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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第70話 小寺 官兵衛 孝高(1)

 ここで、そろそろ播州ばんしゅうの話をせねばならない。


 播州――播磨はりま国は、現在の兵庫県。近畿と中国地方を繋ぐ瀬戸内海側の玄関口であり、竹中 半兵衛 重治がその生涯を終えた地でもある。


 播州は、中国地方を山陰と山陽に分かつ背骨のような中国山地を北に戴き、南方は瀬戸内海に向かって肥沃な播磨平野が広がっている。平野のあちこちに無数の丘陵が隆起し、野を裁断するように加古川、市川、揖保いぼ川、千種川などの大河とその支流が南北に流れ、海辺に沿って中国街道が東西に走り、街道筋のそれぞれの川の河口付近は大きな集落が古くから栄えていた。

 この時代、播州には統一大名がない。

 播磨の守護は赤松氏であったが、下克上の風潮に煽られて実権を失い、さらに西隣・備前びぜん浦上うらかみ氏との戦いに敗れて衰微し、今は一小大名の地位に甘んじていたのである。

 守護が力を失ったことによって、播磨では大小三十六家の豪族が独立状態で村落村落に割拠し、互いに連携したり敵対したりしながら争い合うことになった。この播磨の豪族たちの中で最大の勢力を持っていたのが、東播磨の三木城(兵庫県三木市)にる名族・別所べっしょ氏である。

 別所氏は、守護・赤松氏の一族で播磨守護代を務め、播州八郡の小豪族を傘下に収める大勢力であった。二十万石ほどの実力を持っていたというから、ちょうど湖北の羽柴家と同程度の動員力があったと考えて良い。


 永禄から元亀年間にかけて、この別所氏は、東隣・摂津の三好三人衆から常に領地を脅かされていた。別所氏の当主であった別所安治やすはるは、三好氏に対抗するために信長が上洛するやいち早く織田家によしみを通じた。敵の敵は、すなわち味方というわけである。三好氏の敵であった織田氏は、別所氏にすれば心強い味方であった。

 これ以後、別所氏は織田傘下となっており、信長が将軍御所を作るために諸国に号令を発したときもこれに協力して人夫を出し、石を運んだりしているし、「六条合戦」に援軍を派兵するなど、信長の動員令に従って畿内にたびたび出兵していた。


 播磨最大の勢力である別所氏が織田方であったため、播磨の豪族たちは別所氏に敵対することを恐れて織田方を表明する者が多かった。播磨は摂津せっつの西隣であり、地理的に京からごく近いから、織田家の強大さや信長の恐ろしさはよく伝わっていたのである。

 天正三年の十月二十日、守護の赤松氏、御着ごちゃくの小寺氏など播磨の主立つ豪族たちは、別所氏の若き新当主・別所長治ながはると共に馬を並べて上洛し、信長に拝謁している。このことによって播磨の国衆は公式に織田家に従属したと言ってよく、播磨は織田の分国になったと見なされた。彼らは、信長が毛利征伐を発動した暁には、その先鋒となって西隣の備前に攻め込むことになるであろう。


 少なくとも信長はそう思っていたし、織田家ではそのように認識されていた。


 しかし、天正四年の初頭に足利義昭よしあき備後びんごともに移り、毛利氏を抱きこんで幕府を開き、毛利氏と織田氏の早晩の衝突が決定的になると、情勢がにわかに混迷し始めた。

 端的に言えば、このまま信長に従っておくのが正しいのか、現職将軍・義昭を奉じる毛利に味方するべきであるのか、播磨の豪族たちが迷い始めたのである。


 織田軍が上洛を果たした永禄十一年(1568)、信長は、将軍候補たる義昭を奉じて軍を進め、たちまち畿内を席巻して義昭を足利十五代将軍の座に据えた。以来、諸国の武家に権高に協力を命じる信長の権力というのは足利将軍から軍事権を委任されたという形で成り立っており、少なくとも近国の大小名たちから見れば足利幕府と織田家は一体であった。信長に従うことは足利幕府に従うことと同義であり、信長の「天下布武」は義昭の「将軍の権威」によって大義名分が保証されていたのである。

