第72話 慈父と鬼神
話は戻って再び天正四年(1576)早春。
一日、長浜城で留守を守る小一郎の元に、安土から使者が来るということがあった。
藤吉朗はここ一月ばかり長浜を留守にしている。羽柴勢の半数と領内から募った人夫三千人を引き連れて、安土城の普請の手伝いに出ていたのである。安土からの使者といえば当然藤吉朗からのものだと思ったのだが、取り次いだ小姓の大谷紀之介の話では、これが上使であるという。
上使という以上、信長からの使者であることは言うまでもない。
(なんぞあったか・・・・?)
藤吉朗が安土にあるにも関わらず、信長の使者がわざわざ長浜に来るというのは、普通は考えにくい。相手が相手であるだけに、不安がかすかに脳裏をよぎった。
「上使とはどなたか?」
「大津伝十郎さま、堀久太郎さまでござりまする」
両者共、まだ二十代と若いが代表的な信長の近習で、そのお気に入りと言っていい。近習というのは常に主君の周りに侍って身の回りの世話や秘書的な仕事をする者たちのことで、信長の人物眼によって児小姓の中から特に才を見込まれた者が抜擢される。将来、織田家の中枢に参画するであろう重臣予備軍と言ってよく、その機嫌を損ずれば信長にどんな告げ口をされぬとも限らない。
「鄭重に書院にお通しし、茶菓などをお出しして抜かりなくご接待申し上げよ。くれぐれも失礼のないようにな」
小一郎は大慌てで衣服をあらため、取るものもとりあえず書院へ出た。
二人の若者は、寛いだ姿勢で茶を飲み、菓子を口に運んだりしていたが、小一郎が現れると姿勢を整え、対座するや礼儀正しく挨拶をした。
「小一郎殿、しばらくぶりでござる」
堀 久太郎 秀政が親しげに言った。
藤吉朗も小一郎も、この堀秀政とは何かと縁が深い。
後に軍事・政事のあらゆる分野において卓越した才腕を示し、“名人 久太郎”の異名を取った堀秀政は、信長の児小姓から近習へと進み、この頃、抜擢されて北近江の坂田郡内に二万石という大名並みの領地を与えられていた。この若者は美濃の出身だが、鎌刃城に拠り坂田郡を治めていた堀二郎の堀氏とは遠祖が同族であるから、信長はそのことを考慮して堀秀政を坂田郡に置いたのかもしれない。同じく坂田郡を治める羽柴家とは領地が隣り合い、水利や山林の利権、百姓同士の境界争いなどで話し合いを持つ機会が多く、また半兵衛が織田家から羽柴家へと転籍した後、羽柴家の目付け(軍監)を兼ねて寄騎として共に働くこともあったから、小一郎もこの謙虚で思慮深い若者とは何度も顔を合わせている。
「上様は、近頃はご機嫌いかがでござりまするかな」
時候の挨拶代わりに、小一郎が尋ねた。
「上様」というのは本来、征夷大将軍に対する呼び方だが、信長は昨年、武家の最高ポストである右近衛大将に就いたから、権威の点でそれに匹敵している。以来、織田家では信長を「上様」と尊称するようになっている。
「左様。こう申しては憚りながら、安土に移られてよりますます心気溌剌、一段若やがれたようにお見受け致しまする。普請場にも毎日のように立たれ、大工や人夫の働き振りに対する督戦もそれはご熱心で・・・・」
京で将軍御所の造営に陣頭指揮を執った時のように、藤杖を右手に普請場を忙しく歩き回る信長の姿が目に浮かぶようである。
雑談もそこそこに、
「役儀により、席をあらためます」
正使である大津伝十郎がそう断り、あらためて上座の席に着いた。相手は若くとも上使であるから、小一郎は下座で平伏せねばならない。
威儀を正した若者が、持参の文箱を丁寧に開き、
「此度の趣きは、上様よりお手紙をお預かりし、ご当家の北の方(正妻・寧々)へお届けにあがりましたる次第――」
と言ったから、小一郎は内心で驚いた。大事の使者ならばともかく、お気に入りの近習を飛脚代わりに使うとなると、よほど重大な手紙であるのかもしれない。
