第62話 十二万石の大名(2)
信長は、まるで生き急いででもいるかのように常に動いている。
その手持ちの軍勢を、無駄に遊ばせておくようなことは一切しない。
浅井・朝倉を滅ぼした信長が、行きがけの駄賃とでも言うようにそのまま軍勢を南下させ、南近江の鯰江城に六角承禎(義賢)を攻め、六角氏を事実上滅ぼした、というのは先にも触れた。
この頃、政情の変化に危機感を持った本願寺から和睦の提案があり、その交渉が水面下で進められていたのだが、信長はそれにもお構いなしで、この機についでに伊勢 長島の一向一揆をも討伐しようと思い立った。
これまでも何度か触れたが、長島は東海地方における一向宗の一大拠点で、岐阜城から南にわずか一日の距離にある。本願寺が織田家に対して兵を挙げて以来、岐阜に本拠を置く信長は喉首に刃物でも突きつけられたような状態であり、そのため常に兵力を割いてこの地域を封鎖しておかざるを得ず、織田家の軍事行動がどれだけ邪魔されてきたか解らない。
武田信玄の脅威が去り、浅井・朝倉を滅ぼして一時的に周囲の軍事的圧力がなくなっている今こそが、疼く虫歯のように不快な長島を退治てしまう絶好の機というべきであろう。
浅井の滅亡からわずか半月後――新領地の慰撫も手付かずの羽柴勢に、早くも出陣の命が下った。
一揆討伐のため北伊勢に兵を出せ、というのである。
「わしゃとりあえず兵を率いてすぐに発つ。物事の遅延は、信長さまがもっともお嫌いになるところやでな。後のことはおいおい考えるとして――」
藤吉朗は手を合わせるようにして小一郎に頼んだ。
「この時期に百姓どもに一揆騒ぎでも起こされればわしの首が飛びかねん。半兵衛殿も置いてゆくで、村々の名主やら庄屋やらの頭をきっちり撫でておいてくれ」
煩雑な政務が山積するこの時期に国を空けるのは藤吉朗にとっても痛かったが、それが信長の命令だというのなら否も応もない。ここは、半兵衛の知恵・才覚と、小一郎の類稀な調整力と堅実な実務力とに望みを託すほかないであろう。
藤吉朗は、二千の兵を小谷城に残し、精兵一千のみを率いてすぐさま北伊勢へと出向いて行った。
このとき信長は、攻めにくい長島地域には直接手を付けなかった。これを影で支援する北伊勢の諸豪に軍事的圧力を掛け、さらに南近江から伊勢へと逃れた六角氏の残党を討伐することをさしあたっての目標にしていたらしい。
大軍を動員したにも関わらず北伊勢征伐は威力外交に終始し、戦らしい戦はほとんど行われなかった。当然の帰結として、羽柴勢にさほどの活躍の場は巡って来ない。西別所というところに立て篭もった一揆勢を、佐久間信盛、丹羽長秀らと共に攻めたことが『信長公記』に記されているのみである。
いずれにせよ信長は、桑名付近の十三もの小豪族を降伏、あるいは帰順させて織田家に取り込んだ。信長は翌年に長島一向一揆の殲滅作戦を実行に移すのだが、そのための布石と言っていい。
ひとまず満足した信長は、十月二十五日に兵を引いた。
が、長島の一揆勢も黙ってはいない。織田軍の退却に狙いを澄まし、出戦攻勢を掛けてきた。地理を知り尽くす一揆勢は多芸の山中を迂回して先回りし、隘路をゆるゆると行軍してゆく織田軍の側面から弓・鉄砲などを乱射しながら襲い掛かったため、織田軍はさんざんな被害を受け、無残に壊走したらしい。この一揆勢には、伊賀・甲賀などから援軍に駆けつけた六角氏の息の掛かった地侍が多数加わっていたという。
(おのれ一揆の奴輩、いずれ根切りにしてくれる・・・・!)
