第64話 羽柴家の内訌(2)
この天正二年(1574)の夏、小一郎が藤吉朗の名代として羽柴勢を率い、伊勢 長島の一向一揆攻めに参加していた、というのは先にも触れた。
『信長公記』の長島攻めの件を見ると、そこに「木下小一郎」の名を二箇所ばかり見つけることができる。
浅井の滅亡の前後から藤吉朗は「羽柴 筑前守 秀吉」と羽柴姓で表記されるようになるのだが、小一郎をはじめ一門の者はその後も一貫して木下姓のままで書かれているから、あるいは公式に羽柴姓を使っていたのは藤吉朗だけであったのかもしれない。
北陸の鎮定に当たっている羽柴勢にまで出陣の下知があったことでも解るように、信長はこの長島攻めに織田家の主力を総動員した。その軍勢は一説に七万とも言われ、柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、滝川一益ら司令官級はもちろん、嫡男・信忠、伊勢を治める次男・北畠信雄、三男・神戸信孝らにそれぞれ兵を授け、尾張、美濃、近江、伊勢、志摩の大小名をこぞって陸海両面から長島を包囲した。
五畿内や若狭の大名を除けば、めぼしい武将でこれに参加しなかったのは京周辺を守備していた明智光秀と、名代で小一郎を出した藤吉朗くらいであったろう。
信長は七月十三日に岐阜を出陣し、その日のうちに津島に入ると、長島地域を蟻の這い出る隙間もないように包囲し、多数の軍船を並べて海上も封鎖し、二ヶ月半を掛けて長島の包囲をじわりじわりと狭めていった。
一揆勢は必死に抵抗し、織田方に相応の流血を強いたが、篭城の準備が満足に整っていなかったらしく、包囲二ヶ月後には糧食が尽き、餓死する者も相次いだ。
やがて一揆勢は降伏を申し入れるのだが、信長はこれを許さない。
戦える者たちは打って出ることを選び、包囲網からの絶望的な脱出を試みたが、織田軍は容赦なく門徒たちを撃ち殺し、あるいは突き殺し、斬り殺した。長島の砦には、すでに戦う力のない者や女・子供が二万人ほども残された。これに対して信長は、周囲を柵で囲んで閉じ込め、四方から火を放って焼き殺したという。
根切り――つまり老若男女の別ない皆殺しであり、日本史上、かつて類例を見ない規模の大虐殺であった。死者の数は、比叡山のときの十倍近かったであろう。
人肉が焦げる匂いが充満するこの地獄のような戦場で、悪鬼さながらに殺戮を繰り返す織田家の武士たちが、その心中に何を想ったか――そのことは、史書にあまり触れられていない。『信長公記』では、「存分に長年の鬱憤を晴らした」という意味の一文があるのみである。
小一郎は、胃のあたりから上ってくる苦い汁を何度も飲み下しながら、目を背けたくなるようなその地獄絵図と向き合っていた。
宮仕えの辛さというものであろう。信長の命令に従うことに、善悪正邪の別はないのである。それができぬというなら、織田家を去るしかない。
(これが、信長さまの戦や。是も非もない・・・・)
信長は、「己の描く天下の姿」にとって不必要なものには、一切の妥協や容赦をしないのである。比叡山の焼き討ちに象徴されるように、「武力を持つ宗教勢力」に対してその姿勢は徹底している。
「この味の悪い戦も、そろそろ終わりですな」
小一郎の傍らに佇んでこの光景を見守っていた蜂須賀小六が言った。
「肉が焼ける臭いが身体に染み付くようじゃ。水でも浴びて清めたい気分やが、揖斐川の流れまでが紅う染まっとるわ」
常に飄々とした前野将右衛門の表情にも、さすがに生彩がない。
この二人は、小一郎を補佐するために付けられ、長島まで共に出張っていた。戦のことについてはもちろんだが、より精神的な意味で、彼らが傍に居てくれたことが小一郎にとってどれほど救いになったか解らない。