 しかし、義昭と信長が不和になり、元亀四年(天正元年)に義昭が公然と京から追放されると、強大な実力を持つ信長と、神聖な権威を持つ義昭とが対立する構図が明確になる。さらに義昭が備後のともに渡り、毛利氏を抱きこんで強大な武力を持つようになると、織田領と毛利領とに挟まれる播磨の豪族たちは、織田と毛利のどちらに就くかという問題の結論を、まさに迫られることになったわけである。


 織田家に従う方が得に決まっている――と、後世に生きる我々は当然のように思ってしまいがちだが、これはその後の歴史を知る者の安易な結果論と言わねばならないだろう。


 当時の織田氏と毛利氏の実力は、それほど大きな隔たりがあったわけではない。筆者はこの頃の織田氏の経済的実力を四〜五百万石ほどと推定しているが、毛利氏の方も、宇喜多うきた氏、山名氏などの従属大名の所領を合わせれば三百万石に近い経済力を持っていたであろうと考えている。いち早く「兵農分離」の軍政を敷いていたという点で兵の動員力に関しては織田氏が大いに勝っていたが、軍兵そのものの質は農兵中心の毛利氏の方が一枚上であったし、地理的に大陸や西洋諸国との貿易が有利な毛利氏は、たとえば鉄砲の保有数で見ても織田氏にさほど引けをとっておらず、この頃中国からの輸入に頼っていた硝石しょうせき(火薬を作るために不可欠な原料)に関しても独自の入手経路を持っていた。さらに毛利氏は瀬戸内海や日本海の海賊衆を束ねており、自他共に認める戦国最強の水軍力を保有している。


 何より毛利氏は、現職将軍・義昭を奉戴することによっていわば「官軍」的な立場にあり、このことが政治的には非常に大きかったであろう。


 織田氏と毛利氏の戦いは、信長と義昭の戦いという側面が色濃い。

 これは多少余談になるかもしれないが、足利将軍にとって、京を落ちて西国に亡命するのはお家芸のようなものであり、たとえば足利尊氏は、北畠きたばたけ顕家あきいえや楠木正成まさしげらに敗れて京を追われたが、西国に逃れて九州で力を蓄え、再び東征して京を落とし、室町幕府を開いている。そこまで時代を遡らずとも、たとえば「流れ公方」と揶揄された足利義稙よしたねは、政変によって将軍職を追われ、諸国をさすらうが、周防すおうの守護大名・大内氏を頼ってこの武力によって上洛し、敵対勢力を追い払って将軍復帰を果たしたという吉例がある。大内氏の跡を実力で相続し、西国に覇を唱えるのが毛利氏であり、義稙に義昭を重ねれば、義昭が京に返り咲いて足利幕府を復権することも決して不可能とは言えないであろう。

 少なくとも義昭はそのつもりであったし、義昭を推戴する毛利氏にもその気分は強かったに違いない。


 義昭は依然として諸国の武家に対する軍事指揮権を持っており、大げさに言えば、織田氏とその傘下の大名以外の諸国のすべての勢力が潜在的に義昭の味方であり、毛利氏の味方であった。現に、織田の領国の周囲は敵対勢力によってぐるりと包囲されたようになっており、摂津と紀州に本願寺の大勢力があり、越後ではあの上杉謙信が本願寺と同盟して信長に敵対することを公然と表明し、衰えたりとはいえ甲斐の武田氏も上杉謙信と同盟して打倒・信長に燃えている。これに、広大な中国全土を支配する毛利氏までが加わって、織田氏はいわば袋叩きにされる形勢なのである。


 播磨の豪族たちの元には、義昭からも毛利氏からも本願寺からも使者が頻々とやって来ては、諸国の新たな形勢を説き、「信長は、早晩滅ぶ」という類の未来予想図をまことしやかに囁いてゆく。ことに義昭からは、「毛利に味方し、幕府に忠を尽くせ」というような御内書が届けられる。義昭は何といっても現職の将軍であり、その影響力は計り知れないほど大きい。

 播磨の大小名たちが、


(ここは毛利にく方が賢明かもしれぬ・・・・)


 と観測したとしても不思議はなく、動揺するのも無理からぬことであったろう。


 こういう事態になったとき、大勢力の狭間の小勢力というのは、両方の勢力にそれぞれこびを売り、どちらにも良い顔をして、どちらが勝っても自家が生き残るように謀るというのが常である。播磨の豪族たちは表面上織田家に属しつつ後手では毛利氏とも手を結び、旗幟きしを鮮明にせぬままうろうろと形勢を観望し、結論を先送りにした。播磨最大の勢力である別所氏の後背を睨みながら、織田と毛利のどちらに就くのが自家にとって得であるのかを見極めようとしていた。