「武力を持つ宗教勢力」に対する信長の憎悪は、すでに骨髄に達している。
長島の一揆勢を皆殺しにすることを、信長はあらためて心に誓ったのだった。
いったん岐阜に戻って態勢を整えた信長は、十一月の初旬には今度は京へ兵を向け、三好義継が篭る摂津の若江城を攻め、一ヶ月を掛けて三好義継を攻め滅ぼし、この年の戦を締めくくった。
この間、小一郎は、雪に埋もれた湖北の山野を地道に歩き回っている。
「国主の務めというのは、突き詰めれば、領国の民・百姓を飢えさせないことと、訴訟事を公平に裁定すること――この二つに尽きます」
北近江の統治について小一郎が尋ねたとき、半兵衛は明快にそう言った。
「何も難しくお考えになることはありません。まずは民が食えるようにしてやれば良いのです」
半兵衛が示したこの大原則は、出自が百姓である小一郎には非常に解りやすかった。泥田を掻き回していた昔、小一郎が会ったこともない国主に望むことと言えば、戦に巻き込まれぬようにして欲しいということと、決められた以上の年貢を掠め取らないで欲しいというこの二点であり、あとはせいぜい夜盗や物取りの取締りをしてもらえさえすれば、それ以外のことは日常的に意識することすらほとんどなかったように思う。民衆が経済的に自立できている場合、雲の上の国主なぞはせいぜいその程度の存在なのである。
「いま、この北近江は非常の時です」
と半兵衛は規定した。
「連年続いた戦で田畑が荒れ、実入りが極度に減ったことで、百姓たちは日頃の蓄えも底をつき、来年の種籾まで食い尽くしておるやもしれません。この秋の蔵米がちゃんと入っておる我らに比し、浅井に味方しておった地侍や百姓たちの逼迫は切実です。まずはこれを救い、逃散した百姓たちを村々に帰らせ、その暮らしが立つようにしてやることが急務――」
半兵衛は、さしあたって貧民の飢えは兵糧米を供出して炊き出しをすることなどで救い、小谷城の修築や不要になった“長城”の取り壊し、荒れた田畑の復興などに人夫を募ることで緊急措置的に雇用を作り出し、そういった公共事業を通じて民に銭や米を落とし、領民の生活を安定させるよう提案した。
「この際、多少の費えには目を瞑るべきだと思います。来年の秋の収穫まで――この一年が我慢のしどころ。ここを乗り切れば、自然と領民たちも落ち着きを取り戻しましょう。法度や掟を定めたり、検地を考えたりするのは、それからで良い」
「なるほど・・・・」
疲弊した民を救済するとなると米も銭も手持ちの蓄えだけでは心もとないが、それを何とかするのが小一郎の仕事であるだろう。
(急場は堺の商人たちから銭を借りれば何とかなるか・・・・)
新領地である北近江の商業利権を担保にすれば、かなりの額の金銀を引き出せるはずだ。北近江は畿内から距離としてはよほど離れているが、琵琶湖と淀川の水運で京や堺とはそのまま繋がっているから、経済圏としては一つなのである。領内には鉄砲生産の一大拠点である国友村もあり、北部山間地帯には鉱石の鉱床もあるから、いざという時は、それらの利権を売ってしまうという手もある。
「解りました。そのことは、半兵衛殿にすべてお任せします。家中の者たちを教導し、思うようにやってみてくだされ」
小一郎が言うと、半兵衛は頷き、
「微力を尽くします」
と応えた。
「あとは、浅井の遺臣をできるだけ多く召し抱えることですね」
浅井の遺臣で声望のある武士は、百姓たちが一揆を起こすときに旗頭になる可能性がある。百姓たちが団結し、徒党を組めば怖ろしいことになるから、そのリーダーになるような者を野に放っておくのは治安維持の上からも危険なのだ。
