第74話 播磨の秋
木津川河口の海戦の敗北と織田水軍の壊滅によって、織田方は摂津 大阪の包囲環に大きな穴が開けられた格好になった。
大阪は信長が築かせた十箇所の付け城によって東・南・北の陸路はまさに完璧に塞がれていたが、毛利氏はその後もたびたび軍船をもって、海路の穴から兵糧、軍需物資、本願寺に味方する門徒などを石山御坊に運び込んでいる。この毛利水軍がある限り、大阪の衰弱を待つ織田の包囲作戦はまったく成立しないであろう。
本願寺を屈服させるには、毛利水軍を凌駕する織田水軍を創り上げ、それをもって大阪湾の制海権を確保することが絶対条件であった。
しかし、これは一朝一夕に出来るものではない。
信長は志摩の海賊大名・九鬼嘉隆を織田水軍創設の責任者に抜擢し、多数の大型船を建造するよう命じはしたが、これがいつ完成を見るかはまったく解らない。一年で出来るのか二年掛かるのか――その間、毛利水軍に対抗する手段はないと言うしかなく、本願寺攻めは見通しさえ立たなかった。
信長は、勝算のない戦は挑まない男である。
織田と毛利の激突がいよいよ始まったと固唾を飲むようにして見守っている世間を尻目に、信長は安土で築城に熱中し、ふらりと京にのぼっては朝廷の機嫌を取り、公卿衆や大商人などを相手に茶を楽しみ、名物の茶道具を狩り集め、あるいは三河まで鷹狩りに出かけるなど、不自然なほどに悠々とした時を過ごしていた。本願寺に対しては陸路の封じ込めを行うのみで、毛利氏に対してもほとんど手を打とうとしない。
天正四年(1576)はそうして夏が過ぎ、秋を迎えていた。
「なにゆえ上様はわしを播磨に往かせてくれぬのじゃろうのぉ・・・・」
藤吉朗は、安土から長浜に戻ってくるたびに憂鬱そうにそう言った。
無論、信長も、ただ遊んでいるわけではない。手紙や使者を使って播磨や但馬、美作などの小豪族たちに外交攻勢を掛け、毛利氏に滅ぼされ、出雲を追われた旧・尼子氏の残党を保護したり、宇喜多氏に備前を乗っ取られた旧・浦上氏の支族を抱き込むなど、反毛利勢力の糾合にも手を打っている。
しかし、藤吉朗がどれほどせっついても、西へ兵を動かそうとはしなかった。
「いま播磨に大軍を入れれば、播磨の国衆のほとんどが織田に就く。味方に参じぬ者はわずかに過ぎず、これを平らげることは容易じゃ。織田と播磨の兵をもって但馬、美作を押さえ、この三国の兵をこぞれば、たとえ毛利が相手でも互角以上に戦えるではないか」
藤吉朗が喋っているのは、そのまま官兵衛が提唱している中国経略の受け売りである。
「越後の上杉謙信殿が毛利と同盟し、加賀や能登の一向門徒たちとも手を結び、近々のうちに上洛の軍を発するというような風聞があります。大阪の包囲に多くの兵を取られておるこの状況では、安土さまもさらに兵を西に割く気にはなれぬのでしょう」
藤吉朗の苛立ちを労わるように半兵衛が言った。
これまで友好な同盟者であった上杉謙信が、足利義昭の仲介によって毛利氏と手を結び、織田家に敵対することを公然と表明したのは数ヶ月前である。上杉謙信は大の一向宗嫌いで、加賀や能登の門徒勢力と長年にわたっていざこざを繰り返していたが、足利義昭が本願寺に働きかけることで、両者を和睦させることにも成功していた。このことによって能登と加賀は上杉氏の勢力下に入ったと言ってよく、加賀南半国まで広がった織田勢力圏と境を接するようになったのである。
「越後の上杉謙信が、いよいよ織田と戦う腹であるらしい」
という風聞は、諸国の反織田勢力をこれ以上なく力づけ、織田に属する勢力をも大いに動揺させた。