「早う小谷に帰りたいもんじゃ・・・・・」
小一郎は呟くように言った。
正直なところ、一秒でも早くこの戦場を離れたかった。
小一郎が北近江で起こった「事件」とその顛末を知ったのは、ほんの数日前――九月下旬のことである。
「拙いことになりましたな」
木の芽峠の砦に新たな兵員を入れるなどの手当てを終え、小谷城に戻った藤吉朗は、ただちに半兵衛らと善後策を協議した。
「これほど重大な軍令違反――遅かれ早かれ岐阜さまのお耳にも達しましょう。容赦のない岐阜さまのこと。この機に二郎殿を殺しておしまいになるかもしれません」
堀氏を織田家に帰属させたのは、他ならぬ半兵衛である。その堀が信長によって滅ぼされるという事態だけは、何としても避けたかったに違いない。
「黙って誅されるほど堀も腰抜けではありますまい。鎌刃の城で篭城・抗戦となりますか・・・・」
義弟の浅野弥兵衛が呟くように言った。
この青年は藤吉朗ほどの才覚はなく、半兵衛ほどの知恵もないが、心根が純良で考え方が物堅く、周旋の才があったという点、タイプとしては小一郎に似ている。まだ二十七歳と若いが、状況に応じて常識的で正確な判断を下すことができる男であった。
「堀の戦支度が整わぬうちに、我らから素早く押し出して城を押さえてしまう方が良いのではありますまいか。放っておけば、後々面倒なことになるのでは?」
「・・・・・・・・・・・」
半兵衛が弥兵衛をわずかに見た。
半兵衛にとってみれば堀を攻め滅ぼすなどは論外であったろうが、弥兵衛の意見も一理はある。
「我らから大仰に軍勢など差し向ければ、望む望まぬに関わらず堀も城に篭って抗戦せざるを得なくなる。戦になれば取り返しがつきません」
「半兵衛殿は、どうのようにするが最善とお考えなのか?」
逆に弥兵衛が半兵衛の意見を質した。
「二郎殿を殺さず、堀家を滅ぼさずに済ませたいというのが本音ですね」
「それは解ります。わしもそれが一番ええとは思いまするが、事がこのまま済むはずがない。いずれ信長さまから何らかの沙汰がありましょうが、それまで手をつかねて見ておるが良いと申されるのですか?」
「・・・・・・・・・・」
珍しく、半兵衛が言葉に窮した。
「まぁ、待て、弥兵衛。お前が言うとることくらいは、わしも半兵衛殿も先刻承知じゃ。わしらが動いても戦になり、動かずともいずれ戦になる。わしが許しても信長さまがお許しにならんじゃろうからの。このままでは、どちらに転んでも二郎殿の首を見ねば話は収まらん」
それまで黙然と腕を組んで考え込んでいた藤吉朗が、やっと発言した。
「堀を滅ぼさずに済ます手立ては、半兵衛殿もすでに解っておる。解っておっても口には出せんのだ」
「は?」
弥兵衛は首を捻った。
「堀を滅ぼさずに済ます手がありまするので?」
「ある。ちゅうか、二郎殿が腹を切らずに済む手はひとつしかない。それは、鎌刃城に馳せ帰った三郎左衛門殿もよう解っておられよう」
藤吉朗は胡坐の足を組みかえると、大仰にため息をついた。
「わしゃあの老人が好きじゃったが、詮無いことをした。わしがもっと早う二郎殿と馴染みを深めておれば、殺さずに済んだやもしれん」
そこまで言われて、弥兵衛はやっと気がついた。
三郎左衛門に、今回の不祥事の責任の一切を押し被せて、死んでもらうしかない、と言っているのである。
「いや、しかし、あのご老人には何の咎も・・・・」
弥兵衛はほとんど反射的に言ったが、言ってしまってから自分の発言の意味のなさに思い至った。
「三郎左衛門殿がいかに主家想いであられるかは、お前も存じておろうが。堀家を潰さぬためであれば――というより、二郎殿を死なせぬためであれば、アレは喜んで腹でも何でも切る。忠臣とはそういうもんじゃ。逆に、あの老人を救うために二郎殿を殺しても、三郎左衛門殿は決して喜ぶまい・・・・」