 このような情勢の中で、ただ一人、織田に就くことを強硬に主張し、頼まれもせぬのにそれを周囲の諸豪族に説いて回っている変わり者が、播磨にいる。御着ごちゃくの小大名・小寺氏の家老で、姫路の小城を預かる小寺官兵衛かんべえという男である。



 小寺 官兵衛 孝高よしたか――晩年の黒田如水じょすいという名の方が、通りが良いかもしれない。半兵衛の死後、藤吉朗の参謀としてその天下取りに大きな役割を果たした稀代の策謀家である。


 官兵衛、この天正四年(1576)で三十歳。

 世話焼きと言えるほどに人に親切な男で、美男子ではないが常に微笑を絶やさぬ穏やかな面貌を持ち、その穏やかさそのままに荒事を好まない。和歌の名手であった母の影響で幼い頃は詩歌に耽溺し、長じてからも詩人のような感受性を持ちつづけ、そのためか他人の心中を見抜くことには鋭いが、他方、槍を振るって敵陣を破るといった乱暴な働きは得手ではない。

 性、快活にして明朗。非常な知恵者で先見明識に富み、機を見るに敏。大局を見通して読みを誤るということがなく、天下を取った後の秀吉でさえその知略を多少怖れ、『関ヶ原』の後に天下を掌握した家康でさえその器量を幾分かは警戒し、この男に少なからぬ敬意を払った。


 この官兵衛がどういう人物であるかを知ってもらうには、官兵衛に対する藤吉朗の言動を紹介する方が、あるいは近道であるかもしれない。

 たとえば藤吉朗が豊臣秀吉となって天下を取ったとき、官兵衛は豊臣政権樹立の最大の功労者の一人であったが、褒美として官兵衛に与えられたのは、豊前ふぜんでわずか十二万石に過ぎなかった。官兵衛の働きの大きさを考えれば、たとえ五十万石を与えたとしても多すぎるということはなく、豊臣家臣の間でさえこの薄報は不思議がられた。

 このことを尋ねられた秀吉は、


「あの男に大封を与えてみよ。たちまち天下を取ってしまうわ」


 と笑って応えたという。


 また、あるとき秀吉が雑談の戯れに、


「わしの死後、次の天下を誰が取ると思うか?」


 という質問をおとぎ衆(話し相手)相手にしたことがあった。

 ある者は徳川家康を推し、ある者は毛利輝元の名を挙げ、あるいは前田利家、上杉景勝かげかつなど大身の大名たちの名が様々に出た。

 が、秀吉は首を縦に振らない。


「肝心な者を忘れておるわ」


 と笑って、官兵衛の名を挙げたという。

 お伽衆の者たちは驚き、


「お言葉ではありますが、黒田殿のあの小身代(十二万石)ではとても天下は望めますまい」


 と反論すると、秀吉は、


「小身だからとて天下が望めぬとすれば、わしはどうなる」


 と己の顔を指差して笑い、


「お前たちはあの者の知恵の凄みが解っておらぬゆえにそういうことを言うのだ。わしはこれまで様々な大敵に遭い、息も詰まるような大難に何度もぶつかり、謀事はかりごとをあれやこれやと決めかねることもあったが、そんな時にあの男に相談すると、常にたちどころに明快な策をひねり出しおった。それが、わしが苦心して考え出した策とぴったり相通じるどころか、わしの意表をつくような優れた考えを述べることさえ何度かあった。それほどの知略を持っておる上に、あの男は度胸もあり、人使いも上手く、度量広く思慮が深く、このことは天下に比類がない。もしあいつがその気になれば、わしが生きてあるうちにても、すぐさま天下を取れるであろうよ」


 とまで官兵衛の知略と器量を激賞したという。

 この挿話は『名将言行録』にあるが、たとえば『常山紀談』では秀吉が官兵衛の面前でそれに類することを言い、官兵衛に冷や汗をかかせた、ということになっている。安藤英男氏の『史伝 黒田如水』によれば、これと似た話は『古郷物語』という書物にも出ているらしいが、その内容は書物ごとに微妙に変化する。どれがその元ネタになっているのか、といった考察は研究者に任せるとしても、ともかくそれだけ人口に膾炙かいしゃし、諸人によく知られたエピソードであったのだろう。