この当時、上杉謙信の武名は神秘的なまでに高く、謙信はさながら生きた軍神のように崇められていた。その率いる軍勢の強さは天下無双と評価されており、これに伍するものといえば亡き武田信玄に統率された武田軍があったのみで、織田の弱兵では相手にもならないと一般に考えられていたらしい。織田軍は『長篠の合戦』で武田軍を完膚なきまでに破っているが、そのときすでに大信玄は死んでいたから、織田軍の強さに対する宣伝効果としては薄かったのかもしれない。
いずれにせよ、軍神とまで怖れられる上杉謙信が最強の越後勢を率いて西上すれば、これは信玄西上のときと同じく織田家にとって大きな脅威となる。越前には柴田勝家を主将とする北陸方面軍があるが、勝家一手でこれを抑えることはとうてい不可能であろう。信長が近畿から兵力を分散させることを嫌うのも、もっともではあった。
「それは解ってはおるがよ。このまま手をつかねて見ておれば、播磨の者どもが残らず毛利に転んでまわんとも限らんぞ」
播磨の小寺官兵衛から、近況を伝える手紙がしきりと送られてくる。その中で官兵衛は毛利氏の外交攻勢がいかに深刻に播磨を動揺させているかを説き、一刻も早い織田の派兵を懇願するように何度も催促してきていた。
播磨の申し次ぎを命じられた藤吉朗にとって、今後の自分の活躍の場は中国であるという想いが切実にあり、その手始めの播磨の経略をすぐにも始めたいという焦りは強かった。柴田勝家は北陸で、明智光秀は京北方の丹波・丹後で着々と実績を積み上げており、それを横目で見ながら働き場を与えてもらえぬ藤吉朗の不満は、澱のように心中に堆積しつつある。
「何も軍兵を送らずとも、播磨を地固めする手はありましょう」
半兵衛が言った。
「播磨の国衆の主立つ者たちは、昨年の十月に上洛して安土さまに謁し、織田に属す意志を明らかにしておりますが、以来、今年は正月の参賀にも姿を見せず、また先だって毛利が播磨に討ち入りし折にも小寺に加勢しようとせず、日和見を決めておりました。これらの態度の不審を鳴らし、織田に味方するつもりが真実あるのかないのか、彼らを問い詰めてやれば如何でしょう」
「ふむ?」
「安土さまに忠を尽くす意志があるなら今一度上洛し、臣従を許されたことに対するお礼を言上されよ、と迫ってみるのです。上洛に応じた者は、織田の味方であるということと、毛利に靡く意志がないということを天下に示すことになる。応じぬ者があれば、そのことをもってこれを織田の敵と定め、討伐の名目とすることもできる」
「なるほど・・・・」
半兵衛らしい、抜け目ない政略である。
「できればその上洛の折にでも国衆たちに人質を連れて来るよう示唆しておき、臣従の証しとなされば良い」
「人質か――」
人質は、この時代の外交においては当然の慣習であった。たとえば大名同士が和議を結ぶといった場合、条件の遵守を保証するために双方から人質を出して交換するのが常だし、同盟を結ぶとか臣従をするというような場合は、勢力の小さい側が大きい側に対して「裏切りません」という証しとして人質を出す。
地縁の薄い播磨に出兵しようという織田家の側からすれば、播磨の豪族たちの去就を確実に見極めてからでなければ危なくて兵は出せない。その意味からも、彼らから人質を取っておくのは当然の措置であった。
「官兵衛にそのように申し送ってみるか・・・・」
「播磨の国衆に対する説得は官兵衛殿にして頂くにしても、せめてこちらから殿の名代でも遣わさぬことには格好もつかず、国衆たちにしても納得しますまい」
官兵衛がどれほど明敏な男でも、その立場は播磨の一豪族の家老というに過ぎない。そんな立場の低い者が、いわば格上である豪族たちに権高に命を下せるはずもなく、賢しらに理屈を説いたところで「織田の威を借る狐め」ということで片腹痛く思われるだけであろう。織田家の権勢を背負った代表者が播磨に行かぬことには話は進むまい、という意味のことを半兵衛は続けた。
