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王佐の才  作者: 堀井俊貴
73/105

第73話 官兵衛の軍略

 この物語の現在から半年ほど前の天正三年(1575)十月、小寺こでら官兵衛かんべえ周旋しゅうせんによって播磨はりまの主立つ豪族たちが上洛して信長に拝謁し、織田家に従属することを公式に表明した、ということはすでに述べた。

 それ以来、毛利氏は播磨の豪族たちに対する寝返り工作を活発化させ、脅したりすかしたりしながらの外交戦を展開していた。これに足利義昭よしあきの影響力と本願寺の僧たちによる遊説が加わって、播磨の豪族たちは軒並み動揺するようになり、再び旗幟きしを不鮮明にし、表面上織田家に属しながらも裏で毛利氏にもよしみを通じ、両属のような形になった、ということも触れた。


 播磨で公然と織田方を表明しているのは、官兵衛がいる小寺氏のみである。この官兵衛が豪族たちを再び織田方に靡かせようと躍起になって説き回っており、毛利氏の側から見れば、小寺氏という存在が――なかでも姫路の小寺官兵衛なる男が――非常に目障りになっていた。

 毛利輝元は、この際、この小寺氏を血祭りにあげ、播磨の織田与党を消滅させ、毛利の武威を見せ付けることで地盤の引き締めを計ろうと考えた。当然の戦略であり、措置でもあろう。武将のうら宗勝に五千余の兵を授け、官兵衛が本拠とする姫路の城を攻めるよう命じたのである。小寺氏の動員力はせいぜい二千ほどに過ぎないから、五千もの兵を送れば姫路の小城などは卵を潰すように押し潰せるに違いない。


 毛利氏の本領は、安芸あき(広島県)である。

 安芸と播磨の間には、備後びんご備中びっちゅう備前びぜんという三国が横たわり、これらはいずれも毛利の属領ではあるが、ようするに二百キロほども離れている。軍勢を中国道に沿って陸路東進させれば少なくとも五日は掛かるところだが、毛利氏は自慢の水軍を使って五千の軍兵を一度に運び、広島湾から一気に西播磨の英賀あがへと乗りつけた。


 これが、天正四年(1576)の五月である。

 ちょうどその頃、信長は摂津の敗勢を立て直して本願寺勢を再び石山御坊に封じ込め、佐久間信盛を大将として天王寺に置き、天王寺砦を石山包囲部隊の本営として大改修すると共に、石山の周囲に十箇所の付け城を築き、木津川河口は水軍をもって封鎖し、大阪 石山を大きく囲い込む包囲環を作っていたのだが、この毛利軍の動きは寝耳に水であったろう。毛利氏が行った織田家に対する初めての露骨な敵対行動であり、織田方から見れば、突如として播磨に毛利軍が湧き出たような印象であった。

 海路を使って二百キロも離れた遠隔地に大軍勢を直接送り込むというような戦略は、強大な瀬戸内海賊衆と数多の軍船をようする毛利氏のみが行えるところで、さしもの信長もこれには一驚したに違いない。信長はこの直後からしきりに軍船を集め始め、堺などで大船を徴発したり旧三好氏の水軍を整備したりしたが、いずれにせよ織田と毛利の水軍力は、それだけ隔絶したものだったのである。


 ともあれ、播磨――


 毛利軍が上陸した英賀は、官兵衛がいる姫路からごく近い。わずか二里(八キロ)ほど南方の海浜で、毛利方の三木氏が篭る小城がある。今回の毛利の軍事行動は、この三木氏が毛利軍を呼び寄せた、とも言えるであろう。

 毛利氏侵攻の報はたちまち播州一円に広まり、豪族たちは深刻に動揺した。織田に従属を表明してしまったということもあり、報復のための軍事行動かと思ったのである。


(いよいよ毛利が播磨を取りに来たか)


 と思えば、背が凍るような恐怖を覚えざるを得ない。

 播磨の小豪族たちから見れば、毛利氏が送り込んだ五千という軍勢は、単位としてよほど大きかった。播磨最大の勢力である別所氏でさえ五、六千の動員力しかもっておらず、村落に砦を構える小豪族たちの多くはそれぞれ二、三百の人数を集めるのが精一杯なのである。


