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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第68話 「信長包囲網」再び

 湖北の地に、三層建ての白亜の城が天に向かってそびえ立ったのは、天正三年(1575)の晩秋であった。

 今浜の新城は、弓状にゆったりとカーブする琵琶湖の裾に築かれている。地理的には姉川の南――横山城からほぼ真西に進んだ湖岸である。北に豊かな田園地帯を置き、東に北国街道が走り、西と南は琵琶湖が満々たる水を湛えている。


「水城にしましょう」


 という半兵衛の意見を容れ、湖水を使った見事な水堀を二重に掘り、西側の石垣は琵琶湖の湖面に突き出し、そこに船着場を設け、城内から直接船の出入りができる作りになっている。

 外堀の中に町の一部を囲い込み、そこに武家屋敷群と軍需品を生産する鉄砲町、鍛冶屋町などが置かれている。東に向かって開かれた平野には、小谷の旧城下の町民たちや箕浦みのうら平方ひらかたあたりに暮らしていた者たちを強制移住させ、商都と呼ぶに相応しい新たな城下町が出来上がっていた。湖面には数十隻の丸子船が忙しく往来し、湖岸には商人たちが建てた荷蔵が並び、若狭や北陸からの荷を降ろす人夫たちが立ち働いている。

 藤吉朗は、信長に習ってこの城下を楽市楽座とし、町民たちの地子銭じしせん(宅地税)と諸役しょえき(雑税)を免除したから、各郷に暮らす地下じげにんに移住を希望する者が多く、村々では人の流出を心配せねばならぬほどだったという。町は、日に日に大きく成長を続けている。


 新城が完成し、ここに本拠を移すと、藤吉朗は今浜を「長浜」と改名した。長く栄えよ、という願いが込められていることはもちろん、信長の「長」の字を貰うというゴマ擂り的な思惑もあったであろう。

 岐阜から、寧々や藤吉朗の家族・親族を呼び寄せ、さまざまな祝賀の儀式が行われた。にぎやかなことが好きな藤吉朗は国中にこの祝賀行事を宣伝したから、入城行列の日には、北近江の各郷から見物に集まって来た地下人たちが沿道や城下町を埋め、縁日さながらの賑わいを見せた。


 この時期、羽柴家には慶事が続く。

 長浜入城から半月と経たぬうちに、今度は南殿が藤吉朗の子を無事出産したのである。

 しかも、男子であった。

 藤吉朗は、ほとんど狂わんばかりに喜んだ。この祝いに山車だしを作らせ、それを長浜城下で引き回させ、自らその上に乗り、砂金をいて城下に住む者たちに喜びのおすそ分けをした。長浜の町民たちもこの陽気な領主と共に「若様御誕生」を喜び、藤吉朗が作らせた山車だしを長浜八幡宮の祭礼の際に曳き回すようになり、これが現在まで続く「長浜曳山祭り」の起源になったという。


 幼児は、石松丸と名づけられた。「石」は悠久の時を不変に過ごす不滅の象徴であり、「松」は冬でも青々と繁ることから強い生命力を表し、不老長寿の象徴である。とにかく丈夫に、元気に長生きして欲しいという藤吉朗の想いが込められているのであろう。


「石松よぉ、早う大きゅうなってくれよぉ。いずれ信長さまに烏帽子えぼしおやになって頂き、お前に『秀勝』という名をやるでな。行く末、この父に勝る男に育つであろう」


 首も据わらない幼児を抱き、溶けそうな笑顔で喜ぶ藤吉朗は、早くも幼児に元服後のいみなまで付けてしまった。あざな(通称)は、己の「藤吉朗」を継がせるつもりだったかもしれない。


 この微笑ましい光景を眺めながら、


(羽柴家も嫡子を得た。いよいよ仕事を頑張らにゃぁならんなぁ)


 と小一郎は思った。


 この秋の越前征伐以来、織田家の周囲では戦況が一段落したようであった。羽柴勢は翌天正四年の春まで半年近く合戦に出番がなく、この期間を内政の充実に当てることができた。