「わしの名代か――」
藤吉朗はしばらく考え、
「小一郎、行ってくれるか?」
と言った。
「播磨――ですか・・・・」
唐突な話で小一郎も驚いた。
藤吉朗は織田家における播磨申し次ぎだから、この仕事は藤吉朗からその全権を委任された正式な外交使と言ってよく、外交の分野でこれほど大きな役割を与えられたことはかつてない。
「なに、播磨に表立って織田に歯向かおうとする阿呆はまずおらんで、そう危ない仕事ちゅうわけでもない。かの地には官兵衛もおるしな。万事よろしく取り計らってくれよう」
「殿にお許しを頂けるなら――私もそれに同行したいと思っています」
意外にも半兵衛がそう申し出た。
「中国の政情を知るには、かの地に行くのがもっとも近道でしょう。播磨の地理・地勢を検分し、近隣の備前、美作、但馬などの国情を知っておくことは、今後の殿のお働きにとっても必ず益になると思います」
「半兵衛殿が行ってくだされば、わしとしてもこれほど心強いことはないが・・・・」
藤吉朗はしばらく考えている風だったが、決断に時間は掛からなかった。
「この冬、上様はさらに官位を進められ、内大臣に除目されることが内々ですでに決まっておる。さまざまな祝儀の都合で、一月ばかりは京におられることになろう。とりあえず、そのあたりを目処に――」
播磨の国衆たちを再び上洛させる。
その下交渉の使節として、小一郎と半兵衛を播磨に送り込むことにした。
越前征伐などの褒賞として羽柴家が十二万石から十八万石へと加増されたのを期に、小一郎の禄も八千五百石から一万二千石ほどに増えていた。この時代、一万石につき三百人ほどの動員が義務付けられていたようだから、つまり、小一郎個人に仕える家来も、三〜四百人ほどはいた計算になる。
小一郎はこの家来の中から二百人ほどの精兵を選抜し、さらに半兵衛を伴って、初秋の抜けるような青空の日を選んで旅路についた。
長浜から陸路、安土、瀬田を経由して京へ入り、淀川を舟で高槻まで下り、摂津を横切って伊丹から西宮に出、そこから西国街道(山陽道)を取り、瀬戸内の海岸に沿って播磨へと――五日ほどの行程である。
播磨は、南方は播磨灘に向けて播州平野が開け、北方は中国山地の山々が襞のように幾重にも迫り出しているという地勢で、狭い平野のあちこちに小山のような丘陵が隆起し、その間を大小の川が南北に流れている。肥沃な土地で、水が澄み、良い米と美味い酒が出来る。すでに刈り入れを終えた田園には二期作の小麦が青々と茂り、山々は紅や黄に色変わりを始めた木々と濃い緑とが渾然となり、すじ雲が浮いた秋晴れの空によく映えていた。
小一郎の播磨入りに関しては、無論、織田家の方からも播磨の国衆たちに正式に通牒がなされている。これを妨害しようとする者は誰もおらず、それどころかその労をねぎらう豪族たちの使者が明石あたりの路傍に溢れ、小一郎はその会釈と返礼に忙しいほどであった。
東播磨には、播磨の最大勢力である別所氏が拠る三木がある。
別所氏は、信長が足利義昭を奉戴して上洛した直後、摂津の三好三人衆の武威に対抗するためにいち早く織田と誼みを結んだ、ということはすでに触れた。別所氏は播磨でもっとも古い織田の同盟大名であり、信長が行った畿内の戦にたびたび援兵を出すなど、これまで友好な同盟関係が続いていた。信長も別所氏を播磨の旗頭にし、ゆくゆくはこれを先鋒に立てて毛利攻めを行う腹づもりであったらしい。
