第69話 大和大納言の第一の臣
「尊公(貴方)に会わせたい男がおるんじゃよ」
と、老人が言った。
姉川の河口――琵琶湖へと流れ込むあたりの姉川北岸に錦織村という集落があるのだが、その村の正念寺という古刹の庭に面した書院で、小一郎は老人と茶飲み話をしていた。常のことだが、領内の民情視察のついでに立ち寄ったのである。
湖北で臨終山 来迎院 正念寺といえば、二百年も前からこの地にあって諸人の尊崇を集める浄土宗の念仏道場である。藤吉朗が湖北の王になって以来、寺領を安堵したり土地の寄進をしたりといった縁で小一郎は何度もこの寺に足を運んでいるから、老人とはすでに顔馴染みになっていた。
老人はこの寺の住持で、良譽上人と呼ばれている。
「藤堂――という姓をお聞きでないかな?」
と、良譽上人は続ける。
国主様の弟である小一郎の身分を知ると、当然ほとんどの者が大仰に畏まり、遜るのが常なのだが、この老人は初対面のときから好々爺然として言葉もあらためず、常に微笑をもって飄々と応接してくれていた。小一郎はその風姿が好きで、付近を通るときは必ずこの寺に立ち寄るようになっている。
「藤堂。・・・・はて。覚えませんなぁ」
聞き覚えがない。
煎茶が入った茶碗を膝元に戻し、小一郎はあらためて話を聞く姿勢を取った。
「陪臣ながら織田さまに仕えてすでに数年、幾度か手柄も立てたと本人は吹いておったが・・・・。いやいや、しょせんは足軽に大差ない下士のことゆえ、尊公のお耳にまでは達しておらぬのやもしれんなぁ」
それなりに立派な袈裟を纏った良譽上人は、骨と筋と皮のみで出来ているか思えるほどに細い指で茶碗を捧げ、ゆったりと煎茶を飲み干して喉を湿らせた。
「佐和山から南に二里ほど下ったあたりに、藤堂村という在所がありましてなぁ。由緒や先祖は知らんが、藤堂というくらいじゃから辿れば氏は藤原じゃろう。まぁ、そういう意味では藤堂家はなかなかに古い家なんじゃろうが、湖北で浅井が興り、守護の京極家が零落して後は浅井の被官(家来)になっておった。さしたる人物も出んかったのか、目立った働きも聞かなんだな。その藤堂の息子が――与右衛門という名なんじゃが――先日ふらりとこの寺にやって来て、羽柴の殿さまの事、家中の人物の事などを、色々と尋ねていきおった。浪人し、仕えるべき主を探しておるらしいのじゃな。その顔相・骨柄を見るに、これが只者ではない」
落ち窪んだ眼窩の奥で、黄味掛かった瞳がにたりと笑った。
「身の丈、六尺二、三寸(約百九十センチ)にもなろうかという大男でな。年は二十一と言うておったからまだ若いが、なかなか出来た面構えをしておった」
老人が本人から聞いたという話では、その藤堂与右衛門は、浅井の武者としてあの『姉川』の大戦で初めて戦場に立ったのだという。十五、六の初陣で、見事に兜首を挙げ、浅井長政から感状を賜ったというから、その武勇は並々ではない。槍の腕前はもちろんだが、何より常人離れした勇気の持ち主なのだろう。その後、事情があって浅井家を去り、織田家の武将の元を転々としていたらしいが、仕える先々で戦があるたびに功名を立てたという。
戦場の槍働きに縁のない小一郎は素直に感心したが、
「いやいや、ただ大力を自慢とする阿呆であれば取るに足らぬ」
老僧は軽くいなした。
「あの与右衛門――会うてみれば解るが、弁舌が涼しく、挙措は礼に適い、眼に何やら異彩がある。さらに言えば、耳が良いな。尊公もなかなかの福耳じゃが、与右衛門のあの大耳には及ばんじゃろう」
「ご上人さまは人相観をなさいますか」
小一郎がからかうように言うと、
「別に学んだわけではありませんがの。長う生き、幾万という人間の顔を眺めて暮らしてきた。まぁ、勘じゃな」