 越前征伐などの褒賞で琵琶湖北岸に六万石ほどの加増を受けた藤吉朗は、柴田勝家や明智光秀には及ばぬものの、それでも十八万石近い大領主になっている。

 小一郎は、半兵衛の知恵を借りつつ新たな領地の慰撫を精力的に行い、増員に伴う羽柴家家臣団の整備にも力を入れた。

 合戦に比べれば、これは楽しい仕事であった。特に新田を開発したり治水をしたりという内治に関しては、手を掛ければ掛けるだけ目に見えて結果が表れ、庶民から感謝されることもあり、百姓出身の小一郎には仕事のし甲斐があった。



 この頃、織田家でも慶事が続いている。


 まず十月、本願寺門主・顕如けんにょが天下に名だたる三軸の絵を贈って信長に和を請い、織田・本願寺の和睦が成立した。三好三人衆の生き残りであった三好長逸ながやす、三好政康やすまさはいずれも没落して消息不明となり、一族を率いて最後まで抵抗した三好笑岩しょうがん(康長)も織田家に降伏したから、畿内で交戦中の敵がいなくなったのである。一時的ではあるにせよ、この和睦で畿内の戦火は絶えた。

 近畿地方で織田家の傘下に入っていないのは、紀伊きい国(和歌山県)と伊賀国(三重県伊賀地方)を残すのみである。


 次いで十一月、上洛していた信長は、朝廷から正三位・ごん大納言だいなごんに任じられ、さらに近衛このえ大将たいしょうのポストも与えられ、これを兼ねることになった。信長はすでに昨年、従三位・参議に叙任されており、殿上人でんじょうびと(昇殿を許される身分)という意味で公卿くぎょうになっていたが、新たにもらった右近衛大将というポストは武官の最高位を表すもので、名実共に征夷大将軍並みの権威を得たと言っていい。


 同じく十一月、信長の嫡男・信忠のぶただが、武田氏に奪われていた東美濃の岩村城を奪い返している。

「長篠の合戦」で武田氏が大敗した後、岩村城は織田領で孤立し、信忠を大将とする織田の大軍によって半年にわたって包囲されていたのだが、城内の兵糧が欠乏し、これがついに降伏したのである。信長は、武田勢が岩村城から退去すると、無血開城の約束を反故にし、これをだまし討ちで皆殺しにした。

 この功という意味もあったのであろう――信長は朝廷に奏上し、信忠に「秋田あきた城介じょうすけ」の名をもらってやっている。「秋田城介」は出羽国(秋田県)の国司の別称だから、これは信長の全国統一に向けた戦略の一環であったのだろう。九州の官位や名族の氏姓を家臣に贈ったように、息子に東北の国司の地位を与えたのである。関東から奥州への勢力伸張には、信忠を中心とした軍団で――という、信長の戦略が透けて見える。


 さらに十二月、信長は織田家の家督を信忠に譲り、隠居を宣言した。もちろん、隠居といっても織田家の実権は信長が握り続けたが、尾張・美濃の二国と岐阜城を信忠にくれてやり、自らは茶道具だけを持って岐阜城を去り、琵琶湖畔の安土に新たな本拠を築くと言い出し、年が明けるや安土に移って築城の指揮を取り始めた。

 天下諸侯の度肝を抜く絢爛けんらん豪華な安土城は、六角氏の本拠であった観音寺城の枝城があった安土山を要塞化し、観音寺城の石垣を移築して総石垣作りで作られた。五層七重の大天守閣を持ち、天守の最上層は金色、下層は朱色の八角形をしていたという。信長の天下統一事業を象徴する大城郭であり、丹羽長秀を総普請奉行にし、足掛け七年を掛けて完成されるわけだが、皮肉なことにその完成直後の天正十年、信長は本能寺で横死し、安土城大天守も焼け落ちて灰になった。


 信長は元亀年間にはどうにもならないような窮地に追い込まれていたが、この二年ほどの間に周囲の敵を次々と滅ぼしてなんとか地盤を固め、天正三年も末ごろになると、天下統一の大事業がようやく軌道に乗り始めた、と言えるかもしれない。

 連戦連勝のこの天正三年は、信長にとって慶事ばかりが続く素晴らしい年であったに違いなく、逆に反織田の立場の者たちにすれば、面白いことが何ひとつない苦々しい年であったろう。