「奥向きのことでもあり、さしあたりご当家の老臣筆頭たる小一郎殿に、お取次ぎをお願い申したい」
「卒爾ながら――上様からのこのお手紙の委細は、我が兄・筑前守は承知でござろうか?」
「はて。それはそれがしは存じませぬが――」
そこで正・副二人の使者は目配せでもするようにわずかに視線を合わせ、笑みを噛み殺したような微妙な表情をした。何事かを隠しているようでもあり、不審と言えば不審だが、二人の表情を見る限り、そう深刻な事態でもなさそうである。
「ともあれ、北の方のお言葉を上様にお伝えするのが我らの役儀でござるゆえ、まず北の方にご披見願いたい」
そう言われれば、陪臣の小一郎などにそれを突っぱねるような権限はない。
「承知つかまつりましてござりまする。されば、奥の都合も伺って来ねばならず、しばしお時間を頂戴いたしたく存じまする」
小一郎はとりあえず寧々の元に侍女を走らせ、使者訪問の用向きを伝えさせた。
この頃、表と奥は、後の江戸期のような厳密な区別はなかったらしい。戦時はもちろん、平時でも女が表に出るようなことはあったようだし、奥も厳密に男子禁制というほどやかましくはなかった。とはいえ、藤吉朗が不在の時に他人を城主の家族が暮らす領域に入れることはさすがに憚られる。
侍女から話を聞き、寧々は軽々と表に渡って来た。
「あぁ、大津さま、堀さま、先日は――」
と、婉然とした笑顔で寧々は挨拶した。
実はこの五日ほど前、寧々は城普請の陣中見舞いに安土まで出向いているのである。そのとき信長夫婦にも拝謁して挨拶し、小一郎が宰領して集めさせた多くの土産物を献上してもいた。おそらくその時、信長の傍に侍っていたこの二人とも顔を合わせたのであろう。
藤吉朗が不在の長浜城では、正妻である寧々が城主という言い方もできる。二人の使者は相応の礼をもって寧々に頭を下げ、信長の手紙を差し出した。
寧々はそれを丁寧に受け取り、その場で開いて読み始めたのだが、ほどなくプッと吹き出し、肩を震わせて必死に笑いをこらえるような所作をした。
(・・・・?)
寧々の姿を見た使者二人も同様に口元をうずうずとさせ、笑いを我慢している風である。
小一郎だけが事情が解らず、訝っていると、
「上様のお優しいお心遣い、心に沁みましてございます。上様は、夫をきつう折檻してくだされましたか?」
寧々はいかにも満足したという笑顔で尋ねた。
(せ、折檻!?)
小一郎は驚いたが、
「はい、それはもう――」
大津伝十郎がさもおかしそうに応じた。
「筑前殿は上様に平伏し、『恐れ入りましてござりまする』と何度も何度も平謝りに謝っておられましたぞ」
どういう顔をして良いか解らない小一郎を置き去りにして、三人は声を合わせてひとしきり笑った。
使者の二人が帰ってから詳しく聞いたところでは、寧々は安土で信長に拝謁し、藤吉朗の女癖の悪さを訴えたのだという。
石松丸が生まれてからというもの、藤吉朗はその母である南殿をこれまで以上に偏愛し、寧々に子が出来る可能性についても諦めてしまったらしい。長浜城で寧々と共に暮らしているにも関わらず夜は別の女の局(部屋)で寝ることが多く、寧々は離れて暮らしていたこれまでとは別種の寂しさと屈辱に耐えねばならなくなっていた。羽柴家のためと覚悟を決めてはいたが、実際に複数の側室たちと奥で共に暮らすようになるとその不愉快さは想像以上であったし、何より寧々が許せなかったのは、愛児と愛妾に対する情に引きずられた藤吉朗が、羽柴家の主婦としての寧々の尊厳をともすればなおざりにするような気配を見せ始めたことであった。
寧々は、極貧時代から藤吉朗を支え続けてきたまさに糟糠の妻である。今日の羽柴家があるのも何割かは寧々の縁の下の苦労のお陰であり、その寧々から見れば藤吉朗が大名になってから抱えた側室などはただ性を奉仕するための女奉公人というに過ぎない。藤吉朗がどれほど手を広げ、何人の側室を持とうが、羽柴家の主婦といえばただ寧々があるのみであり、藤吉朗は夫として、寧々の立場と自尊心に対して手厚い配慮をせねばならぬ義務があるであろう。