老人は乾いた声で笑い、開け放たれた障子窓の方に顎を向けた。新緑がはじける庭はやけに明るく、柏の大樹と苔むした大きな庭石が見える。
「今の世は、百姓が望めば国主にもなれるという乱世――」
藤吉朗のことを皮肉っているかもしれないが、口調に毒はない。
「あの与右衛門、運を得て天・地・人あい揃えば、末は一国一城の主にもなる器と見たが・・・・。まぁ、これは拙僧の僻目かもしれぬ」
小一郎は俄然、興味を持った。
「ご上人さまがそこまで申されるほどの人物とあれば、これを野に捨てておくは羽柴家にとって大いなる損。是非会うてみたいものですが・・・・」
「しばらくは長浜の旅籠に逗留すると言うておったが、もはや去ったか、故郷にでも引っ込んだやもしれぬなぁ」
「探してみることにしましょう」
優秀な人材の登用は羽柴家にとって最大の関心事でもある。
小一郎は老僧に丁寧に礼を言い、さっそく家臣に命じて、藤堂与右衛門という男を探させることにした。
長浜城下の主立つ旅籠に通牒し、とりあえず宿帳を改めさせると、件の男はすでに旅籠を引き払っていた。
が、探すまでもなく見つかった。与右衛門は、羽柴家の家来で旧知の浅井遺臣の家を転々としていたらしく、数人の家来からその話が小一郎に伝えられたのである。それらの者たちの口調は一様に与右衛門に好意的で、その武勇と人柄の良さを繰り返し強調していた。
小一郎は多くの予備知識を得た上で、実際に与右衛門に会ってみることにした。
「藤堂 与右衛門 高虎と申しまする」
長浜城の二の丸にある小一郎の屋敷に招かれた与右衛門は、諸国を渡り歩いている浪人とは思えぬこざっぱりとした装束で現れ、着座するや礼儀正しく拝礼した。
「ご足労をお掛けしましたな。まずまず頭を上げ、お楽になさってくだされよ」
小一郎が声を掛けると、若者はすいと威儀を正した。
容貌は厳つく、目尻の切れが長い。良譽上人をして「異彩あり」と評させるだけあってなるほど眼の力が強く、全身にある種の風格が漂っている。いかにも知恵が詰まっていますと言いたげに後頭部がせり出していて、いわゆる才槌頭である。垂れるようになっている大きな耳たぶも、確かに目を惹く。
「良き主を探して、諸国を巡り歩いておられるとか・・・・」
と、小一郎は話を振った。
この藤堂与右衛門は、まだ二十一という若さながら、浅井長政から始まってこのときすでに四度も仕える主を変えている。「武士は二君に仕えず」などという儒教倫理が一般に浸透したのは平和な江戸期以降のことで、仕える主を自分で選ぶというのはこの乱世の武士にとって当然の権利だが、わずか五年やそこらで四度も主人を変えるというのは一般的に見てもかなり異色と言わざるを得ない。羽柴家で召抱えたとしても、またすぐ退転されるというのでは馬鹿らしくて藤吉朗に推挙できないから、いったいどういうつもりでそんな生活を続けているのか、これは確かめておくべきであろう。
「いや、お恥ずかしい限りでござる」
与右衛門は心底恥ずかしげに下を向き、小一郎に問われるままにそのあたりの事情を語り出した。
何にしろ、主運の悪い男であったらしい。
与右衛門――藤堂高虎は、十六歳で元服と同時に父が属していた浅井家に仕え――多くの豪族や地侍の子弟がそうするように――浅井長政の小姓として小谷城に上がった。その体格と膂力は少年の域を遥かに超え、『姉川』の初陣で兜首を挙げたことで浅井長政を喜ばせ、感状と脇差を賜った。与右衛門はこれに感激し、長政を生涯の主君と決め、その後も合戦のたびに勇戦した。