 反織田の象徴という意味で、ここで再び足利義昭よしあきを取り上げなければならない。


 二年前の元亀四年(天正元年)、信玄西上の動きに呼応して京で兵を挙げた義昭は、信長に攻められてあっけなく降伏。さらに真木島城に逃れて挙兵したが、織田軍の総攻撃の前に再び降伏し、京を追放され、その権威を失墜させた、ということは先にも触れた。

 しかし、権威が傷ついたとは言っても義昭は現実に将軍であり続けており、依然として征夷大将軍としての神聖権と大きな政治力を持ち、諸国の武家に対する正統な軍事指揮権を握り続けている。


 京から追放された義昭は、その後、摂津せっつ 若江城で三好義継よしつぐに保護されていたが、摂津、河内かわち和泉いずみの戦線で織田方が優勢になると、さらに南方の紀州へと逃れた。紀伊国で結成されていた「惣国そうこく一揆」を動かそうとしたのである。


 紀州惣国そうこく一揆というのは、紀伊北部に根を張る雑賀さいが党を中核に、亀山城(御坊市湯河町)の湯河氏や、高野山、根来ねごろ粉河こがわの三大寺院、さらに熊野三山を中心とする南部地方の諸勢力が連合した地域勢力である。そもそも紀伊は南河内の畠山昭高が守護であり、それまで惣国一揆は畠山氏の旗の下にあったのだが、元亀四年に畠山昭高が殺されて畠山氏が滅ぶと、その後は紀州に流れて来た将軍・義昭を奉じ、織田方に敵対した。

 義昭は本願寺や三好三人衆と呼応し、紀伊の一揆勢を積極的に河内方面に進出させ、織田方と戦わせた。鉄砲傭兵集団として名高い雑賀さいが党を中核とするこの一揆勢は非常に精強で、本願寺方を大いに援け、織田方を苦しめてきた。


 都を落ちた義昭だが、足利将軍家復権の野望はいささかも衰えたわけではない。衰えるどころか、義昭の策謀と外交活動は織田家の庇護を離れることでいよいよ活発化し、露骨になった。武田氏、上杉氏、北条氏の三者の諍いを仲裁し、軍事同盟を策し、これと毛利氏、本願寺、紀州惣国一揆などを結ばせて、織田家の勢力圏をぐるりと囲い込む「信長包囲網」を完成させようと躍起になった。


(信長め、将軍であるわしを侮った罪、必ず後悔させてやるぞ・・・・・!)


 義昭のくらい情熱は、一筋に打倒・信長の目標に燃えていた。


 しかし、政戦織り交ぜた見事な手腕で元亀年間の窮地を脱した信長は、義昭追放後、浅井・朝倉を滅ぼし、伊勢長島、越前などの一揆勢を消滅させ、六角氏、三好氏をほふり、「長篠ながしのの合戦」で武田氏に大打撃を与えるなど、破竹の勢いでその勢力を巨大化させている。ことに、近隣の同盟勢力が次々と消滅し、伊勢長島、越前の門徒を皆殺しにされてしまった本願寺は哀れであった。大阪石山の地で孤立が深まり、頼れる味方といえば紀州の惣国一揆のみという状態になっている。

 この孤立化によって、織田方の鋭鋒を一身に浴びねばならなくなった本願寺は辛かったであろう。このまま本願寺が滅びれば、親鸞しんらん上人以来の法統が途絶することになる。

 事態を重く見た本願寺門主・顕如けんにょは、この天正三年十月、再び信長に和を請い、織田と和睦した、ということは先ほど触れた。とにかく時間を稼ぎ、その隙に石山で篭城するための戦備を整え、周辺状況の変化を待とうというのである。


 義昭は、この状況を憂慮した。本願寺が織田家への抵抗を止めれば、信長包囲網は畿内での中核を失ってしまうのである。

 織田家と和睦したと言っても、門徒をあれほど殺された本願寺が本気で信長と共存できると思っているはずがない。和睦は石山篭城のための時間稼ぎであろうが、それにしてもこの篭城戦を勝利させるには、本願寺に対する強力な後援が不可欠であった。数万人の門徒を抱える本願寺を後援できるほどの大勢力といえば、地理的な条件からしても中国十ヶ国に覇を唱える毛利氏以外にないであろう。

