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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第67話 中国の覇王

 天正三年(1575)も、大きな戦が続いた。


 まず四月、信長は、再び兵を挙げた本願寺・三好三人衆を討つために大阪表に出陣している。

 尾張、美濃、伊勢、近江、若狭の織田勢と、丹波たんば丹後たんご播磨はりま紀伊きいの同盟勢力を動員し、十万余という途方もない大軍を集めた信長は、河内かわち和泉いずみ(共に大阪府南部)で本願寺に味方する諸勢力をしらみつぶしに叩き、三好方の主立つ武将を攻め殺し、三好笑岩しょうがん(康長)を降伏させ、三好三人衆を事実上滅ぼした。本願寺勢力を大阪の石山御坊に追い詰め、周囲を丸裸にして孤立させ、付け城を築いてこれを厳重に包囲したのである。


 続いて五月、奥三河に侵入して来た武田勝頼を討つために、三河の長篠ながしの城へ出向いた。

 信長は三万の兵を動員し、徳川軍七千を加えて三万七千の大軍で武田軍一万二千に相対した。戦に先立ち、敵の倍以上の兵力を集めるというのが、必勝を旨とする信長の流儀であったろう。

 長篠城の南西・設楽ヶ原に陣を敷いた信長は、巨大な野戦要塞を構築して敵を待ち構え、攻撃してきた武田軍を完膚なきまでに打ち破った。「長篠の合戦」という呼称で後世にまで有名になるこの戦いで、武田氏の威勢は決定的に衰えた。


 さらに八月、信長は再び主力を大動員し、今度は北方の越前に総攻撃を掛けている。

 大軍を引き連れて岐阜から北近江に入った信長は、『信長公記』によると今浜の城には立ち寄らず、小谷城に宿を取ったという。察するに、まだ藤吉朗の新城は完成していなかったのだろう。

 信長はさらに北上して敦賀つるがに本陣を据え、木の芽峠から本軍を攻め入らせ、丹後・若狭方面からは海路を使って越前岬方面へ軍兵を送り、さらに美濃北方の山間部から山を越え、九頭竜川に沿って別働隊を進ませ、三方から同時に福井平野に侵攻している。

 ここでも信長は、一揆勢の「根切り」を厳命した。

 一揆方の主立つ将は降伏さえ許さずすべて首を刎ね、抵抗する者はいちいちり潰すようにして鏖殺おうさつし、逃散した一揆の残党狩りも苛烈をきわめた。徹底した山狩りを行って山野に隠れた者を残らず探し出し、討ち果たした者はその場で鼻を削ぎ、その証拠にしたという。捕虜にした者は老若男女の別なくすべて集めて撫で斬りにし、あるいははりつけに掛け、あるいはあぶり殺しにした。『信長公記』の記述を信じれば、総計三、四万人が虐殺されたらしい。

 その惨状は、


府中ふちゅう町は死がいばかりにて、一円あき所なく候。みせたく候」


 と信長自身が京の村井貞勝に宛てた手紙に書いた通りであったろう。

 信長は、占領した越前の首府を北の庄と定め、ここに総石垣作り、九重の大天守を備える大城郭を築くよう命じ、自らその縄張りをし、築城に乗り出した。信長自身は九月下旬に岐阜に帰るが、この仕事は越前を任されることになる柴田勝家に引き継がれた。


 藤吉朗率いる羽柴勢は、四月の摂津、五月の三河の戦陣にも動員され、それぞれでそれなりの働きを見せたが、今度の越前攻めでは先鋒を命じられ、明智光秀、細川藤孝、稲葉一鉄、簗田やなだ広正と共に全軍の先頭を進み、敵の拠点を次々と落とし、抜群の戦功を挙げている。越前平定後は余勢を駆って加賀まで攻め入り、信長が残党狩りや戦後処理や築城などに熱中している間に、加賀半国を攻め取った。