 藤吉朗が真実、このようなことを言ったかどうかまでは解らない。言ったとすれば、座談のほんの軽口のつもりであったのか、あるいは裏にそれなりの寓意を込めたのか――これも、想像の域を出ない。しかし、それらの書物の著者が、天下人・豊臣秀吉にそういう言葉を吐かせたくなるような一種の凄みを、官兵衛という男が持っていたことはどうやら間違いがない。


 ともあれその官兵衛、播州という田舎から天下の形勢を見渡しながら、


(信長公は、いずれ天下を取るだろう。織田と毛利がぶつかれば、必ず織田が勝つ)


 と確信していたらしい。


 小寺家の重臣には、他にこれといった傑物がいない。主の小寺政職まさもとにしても定見はなく、ただまわりの豪族たちの後背だけに注意を向け、特に播磨最大の豪族である別所氏の去就に注目し、これが毛利に就くか織田に就くかを見極め、同じ方向に小寺家の舵を切ろうとしていた。日和見だが、小豪族などというものはどこもそうで、とにかく目先の安全を最優先にするのが常だし、それが賢明な身の処し方でもあった。

 官兵衛にすれば、こういう凡骨たちの煮え切らない態度が歯がゆくてならない。


(真っ先に手を上げ、大きな声を出した者が、織田の播磨における旗頭になれるではないか。小寺家が播磨で大を成すには、このときを措いてない)


 官兵衛も、戦国の武士である。天下に対する淡い憧れのようなものは、人並みに――いや、その能力を考えればおそらくは人並み以上に――抱いて生きている。戦国末期の煮詰まり始めた天下の趨勢には当然ながら強い関心を持っており、地理的な関係からも織田氏と毛利氏のそれに特に注意を払い、出来うる限り様々に情報を集めていたから、会ったこともない信長という男の天才を早い時期から見抜いていた。

 信長は、極端な能力主義者であるという。能力のある者であれば強引なまでの抜擢人事をやって氏・素性や門閥に関わらず大きな禄と権限を与え、譜代の重臣と変わらぬ重用をしているらしい。さらに信長は働き者を好み、働きの悪い者を嫌悪するとも聞く。


(そういう大将である以上、何もかも投げ打つ覚悟で織田家に馳走せねば、信長公は我らのような小家こやけを歯牙にもかけまい。逆に言えば、わしの働き次第では、小寺家が信長公の元で生き延びる道も開ける・・・・)


 と思った。

 もちろん、官兵衛にも立身に対する野望や、己の才を存分に振るってみたいというような欲はある。が、主家の小寺家をおろそかにする気持ちだけは微塵みじんも持ち合わせていなかった。官兵衛はこれだけの策士でありながらこの点だけは不思議なほどに律儀者で、このときも純粋に小寺家の将来を中心に据えてモノを考えていたし、


(小寺家が生きるも滅ぶも、わしの働き次第――)


 そう想いを決したのも、主家に対する忠誠と親切心から出ている。


 ひとたび心を固めたからには、じっとしていられる男ではない。主君・小寺政職まさもとに織田家に従うべきことを説きに説き、どちらかと言えば毛利に傾く者が多い家中の重臣たちをいちいち論破し、ついに小寺家を織田に投じさせるところまで漕ぎ着けた。

 官兵衛は、摂津の支配を信長から委ねられている荒木村重むらしげにこのことを報じ、信長への取次ぎを頼み、天正三年七月中旬――越前征伐の直前に――自ら岐阜へ赴いて信長に謁し、小寺家を売り込んだ。


 信長は、官兵衛に直に面談し、その弁舌を聞き、この男の類稀な器量をすぐさま見抜いたらしい。官兵衛をことのほか気に入った様子で、


「わしが中国に馬を出す折は、そなたを先鋒としよう。手柄を立てれば、一廉ひとかどの大名にもしてやるぞ」


 とまで言い、自分がいかに官兵衛を信頼したか、ということを表すように、愛用していた“圧切へしきり”という名刀をその場で与えた。


「わしはいま近畿にも北陸にも敵を持っておるゆえしばらくは手が離せぬが、これらの鎮定に一段落すれば、中国に馬を進めるであろう。播州のことは、以後、羽柴筑前ちくぜんに諸事相談し、同心協力して励め」


