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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第65話 小一郎の日常――天正二年 冬

 天正二年(1574)も晩秋を迎えようとしていた。

 琵琶湖畔の田園はすでに稲の刈り入れを終え、秋きの麦が青々と芽吹いている。

 秋色に染まった伊吹の山々と、よく澄んだ秋晴れの高い空。

 陽光に輝く琵琶湖を背に、今浜の丘に立ってそれらを眺めていると、


(これが見渡す限り、ぜんぶ兄者のモンになったんやなぁ・・・・)


 という感慨が、改めて小一郎の心を満たした。


 今浜の、羽柴家の新たな城を築いている普請現場である。絶え間なく響くのみつちの音、大工や人夫たちの威勢の良い掛け声や怒声さえもが、今は妙に耳に心地良い。


 今浜には遠い昔、北近江を治めた京極氏の城があった。その城跡に目を付けた藤吉朗は、ここに羽柴家の新たな本拠を置くことを決めた。今浜は陸上・湖上交通の要衝であり、周囲は広やかな平野で水源も豊富ときている。城下町を開くにうってつけの場所と言えるだろう。

 新しい城は、半兵衛がその渾身こんしんの知恵をもって構想し、それを叩き台にして藤吉朗や諸将と練りに練って設計したものである。藤吉朗にとっても本格的な築城は初めての経験だが、それが己の居城となれば想い入れもより一層深くなろうと言うものだ。

 敦賀守備の戦務の傍ら、藤吉朗は足繁くこの今浜に通い、今年の夏あたりから領民を動員して堀を掘り、土塁を掻き揚げ、石垣を積むなどの基礎工事を始め、同時に町の縄張りなども行っていた。この秋の農繁期が済み、百姓たちの手が空いたら、今度は領民を大動員して小谷の武家屋敷と城下町を今浜に移築し、同時に湖北の商業の中心であった箕浦みのうら、平方といった町の住民に城下への転居を命じ、一気に町作りを進めてしまう算段である。まずは経済の府としての機能を確立し、平行して徐々に築城を進め、これが完成し次第、小谷城を引き払って本拠を移すことになるであろう。


(兄者も晴れて、一国一城の主や・・・・)


 墨俣や虎御前山のような臨時の砦ではなく、横山城のような使い古しの借り物でもなければ小谷城のようなもらい物でもない。

 羽柴家の家来とその領民たちで築く、藤吉朗のための城。

 大げさに言えば、この日本に人間が誕生して以来、百姓の子が己の持ち城を築くなどということはかつてなかったであろう。


(とはいえ、まだ出来上がるには一年は掛かるか・・・・)


 小一郎は一人笑いした。

 羽柴勢には、北陸を監視し、一向一揆勢の南下を押さえるという戦務が常にあり、それに加えて信長はしょっちゅう別方面への出陣を催促してくるから、築城と町作りのみに労力を集中することができないのである。信長の天下布武が完成を見るその時まで、多忙な日々が続いてゆくことは間違いがない。


「あぁ、義兄上あにうえ、こちらでしたか」


 忙しそうに働く人夫たちの間を縫うように義弟の浅野弥兵衛が小走りに寄って来た。


「普請場ちゅうても広いですからな。えらい探しましたぞ」


 弥兵衛は健康そうに笑った。

 見ると、背後に一人の痩せた青年を伴っている。わずかに汚れた藍色の小袖姿。武家風のまげは結っているが、帯刀していないから武士ではないのかもしれない。


「こちらが、先日お話しました増田ました仁右衛門にえもん殿でござる」


「あぁ――」


 羽柴家に仕官を希望する人間が、日に二、三人はこうして小一郎の前に現れる。旧浅井家の重臣や相当に世間に名が売れた名士なら直接に藤吉朗が応接するが、世間的にあまり知られてない有象無象の一次面接をするのは小一郎の役目になっている。その人柄を見、履歴を聞き、これはと思う者は藤吉朗に推薦し、あるいは自分の家来として召抱えもする。


増田ました長盛ながもりと申しまする」


 青年は人見知りするタチなのかややぎこちなく、それでも丁寧に頭を下げた。

 苗字を名乗る以上、ただの百姓・町民でもないらしい。一見したところ弥兵衛と同世代のようだから、二十代後半であろう。


(おやおや・・・・)


 顔を上げた青年は、ちょっと珍しいほどの斜視であった。無精髭が目立つことを割り引けば顔立ちそのものはなかなか端正なのだが、その目が三白眼で、しかも近視でもあるのか常に眉間に深い縦皺が走り、本人にその気はなくとも向かい合った小一郎は睨みつけられているような気分である。