 ちなみに小一郎は、この戦陣のいずれにも参加していない。

 小一郎の仕事はもっぱら藤吉朗不在の湖北の経営であり、越前征伐中は織田全軍を支える兵站の仕事をも任され、これに忙殺されていたのである。


 天正三年はこうして忙しく過ぎ去り、仕事がやっと落ち着いた頃には秋もよほど深まっていた。



「こんな馬鹿な話はござりませんぞ!」


 羽柴勢が越前から小谷に帰国した九月の末、慰労のために開かれた酒宴で、前野将右衛門が小一郎に不満をぶちまけた。


「先年より敦賀つるがを守り、戦陣の苦労を重ねて一揆の奴輩やつばらを防ぎ続け、此度の越前討ち入りでは先手として手を砕き、遠く加賀まで攻め入り、その半国を攻め取った功名の第一は、我らではないか。のぉ、小一郎殿、家中にこのことを知らぬ者はないはずじゃ。わしの言うことは間違っておりますかの?」


 かなりの深酒をしたようで、すっかり目が据わってしまっている。


「しかるに信長さまの此度のなさりようはどうじゃ。共に働いた梁田殿が加賀一国をもらっておるのに比べ、我らへの恩賞はあまりに薄うござるぞ。まして柴田さまなぞは、織田家譜代の家老おとなとはいえ、越前でどれほどの働きがあったというんじゃ・・・・!」


 将右衛門は、今回の戦の恩賞に不満があるらしい。


 平定した越前は、十二郡――実に五十万石近い大国である。さらに藤吉朗らが奪った加賀二郡十五万石ほどがこれに加わり、織田家の領地は一挙に六十万石ほども増えた勘定になる。

 信長は、この機に北陸方面軍とでも呼ぶべき軍団を創設しようと考えていたらしい。この地域の新たな国割りを定め、その大将として柴田勝家を指名し、北国管領に任じた。

 越前八郡・約三十万石を柴田勝家にまるまるくれてやり、この寄騎兼目付けとして前田利家、佐々成政、不破光治をその傘下に入れ、府中二郡・十万石を与えた。また、山間部の大野郡を金森長近に、敦賀郡を武藤舜秀きよひでにそれぞれ与え、さらに加賀半国は簗田広正に「加賀一国切り取り次第」の恩典を付けて与えたのである。


 奇妙と言えば、確かに奇妙な論功行賞であった。

 この北陸征伐でもっとも目覚しい働きをしたのは誰あろう藤吉朗であり、これと共に先鋒を受け持った明智光秀なのである。信賞必罰は武門の寄って立つところで、活躍に応じて恩賞の多寡が決まるのは理の当然なのだが、一躍身代が倍増した柴田勝家らに比べ、藤吉朗と明智光秀は数万石の加増しか受けておらず、誰が見ても恩賞が不公平であった。


「将右衛門、もう愚痴は申すな。わしまでまた虫が起きるわ」


 藤吉朗が苦々しい顔で吐き捨てるように言った。相当頭にきているのだろうが、信長に対する批判だけは口にしない。


「信長さまには、深いお考えあってのことなのじゃ。権六殿(柴田勝家)に北の切り取りを任せたように、わしらにも後日、また大きな働き場所を与えてくださるに違いないわ」


「殿の申される通りです。岐阜さまが殿に下された『筑前守ちくぜんのかみ』の官位こそが、その証しと思われれば良い」


 半兵衛が意味深な言葉でたしなめた。将右衛門に向かって言ったというよりは、藤吉朗の気持ちを慰めるための発言であったのかもしれない。


 従五位下・筑前守は、信長がこの七月、朝廷に奏上して叙任された藤吉朗の官位である。田舎の大小名や豪族たちが、何々守とか何々介とか勝手に名乗っている官名とは違い、朝廷から下された正式な官職であり、守護大名並みの格式を与えられたと考えていい。


 同時に信長は、家中の主立つ重臣にそれぞれ官位や名族の氏姓を贈っている。


  <武官>

  柴田勝家 従五位下・修理亮しゅりのすけ

  明智光秀 従五位下・日向守ひゅうがのかみ 惟任これとうの姓

  丹羽長秀 惟住これずみの姓

  滝川一益 従五位下・伊予守いよのかみ

  塙 直政  従五位下・備前守びぜんのかみ 原田の姓

  荒木村重 従五位下・摂津守せっつのかみ

  河尻秀隆 従五位下・肥前守ひぜんのかみ

  簗田広正 正六位上・右近将監うこんのしょうげん 戸次べっきの姓


  <文官>

  織田家宿老 林 秀貞  正六位下・佐渡守さどのかみ

  京都所司代 村井貞勝 正六位下・長門守ながとのかみ

  堺代官   松井友閑 宮内卿法印くないきょうほういん(*法印は僧官)