 と、信長は命じた。

 これまで播州の国衆に対する申し次ぎ(外交担当)は、地理的な事情から摂津の国主である荒木村重が担当していたが、「以後は藤吉朗にやらせる」ということを信長が公式に表明したという点において、この発言は重大であった。播州は中国地方への入り口であり、中国征伐の先鋒大将として藤吉朗を抜擢した、ということを暗に含んでいるようでもある。


 ともあれ官兵衛は、信長の言葉に従い、岐阜からの帰路に築城途中の長浜城に寄り、藤吉朗と初めて面談した。



播磨はりまの小寺――?」


 信長の近臣である富田とみだ知信とものぶ(信広とも)が、案内役として官兵衛ら小寺家の一行 十余人を引き連れて長浜にやって来たとき、藤吉朗はまだ播州に対する知識をたいして持ってはおらず、小寺という小豪族の家老の一人でしかない小寺官兵衛なる男のことも、その存在さえまったく知らなかった。

 とはいえ、上使の富田知信から詳しく話を聞いてみると、これは容易な内容ではない。信長が藤吉朗に播州の申し次ぎを命じた、ということは藤吉朗を狂喜させたし、播州の有力豪族が織田家に臣従することを公式に表明するというこの政治現象は、今後の中国経略を考えた場合、よほどに重大であった。

 藤吉朗は二の丸の仮屋敷――これは後に小一郎の屋敷になる――に官兵衛ら一行を鄭重に迎え、小一郎にこれを歓待するよう命じた。


「播州 御着ごちゃくの領主・小寺政職まさもとが家老、小寺官兵衛と申します」


 初めてその男を見た小一郎の感想は、


(なんと、まぁ、よく喋る男やなぁ・・・・)


 ということに尽きる。

 官兵衛は、挨拶もそこそこに今度の訪問の趣旨を簡潔に説明し、播磨の国情、人情、地理、豪族たちの勢力分布や婚姻関係、政治情勢などを、用意の絵図などを指さしながら息つくヒマもないほどに喋り続けた。その説明は微に入り細を穿ち、まるで百年も播州の王をやっている人間が喋っているかと思うほどに明晰な分析がなされている。

 さらに官兵衛は毛利氏による政治的圧迫を説き、毛利氏が後援する備前の宇喜多うきた氏が播州へ侵出し始めている現状を説き、その上、この播州の情勢を織田家に傾かせ、諸豪族を織田家に帰属させるための方略を延々と説いた。


(これほどの口達者――半兵衛殿にも伍するかもしれん・・・・)


 言葉の洪水に圧倒されるような気分で、小一郎は思った。


(この男の言う通りにすりゃぁ、播州はあっという間に取れるのとちゃうか・・・・)


 と思わず勘違いしてしまうような、いわば詐欺漢的な口の上手さがある。


 半兵衛の弁舌は、私観を交えず水のように滔々と客観情勢を積み重ね、それによって聞く者の正しい選択を促すというようなところがある。聞く者の選択を、半兵衛の思惑のままに操作できるとすればこれは一種の洗脳であり、まさに悪魔的な親切さと言うべきだろう。それに比べると、この男の弁舌は親切というよりむしろ煽動的であり、智者が愚者にモノを教えてやるというようなお仕着せの匂いがないでもない。


 もっとも、喋っている官兵衛にすれば、これは止むを得ない部分もあったであろう。官兵衛は舌鋒の鋭さを温容で包み隠すくらいの芸はスラスラとできる男だが、今の官兵衛は播州の一豪族の家老という立場であり、播州に対してほとんど予備知識を持たぬ織田家の者たちに小寺家を売り込むという目的のために言葉を費やしているわけで、そこに小寺家をより大きく見せるための誇張やハッタリは混じるし、「自分が言っていることは間違いがない」ということを強く印象付けるために満腔まんこうの自信を全身で示さねばならず、曖昧あいまいな表現や言い回しを使うわけにもいかず、口調や語尾がつい断定的にならざるを得ない。


 ともあれ藤吉朗は、憑かれたように喋り続ける官兵衛の話を実に熱心に聴いていた。


「いや、官兵衛殿、いちいち御辺ごへんの申される通りじゃ」


 官兵衛が播州経略を語り終えた頃には、すっかりこの男に惚れ込んでしまったらしい。





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