 官兵衛は先見明識に卓越した男だが、まさか毛利がここまで素早く、しかも激しい手を打ってくるとは予想していなかったであろう。それ以上に仰天したのは、小寺氏当主の小寺政職まさもとであった。政職は官兵衛に説かれるままに織田加担を決めたが、これほど早く毛利から報復されようとは思ってもみなかったのである。

 この小寺政職まさもとは、西播磨において小寺氏の勢力を大いに伸ばした人物で、官兵衛の祖父を在野から登用し、官兵衛の父を小寺家の一番家老に抜擢するなど人材を見る目とそれを用いる器量があり、自分の能力の限界をよく弁えていたという点で暗愚というほどではなかったが、この大乱世を渡ってゆくには物事に対する果断さに欠け、優柔不断で肝の据わらぬ殿様であったらしい。


「我が家一手で毛利を支えるなぞとてもできぬ。織田からの後詰めはないのか?」


 哀れなほどに狼狽し、織田に味方したことを後悔している風であった。

 播磨の諸勢力は大毛利家と事を構えたいとはまったく思わず、自分からこれに敵対しようとする者などは誰もいない。信長は摂津にいるが本願寺と戦っている最中だから、これに援軍を頼んだところで到着は遥か先になるであろう。つまるところ小寺氏は孤立無援で毛利の大軍と戦わねばならないわけで、政職まさもとが不安がるのも当然ではあった。強きに靡くというのがこの時代の小豪族の当然の処世であり、こういう場面ではとりあえず毛利に恭順してしまおうと考える方がむしろ自然なのである。


 軍略家としての官兵衛の凄まじさは、この状況で、


(我ら一手で毛利に勝ってやろう)


 と決意したところであろう。その自信がどこから湧いて出たのか、客観情勢から考えれば不思議なほどである。


「今こそが、御当家の弓矢の名誉を天下に響かせる好機ではござらんか」


 官兵衛は言葉を尽くして主君を励まし、物見をやって調べた敵情を詳しく説明し、小寺が取るべき軍略を明快に示した。


「敵は五千もの大軍。味方の小勢を考えれば、まともに戦っても勝ち目はござりませぬ。この際、敵の不意を襲うにしかず」


 官兵衛は、守勢に回るよりもむしろ攻勢に出るべきだと思った。城を包囲され、篭城戦になってしまえば、援軍の当てがない小寺氏とすれば負けるのを待つようなもので、どうにもならない。まして時間を掛ければ毛利氏の従属大名である西隣・備前の宇喜多氏までが出張って来ぬとも限らず、毛利勢の武威が宣伝されれば日和見している周囲の豪族たちが一気に毛利氏側に傾き、これに加勢し始める怖れさえあった。そうなれば小寺氏は袋叩きにされ、滅び去るほか道はない。


(時をおけばそれだけ我が方は不利になる。攻めるとすれば、敵が上陸した直後の今しかあるまい・・・・)


 毛利軍は、自分たちの大兵力におごりがあるであろう。寡兵の小寺は篭城するほか選択肢はなく、大軍の毛利に野戦を挑んで来るはずがないと思っているに違いない。まして二百キロの海路を船に揺られ続けていた兵たちは疲労してもいるであろう。敵の攻撃態勢が整わぬうちにこれを奇襲し、痛撃を与えるのが最善の策であると思った。


「必ず勝てます。それがしに万事お任せあれ」


 小寺政職から軍事の一任を取り付けた官兵衛は、小寺本拠の御着城から姫路城に戻り、急いで戦の準備を整えた。しかし、御着城にも姫路城にも守備の人数を配らねばならず、動かせるのはせいぜい一千ほどに過ぎない。