  側近筆頭  武井夕庵 二位 法印


 譜代の重臣の中で、丹羽長秀と佐久間信盛だけは除目じもくから漏れた。丹羽長秀は、「一生、五郎左衛門のままで結構でござる」と言い張って、信長がいかに勧めても官位を受けなかったという。佐久間信盛に関しては理由がよく解らないが、あるいは同様のことを直訴したのかもしれない。


 この時期の織田家の武将をあえて石高でランク付けすれば、越前を与えられた柴田勝家が飛びぬけた重臣筆頭、新参の明智光秀がこれに続き、丹羽長秀、佐久間信盛、藤吉朗、滝川一益がその後を追う形になっている。摂津の切り取りを任された荒木村重、同じく大和を任されたばん直政、加賀を与えられた簗田やなだ広正の三人が、新たに出世コースに乗ってきた武将と言えるであろう。

 ちなみに河尻かわじり秀隆ひでたかというのは、信長の親衛隊である「黒母衣衆」の筆頭を務めた歴戦の勇者で、この叙任によって抜擢を受け、馬廻りから大名の仲間入りを果たしている。

 信長は東方の武田氏に当たる軍団の創設をも考えており、尾張、美濃の二国を長男・信忠に譲り、その軍団長にするつもりであったのだが、河尻秀隆には、信忠軍団の筆頭として若い信忠を補佐する役が与えられた。


 こういう人事構想を、信長はいちいち言葉で説明しない。

 信長の言語は常に行動であり、家臣はそれを己で察する他ないのである。


「先日、お歴々が叙任された官位を考えますと、筑前ちくぜん日向ひゅうが肥前ひぜんなどはみな九州の国。伊予は四国。また、惟住これずみ惟任これとう戸次べっきなどは、いずれも九州の名族の姓です。岐阜さまは、中国、四国、九州と、いずれ西の果てまで征伐なさるおつもりであるということを、そういう形で天下に示されたのでしょう」


 信長は、東方より西方に向かって勢力の伸張を考えていたのであろう。東方の強豪・上杉氏、武田氏に対しては、これまで平身低頭としか言いようがない低姿勢でその機嫌を取り、徹底した媚態外交を展開してきた。上杉謙信とは未だ友好な同盟関係を保っているし、信玄西上によって武田氏との友好関係は壊れたが、「長篠の合戦」以降は武田氏の威勢が衰えたこともあり、その押さえを同盟者の徳川家康と息子の信忠に任せ切っていたフシがある。


「此度、柴田殿が北国管領の地位に就かれたことで、北――つまり越後の上杉家と対決するにおいては、柴田殿が大将になると決まりました。明智殿は京の北――丹波の切り取りをすでに始めておりますし、ばん(直政)殿は大和の切り取りで手一杯。大阪の本願寺には佐久間殿と荒木(村重)殿が当たられておりますが、本願寺が片付くまでは四国へは渡れぬでしょうから、つまり、残る重臣の中から、中国征伐の大将が選ばれる、ということになる」


「中国――!」


 将右衛門が目を輝かせた。


「なるほど。半兵衛殿は、我らが殿が、いずれ毛利討伐を命ぜられると、こう申されておるのですな」


 蜂須賀小六が先回りし、半兵衛は微笑でそれに応えた。


 毛利氏は――良好な友好関係を保ってはいるが――織田家にとって最強の仮想敵であろう。山陰山陽に十ヶ国という巨大な版図を持つ、関東の北条氏にも伍する西日本最大の大名である。


「強大な毛利と戦う大将といえば、織田家数万の侍を見渡しても我らが殿を措いてありますまい。殿は毛利家の申し次ぎもしておりますし、家中に殿ほどの彼の地の事情に通じた方はおられませんしね。時期はもう少し先になるでしょうが、岐阜さまの心中には、いずれ殿を中国に――というようなお考えがあるのだと思います」


 だから越前は柴田勝家に与えたのだ、と言われれば、そう悪い気はしない。

 最強の敵と戦う者は、当然、最大の恩賞が与えられることになるであろう。毛利氏の領国十ヶ国を切り取れば、その半分とは言わぬまでも三、四ヶ国は褒美にもらえるのは間違いない。