 小一郎は努めて柔和な笑みを浮かべ、


「お話は、弥兵衛の方から聞いております。羽柴家のために、お力をお貸し願えるとか・・・・」


 と、慇懃いんぎんに応じた。

 羽柴家に仕官をお望みか――というような居丈高な言い方は、小一郎はしない。十二万石の羽柴家における第一の重臣――国主様の御弟君にして八千五百石という大名並みの高禄を食む大身の武士――にしては、異例すぎる気さくさと腰の低さである。

 が、根が百姓である小一郎にとっては苦にもならない。訪ねて来る者には常に自分からへりくだり、それぞれ勇者や賢者を遇するように応接するよう心がけている。

 面白いもので、この小一郎の鄭重ていちょうさを目の当たりにすると、面談した者は大いに恐縮し、また感激もし、大抵コロっと参ってしまう。


 ところがこの青年は、


「いや、まだ、その・・・・」


 と困惑したようにどもり、助け舟でも求めてか弥兵衛にさかんに視線を飛ばしている。


(ん? 本人はさほど仕官に乗り気でもないのか・・・・?)


 小一郎が表情だけでわずかにいぶかると、


「この増田殿は、算盤さんばんと帳付けの達人でございましてな。箕浦みのうらいちで、その速さと確かさにおいて増田殿の右に出る者なしと評判でござったゆえ、是非にもと引っ張って参りましたわ」


 弥兵衛が明るく種明かしをしてくれた。

 どうやら半ば無理やりに連れてきたものらしい。


 ちなみにここで言う「帳付け」というのは、以前、小一郎が半兵衛から習った帳面付けの技術のことで、現代でいう複式簿記の原型になったものと思えばいい。

 西洋の技術である複式簿記を明治期に日本に輸入したのは福沢諭吉と言われているが、近江を中心に行商を行っていた「小幡おばた商人」は室町期には独自にこの技術を発明していたらしい。「小幡商人」が「近江商人」と呼ばれて全国的に有名になった江戸中期頃には、現在の複式簿記と酷似した形で完成していたという。


(箕浦の市で、右に出る者なし、か。そりゃ大したもんや・・・・)


 小一郎はその技能に素直に感心した。

 鎌刃城に近い箕浦は、近江の南北通商の陸の中心であり、湖北でもっとも大きな市が立つ場所である。そこで一番と言えば、天下でも有数の経理の達人、ということになるかもしれない。


「こりゃ御見それしました。それほどのわざをお持ちとなれば、こちらから辞を低うしてお誘いせにゃならんとこでしたなぁ」


 小一郎がいろいろと話題を振り、質問をすると、青年は短い言葉でボソボソと、しかし過不足なくそれに応えた。やたら汗をかいているところを見ると極度に緊張しているらしいが、その顔にあまり表情はなく、愛想笑いすら浮かべてくれない。何よりひどい斜視のため、目を合わせて話している感じさえしなかった。

 ともあれ聞いたところでは、この増田長盛は、浅井郡益田ました郷の歴とした地侍の子であるらしい。商売に早くから興味を持ち、刀よりも筆を握ること、弓よりも算盤をはじくことを好み、成人してからはわずかな郎党を率い、半農半商で暮らしを立てていたという。規模は小さいながら、履歴としては蜂須賀小六などと近い。

 今浜に国都が出来、箕浦の町民も今浜の城下町に強制移住することが決まったから、この機に領主の羽柴家と繋がりを持ちたいと思ったのかもしれない。


(頭は切れるんじゃろうが、何とのう雰囲気が暗いのぉ)


 お世辞にも、積極的に好きになれそうなタイプではない。

 しかし、羽柴家が国持ち大名にまで出世を果たした今、こういう算術計数に明るい者は喉から手が出るほど欲しい。刀槍の勇者は武士にはいくらでも居るが、内治財政に才のある者というのは思いのほか少ないのである。


「是非ぜひ我が殿にお会いくだされ。増田殿のようなご仁のお力が、新しき羽柴家には大いに必要でござるゆえな」


 小一郎は、藤吉朗に強く推挙することを約束し、後日、この若者を小谷城に招くことにした。


 増田長盛は、藤吉朗からその技能と几帳面な性格を買われ、即日、召抱えられた。戦場で敵を討ったり捕虜にしたという類の功名は生涯で一度もなかったが、兵糧・荷駄の計算や管理、その輸送業務などをやらせると仕事が実に迅速、かつ正確で、まったく疎漏がなかった。ほどなく羽柴家の財政や経理までを任されるようになり、その数学的素養を遺憾なく発揮し、藤吉朗の中国遠征などを陰で支える重要な存在になってゆく。やがて藤吉朗が豊臣秀吉となって天下を取ると、「刀狩り」や「太閤検地」などといった天下行政に大きな功績を立て、さらに小一郎の死後、豊臣家の内政・財政面を統括する五奉行の一人にまで登り、大和郡山こおりやまで二十万石の大名になるのである。