武家の慣習において、たとえ側室が子を生んでも正妻の座は別格で、側室はどこまでも女奉公人であった。大名家の後宮の主宰者はあくまで正妻であり、夫が愛児や愛妾への情に溺れてその順逆を間違えれば家が乱れる。側室が生んだ子はすべて「羽柴家の子」であらねばならず、子たちの法的な母親は寧々でなければならないのである。
武家の育ちである寧々はその点が最初から解っており、弁えてもいたが、百姓あがりの藤吉朗や小一郎は、実感としてそういう気分が薄かったことは否めない。
(このあたりで一度きつう言うておかねば、あの調子の良い夫はどこまでも付け上がって勘違いをせぬとも限らないわ・・・・)
と寧々が思い、信長にその「教育」を依頼したのは、むしろ卓見と言うべきであったかもしれない。
寧々は、信長直筆のその手紙を小一郎に見せてくれた。これまで軍令書に接することはあったが、その私的な手紙を見るのは小一郎にしても初めてである。
女性への手紙であるためか、ひらがな文で書かれていた。
まず、
「仰せのごとく、こんどは、この地へ初めて越し、見参に入り、祝著に候。殊に土産色々うつくしさ、中々目にもあまり、筆にも尽くしがたく候。祝儀ばかりに、此の方よりも、何やらんと思ひ候へば、其のほうより見事なる物もたせ候間、別に心ざしなくのまま、まづまづ此のたびは、とどめまいらせ候。かさねて参るの時、それに従うべく候」
とある。
寧々が安土に見舞いに訪れてくれ、逢えたことを喜び、寧々が贈ってくれた土産物が素晴らしかったことを褒め、その礼にこちらからも何かを遣わすべきであったが、もらった土産があまりに素晴らしかったから、間に合わせの物で済ませるのはわざとやめた。今度安土に来てくれた時に、あらためて返礼しよう、というような意味である。
「中んづく、それの眉目ぶり、かたちまで、いつぞや見まいらせ候折ふしよりは、十のもの廿ほども、見あげ候。藤吉朗連々不足の旨申すのよし、言語道断、曲事に候か。何方をたづね候とも、それさまほどのは、又二たび、かの剥げ鼠、相もとめがたき間、これより以後は、身持を陽快になし、いかにも、かみさまなりに、おもおもしく、悋気などに立ち入り候ては、然るべからず候」
と続く。
寧々の女ぶりが、いつぞや見た時より倍ほども上がっていた。これほどの女房殿を持ちながら、藤吉朗が不足を言うなどは言語道断の大間違いだと、信長は寧々のために憤慨してくれている。どこを訪ねたところで、お前ほどの女房殿は、あの「剥げ鼠」には二度と手に入らないのだから、お前もこれからはこんな詰まらぬことは気にせずにもっと陽気に、いかにも羽柴家の主婦らしく重々しく振る舞い、ヤキモチなどを妬いてはならぬ、と寧々を諌めてもいる。
「ただし、をんなの役にて候間、申すものの申さぬなりに、もてなし然るべく候。なを、文躰に、羽柴には意見こひ願うものなり」
と結ばれている。
女の役目として、言いたいこともそれなりに慎み、よく藤吉朗の面倒を見てやらねばならない。この手紙に書いた通り、お前からも藤吉朗に意見してやってくれ、というような意味である。
宛名は「藤きちらうをんなども」、署名は「のぶ」となっており、花押(サイン)が添えられていた。
現存する信長の手紙の中でも、これはもっとも傑作と言えるであろう。
比叡山で、伊勢 長島で、越前で――無辜の民を万の単位で殺しまくった信長の残忍酷薄さを知っている者からすれば、これが同一人物が書く手紙であろうかと目を疑いたくなるが、信長は間違いなく、この種の繊細さと人情味とを備えていた。敵対するなら相手が鬼でも許さないという峻烈さと、忠良な家来なら鼠でもこれを寵愛するという優しさを同居させているところに、信長という男の面白さがあると言うべきであろう。ただ酷薄非道なだけの大将であれば、織田家の家臣たちにしても信長についてゆこうとは思わなかったに違いない。