 憤慨していた将右衛門の機嫌までがすっかり直っていた。


 藤吉朗と毛利氏の縁は、実は浅くない。

 藤吉朗は京の奉行になった頃から毛利家の申し次ぎ(交渉担当)をしており、すでに数年前から季節ごとに贈り物を交換したり、近況を知らせる手紙をやりとりするなど、友好的な外交関係が築かれていた。毛利家から友好使節団がやって来たことさえあり、そのときは藤吉朗が京で接待役を務めたりしている。

 遠交近攻――遠くの国とは友好を深め、近くの国々を攻める――は何も古代中国だけの話ではなく、日本の戦国時代には当然に行われた外交戦略なのだ。


 話のついでに、毛利氏について触れておくのも無駄ではないであろう。


 中国の覇王とでも言うべき毛利家は、元就もとなりという男が一代で創り上げた。

 毛利元就――戦国随一の知将と呼んでも遜色ない稀代の軍略家である。


 そもそも毛利氏は、源頼朝の知恵袋を務めたことで名高い大江広元の末裔といういわば学者の家系で、元就の父の代まで安芸国(広島県)吉田庄を治める歴とした地頭であった。その領地は三千貫というから、戦国風の言い方をすれば二万石ほどの小大名、あるいは大豪族であったと思えばいい。

 兄の死後、二十一歳で毛利家を継いだ元就は、後に“西の桶狭間”と呼ばれることになる合戦で遅い初陣を飾る。安芸の守護・武田元繁もとしげ率いる四千の軍勢を、わずか一千余の兵で破り、大将の武田元繁を討ち取り、一躍近隣にその名を轟かせた。


 その頃――永正十三年(1516)というから、信長が生まれる三十年も前である――安芸国は、中国地方で覇を競う強大な二大勢力の草刈り場のようになっていた。周防すおう(山口県)に本拠を置き、北九州から山陽地方に掛けて巨大な版図を持ち、当時の日本でもっとも富強を誇った守護大名・大内氏と、出雲いずもに本拠を置き、山陰を支配する新興の戦国大名・尼子あまこ氏が、安芸の争奪を巡ってぶつかり合っていたのである。

 毛利元就は、この両者の間を上手に泳ぎながら力を蓄え、尼子方から大内方に寝返って大内氏の重臣になった。以後、尼子氏と戦いながら婚姻や養子縁組などで近隣の小大名を次々と傘下に収め、あるいは合戦で、あるいは調略を駆使するなどして少しずつ地道に勢力を拡大してゆくのだが、その元就の手法は、軍事というよりは多分に陰謀であった。養子を送り込んで他家を乗っ取り、反対派の家臣を粛清したり、諜者を逆利用して敵に偽情報をリークしたり、敵の重臣に謀叛むほんの罪を被せて主君から殺されるように仕向け、敵勢力の弱体化を謀ったり、自分にとって邪魔になる者を暗殺するなど、およそ人間が考え付く限りの悪謀を駆使し尽くしているのである。

 にも関わらず、元就は自らの所業の陰険さや暗さを人に感じさせず、それどころか温厚、律儀、誠実という美徳を売り物にし、毛利家に属せば安心である、というような印象を世間に与えることに成功している。これはひとえに、人間の心理と世間の機微を知り尽くした上でそれに常に配慮し、きめ細やかに世論を操作し続けた結果であったろう。

 恐るべき知略の持ち主と言うしかない。


 その元就が五十九歳になった時、大内氏の内部ですえ隆房たかふさという重臣がクーデターを起こし、家を乗っ取るという大事件があった。元就はこの機に大内氏から独立し、さらにすえ隆房と敵対し、謀略をもってこれを狭い厳島いつくしまにおびき寄せ、二万の敵軍をわずか四千の兵で打ち破り、一気に陶隆房の首を取った。この戦いを「厳島の合戦」と言い、戦国の三大奇襲作戦に数えられる。

 元就はこの一戦で大内氏の後継者の地位を獲得し、大内氏の旧領を横領して一躍大版図を手に入れた。さらに十年を費やして山陰の尼子氏を滅ぼし、齢七十にして西国最大の大名にまで成り上がったのである。