 官兵衛はその一千を率いて夜陰に紛れて城を出陣し、隠密行動して英賀の小城の周辺に布陣する毛利の軍勢に忍び寄った。

 黎明れいめいの薄暗がりの中、


「御当家の興亡はこの一戦にあるぞ! 敵の首は討ち捨てにせよ!」


 官兵衛は鋭く命じ、敵陣に向けて采配を振った。

 揮下の将兵たちは勇躍し、闇を裂くような勢いで駆け出した。


 毛利軍には、やはり油断があったのであろう。まさか自分たちが襲われる立場になるとは思っておらず、不寝番ねずばんを除けばほとんどの者が鎧もつけずに寝入っており、轟雷のような突然の銃声にその眠りを破られた軍兵たちは、たちまち大混乱を起こした。朝霧が立った夜明け前の辺りはまだ数m先の人間の姿さえ判然としない。そういう状況で不意の襲撃を受ければ、風に揺れる木々の枝や下草までが敵影に見え、敵・味方の判断なぞはまったくつかなくなるのである。


 官兵衛が薫陶した小寺勢は魔物のように薄闇の中を跳梁ちょうりょうし、至近からさんざんに銃撃し、あるいは弓を射かけて毛利軍を怯ませ、そのまま敵陣に駆け入り、敵兵を手当たり次第に切り捨て、突き捨てた。毛利の軍兵たちの狼狽ぶりは哀れなばかりで、これをほとんど一方的に斬り散らした小寺勢は、敵に反撃する暇さえ与えず退がねの音に合わせてさっと兵を引いた。

 このかねが、さらに合図になっている。

 官兵衛は付近の百姓たちを千人ほども集め、これに無数の紙旗とのぼり、竹槍などを持たせ、背後の丘に控えさせていた。彼らが合図に合わせて一斉に立ち、陣鼓じんこをはげしく叩き、陣貝かいを吹きたて、轟くような武者押しの声を上げたから、突如として湧き上がったそれらの音響が、視界の利かぬ毛利の軍兵たちにいかにも大軍の後詰めが迫っているという恐怖を与え、その士気を決定的に挫いた。

 毛利軍はほとんど恐慌状態に陥り、まず雑兵たちがばらばらと崩れ、英賀の浜へと向けて逃げ出した。こうなれば、どれほど統率に優れた将であってもこれを押し留めることはできない。兵と共に将たちも逃げざるを得ず、全軍が算を乱して壊走した。

 官兵衛は二度駆けしてこれを追撃し、小気味良いほどの勝ちを収めたのである。


 緒戦で土をつけられたとはいえ、毛利軍にはまだ十分な余力があった。

 しかし、実際問題として播磨は政情がまだ不安定で、豪族たちは織田と毛利の間で揺れ、去就に迷っていた。つまり、播磨で誰が敵に回り、誰が味方になるかが毛利軍の将たちにしても判然とせず、そのことに大きな不安があった。強者に靡くというのは豪族たちの習性のようなもので、毛利軍が小寺氏を一蹴してその武威を見せ付ければ、播磨の政情はそれで固まる可能性もあった。そういう見込みで毛利軍は播磨に乗り込んできたわけだが、緒戦で無残に負けてしまったことで、そのプランは崩壊したと言わざるを得ない。

 毛利軍は強大だが、一国の豪族たちが軒並み敵に回るようなら、五千ほどの兵力ではさすがにかなわない。播磨の地理・地勢に不案内なこともあり、この地に孤軍のままあくまで留まり、大損害を覚悟してまで小寺氏を滅ぼそうとするほどの性根は持っていなかったらしい。彼らは浜に待機させておいた軍船に乗り、そのままその日のうちに海に向かって去っていった。