いずれにせよ、小一郎は、女人の心をここまで気遣う慈父のような信長の姿に一驚した。
(あの信長さまが、これほど思いやりに満ちたお優しい手紙を――)
と思うと同時に、寧々に対しては、
(女っちゅうのは怒らせると何を仕出かすか解らんな・・・・)
という感想を持ったが、無論、これは口にはしない。
「しっかし、兄者を『剥げ鼠』とは・・・・」
苦笑せざるを得ない。
この喩えはあんまりだが、確かに藤吉朗は、長く戦場を往来して兜をかぶり続けていたせいか最近は頭頂部が禿げてきており、皺深い小さい顔はなるほど鼠にも似ている。
「ほんとに上様は、人の仇名をつける名人でございますね」
溜飲を下げた寧々は、実に朗らかに笑った。
「あの剥げ鼠殿も、これで少しは懲りてくれるでしょう」
さらに一月ほどして長浜に帰って来た藤吉朗は、この「手紙」の一件にはあらためて触れなかったが、信長の叱責を受けて深く反省はしたらしい。その女癖の悪さは生涯ついに治らなかったものの、寧々に接する態度には明らかな変化が表れた。寧々の主婦としての尊厳に過剰なまでに気を使うようになり、見ている者が恥ずかしくなってしまうような優しさと愛情演技を惜しみなく注ぐようになったのである。
(災い転じて――というようなモンやな。義姉上をお大事にすることは、兄者のためでもあるわい)
と思う一方、
(義姉上のお頭の切れというのは、まったく侮れんな・・・・)
と後々まで小一郎は肝に銘じたが、いずれにせよ、このときから羽柴家では寧々の主婦としての権勢が確立され、奥の秩序が非常に整ったものとなった。
さて――
備後の鞆に移った足利義昭の働きかけによって、本願寺と毛利氏の同盟が成った、ということはすでに触れた。
これに力を得た本願寺門主・顕如は、長期篭城の準備が整ったこの天正四年春、再び織田家に対して公然と兵を挙げた。
信長も、本願寺との和睦が恒常的なものだとは最初から考えていない。四月十四日、荒木村重、細川藤孝、明智光秀、原田直政の四将を派遣し、摂津石山に攻め寄せた。
本願寺の本拠である石山は、後に大阪城が築かれる場所で、上町台地というテーブル型の台地の北端にあり、西は海、北と東は淀川、木津川などの本・支流が網の目のように流れる低湿地で、南方こそ開けた台地になっているが、天然の要害と言っていい。信長は、北西の野田、南方の天王寺、東方の守口、森河内などに付け城を築いて石山を圧迫していたが、石山の西方は大阪湾であり、木津川を船で行き来すれば瀬戸内海へ自由に通行できる状態で、包囲はまったく不十分であった。中国の毛利氏は戦国最強の水軍力を持っており、瀬戸内海の制海権を握っていたから、その気になれば兵糧や兵員をいくらでも本願寺に運び込むことができるのである。
本願寺と毛利氏の同盟を重く見た信長は、石山の地を完全に孤立させるために、大阪湾の木津川河口付近を封鎖しようとし、この地域にいくつも置かれた本願寺の砦を攻略するよう、石山南方の天王寺砦を守っていた原田直政に命じた。
戦略としてはまったく正しいが、本願寺が持つ武力の強大さを、信長が過小評価していたということは否めない。
五月三日の早朝、原田直政は、和泉、大和、山城の国衆、紀州根来寺の鉄砲衆ら八千ほどの軍勢を率い、信長の命に従って木津に進撃したが、本願寺側の猛烈な反撃に遭って全軍総崩れとなり、この激戦の中で大将の原田直政までもが討ち死にしてしまうのである。
石山の南方守備軍が、わずか数時間の戦闘で壊滅してしまったことは織田方にとっても衝撃であったろう。石山東方に布陣していた明智光秀が、いち早く天王寺砦に駆け入ってどうにか戦線を立て直したから全線にわたる崩壊は免れたが、勢いづく本願寺勢は一気に天王寺砦をも奪おうと勇み立ち、一万五千余の軍勢で砦を包囲し、三千ほどに過ぎない明智勢に猛攻を掛けた。
