播磨の申し次ぎである藤吉朗は、彼らの接待と介添えのために京に上らねばならなかった。播磨で外交使節を務めた小一郎と半兵衛も、当然ながらこの上洛に随員することになった。


 播磨の豪族たちは、かねての約束通り日程を繰り合わせ、十一月八日に揃って入洛した。別所家、小寺家、赤松家の三大勢力を筆頭に、大名にして十数家、護衛などの人数を含めて総勢三百人以上の大所帯である。

 小一郎たちは、寺社などを借り受けて大名家ごとにそれぞれ宿舎を整え、その食事の手配りをし、親睦のための宴席を設け、あるいは京見物のセッティングをし、返礼の土産を整えるなど、滞在中の彼らの接待に忙殺された。

 織田家にとっても藤吉朗にとっても、この接待は重要な「政治」と言えるであろう。後日行われる中国征伐のために、この滞在中に播磨の豪族たちに対して大将としての藤吉朗の顔を売り、その親しみを深め、共に働くための信頼関係を築いておかねばならないのである。中国征伐という巨大で華々しい働き場を思い出したためか、京に入ってからは藤吉朗の顔にも精彩が戻り、これには小一郎をはじめ家来たちも大いに安堵した。


 十一月十二日、播磨の豪族たちは揃って信長にえつたまわり、あらためて織田家に臣従を誓い、そのことを天下に公式に表明した。

 饗宴なども滞りなく終わり、その翌々日に豪族たちはそれぞれ播磨に帰っていった。

 信長の内大臣昇進が、十一月二十一日である。それまでの数日間、大役を終えた小一郎たちには冬の京で骨休めをする時間ができた。


 羽柴家の一行は、京では二条西洞院にしのとういん妙顕寺みょうけんじ塔頭たっちゅうをひとつ借りてこれを宿舎にしていた。

 その僧房の書院で、


「わしゃ決めたぞ」


 いつになく思い詰めた面つきで藤吉朗が言った。


「上様のお情けにおすがりし、羽柴家の跡取りとして、若様をお一人、養子に貰い受けようと思う」


 居並ぶ羽柴家の重臣たちは、さすがに仰天した。

 大名家の跡取りである以上、血縁の親族を養子に迎えるというのが世の常識であるから、これはよほど思い切った措置と言わねばならないであろう。


「ご養子なれば、やはりご親族、ご血縁から迎えられてはいかがでござろう」


 羽柴家の家老である蜂須賀はちすか小六が、一座を代表するように常識論でいさめた。


「いや、このことは、熟慮に熟慮を重ねた上でのことじゃ。その手の諫言かんげんはいらん」


 藤吉朗はそれをぴしゃりと封じた。


 問題は、とびきり出自の卑しい藤吉朗などに、あの信長が自らの子をくれるというようなことがあり得るか、という点である。事が藤吉朗の素性の悪さに関わる事だけに、蜂須賀小六や前野将右衛門らも、この点にはうかつに口を開けなかった。

 武家の常識からすれば、氏も素性もない土百姓の家に我が子を養子にやるというのは大きな抵抗感があるであろう。まして天下人である信長にぬけぬけと「子供をくれ」などとねだれば、藤吉朗が自らの素性を忘れて増上慢ぞうじょうまんを起こしていると受け取られぬとも限らず、信長が激怒したとしても少しも不自然ではない。


 沈黙に耐えられなくなった小一郎は、


「実際のところ、いくらなんでもそれは難しいかと・・・・」


 と、ぽつりと言った。


 藤吉朗と血を別けた小一郎は、自らの素性の卑しさを誰よりも知っている。藤吉朗が士分になった頃から武家社会の中での風当たりは強く、「百姓の子」ということで常に周囲から馬鹿にされ、差別的な扱いを受け、否応なくそれを痛感させられもした。藤吉朗が織田家の重臣にまで出世を果たしてからはそのことを表立って口にする者はなくなったが、小一郎が密かなコンプレックスを感じ続けていたことは間違いない事実であり、その種の劣等感を藤吉朗がまったく持ち合わせていなかったと言えば嘘であろう。


「やはり難しいじゃろうかの・・・・」


 藤吉朗が唸るように応えると、


「いや、必ずお聞き届けくださいましょう」


 半兵衛がむしろ藤吉朗の思いつきを褒めるような口ぶりで言った。


「上様は、世の因習を歯牙しがにもかけぬお方です。公方さまに流れる足利将軍の血統さえ尊ばぬあのお方が、生まれの尊卑そんぴをもって人を見るようなことはありますまい」


 その事を一番よく知っているのは、信長に草履取りから今の身分にまで引き立ててもらった藤吉朗自身であったろう。


「半兵衛殿もそう思われるか」


「はい」


 半兵衛は、この養子案を聞いた時、藤吉朗がその結論に至るまでに繰り返した思考と煩悶はんもんのほとんどを読み取っていた。この養子縁組が、羽柴家の保全にとって最良の策であり、信長にとっても実利になるということまでを瞬時に見通したのである。