しかし、あるとき、主君の寵が厚い与右衛門に嫉妬し、謂れない誹謗をする同僚の一人と大喧嘩をし――若気の至りというものであろう――その並外れた膂力のために、殴り倒した拍子に相手を殺してしまうという事件を起こしてしまった。喧嘩両成敗は武門の常識である。相手が死んでいる以上、その罪は軽くとも切腹、重くすれば斬首であり、与右衛門は浅井家にいられなくなった。泣く泣く小谷城下を出奔し、山本山城の阿閉貞征のところに転がり込んだ。
ちなみに与右衛門の父は、息子のこの不祥事の責任を取り、以後、故郷で逼塞している。
与右衛門が入った山本山城は、琵琶湖畔に築かれた小谷城の西の出城であり、これを守る阿閉貞征は浅井の重臣である。山本山城で織田と戦うことは、間接的ながら浅井長政のために働くことにもなるであろう。織田との戦で手柄を立てれば、その功によって罪を許される、ということもあるかもしれない。
与右衛門はそう心を決し、織田の大軍に山本山城が包囲され、当時の木下勢に攻められたときも懸命にこれと戦い、雑兵首ながらいくつか武功も挙げた。
ところが城主の阿閉貞征は、半兵衛によって調略され、浅井滅亡の直前に織田家に寝返ってしまう。
若い与右衛門は、このことが許せなかった。そのまま阿閉家にとどまって織田方として旧主・浅井長政を攻める気にもなれず、その場で山本山城を去り、あてもなく諸国を放浪した。
尾張、三河あたりを流浪していたとする伝承もあり、足軽稼ぎで食い繋いでいたとも言うが、半年もふらふらしていればやがて路銀も尽きる。生活に困窮した与右衛門が近江に戻ってきた天正二年、浅井家はすでに滅び、湖北の支配者は羽柴 筑前守 秀吉という男に変わってしまっていた。
与右衛門は、旧浅井家の重臣で織田家に降った磯野員昌を頼ることにした。
磯野員昌は『姉川』で浅井勢の先鋒を務めた猛将で、重要拠点である佐和山城を守っていたが、丹羽長秀に半年包囲されて兵糧が尽きたために織田家に降伏した男である。信長は武勇の誉れ高いこの男の帰順を喜び、湖西の高島郡・数万石を与えて優遇した、ということはこの物語でも以前触れた。
磯野員昌が長く領主を務めた佐和山は、与右衛門の故郷・藤堂村からごく近い。地侍としての藤堂家の旗頭はもともとこの磯野員昌であり、与右衛門にとっても親しみやすかった。
浅井家中での与右衛門の武勇の噂を聞いていた磯野員昌は、ふたつ返事で与右衛門を召抱えてくれ、いきなり馬廻りに抜擢してくれた。与右衛門はこれを喜び、磯野家でまた懸命に働いた。織田方の一員として本願寺攻めなどの畿内の戦にもたびたび参加し、合戦のたびに勇戦し、それなりの手柄を立てた。
ところが、今度はこの磯野員昌が、この天正四年二月、信長によって無理やり隠居させられてしまう。
信長は、自らの甥である織田信澄を、子のない磯野員昌の養子にしていた。磯野員昌から実権を奪い、甥の信澄に磯野家の家督を継がせたのである。事実上の乗っ取りであり、高島郡を織田家の直轄領にしたと考えていい。
信長は、浅井・朝倉を滅ぼした時点で、磯野員昌の存在価値を見切っていたのだろう。天正二年に信澄を養子に入れ、天正四年に磯野員昌を隠居させ、磯野家の乗っ取りが無事完了し、その後の基盤も固まったと見た二年後の天正六年、今度は磯野員昌を高野山に追放している。
いずれにせよ、与右衛門は、磯野員昌の隠居に衝撃を受けた。
(わしは員昌さまを主と決めたが、あの小僧っ子を己の主とした覚えはない)
何にもまして、実際に接してみて織田信澄という新しい主との肌合いの違いにほとんど絶望した。
織田信澄は、信長に反逆して謀殺された弟・信行(信勝とも)の子で、このときわずか十七歳である。数多い信長の縁者の中では割り合い知勇に優れ、信長に愛され、優遇された男だが、性格まで信長に似たところがあったらしく、ルイス・フロイスの『日本史』では「この若者は異常なほど惨酷」と酷評されている。貴公子らしく、人情の機微に暗いところがあったのだろう。