 この増田長盛が象徴するように、古くから経済が発達した近江の出身者というのは、理財に明るい者が多い。羽柴家が大きくなればなるほど、治政の才、経理の才がある文吏型の者は重宝され、重用されるようになるわけだが、藤吉朗に気に入られて文吏派の筆頭にまで登り詰め、小一郎亡き後の豊臣家に巨大な影響力を持つようになる近江者の代表が、高名な石田三成である。

 佐吉と名乗り、寺で学問を学んでいた少年時代の三成が、たまたま鷹狩の帰りにその寺に立ち寄った藤吉朗に、ぬるい茶、やや熱い茶、熱い茶と温度と量を変えて三度茶を振る舞い、その機転に感じ入った藤吉朗に小姓として召抱えられたという逸話は、あまりにも有名であるだろう。あるいは後世の創作かもしれないが、『武将感状記』などに出ているところを見ると、江戸中期ごろには世間に相当に流布されていたらしい。

 その石田三成が羽柴家に召抱えられるのも、まさにこのあたりの時期である。


 羽柴家の財布は小身の頃から今日までもっぱら小一郎が握り、寧々の伯父である木下七朗左衛門などがこれを補佐して切り盛りして来た。北近江の内治に関しても多忙な藤吉朗に代わって小一郎が見ることが多かったが、羽柴家が組織として大きくなれば、これまで混然としていた兵站へいたん輜重しちょう、経理、財政、民政などの分野でもそれぞれ専任者が出来、自然の流れとしてその中で能力のある者が責任ある地位に就き始める。

 北近江で召抱えたこういう利口者たちが増えてくるにつれ、小一郎の裏方としての雑務が減ってゆき、その負担が随分と軽くなった。


(わしの仕事も、今までとは変わっていかなならんちゅうことやなぁ)


 と、小一郎は思う。

 羽柴家の家臣は急激に増えつつある。木下家時代からの古参の者も居れば、寄騎から家臣に転籍してくれた者もあり、北近江で新たに召抱えた者も多い。これら雑多な人間たちの間を調整したり、諍いが起こらぬようさばいてゆくマネージャー的な働きこそが、これからの小一郎に求められる役割であろう。


(兄者のために・・・・・)


 という想いだけは、不思議と小一郎の中でブレることがない。

 この小一郎という男は、どうやら補佐役が天職であったらしい。



 さて――


 この天正二年の冬、信長から、全領国の道を整備するよう触れがあった。

 信長の領国は美濃、尾張の本領はもとより、伊勢、志摩、近江、若狭、山城、大和、摂津、河内かわち和泉いずみにまでまたがる広大さとなっており、領国内の軍勢の移動を容易にし、その行動速度を上げるには、街道整備が不可欠だったのである。


 信長の指示は、常に具体的で実に細かい。

 本街道を三間二尺(6.1m)、脇往還は二間二尺(4.2m)、在所道は一間(1.8m)とそれぞれ幅を決め、軍勢が移動することが多い主要街道には道路部分の両端に高さ三尺の土手を築き、そこに街路樹として松か柳を植え、さらに道と土手の間に排水用の溝まで作れ、という徹底ぶりである。街道筋に暮らす者たちには、街路樹の世話と道の掃除を常に行うことが義務付けられた。


 中世以来、この国にはいたるところに関所が置かれ、土地土地の支配者によって通行税が掛けられ、それが人とモノの往来を阻害し、経済の成長と発展を妨げてきた、ということはこの物語で何度か触れたが、織田領では信長の政策によって軍事目的のもの以外の関所はすべて取り払われている。この上で信長は、悪路をならし、道幅を広げ、川という川に橋を作り、琵琶湖南端の瀬田には浮き橋まで架け、東山道の番場から佐和山方面へと山を開鑿かいさくしてショートカットする新たな街道を通すなど、全国のどの戦国大名よりも領国の街道整備に力を入れていた。軍勢や物資の移動、情報伝達の速度などが上がることはもちろん、関税の撤廃によって物価が下落し、人とモノの移動も活性化し、物流が加速することで領民たちの生産性と生活レベルまでが向上し、結果として大きな経済効果を上げている。