しかし、播磨最大の勢力である以上、毛利氏の側も真っ先にこの家に目をつけ、執拗な外交攻勢を掛けてくる。大毛利家の軍事的圧力と足利義昭の影響力、播磨の本願寺門徒の多さなども手伝って、別所家中は織田派と毛利派の二派に割れ、すでに純粋な織田与党とは言えなくなっているのだが、小一郎たちはまだその内情を知ってはいない。
別所氏の当主は長治という若者で、この時わずか十八歳である。いかにも名門の武家貴族らしく美と義を重んじる心根の涼しい男ではあったが、いかんせんまだ幼く、経験にも乏しく、家中を纏め上げるほどの政治力も世の趨勢に対する見通しも持ってはいなかったらしい。政務も軍務も、その舵取りを二人の叔父に任せ切っていた。
この叔父の一人・別所重棟という人物が、小一郎たち一行を三木の城下に出迎えてくれた。
「遠路はるばる、よくこそお越しくだされた」
肉の厚い笑みを浮かべた別所重棟は、一行を領内の寺に案内し、旅塵を落とさせ、食事なども提供して接待すると共に、小一郎と半兵衛を書院に招じ入れ、茶などを振舞って歓待してくれた。
別所重棟は、この天正四年で四十七歳になる。顔は牛に似て愚鈍な印象だが年相応に思慮の深い男で、信長が上洛したときには別所一門の軍勢を率いて馳せ参じ、以後、織田方として畿内の戦にもたびたび参陣して働いていたから、信長の覚えも悪くない。軍事的な能力はさほどでもなかったが、織田家の大成長を見越して早くから信長に接近しているあたり、政治的には決して凡庸ではない。兄と共に別所家の執政の地位にあり、織田家に対する外交官でもあった。
小一郎からすれば、重棟は播磨最大勢力である別所氏の代表であり、なんとしても味方に引きつけておかねばならない重要な人物ということになる。
挨拶や雑談もそこそこに、
「ところで――此度は、ご当主の小三郎殿(別所長治)にはお会いできますか?」
半兵衛が切り出した。
別所氏をしっかりと織田方に繋ぎとめておくことは、今回の播磨入りの最大の目的と言っていい。
「いやいや、本来ならば、わしなぞより我が殿が御自ら皆様方をお出迎えせねばならぬところでござるし、我らも元よりそのつもりであったのですが・・・・あいにくと先日来、少々お身体の調子を崩されたようでござってなぁ・・・・」
眉尻を下げていかにも申し訳なさそうな顔をした。
「・・・・それはご心配な――」
「薬師の申すところではさほどにお悪いということでもないようなのですが――」
多弁な重棟は色々と言葉を繕っていたが、結局は小一郎たちを長治に会わせようとせず、なんやかやと理由をつけて三木城に入れようともしなかった。
(官兵衛殿が書状で申しておった通り、別所も何やらキナ臭いな・・・・)
小一郎は思ったが、ここで無理強いすることもできかねた。播磨最大の勢力である別所氏には何としても織田の協力者であってもらわねばならず、これを敵に回すことだけは避けねばならないのである。
「安土さまをないがしろにするようなつもりは我らには毛頭ござらぬ。その証しというわけではござらんが、我が娘を――」
別所の臣従の証しとして、自分の娘を人質に出すつもりであると、重棟は言った。
当主の子や兄弟というならともかく、家老の娘というのでは人質としては二流で、その価値はさほど高くない。しかし、ここでこの男の心証を害すわけにも怒りを買うわけにもいかず、小一郎は内心で迷ったが、
「孫右衛門殿(別所重棟)の娘御をお預けくださるとあれば、きっと上様もお喜びくだされましょう」
すかさず半兵衛がそう助け舟を出してくれた。
重棟は、別所長治の上洛については確約をくれなかったが、その方向で家中の議論をまとめるつもりであると明言し、重臣たちを説得するための時間をもらいたい、と言った。