 義昭は、天正四年が明けるとすぐ、熊野水軍を使って紀伊から毛利領である備後のともに渡り、自ら懐に飛び込むことで腰の重い毛利氏を対織田戦争に引きずり込もうとした。


 織田家と事を構えたくない毛利氏にすれば、迷惑な話であったろう。

 毛利輝元は義昭が毛利の領国に入ることを一度は断ったが、将軍自らが押しかけて来てしまっては、これを無下に追い返すわけにもいかない。輝元は当惑したようにこのことを信長に報じ、理解を求めている。信長も了解の意を示し、「西国の公方になさればよい」というような返書を返している。

 この時代、関東で足利氏の一族が「関東公方くぼう」を名乗っていた例があるが、これは将軍から任命される正式な幕府の役職ではない。信長はすでに足利将軍が天下人であるとは思っておらず、義昭は「関東公方」のように西国でそれらしい名誉職を勝手に名乗れば良い、という程度の扱いをしたわけである。

 しかし、戦国時代も末期にあたるこの時代になっても、地方の大小名にとって現職の将軍の権威というのは絶大なものであり、その政治力は決して侮れるものではない。


 このあたり、信長の本心も複雑であったろう。

 あの鬱陶うっとうしい義昭を京に復さしめるのは気が重くもあり、これを毛利領に置いておくこと自体は構わないとしても、その義昭が毛利氏を焚き付けて織田家と敵対するよう指嗾しそうしているのだから始末が悪い。


 信長は、織田家による天下統一を目標としており、信長を頂点とする絶対王政に近い政治機構を志向していたらしく思える。毛利氏のような十ヶ国もの領国を持つ大勢力をそのまま生かしておくつもりはなかったに違いなく、将来的にこの大敵を滅ぼすということは、その天下構想の既定路線であったろう。

 しかし、この時点で毛利とあからさまに敵対するのは愚策である。毛利氏が本願寺を後援し、さらに東国の上杉謙信などと謀って織田家を挟み撃ちにする、というような事態になれば厄介だから、少なくとも本願寺を滅ぼすまでは友誼を保っておきたいと思っていたに違いない。


(いっそ公方くぼう(義昭)をひと思いに殺しておくべきであったか・・・・)


 と思わぬでもないが、元亀四年のあの時点では、信長も義昭を殺すことはできなかった。将軍を殺せば「逆臣」の汚名を着ることになり、天下諸人の信を失うし、何より厳然と存在していた旧幕府勢力の恨みを買うわけにはいかなかったのである。畿内を押さえる幕府勢力が軒並み織田家の敵に回り、浅井・朝倉、三好三人衆、本願寺などと結びついていれば、さしもの信長も京を捨てて美濃に逃げ帰らざるを得なかったであろう。

 それが解っているからこそ信長は、義昭を追放するや、その息子を「大樹たいじゅ(将軍)の若君」として推戴し、足利幕府体制の存続を大義名分として幕府勢力を織田家に組み込むことを選んだのである。

 その選択は正しかったと今でも信長は思っているが、結果として義昭は将軍の肩書きを持ったまま諸国を放浪することになり、紀州で、中国で、反織田勢力糾合きゅうごうの声を上げ続けている。地方で織田家と信長の評判が極度に悪いのは――信長自身が犯した悪行の数々が誇大に宣伝されているのは――義昭が御内書をもって諸国の大小名に悪評をきまくっているのが大きい。


 信長という男の恐ろしさとその野望の猛々しさをもっともよく知るのは、信長によって京を追放された義昭自身である。

 義昭は、「本願寺が滅びれば、次は毛利が信長の標的にされるぞ」という論旨で毛利氏を口説きに口説いた。


「本願寺の滅びは、すなわち毛利の滅びの始まりである」


 と繰り返し、毛利氏の危機感を煽ることで本願寺と同盟させようとした。


「信長ほど表裏ある男はおらぬ。近江の浅井を見よ。浅井備前守びぜんのかみ(長政)は信長の妹を嫁にもらい、織田家のためにあれほど働いたにも関わらず、信長は浅井を滅ぼしたではないか。信長のよしみを信じるなぞ、盗人の口上を信じるよりも愚かなことじゃ」