藤吉朗が諦め切ったような渋い顔で言った。
両手を胡坐の膝に置いて瞑目していた半兵衛が、それに同意するように静かに一揖した。
「私に、横山城の兵を貸していただけますか」
横山城には、二百ほどの兵が駐屯して空き城を守っている。
後始末は自分が付ける、と言っているように、弥兵衛には聞こえた。
「よろしいのですかな?」
藤吉朗が気遣わしげに念を押すと、半兵衛は無言で頷いた。
「万一、堀が自暴自棄になって篭城の支度をしておるようなら――」
その場合、すでに三郎左衛門は鎌刃城で殺されているだろう。
「無理に事を収めようとせず、必ずわしに報せてくだされよ。こんなことで半兵衛殿の身まで危険に晒すわけにはいきませんからの」
自分が動けば事がより大きくなるということが解っている藤吉朗は、そういう言葉で半兵衛を送り出した。
樋口三郎左衛門が樋口家のわずかな手勢と共に木の芽峠から馬を責めに責めて鎌刃城まで戻ったとき、堀二郎は城の広間で、昼間から数人の重臣たちと共に酒を飲んでいた。
戦草鞋で板床を踏み鳴らし、広間の中央あたりでどかりと腰を降ろした三郎左衛門は、小具足姿である。その顔は日に焼け、戦塵と旅塵とで黒々と汚れている。それと対照的に、上座の若い主君の顔は生白く、酔いのためか微かに紅味がさしていた。
「三郎左衛門、如何した。木の芽峠を固めておったのではないのか?」
その顔を見たこの若い当主は、さすがにバツが悪そうに苦笑したが、それでも盃を置こうとはしなかった。
「城篭りの支度でも始めておるものかと思いましたが、存外なご様子。驚き入る」
三郎左衛門は、まっすぐに若い主君の顔を見つめながら言った。
「何を言うておる? 何ゆえわしが戦の支度なぞせねばならぬ」
「殿は、己の置かれた立場というものが、よう解ってはおられませぬな」
「何?」
「いかなる者の甘言をお容れになったか、あるいは殿のご一存か、それはそれがしは存じませぬ。今となってはどうでも良いことじゃ。ただし、殿に腹を召される覚悟あってのことかどうか、こればかりは念を押しておかねばなりませぬな」
三郎左衛門の言葉とその表情の厳しさで、若者はようやく事態の重大さが解ってきたのかも知れない。
「腹を切るだと? 三郎左衛門、何をうろたえておる」
返す言葉とは裏腹に、所作や表情に明らかな動揺が見て取れた。
「うろたえられたは殿の方じゃ。戦場より勝手自侭に兵を引き上げるなぞ、岐阜さまに弓引くも同じこと。敵わぬまでも岐阜さま相手に一戦し、天下四方に堀の弓矢の名誉を響かせるが本懐と思われるなら、なぜ今ごろご酒なぞを浴びておられる。ただちに陣触れをし、兵を募り、この城に兵糧、弾薬なぞも運び入れ、篭城の支度をなされよ」
若者は、百戦を経たこの老人の怒りの眼光に居竦んだ。
「馬鹿な。わしは織田家に弓引くつもりなど寸毫もない。ただあのトウキチめに・・・・」
とまで言って、絶句した。
自分が取り返しのつかないことをしてしまったのだということに、やっと気付かされたのである。
木の芽峠から堀の兵を引き上げることにについて、堀二郎にさしたる定見や先の見込みがあったわけではない。ある家老の無責任な言葉に軽率に乗っただけで、これまでの働きに対して恩賞もよこさぬくせに、さらに半年以上もの戦務を強いる殿様・藤吉朗への嫌がらせというか面当てのつもりであって、いわばほんの悪戯心から出たものだった。織田家に対する叛意なぞは露ほどもなく、叛意も何も、織田家に叛けば弱小の堀家は瞬時に滅ぼされるということは、さすがにこの若者も解っている。
「・・・・戦になるというのか」
ほとんど呆然と言った。