 毛利家の版図は、本領の安芸あき、大内氏から引き継いだ周防すおう長門ながと、北九州の筑前と豊前に加え、尼子氏の遺領である石見いわみ出雲いずも因幡いなば、服属した備後びんご備中びっちゅうの十ヶ国である。さらに備前の宇喜多氏、但馬たじまの山名氏、美作みまさかの豪族などを従属させているから、その勢力範囲は北九州から中国地方のほぼ全域に及び、現在の県名で言うと、福岡、山口、島根、広島、鳥取、岡山となる。これに加えて瀬戸内海の島々を根城とする多数の海賊衆を傘下に収めており、戦国最強の水軍力を持っていた。瀬戸内から山陰の制海権を一手に握り、地理的に朝鮮や中国との交易も盛んで、さらに領国には石見銀山をはじめとした良質な鉱床が多く、その経済的実力は三百万石近かったであろう。


 元就は、この巨大な毛利王国を築き上げ、元亀二年――この物語の現在から四年ほど前――に七十五歳の大往生を遂げた。ちなみにこの時、信長から毛利家に哀悼の使者が送られている。無論、その実務を執ったのは、毛利家申し次ぎの藤吉朗であったろう。


 毛利元就は、いわゆる「三矢さんしの教え」で有名であるかもしれない。

 一本の矢を折るのは簡単だが、これを三本束ねれば容易には折れない、というところから、兄弟の結束を説いたというこのエピソードは、戦前の国定教科書にさえ載ったほどで、広く知られた教訓話であろう。

 実際のところ、この「三矢の教え」は中国の故事を元ネタにして江戸期に創作されたものであり、元就が矢を折って見せたりしたことはなかったろうが、三人の息子たちに対して繰り返し一族の結束を説いていたことは確かで、援け合って家を守ってゆくことを家訓と定め、「三子教訓状」と呼ばれる手紙まで書いて息子たちに一致結束を求めている。

 元就の細やかな配慮の甲斐もあって三兄弟の結束と相互信頼は硬く、ことに名将といって良い器量を備えた次男の吉川きっかわ元春もとはる、三男の小早川こばやかわ隆景たかかげの二人は、陰日向ない忠勤で毛利本家をよく支えた。

 元就にとって唯一つの誤算は、元就隠居後に毛利本家を継いでいた長男の隆元たかもとが、四十一歳の若さで急死してしまったことであろう。病死とも言い、毒殺されたとも言うが、いずれにせよ毛利家は、隆元の嫡子・輝元てるもとが継ぐこととなった。当時わずか十一歳の童子であり、天正三年の現在でも二十二歳の若者であるに過ぎない。


 毛利輝元というこの若い当主は、後年の彼の事績を見る限り、必ずしも凡庸な資質ではない。「関ヶ原」のときに家臣に振り回されて決断を誤ったその優柔不断さが彼の評価を低くしているようにも思えるが、「関ヶ原」の戦後、領地を四分の一にまで大減封された毛利家を見事に経営し、明治維新まで続く長州藩の基礎を作ったという実績は、大いに評価されるべきであろう。内政手腕に限って言えば、祖父の元就をさえ凌いでいたかもしれない。分別があり、忍耐強く、人並み以上の器量もある人物であったと筆者は考えている。

 ただし、この戦国乱世の真っ只中に大毛利家を一身に背負い、あの信長を向こうに回して天下の覇権を争うにしては、あまりにも若すぎ、哀れなほどに経験不足であったことも否めない。結果として元就死後の毛利家の舵取りは、輝元の叔父である吉川元春、小早川隆景の二人を中心に、重臣たちの合議の上で取ってゆくということになった。


 当主・輝元を補佐する二人の叔父は、いずれも私心のない誠実な人物で、吉川元春はその武勇において、小早川隆景はその知略において、戦国時代にもそうはいないほどの優れた器量を持っていたが、それが単に補佐役では、その力を存分に発揮するというわけにはいかないであろう。外交と軍事に独裁を必要とするこの動乱の時代に、強大な指揮権を持つ英明な当主がいないというのは、毛利家にとっては不幸であった。合議で物事を決めるがゆえに何に関しても速断ができず、積極的な行動を起こすことが難しく、危ない橋や危険な賭けはできるだけ避けるという風に、発想や考え方が退嬰たいえい的になってゆかざるを得ない。