 この男の政治力というのは、実にたくましい。

 義昭は備後のともの地で正式に幕府を開き、信長によって没落させられた勢力――室町幕府以来の守護、守護代、国司といった正統な旧権力の残党――を糾合きゅうごうし、ついには毛利輝元を自らの副将軍に任じ、毛利氏を幕府の中核に組み込んで一体化させてしまうのである。


 義昭がともに移って開いた幕府を、室町幕府に対して仮に「とも幕府」と呼ぶとすれば、この鞆幕府は決して有名無実の存在ではない。義昭は依然として将軍としてのさまざまな権能を保持しており、たとえば全国の有力寺社の住持じゅうじの任命権を持っていたし、アジアの諸国に対する「日本国王」としての外交権なども握り続けていた。義昭を奉じる毛利氏や、これを後援する薩摩の島津氏などの西国の大名は、外国貿易をする際に将軍権力を背景にすることができたのである。

 その意味で、「日本国王」たる義昭の将軍権力を無視し続けているのはむしろ信長ただ一人であり、織田系列の大名家のみが義昭に冷淡であったが、地方地方の大小名たちは、織田家との外交上はともかく、内心では少なからず将軍に同情的であり、協力的であった。


 副将軍にされてしまった毛利輝元は――これを補佐する叔父の吉川きっかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげも共に―― 足利将軍のために尽力し、義昭を援けて信長と戦うことを、遅くとも天正四年の春ごろまでには決意したらしい。本願寺を後援し、これと共闘することを義昭に確約した。

 同時に越後の上杉謙信、甲斐の武田勝頼などにも密使を送り、同盟を策している。

 上杉謙信はすでに信長と同盟関係にあり、毛利氏の政治力のみでこの同盟を実現させることは難しかったろうが、義昭がそれを命じるなら話は別である。上杉謙信は関東管領という幕府の要職に就いている男であり、下克上の世の乱れを嘆き、足利幕府体制の復権に少なからぬ情熱を抱いてもいたから、義昭が正式にともで幕府を開き、その正統性をもって打倒・信長を命じれば、これを断る理由がなかったのである。


 こうして義昭は、「信長包囲網」を再び結実させ、毛利氏は幕府軍の中核となって対織田戦争に突入してゆくことになる。

 織田氏と毛利氏の争いは、織田氏の側から見れば天下軍を率いる信長と一地方勢力との戦いだが、毛利氏の側から見れば、足利幕府の正統を京に復さしめるための義戦であり、信長を京から追い払って義昭を上洛させるための正義の戦争であった。これは、信長が諸国を放浪していた義昭を岐阜に迎え、織田家による上洛戦を開始したときとまったく同じシチュエーションなのである。

 毛利氏の戦争に対する大義と名分は、現職将軍である義昭がその権威において保証してくれている。


 これに対する信長は、「天下布武」――織田家の武力による天下静謐と新秩序の創造をその大義にしている。しかし、現実の将軍である義昭の権威と張り合うには、信長自身が将軍と同じかそれ以上の権威を身にまとうほか手がなかった。

 だからこそ信長は、義昭追放後は意識的に朝廷との繋がりを深め、昨年の天正二年には従三位・参議に登って公卿くぎょう殿上人でんじょうびとの待遇を手にし、同時に正倉院しょうそういんに納められていた名香・蘭奢待らんじゃたいをゴリ押しして切り取ることで、自身が足利将軍の後継者であることを天下に喧伝した。さらにこの秋には正三位・権大納言の位階と、右大将のポストをも手に入れている。

 これらは、いずれも義昭が持つ「征夷大将軍の権威」に対抗するための措置と言っていい。


 藤吉朗は、この一年半後の天正五年秋、信長から中国管領に任じられ、織田軍の総大将として中国の毛利氏と戦うことになる。この戦いは、戦国時代に諸国に割拠した数多の群雄の中から、生き残り、勝ち残って大勢力を築き上げた者同士による事実上の決勝戦であると同時に、一面で、古い権威を誇示する義昭と、新しい権威を掲げる信長との、避けることのできない代理戦争でもあった。




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