 羽柴家に信長の子を入れれば、今後、藤吉朗がどれだけ手柄を立てても信長は安心であろう。なぜなら、藤吉朗にどれほど莫大な恩賞を与えたところでそれを相続するのは結局は信長の子であり、羽柴家の実力が大きくなることに対して猜疑心さいぎしんを働かせる必要がないからである。藤吉朗はせっせとタダ働きをするようなもので、信長にすれば恩賞を自分の息子にやっているのと同義であり、織田家の懐はまったく痛まない。実利計算の上でまさに丸儲けであった。

 信長は、欲深な人間を極度に嫌い、吝嗇りんしょくと言えるほどに家臣に恩賞を与えることに薄い。実利に目敏く、損得勘定に重きを置く、合理主義の権化のような男である。その信長が、実体のない血の尊卑そんぴなぞにこだわるはずがなく、これほど美味しい提案を棒に振るわけがないと、半兵衛は直観していた。


 しかし、そういう生臭い言葉を半兵衛はわざわざ口にしない。


「殿が不幸にもご嫡男をうしなわれましたることは、上様もご存知です。きっと殿のご心中をお察しくださりましょう」


 と言ったのみで、この問題を石松丸の死とそれに対する信長の憐憫れんびんという点に固着させてしまった。

 小一郎の思慮は、まだまだ半兵衛の深さまではとうてい届かない。半兵衛の言葉をほとんど額面通りに受け取り、


(そういうもんであろうか・・・・)


 と不得要領に思っただけである。

 いずれにせよ、半兵衛の言葉を聞いて、藤吉朗は大いに勇気づけられたようであった。


 幸い、この頃の信長は毎日機嫌が良い。内大臣昇進という慶事もあり、連日のように諸大名やその使者が京に上って信長を寿ことほいでくれるし、京の貴人たちも祝宴を張って接待してくれる。播磨の国衆たちが揃って上洛したことで毛利氏を牽制できたことも、その上機嫌の理由のひとつであったろう。

 藤吉朗は、この機に思い切って養子の一件を信長に言上することにした。

 信長が宿舎にしている二条室町の妙覚寺みょうかくじに赴き、拝謁を願い出ると、すぐさま許された。


筑前ちくぜん、なんぞ用か」


 信長が上段に着座すると、広間の空気がピンと張り詰めたようになり、誰もがしわぶきさえ怖れるように緊張する。


「このたび、なにとぞ上様のお情けにおすがり致したく――」


 真冬であるにも関わらず、極度の緊張のためか藤吉朗は全身に汗をかいていた。


播州ばんしゅう討ち入りの件であれば、いましばらく時を待て」


「いやいや、その儀にてはござりませぬ」


「なんじゃ」


「無心でござりまする」


「なんじゃと聞いておる。申さねば解らぬ」


 信長はやはり機嫌が良いらしい。笑顔はなく言葉も素っ気無いが、長い付き合いの藤吉朗にはなんとなくそれが解る。

 藤吉朗は一度大きく息を吸い込み、丹田に力を溜めると、意を決して一気に申し述べた。


「上様もご存知のごとく、それがし長年にわたってどうにも子が出来ませず、我が事ながら子種の薄さを思い悩んで参りました。やっと昨年、男子を授かりましたものの、その一粒種さえも先日病で亡くしてしまいました。それがしも四十の坂を越え、もはやこの先、再び子が授かるとも思えませず、羽柴家は跡を継ぐ者さえおらず、途方に暮れるような心持ちでござりまする」


 この上は――と、藤吉朗はさらに声を励ました。


「上様のご公子のどなたかを、それがしの養子におくだしくださり、ゆくゆく羽柴家を継いで頂くというわけには参りませぬでしょうか」


「なに?」


 さしもの信長も、一瞬呆気に取られた表情をした。藤吉朗がこういう無心を持ち込んでくるとは思っておらず、意表をつかれたらしい。


「身のほどをわきまえぬ願いとはよう解っておりまする。ひとえに、ひとえに上様のお情けにおすがりするのみでござりまする。我が子を亡くしたそれがしを哀れと思し召し、どうかこの事、お考えくださいますよう、伏して願いあげ奉りまする」


 藤吉朗は蜘蛛のように平伏し、額を畳にこすりつけた。


 長い沈黙が続いた。

 顔を伏せ続ける藤吉朗には見えないが、しばらくして信長の表情が微妙に動いた。

 苦笑のようでもあり、微笑のようでもある。


「考えておく」


 と信長は言った。

 その声音は、そう不愉快そうでもなかった。



 年が明けた天正五年(1577)正月、信長は、建築途中の安土城ではなく、岐阜城で元旦の祝儀を行った。

 この祝宴の席で、信長は藤吉朗に途方もないお年玉をくれた。


於次おつぎをやる。元服したら長浜に連れてゆけ」


 と言って、養子の一件を承諾してくれたのである。

 藤吉朗は悶えんばかりに狂喜した。


 於次丸おつぎまるとは織田家の四番目の公子で、このとき九歳。この二年後に元服し、羽柴秀勝と名を変え、羽柴家の嗣子ししに立てられることになる。


 そもそも「秀勝ひでかつ」というのは、藤吉朗がその愛児である石松丸に与えようとしたいみなであった。その名を、もらった養子に再び名乗らせたわけで、藤吉朗がいかに亡くした我が子に愛着を持っていたかが、このことでも察せられるであろう。




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