 官兵衛がこういう毛利側の事情までを読み切っていたかどうかまでは解らないが、いずれにせよこの戦は、機先を制した官兵衛の完勝と言うほかない。


 この勝報は、摂津で本願寺と対陣している信長の元へすぐさま伝えられた。

 西播磨の一勢力に過ぎない小寺氏が、あの中国王・毛利氏の大軍を一手で退けるというのは、なんとも痛快な話である。


「官兵衛め、やるものよ」


 戦勝報告の書状は小寺政職の名で書かれていたが、この勝利が官兵衛の働きによるものであると信長はすぐさま見抜き、上機嫌でその功を褒めた。

 まさにこの時期の物として、


「――官兵衛かんべえのじょう、別して精を入るるの旨、然るべきように心得、申し聞かすべく候なり」


 という荒木村重に宛てた信長の手紙が残っている。

 官兵衛がさらに精勤に励むよう発破をかけてやってくれ、といった意味だが、特に官兵衛の名を挙げているところに信長の信頼と期待が表れていると言えるであろう。


 この戦勝の話は、信長と共に摂津にいる藤吉朗の耳にも当然ながら届いている。

 書状を持ってやって来た官兵衛の弟から戦の詳細を聞いた藤吉朗は、官兵衛の度胸の良さとその武略に大いに感心した。


「わしの目に狂いはなかったわ」


 藤吉朗は上機嫌で、官兵衛の武略を口を極めて褒めた。


「確かに、これしかない、という勝ち方でしたね」


 半兵衛も、そういう表現で官兵衛の軍略の見事さを認めた。


「ただの口舌の徒、というわけではないようじゃな・・・・」


 蜂須賀小六や前野将右衛門らは官兵衛と直接逢ったことがなかったが、この話を聞くにおよび、それまでの認識を大いに改めたようであった。


「この戦勝は、結果だけを見れば二、三百の敵を討ち減らし、毛利を播磨から追い払ったというに過ぎませんが、そのことが持つ意味は非常なまでに大きい。官兵衛殿はこの上なき大手柄を挙げたと申すべきでしょうね」


 この幸先の良い勝利は、織田と毛利の最初の直接対決で敵の出鼻を挫いたということはもちろんだが、それ以上に毛利の大軍を播磨から追い出したということに大きな価値があった。先述したことだが、毛利軍が小寺氏を滅ぼしてその武威を見せつけ、播磨で長々と滞陣すれば、そのことによって播磨の豪族たちが毛利に靡いてしまう可能性が大いにあったのである。

 少なくとも表面上、播磨は今のところ織田の属領であり、播磨の豪族たちは対毛利戦の先鋒の駒という位置づけである。彼らが揃って旗色を毛利に変えてしまえば、それは信長にとって国をひとつ失うことと同義であり、織田家の中国経略にとって巨大な退歩になっていたであろう。官兵衛の勝利はそれを未然に防いだという意味で価値が大きく、だからこそ信長の喜びも大きかったのだ。


「播磨にかの仁がおってくれたことは、我らにとってまさに天佑てんゆう――」


 半兵衛がこれほど他人を激賞することはかつてない。


「我らも、何としても官兵衛殿の働きと期待に応えるべきでしょう」


 織田家による播磨侵攻を一刻も早く始めるべきである、ということを、半兵衛はこの夜、珍しく熱心に主張した。


 半兵衛が主張したように、この時期に織田軍が播磨に軍勢を入れておれば、織田の中国征伐はよほど違った形になっていたであろう。しかし、様々な事情から中国派兵は延び延びになり、このときからさらに一年半もの時を待たねばならなくなる。

 その一年半の間に、毛利氏は播磨への影響力を着々と増大させてゆき、藤吉朗が信長から中国探題に正式に任命され、ようやく播磨に兵を入れた頃には、播磨の勢力地図はほとんど毛利側に傾いてしまっているのだが、このあたりのことはもう少し先で触れることにしよう。



 さて――


 大阪 石山の包囲環を完成させ、守備軍の配置を終えた信長は、六月六日に摂津を去り、諸国から動員した軍勢にもいったん暇を出した。


 安土に帰った信長は、建築途上の安土城の築城に熱中した。『信長公記』によれば、尾張・美濃・伊勢・三河・越後・若狭・五畿内の諸侍を動員し、京都・奈良・堺の大工やもろもろの職人を召し寄せ、安土に住まわせて作業に当たらせたという。普請奉行の丹羽長秀はもちろん、さしあたって軍務がない藤吉朗、滝川一益らの軍勢と領民も大動員し、普請を急がせた。

 急峻な安土山の山肌を削ってくるわの造成工事をし、付近の観音寺山、長命寺山、長光寺山などから巨石を切り出し、数千人の人夫をもってそれを安土山に引き上げ、近江 坂本の穴太衆あのうしゅうに命じて石垣を積ませた。また、山裾の森を切り払い、琵琶湖を埋め立てるなどして平地を広げ、武家屋敷と城下町も同時に作らせている。それらの様子は、