「・・・・織田の大軍が、この城に攻め寄せて参ると申すのか」
「殿のなされたことは、そういうことじゃ」
「わしにそんなつもりはない」
「殿にそのおつもりがなくとも、向こう様にとっては渡りに船じゃ。浅井が滅びた今、岐阜さまは名目さえ立てば、すぐにも堀を滅ぼしたいと思うておられる」
坂田郡は、岐阜の関ヶ原と近江とを繋ぐ交通の要である。で、あるだけに、いつ敵に寝返るかも解らぬ外様大名に任せておくよりは織田家の直轄地にしてしまいたいと信長が考えるのも無理はなく、藤吉朗に坂田郡を与えたのは、その代替行為と言っていい。信長の堀氏に対する認識というのは、「無くてはならぬ盟友」というようなものではなく、「織田家の役に立った」という点を考慮しても、せいぜい、
(滅ぼさずにおいてやるだけでも有難いと思え)
という程度の存在に過ぎないのである。
そういう想いが信長の意識の根底にあるからこそ、信長は堀の働きに対して一切の恩賞を与えなかったのだろう。
その堀が、戦場放棄という重大な軍令違反を犯した。
信長は、得たりとばかりに堀を潰し、その領地を丸ごと藤吉朗に与えてしまうに違いない。
「そんなことも解らぬか!」
と、この老人は一喝した。若い主に向けた言葉というよりは、その左右に侍る無能な老臣たちへの怒声であったろう。
「わしは・・・・どうすればよい・・・・?」
堀二郎の身体から、一時に酒気が消えた。顔色が、哀れなほどに青ざめている。
「堀の名を惜しみ、この城を枕に討ち死になさるか、堀の家名を遺すため、城地を捨て、身ひとつで羽柴殿に詫びをお入れになるか――ふたつにひとつでござる」
「詫びれば、まだ許されるのか?」
若者の顔にわずかに安堵の色が見えた。
「羽柴殿は、度量海の如く広いお方でござる。殿が誠心誠意お許しを乞い、向後は心を入れかえてお仕えすると申せば、よもやお命まで取られることはありますまい」
その場合でも、自分の首は必要になる――ということは、三郎左衛門は言わない。この老人にすれば、この期に及んで心配なのは、手塩に掛けて育てたこの若い主の行く末のみであり、自分の命などはまったく思案の外にあった。
「詫びる」
と、堀二郎は即答した。
自分の軽率な行為が、堀家の存亡に直結したということに、この若者なりに痛烈な自省の念があったのであろう。堀家の存亡は、若者個人の好悪の問題をはるかに越えている。堀に従う一族・郎党やその家族――数千の人間の命と将来が、この若者の選択ひとつに掛かっているのである。
「されば、まずは御家を死地に陥れた君側の奸を除かねばなりますまい」
三郎左衛門は言ながら片膝を立て、ひときわ音高く床を蹴った。
ほとんど同時に広間の左右の襖が開き、そこから武装した樋口家の兵が槍を持って現れ、たちまち主君の左右にいた老臣たちを槍玉に挙げた。三郎左衛門は、その年齢を感じさせない機敏さで堀二郎の膝元まで滑るように進み、危難が主にまで及ばぬようそれを庇っている。
堀二郎は、声もない。あまりのことに硬直し、飛び散った血を顔に浴びてもそれを拭おうともしなかった。
老人は、平静としている。
「後は、それがしが良きように仕りまする。殿は明日、一番に小谷城に赴き、羽柴殿に頭を下げ、城地を捨てて身を慎む旨、言上されよ」
そうすれば、たとえ堀家が取り潰されてもこの若者の命ひとつは助かるであろう。生きてさえあれば、そしてあの藤吉朗の忠良な家来として働いていさえいれば、いずれ累進して堀家を大きくしてゆくことも不可能ではない。この若者と、その主である藤吉朗の運次第ではあるが、堀家が信長によって滅ぼされ、この世から永久に消え去ってしまうよりははるかにマシだ。
それが、この知恵深い老人の判断であり、決断だった。