この敗報と救援要請を、その日の夜に信長は京で受け取っている。すぐさま領国の武士団に大動員を掛け、翌四日の昼、軍令書を乗せた早船が長浜まで漕ぎ着いた。
「摂津に出陣じゃ!」
藤吉朗は叫び、ただちに陣触れの陣貝を吹きたてさせた。
「わしは船ですぐさま京へ向かう。出せるだけの船を出し、乗れるだけの兵を乗せよ。軍兵の支度が整い次第、彦右衛門(蜂須賀小六)と半兵衛殿は二千を率いて陸路を京へ駆けよ。兵糧荷駄は、弥兵衛(義弟の浅野長政)が宰領してさしあたり一月分を京へ届けよ。長浜の留守は小一郎に任す」
それだけ命じると、藤吉朗は自ら具足をつけ、慌ただしく船に飛び乗った。
藤吉朗は手回りの兵と共に、翌五日の昼には京に入った。
織田軍は陸続と京に集結しつつあったが、いかんせん急な動員であるため、主立つ武将が集まっても肝心の兵員が京まで到着しない。
「砦はあと数日持ちこたえることさえ難しく、一刻も早い後詰めを、と矢のような催促でござりまする」
天王寺砦の苦戦の報と泣くような救援要請が頻々と届けられるなか、ついに堪忍袋の緒を切らした信長は、具足もつけず湯帷子ひとえの姿で馬に飛び乗り、戦場目指して一散に駆け出した。慌ててこれに従う者、わずかに百騎ばかりであったという。とても右大将の出陣風景ではない。
河内の若江まで四十キロを駆け通した信長は、石山東方守備軍と合流して兵を整え、そのまま最前線に飛び出して自ら陣頭指揮を執った。
従った武将は、藤吉朗はもちろん、佐久間信盛、細川藤孝、松永久秀、滝川一益、蜂屋頼隆、丹羽長秀、稲葉一鉄、氏家直通、伊賀定治らである。これだけの武将が揃いながら、率いた軍勢がわずか三千だったというから、それぞれの武将が連れて来た手回りの兵のみといった格好で、戦場における主戦力というべき足軽・雑兵はわずかしか含まれていなかった。
この戦場での信長の戦いぶりは、ほとんど常軌を逸している。
本願寺勢は名高い紀州雑賀の鉄砲衆をその主戦力としており、千挺をはるかに越える鉄砲で銃弾を雨霰と降らせて織田軍をめった打ちにしたが、信長は具足もつけずに足軽に混じって最前線で駆け働き、声を励まして兵たちを鼓舞した。信長は足に銃弾さえ浴び、薄手を負ったが、それでも怯まず、引き下がろうともせず、最前線で指揮を執り続けたから、信長の馬廻り(親衛隊)が狂ったように必死になり、それに引きずられるように周囲の軍兵たちも生死を忘れて働き、ついにはわずか三千で一万五千の本願寺勢の包囲環を突き破り、天王寺砦に駆け入ることができた。
信長という男は、捨て身ともいえる奇襲作戦で奇跡的な勝ちを拾ったあの『桶狭間』以来、無理な戦はできる限り避け、必ず勝てるという算段のつかない合戦は自ら挑まなかったが、このときばかりは違っていた。
砦の明智勢を吸収した織田軍は、六千ほどにまでは増えている。それでも万を越える敵に対しては過少に過ぎると言わざるを得ず、重臣たちは後続軍が到着するまで自重して防戦することを主張した。
しかし、信長は重臣たちの制止もきかず、砦から打って出ることを選んだ。信長の気迫が乗り移ったとしか思えない織田軍の猛攻は凄まじく、たちまち敵を突き崩し、逃げるを追い打って石山の城門近くまで押し込め、二千七百余の首を挙げる記録的な大勝利を収めた。
(おぉ、おぉ、上様のなんと凄まじいことよ・・・・!)
百戦錬磨というべき藤吉朗でさえ、何かに憑かれたような信長の戦いぶりを間近に見れば舌を巻かずにはおれなかったであろう。
俗に「戦の勝敗は兵の寡多ではなく、大将で決まる」と言うが、このときの信長の気迫と勢いはまさに鬼神もかくやと言うべきで、これに当たり得るものは世になかったかもしれない。