 まさに卓見であり、後世の我々から見てもその政策はまったく正しい。


 ただし、信長と同時代に生き、彼に追い使われる家来たちにとっては、そう嬉しいことではなかったかもしれない。

 ことに、織田領となって日が浅い北近江では、新領主の藤吉朗が国都の開発と新城の築城をまさに行っている最中であり、この上、道普請に否応無く動員されるわけだから、その労役の負担は領民たちにとってなかなか厳しいものであった。


(浅井が領主であった頃の方が、暮らしが楽やった――なぞと怨みに思われてはかなわんなぁ)


 と、小一郎は思う。

 重い労役が度重なるが、築城も城下町作りも、もちろん信長が命じた街道整備も、せぬわけにはいかないのである。領民たちから苦情が出ぬようにするには、せめて人夫の日当の支払いが滞らないようにせねばならないであろう。


(十二万石はもろうたが、羽柴家の台所は火の車じゃわ・・・・)


 疲弊した領民たちの生活を救済し、さらに新領主に対して親しみをもってもらう意図もあって、藤吉朗は百姓たちの今年の年貢ねんぐをかなり減免している。さらに今浜の城下町に転居する者に関しては地子銭(宅地税)と諸役しょえき(雑税)も免除する旨、すでに通知しているから、この善政に対しては、庶民の評判はすこぶる良い。

 ただし、それだけ減税措置をしていれば、羽柴家の収入が大幅に減ることも間違いない。連年続く戦費の負担も重く、小一郎がどれだけ走り回って金策しても、羽柴家の借金は増える一方であった。


「また堺の宗易そうえき殿にでも泣きつかなならんのぉ・・・・」


 小一郎は執務室になっている小谷城の居室で呟いた。経理状況をまとめた報告書を見るにつけ、ため息をつきたくなる。


「せめて二年、戦をせんと国作りに専念させてもらえりゃぁなぁ・・・・」


 しかし、織田家の武将にそんな安閑とした時間が与えられるはずもない。安閑どころか、藤吉朗のこの時期の多忙は哀れなばかりであった。

 藤吉朗は信長から命じられてまたまた北近江を留守にし、新たに織田領になった大和(奈良)へと赴き、南都の寺社勢力の懐柔と取りまとめに奔走させられているのである。北近江の国作りと敦賀の守備に加え、奈良の世話まで焼けというのだから無茶苦茶と言うしかない。

 藤吉朗は精兵五百騎を選び、僧あがりで寺社と話が通じやすい宮部善祥坊ぜんしょうぼうと、交渉上手な蜂須賀小六を連れて大慌てで出かけて行った。


(便利使いするにも、ほどっちゅうもんがあるわ・・・・)


 やむを得ず、敦賀の守備は前野将右衛門を将にして二千の兵を預け、生駒いこま親正ちかまさ御子田みこだ正治まさはるらの物頭を付け、残りの兵は築城と城下町作りに振り向け、半兵衛と浅野弥兵衛にその指揮を任せている。

 となれば、必然的に北近江の内治と街道整備に関しては小一郎が一人で責任を持たざるを得ない。


 堀家の騒動で、有能な樋口三郎左衛門を失ったのも痛かった。

 老練な三郎左衛門は大軍を預けて軍務を任せても安心感があり、さらに人使いが上手く民政が巧みで、堀家傘下の地侍や坂田郡の領民たちからも非常に慕われていた。あの老人が生きてあれば坂田郡に関してはまったく任せ切ることができ、小一郎の負担は半減したであろう。


(新たに召抱えた近江の利口者たちがおらなんだらと思うと、ぞっとするな・・・・)


 これに加えて敦賀への兵站事務と財務経理までやっていたら、寝る間もなかったに違いない。

 文机の左右には、小一郎の決済を待つ書類が山と積まれている。朝からそれらと格闘しているのだが、正直なところ、うんざりし始めていた。

 そうこうしていると、背後の襖が静かに開き、


「在所在所の名主、大百姓の方々が揃われましてござりまする」


 最近小姓として召抱えた大谷紀之介きのすけという少年が、小一郎を呼びに来た。

 村々の豪農を集めたのは、彼らの協力を仰がねば街道整備が出来ないからである。道を良くすること自体は誰もが歓迎するだろうが、それをやれと言われる方はたまったものではない。頭を下げ、機嫌を取り、諸役の免除などと引き換えに何とか納得させ、労働力を出してもらわねばならない。


「そうかそうか。茶菓を――いや、酒を出して皆に存分に飲ませてやってくれ」


 小一郎は重いため息をつき、冷え切って水になった白湯で喉を湿らせると、広間へと足早に歩き出した。




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