三郎左衛門はいったん己の屋敷に帰り、一族・郎党を集めてこれからの仕置きを定め、今後いかなることがあろうと羽柴家に忠を致すことを誓約させた。嫡子の太郎に後を託し、老妻と荷物持ちの老僕だけを連れ、静かに城下を去り、小谷城へと向かった。
ほどなく、日が暮れる。
姉川へと北上してゆく街道で、半兵衛が率いる一隊と行き逢った。
「これは・・・・」
驚いたのは、半兵衛である。
半兵衛は、鎌刃城下の樋口家の屋敷へと向かっているところであった。三郎左衛門に逢って今後の措置を相談し、場合によってはかつて稲葉山城を乗っ取ったの時のように自ら刀槍を振るい、あるいは謀略をもって堀家が仕出かした「事件」の後始末をする覚悟で居たのだが、三郎左衛門の処置がここまで早いとは思ってもみなかった。
「半兵衛殿か。これは手間が省けた」
笠を取り、松明に照らされた老人の顔に、透き通るような微笑が浮いていた。
涼を帯びた風が重い稲穂の隙間を吹き渡る秋の宵。
周囲では、うるさいほどの虫の音と蛙の声が響き渡っている。
「此度の堀の不始末、罪はわしが被る。すべてわしの一存であったことにしてもらいたい。我が殿は、己の不明を深く恥じ入り、身を慎む旨、ご承諾くだされた。明日、小谷城に赴かれることになっておるが――以後のことはあの猿殿と半兵衛殿にお任せしてもよろしいか?」
下馬した半兵衛に向け、三郎左衛門が言った。
長い付き合いの二人である。多くの言葉を必要とはしなかった。
「二郎殿のお命は、この半兵衛が誓ってお守り致します。また、堀家に従う者たちも、これまで通りに暮らしが立つよう、我が殿が良きように計らってくださいましょう」
「それを聞いて安堵した。半兵衛殿の言葉なら金石じゃ」
老人は嬉しそうに笑った。
「お腹を召されるおつもりですか?」
「最初はそれを考えたが、すぐにわしの首を見ては、信長も拍子抜けし、さらに欲張って我が殿の首まで寄越せなぞと言い出さぬとも限らぬ」
「すると・・・・?」
「わしは、逐電しようと思うとるよ。わしが逃げれば、信長は怒り心頭、草の根を分けても探して捕えようとするであろう。たとえそれが数日でも、追う分だけわしへの憎しみが深くなり、堀への怒りは浅くなろう――」
とまで言って、三郎左衛門は今気付いたという風に付け加えた。
「あぁ――わしが逐電すれば、ここまで出張って来た半兵衛殿がわしを取り逃がしたことになるか・・・・」
これはうかつじゃった、いっそここで腹を切るか、などと、この老人は呟くように一人ごちている。
半兵衛の頬に、我知らず好意的な笑みが浮かんだ。
三郎左衛門は、別に己の命惜しさで逃げようとしているのではない。生への執着なぞはすでになく、その命をどうやって捨てれば万人に得であるかをのみ考えているのである。この老人の心根の涼やかさであろう。
忠義というよりは、無私――
己の損得利害を捨て切った境地でいる老人を間近に見、
(あぁ、自分はこの仁のこういうところが好きだったのだな)
と改めて再発見するような悦びがあり、それが笑みとなって出た。
「南近江から、伊賀を指してお逃げになるのがよろしいでしょう。かの国は、未だ岐阜さまの支配の及ばぬ地です」
逃亡の幇助になるが、半兵衛はそれを恥とも思わなかった。無論、この言動が信長まで聞こえ、それで処罰を蒙ることになったとしても、後悔はしないだろう。
「最後の最後まで、半兵衛殿には借りを作ることになってしもうたのぉ」
老人は、どこか往時を懐かしむような口調で言った。
三郎左衛門と半兵衛の年齢には、実に三十近い開きがある。十代で子を作ることが珍しくもないこの時代、三郎左衛門から半兵衛を見れば孫の世代と言ってもそう不思議でなく、息子とすればよほど遅い生まれの子ということになるであろう。