「昼といわず夜といわず、山も谷も動くばかりの騒ぎであった」


 というから、昼夜ぶっ通しで作業をさせたのであろう。

 安土は数万人の人夫と大工、職人などで溢れ、切り出した石や木材、資材、兵糧などを運ぶ荷駄の列で近江路は常にごったがえしていた。

 小一郎も、この時期、二度ばかり安土を訪れている。羽柴勢の人々と領国の人夫たちが食う兵糧を運ぶついでに、藤吉朗に内治や財政などに関する様々な報告をし、重要案件に対する決済を得たり指示を仰いだりするためである。


「それにしても、でかい・・・・! さすがに天下様の城でござりまするなぁ」


 近習として小一郎の傍らにある藤堂とうどう与右衛門よえもんは、城作りに強い関心があるらしく安土の造成工事の様を見て目を輝かせ、仕事の合間に建築現場を飛び回っている。


「上様は、なんでもあの安土の山上に、七層の楼閣をお作りになるそうじゃ」


 小一郎が教えてやると、


「七層!」


 与右衛門は頬を紅潮させた。


「近頃は山城は流行らぬなぞと申しますが、なんの、あの山頂に七層の大天守が輝けば、安土さまのご威光は見る者を圧倒しましょう。城というのは、人の度肝を抜くようでなければ――攻めてもとても落とせぬと思わせるようでなければ――」


 一人納得するようにうんうんと頷いている。


 安土城はド派手さと奇抜さを好む信長の独創をふんだんに取り入れた革新的な城で、城郭史という側面から見ても中世の城郭様式からはかけ離れた部分が多い。たとえば本丸部分に高楼を建て、それを初めて天守と名づけたのは多聞山城を築いた松永久秀だと言われているが、信長はこの様式を採用し、七層もの大天守を築き上げ、天守閣の楼上に金の鯱を置いたり、金箔を張った瓦で屋根をくなど、天下人の圧倒的な福威を天に向かって高らかに誇示しようとした。近世城郭のスタンダードと言えるこれらの様式はこの安土城から始まったと言ってよく、その意味で小一郎たちは、城郭史における中世と近世の転換点にまさに身を置いているのである。

 そこにある種の興奮を覚えることができるのは、この与右衛門という男の明敏さと博識の表れと言うべきかもしれない。


「お前に百人ばかり人数をつけてやるで、このまま安土に残って殿の手伝いをしてみんか。実地で城作りを学ぶというのも、先々無駄にゃぁなるまい」


 小一郎が提案すると、与右衛門は喜び勇んでそれを受けた。

 与右衛門――藤堂高虎は、後に築城の名人とまで称された男だが、もちろん、初めから名人だったわけではないであろう。縄張りの張り方にせよ石垣の積み方にせよ、この安土城の普請に学ぶところが大きかったに違いない。


 築城術に関しては一例に過ぎないが、藤堂高虎の多彩な才能を見出し、それを育てたのは、あるいは小一郎であったと言ってもそう的外れではないかもしれない。



 そうして普請が続く安土に、七月十六日、驚くべき凶報が届けられた。

 去る十五日、毛利氏傘下の八百隻の大船団が突如大阪湾に現れ、木津川河口で織田水軍を撃破し、膨大な量の兵糧を本願寺に運び込んだというのである。


 毛利方の水軍というのは、源平以来の瀬戸内海賊である。複雑な潮が走る瀬戸内海を庭のように駆け回る彼らは水上の駆け引きに習熟し切っており、軽船をもって織田方を翻弄し、焙烙ほうろく火矢びやと呼ばれる焼夷手榴弾を用いて三百隻の織田水軍を焼き払った。急造、しかも過少の織田水軍はまったく相手にならず、ほとんど一隻残らず壊滅し、千余人が討たれ、あるいは溺死したらしい。


 信長は激怒し、自ら出陣すると息巻いたが、その頃にはすでに毛利水軍は瀬戸内海に去っており、大阪には影さえ残っていない。神出鬼没の水軍の効用をこれほど見せ付けられた敗報はなく、


(毛利は強い)


 ということを、世間に鮮烈に印象付ける事件であった。


 このことによって諸国の反織田勢力は再び息を吹き返したようであり、ことに本願寺はその気炎をさらに燃え立たせた。




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