そういう信澄に膝を屈して仕えていることに耐えられず、与右衛門はすぐさま禄を返上し、再び浪人したのだという。
じっくり話を聞いてみると、なるほど与右衛門が四度も主を変えたことにも、それなりに同情すべき事情があり、この男なりの道理もある。
何より小一郎が好印象を受けたのは、与右衛門のその語り口であった。話の筋が理路整然として少しも無駄がなく、年若いわりに語彙が豊富で話し上手であり、なおかつ言葉の選び方に品がある。
(なるほど、これは・・・・)
良譽上人が評していた通り、槍働きしかできぬ猪武者では到底なさそうである。
「主は、選ぶべきものとつくづく思いました。拙者はその時その時、その場その場でそれなりに懸命に働いてきたつもりではありましたが、重ねた働きも主を変えるたびに虚しゅうなり、ついにはこの歳になっても無禄の浮浪人。父祖や親類にも肩身が狭く――いや、お笑いくだされ」
与右衛門は自嘲するように言ったが、少しも卑屈な素振りは見えなかった。
「それで与右衛門殿は、五度目の主をお探しか」
「はい」
「我が主・羽柴筑前守は、貴殿の目にはどのように映っておられますかな?」
藤吉朗は仕えるに足る主人であるか――羽柴家に仕える気があるか――と聞いてみた。
「いや、これは――」
与右衛門はとっさに質問の意味を悟り、
「お会いしたこともない筑前守さまがいかなるご仁であるか――筑前守さまの御弟君であられる秀長さまを前にして、伝聞だけを頼りにあれこれ申すわけには参りませぬ」
慎重に言葉を選んで再び話し始めた。
「四、五年前とは違い、織田さまは今や天下人。その織田さまのご家中で、これはと思う大将にお仕えしたいものじゃと、この二月ほど、近江、越前などを歩いておりました。柴田さま、明智さま、丹羽さま、佐久間さま、さらにご当家・羽柴筑前守さま――いずれ劣らぬご立派な御大将であると存じますが――ただ、肌合いはそれぞれに違いまするな」
与右衛門に言わせれば、主を決めるためのもっとも重要な要素は、馬が合う、合わぬ、というところに行き着くものらしい。
「己の身命を賭してお仕え申す以上、『この殿のためならば命もいらぬ』と思わせてくれるほどのご仁に仕えてみとうござる。が、拙者のような情けなき浮浪の境涯では、そのような雲の上の方々をこの目で拝するわけにもいかず、直に言葉を掛けて頂くこともできず、結局のところ、決めかねておりました」
そういう思慮深いところも、物事に対して慎重派な小一郎にとっては好ましく映る。
「それでは、己のその目で見てみられると良い。お望みならば、わしが殿に与右衛門殿を推挙致そうほどに――」
「いや、それはご勘弁願わしゅう」
小一郎の好意を、意外にも若者が遮った。
「万一、筑前守さまに御意を得ますれば、筑前守さまがいかなるご仁であろうとも、拙者のような者が仕官をお断りするわけには参りませず、これは結局のところ、出たとこ勝負の大博打ということにあいなりまする。拙者は主運に恵まれぬ者でござれば、そのような博打は打ってみたいとは思いませぬ。それよりも、同じ羽柴家にご厄介になるとなれば、いっそ秀長さまにお仕えしとうござる」
予想もしなかった言葉である。
「わしに――と?」
与右衛門は頷いた。
「秀長さまならば、僭越ながら拙者はこの目でご尊顔を拝し、この耳でお声を聞き、数々のお言葉を賜ってござる。その上で秀長さまにお仕えするとなれば、これは拙者自らが決めたことであり、後々まで後悔するようなことがないように思われまする」