この男は、別所長治の叔父にして別所家の執政という肩書きを持っている。その政治力の大きさや別所家中での実力が、実際はどの程度のものであるのか、小一郎にも半兵衛にもまだ判断がついていない。
結局のところ、上洛に応じるか否かで別所氏の誠意を判断するしかない、と、小一郎は思った。
小一郎たちはこの日は三木で一泊し、翌日、さらに西に二十キロほど進み、小寺氏が本拠を構える御着の城を素通りし、姫路に入った。
姫路は播磨の東西の中心に位置しているから国中の豪族たちに連絡するのに便利であり、何より官兵衛が預かっている姫路城がある。
「ようおいでくだされた。お待ち申しておりましたぞ」
その官兵衛は、よく日焼けした顔に心底嬉しそうな笑みを浮かべながら、沿道まで出て一行を出迎えてくれた。
「官兵衛殿、しばらくぶりでござった」
ほぼ一年ぶりの再会ということになる。
小一郎にすれば、右も左も解らぬこの播磨で、心底頼れる者といえばこの官兵衛しかいない。
官兵衛は街道の宿場に人数を出して一行を接待し、下にも置かぬ歓迎振りで姫路城へと先導した。
この頃の姫路城は、現在ある国宝の姫路城からは想像もつかぬほどの田舎城で、姫山という小さな丘の傾斜にほんの少し手を加え、空堀を掘り、土塁の上に柵を植えて本丸と二の丸を仕切り、削平地に幾棟か櫓と兵舎、厩などを建てただけの城で、実用的な砦と言うに近い。山頂の本丸屋敷もごく質素な作りになっていて、規模としては横山城よりもさらに小さかった。
「本来ならば、我が主・小寺政職が直々にご挨拶申し上げねばならぬところではござりますが、あいにくと主は病を得、この数日来臥せっておりまして――」
自然石を敷いて作った石段を登りながら、官兵衛が面目なさそうに言った。
(小寺までがこんな調子か・・・・)
嫌な予感はしていたのである。小一郎一行は小寺政職が居るはずの御着の城の近くを通って来たが、政職は自ら沿道に出るどころか挨拶の使者さえ寄越さなかった。
小一郎としても失望を禁じえなかったが、
「取るにも足らぬ小城でござるが、我らはすでに二の丸に居を移してござるゆえ、播磨におられる間はこの本丸をご自由にお使いくだされ」
と官兵衛が言ったから、この提案には素直に驚かされ、先ほどの失望を多少改めねばならないと思った。他人に我が城の本丸を貸すというのは、好意にしても度が外れている。官兵衛は織田を播磨に引き入れようといういわば張本人だから、少なくともこの男だけは、織田家と一蓮托生という覚悟を固め切っているのであろう。
官兵衛は抜かりなく歓迎の宴席まで用意してくれていたらしい。着替えなどを済ませて落ち着いた頃には広間に膳部が整えられていた。
小一郎と半兵衛を上座に、居並ぶは、横浜一庵、尾藤久右衛門、羽田正親、本多利久、小堀政次、杉若藤七などといった小一郎の重臣。末席に、藤堂高虎の姿もある。
小寺家の重臣との間で紹介や挨拶のやり取りなどがあり、そのまま酒宴になった。
小一郎らの訪問の趣旨は、言うまでもなく官兵衛も承知している。
頃合を見計らって、本題に入った。
「上洛して安土さまに謁を賜ることは、この官兵衛、再び主を説き、何としても実現させてみせまする」
と、官兵衛はまず確約した。
ところが、人質の話になると、途端にその言葉に勢いがなくなった。
「本来であれば、我が主のご子息である氏職さまをお預けするが道理ではありまするが、若様は生来、お身体が弱く、多病にましまし、とても安土さまのお傍近くのご用が勤められるとは思われませず――」
官兵衛がわずかに仄めかしたところでは、政職の息子は、どうやら不幸にも軽い白痴であるらしい。
それを察して、小一郎も小寺氏のこの態度を理解した。