その半兵衛に親炙し、ときに友のように語り、ときに賓師のようにその意見を聞き、共にこの戦国乱世を歩んだ。
無論、半兵衛にも相応の感慨がある。
「なんの。私が美濃を捨て、近江に流れた時――三郎左衛門殿には返し切れぬほどのご厚情を受けました。この程度のことは、お気になさいますな」
三郎左衛門は微笑のまま頷いた。
「されば半兵衛殿、今生の別れじゃ。藤吉朗殿やその弟御にも、色々と世話になった。よしなに伝えてくだされ」
三郎左衛門は手に持った笠を軽く上げ、傍らの老夫人は深く深く頭を下げた。
「こういう言い方も妙なものですが――どうか、ご健勝で・・・・」
半兵衛は目礼し、老僕も含めた三人の姿が闇に溶けてしまうまでそれを見送った。
連れて来た百人ほどの兵たちが所在無げに立ち尽くすなか、半兵衛は名残を惜しむようにその後もしばらく動こうとはしなかった。
樋口 三郎左衛門 直房、北近江より姿を消す――
当然だが、その報は信長をさらに激怒させた。
越前の一揆勢と勝手に和睦したこと。戦場で持ち場を放棄して勝手に兵を引いたこと。堀家にはこのふたつの重罪があったが、三郎左衛門が何も語らずに逐電したことによって、これがすべて三郎左衛門一人の罪となった。実際、木の芽峠の砦の守将は三郎左衛門であり、堀家の兵を率いていたのもかの老人だから、これは当然であったろう。
堀家当主の堀二郎がその重臣が犯した罪を詫び、早々と謹慎したのも功を奏した。
藤吉朗の口添えもあり、信長はさすがに堀二郎を殺すとまで過酷な刑罰を処すことができず、堀家の改易を命じることで鬱憤をわずかに晴らした。
「草の根を分けても樋口を探し出し、あの白髪首をわしの前に持って参れ!」
信長の厳命は諸国に通達された。
その数日後、三郎左衛門は、南近江の甲賀郡に入った辺りで蒲生賢秀の家中の者によって捕らえられ、老妻と共に首を刎ねられたという。この首が伊勢 長島へと運ばれ、信長の実検に供されたことが『信長公記』に記されている。
信長から事後処理を一任された藤吉朗の見事さは、堀家の武士たちのほとんどを堀家に居たときの禄高のまま羽柴家で抱え直したことであろう。堀家の武士たちは減俸などの経済的な打撃はほとんど受けないまま、羽柴家へ転籍するという形が取られた。その意味で、堀家は改易されたというよりは、羽柴家に吸収されたと見る方が正しかったかもしれない。
藤吉朗は冷却期間を置いて堀二郎の謹慎も解き、これに再び千石を与えて召し抱え、物頭にした。自らの死をもって自分を救ってくれた三郎左衛門の忠言はこの若者の人生観や価値観にも大きな影響を与えたようで、これ以後、堀二郎は名実共に羽柴家の臣となり、やがて小一郎――豊臣秀長の家臣として大名になり、慶長四年(1599)まで生きる。堀家の家名を存続させたいという三郎左衛門の望みと、堀二郎を殺させぬという半兵衛の約束は、共に果たされたというべきであろう。
さらに付け加えるなら、藤吉朗は樋口三郎左衛門の縁者に関しても一切の処分を行わず、これを羽柴家で召し抱え直したらしい。三郎左衛門の嫡男――と筆者は推定している――樋口太郎は羽柴家の旗本として中国攻めなどで活躍しているし、後の豊臣家や小一郎の大和大納言家に樋口姓の家臣が見られるのは、いずれも三郎左衛門の近親者だと筆者は考えている。
忠臣の子は必ず忠臣となる――というような考え方が当時はあったらしいのだが、藤吉朗や小一郎が、三郎左衛門という老人をいかに好いていたかというのがこの一事でも解る気がする。
ともあれ、雨降って地固まるの俗諺通り、この「事件」をきっかけに羽柴家の北近江支配は大いに強化され、藤吉朗はその領国十二万石を完全に掌握することとなった。