羽柴家に仕官を求めた数百人の侍で、こういうことを言った者は他に一人もいない。
(それにしても、何ちゅう理屈っぽい男や・・・・)
十五も年下の若者の分別臭い顔が、小一郎には可笑しかった。
「わしに仕えるということは、羽柴家の陪臣(家来の家来)であり、織田家にとっては陪々臣ということになる。それでもよろしいのか?」
「結構でござる」
自らの決意を表明するように、与右衛門はずしりと言った。
「あい解った。わしに異存はない。喜んで召抱えさせて頂こう。されば、まずは禄を決めねばならんな・・・・」
小一郎はとっさに懐具合を勘定しようとしたが、与右衛門はそれさえさせなかった。
「家禄は、当分は無禄で結構。まずは拙者を、しばらく秀長さまのお傍近くで使うてみてくだされませ。その上で、拙者の値段をあらためて決めて頂きとうござる」
言うことがますます面白い――と、小一郎は思った。
これは、たとえば半兵衛のような無欲から出た言葉ではなく、むしろその逆であるのだろう。相当にプライドが高く、自分の能力に自信を持っていなければ、これだけの啖呵は吐けるものではない。同時に、小一郎が仕えるに足る主とは思えなかった場合に、無禄であれば身軽に退転できるという用意でもあるのかもしれない。
「よう解った。貴殿の望むように致そう」
小一郎は、さしあたって長屋の空き部屋をこの若者に与え、しばらくその働きを近くで観察し、与右衛門の器量を見極めてみることにした。
これは後に解ってきたことだが、藤堂 与右衛門 高虎は、その自信に決して劣らぬ器量の持ち主であった。槍働きはもとより、戦術眼に優れ、部隊指揮も上手く、ほどなく始まる中国征伐で一軍の大将になった小一郎を支える強力なブレーンになった。
その後、小一郎が参加したすべての合戦に従軍し、豊臣家の四国攻め、九州攻めなどで数々の武勲を重ねて重臣の仲間入りをし、「大和大納言(豊臣秀長)の第一の臣」と呼ばれるまでに登り詰め、陪臣ながら二万石の大名になる。何を任せても卒なくこなす器用さを持ち、軍事はもちろん政治能力や内政手腕にも卓越し、人心収攬や人の周旋も巧みで、築城や普請事など様々な分野で非凡な才能を見せ、ことに築城技術においては加藤清正と共に当代の“名人”とまで称された。
小一郎の死後は乞われて豊臣秀吉の直臣となり、伊予 宇和島で八万石の大名にまで出世する。
余談になるが――
豊臣秀吉の死後、藤堂高虎は豊臣家をいち早く見限って徳川家康に接近し、『関ヶ原』の戦後は徳川家の家来のようになり、『大阪の陣』でも豊臣家の滅亡のために軍功を重ね、最終的に伊勢の津で三十二万石の大大名になっている。豊臣氏に多大な恩をこうむった大名でありながら、いち早く豊臣を捨てて徳川に寝返ったことは後世の多くの人から非難をされるが、むしろ、あの猜疑深い家康から絶大な信頼を勝ち得たというその事実から、この男の人物を推し計るべきであると思う。
藤堂高虎は、少なくとも小一郎が死ぬまでは――あるいは小一郎が死んだ後、家を継いだ養子の秀保がほどなく死に、秀吉によって大和大納言家が取り潰しになる瞬間までは――小一郎に無二の忠節を尽くし、誠心誠意仕えていたことは間違いない。高虎は、小一郎の養子の秀保が死に、大和大納言家が取り潰されると、すべての禄を投げ打って浪人し、高野山に上って出家までしているのである。その将才を惜しんだ秀吉から呼び返され、その命によって還俗させられ、秀吉の直臣として大名に戻っているが、この男の誠実さ、ある種の純情さは、認めてやらねばならないであろう。
ともあれ、この天正四年の春、小一郎は、戦国史に大きな名を残すゆゆしき人材をその幕下に加えることになった。