 解りやすく比べれば、信長は明確に天下制覇を目標に掲げ、織田家はその信長の推進力に引きずられるようにして大膨張を続けているが、毛利家は元就が築き上げた版図を維持するということに懸命であった。織田家が常に攻勢であるのに対し、毛利家は常に守勢に立っているわけで、この両者がぶつかり合えば、守勢の側がどうしても分が悪いであろう。


 藤吉朗は、死んでしまった毛利元就という男に関しては多くを知らなかったが、少なくとも現状の毛利家に関しては、先に挙げた程度の知識を持っていた。

 織田家きっての中国通である藤吉朗は、吉川元春の英雄的な風姿やその武勇譚も聞いていたし、小早川隆景の知略とその人柄の良さについても十分な予備知識を持っていたのである。話好きのこの男はそれをまた見てきたようにべらべらと喋るから、小一郎や半兵衛らの幕僚たちも、断片的ながら多くのことを聞き知っている。


「半兵衛殿なら、毛利をどう攻めなさる?」


 酒間の座興という気軽さで、藤吉朗が尋ねた。


「攻めると言っても、毛利は十ヶ国もの大身代、一度や二度の合戦でどうなるものでもありません。毛利領の東――播州あたりの大小名を切り崩し、お味方につけてゆくところから地道にやってゆくほかありますまい」


 実に現実的で面白みに欠ける軍略だが、毛利氏と戦うというのはそういうことなのだろう。


「毛利が岐阜さまに服すなら――岐阜さまがそれをお許しになるなら――戦は五年で済みましょう。しかし、毛利が岐阜さまに最後まで服さず、あるいは岐阜さまが毛利を滅ぼそうとお考えなら――これは容易なことではない。中国にある城という城をひとつずつ潰しながら攻め進まざるを得ず、あるいは十年掛かっても戦が終わらぬかもしれません」


 近江半国の浅井を滅ぼすことでさえ、三年の歳月を要した。

 中国十ヶ国の毛利が国を挙げて徹底抗戦を構えれば、これを滅ぼすのに十年掛かったとしてもおかしくはないであろう。


「十年経ったら、わしゃ四十九か・・・・」


 藤吉朗がため息をつくような面持ちで言った。

 人間五十年と言われた時代である。四十九なら壮齢というより老齢というに近い。


 その十年後、この藤吉朗が天下人になっているのだから、人の世というのは解らない。

 天正十三年(1585)、藤吉朗は朝廷から「豊臣とよとみ」の姓を下賜かしされ、太政大臣に登って位人臣を極め、天下に豊臣政権を樹立しているのである。


 天正十年、「本能寺の変」で信長が死んだ後、備中で毛利氏と対陣中だった藤吉朗は、「中国大返し」と呼ばれる大反転行軍を行って京へ急進し、逆臣・明智光秀を討って信長の後継者になる。その後、ライバルの柴田勝家を倒して織田家を横領し、徳川家、毛利家、上杉家などを服属させ、一躍天下人の座に駆け上がったということは、読者もよくご存知であるだろう。


 半兵衛は「神の如き智謀の持ち主」と人から評された男だが、その半兵衛でさえ、この天正三年の段階で十年後の藤吉朗の姿を正確に予見することは、まったく不可能であった。蓋然がいぜんと必然をどう組み合わせても、十年後の藤吉朗に天下人を見ることはできなかったであろうし、そんな無意味な空想――というよりはむしろ夢想――を、真面目に考えてみようともしなかったに違いない。半兵衛は予言者でもなければ占い師でもなく、一寸先が闇であるのか光であるのかさえ解らないという意味において、我々とまったく変わらない普通の人間なのである。

 それは、藤吉朗に関しても変わらないし、小一郎に関しても無論変わらない。現代から四百五十年ほど前に実在した、ただの人間であるに過ぎない。


 そのただの人間が、百姓の子に生まれたという意味ではまさに最下層から這い上がって、ついには天下を取った。無数の偶然が積み重なり、無数の条件が折り重なって、このただの人間を、天下人にまで押し上げてしまったのである。


 それはもはや、人智を超えた天運の巡りとしか評しようがない。




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