人質といっても、別に牢に入れて監禁しておくわけではないのである。集められた子供たちは安土で普通に暮らし、男子であれば多くは信長の手元で児小姓となり、様々な役割を与えられ、鍛えられることになる。才知優秀な者が信長に気に入られればそのまま近習に進むこともあり、重臣への出世コースを歩んでゆくようなことも珍しい事例ではないが、逆に暗愚な子供であれば信長の覚えもかえって悪くなり、本人にとってもその実家にとっても不幸な結果にならぬとも限らない。
官兵衛の語ったことがすべて真実とすれば、小寺氏は、政職の実子を出すのはかえってマイナスになると判断したのであろう。
「主には他にしかるべきお子もおりませず、もしお許しを頂けますならば、これに代えて我が子を安土さまにお預けしたく思うておりまする。・・・・愚息なれど、私にとっては一人子です」
今年九歳になる自分の息子・松寿丸を差し出すという。跡取りである一人息子を人質に出すというのは武家にとっては極めて異例なことで、官兵衛もその点に力を込めた。
「総領息子をお出しになるというのは、実にお見事なお覚悟です。安土さまもきっと、官兵衛殿の誠意と忠心をお酌み取りになり、お喜びくださいましょう」
半兵衛がそう太鼓判を押してくれたから、小寺氏に関してはこれで良いかもしれないと、小一郎も安堵した。
「小寺と別所は、織田家にとって播磨における二本の柱です。この両家の誼みを深めることは、安土さまのお心にも叶いましょう。官兵衛殿のご子息と、別所重棟殿の娘御を、安土さまのご媒酌をもって夫婦と成せば、これに優る縁はないと私などは考えておるのですが――官兵衛殿、如何思われますかな?」
「それは――」
半兵衛の突然の提案に官兵衛は面食らったようだったが、二呼吸ほど間を置いて、
「いや、願ってもなきことでござる」
いつもの自信を取り戻した顔で応えた。
「半兵衛殿のおっしゃられるように、安土さまのお声掛かりをもって愚息に嫁を得られますならば、これに優る喜びはござりません。その旨、筑前殿から安土さまに言上なしくださるよう、よろしくお伝えくだされ」
官兵衛のこの決断で、事は決まった。
翌年のことだが、この幼い夫婦は安土で祝言を挙げることになる。
さて――
小一郎と半兵衛は、この翌日から姫路城を根拠地にして活動を開始した。
小一郎たちは一月ほど姫路に滞在し、官兵衛の手引きによって何人かの豪族の当主やその家老と面談し、この冬の上洛の約束を取り付け、あるいは織田家に忠誠を誓う誓紙を差し出させることに成功した。
小一郎はこのときに、播磨でそれなりに顔を売ったことになる。
半兵衛は播磨の諸豪の動静や近隣諸国の情勢についてほとんど毎夜のように官兵衛と語り合い、昼間は連日、播磨の地理・地勢を見て回った。ことに別所氏の本拠である三木城の周囲や、播磨と備前の国境付近の山々には何度も足を運び、連れてきた絵師に地図を描かせ、あるいは周辺の領民や百姓たちの暮らしぶりを検分するなど、驚くほど精力的に動き回っていた。
このことは、後の藤吉朗の播磨経略に大いに役立つことになる。
播磨にそろそろ初冬の風が吹き始めた十月の下旬、小一郎たちは、上々の成果を収めて意気揚々と帰国の途に就いた。
播磨の主立つ豪族たちは、約束の通り後日連れ立って上洛し、天正四年(1576)十一月十二日に信長に拝謁したことが『信長公記』に記されている。別所長治、赤松義祐、小寺政職という播磨の三大勢力の当主が揃って織田家にあらためて臣従を誓ったことは、半兵衛の献策と小一郎の努力、さらに官兵衛の奔走の結実と言ってよく、この外交任務は大成功であったと高く評価された。
毛利側に傾き掛けていた播磨の諸豪を織田側に繋ぎ留めたという意味で、大きな価値があったと言うべきであろう。