「他国に流れていった者はともかく、北近江の山野に隠れておる者を召し出すには、殿が申されておったように村々を足で回り、名主や庄屋、寺社などを訪ね、話をつぶさに聞いて廻るほかありますまい。そうしておればいろいろなことが耳に入ってきましょうし、信頼と人脈を作ることにもなり、人々に羽柴家に対する親しみを持ってもらうことにもなる。骨の折れる仕事ですが、この役は殿の弟御であり羽柴家第一の臣である小一郎殿こそがまさに適任だと思います」
羽柴家の領国のうち、南部の坂田郡は横山城があった地でもあり、樋口三郎左衛門が仕える堀氏が父祖の代から巨大な領地を持っている地域でもあって政情が比較的安定しているが、小谷城がある浅井郡や、余呉、木ノ本などがある北方の伊香郡は織田家にとって馴染みが薄い土地で、いわば一揆の温床であった。この二郡を慰撫することが、羽柴家の北近江経営の第一歩と言うべきであろう。
小一郎は半兵衛の献策に従い、政務の傍ら毎日毎日これらの土地の村々をたんねんに歩いた。近習を数人連れただけの気楽な格好で遊山のようにぶらりと駒を打たせ、名主や豪農、寺社などの門前では必ず足を止め、対応に出た者に気さくに声を掛け、その屋敷の主人に挨拶を請い、ときには湯茶の接待を受けたり長々と話し込んだりしながら自分の顔を売り、新領主となった羽柴家に親しみを持ってもらうよう努めたのである。
このとき、小一郎の優しげな風貌と百姓あがりの気さくさ、何よりその温厚な性格が役に立った。噂はやがて評判になり、天正元年も暮れ頃になると三人、五人と浅井の旧臣たちが仕官を申し出てくるようになったのである。
また、半兵衛の努力の甲斐もあって、翌天正二年の夏ごろには領内の人心も概ね安定し、羽柴家の支配体制が徐々に固まってゆくことになる。
藤吉朗は信長に従い、伊勢から畿内へと転戦した。
さらに信長の命で堺まで足を伸ばし、追放した足利義昭の今後の処遇などについて毛利家の使僧・安国寺恵瓊と義昭を交えて三者会談を行ったりしている。藤吉朗は京奉行になった頃から毛利家の申し次ぎ(交渉担当)をしており、今回は全権大使として重要な外交交渉までを任されたのである。
ともあれ、そういった事情で藤吉朗の帰国は延び延びになっていた。北近江の王になってから三ヶ月、ほとんど自分の領国に居たためしがない。
藤吉朗が戦務から開放されてようやく小谷城に帰って来たのは、天正元年の師走である。
伊吹の山並みは、すっかり雪化粧を終えていた。
(湖北の地は、尾張や岐阜とは比べものにならんほど雪が深いな・・・・)
その頃、小一郎は改めてそのことを痛感していた。
北近江でも南部になる横山城と比べても、わずか三里(十二キロ)ほど北方の小谷山の積雪ははるかに多い。標高が高い小谷城なぞ、多いところでは一m以上の雪に埋もれてしまっている。これからさらに雪が深くなることは間違いがなく、春の雪解けまで三ヶ月以上はこの問題に悩まされることになるであろう。
羽柴家の家臣たちも、小谷山の雪深さとその峻険さにはどうやら閉口しているらしかった。彼らは毎日のように城に出仕せねばならないのだが、武家屋敷は山麓の清水谷にあり、山を登るだけで四半刻(三十分)も掛かってしまう。雪が落ちるようになってからというもの、その苦労も並ではない。
「いっそ琵琶湖の畔にでも城を構えて移ったらどうじゃ? 今浜あたりなら、この小谷山より随分と暖かいやろ」
内輪の冗談のつもりで言ったのだが、
「なんじゃ小一郎、たまにはお前もええ事を言うやないか」
と藤吉朗が真顔で応えたから、小一郎はちょっと驚いた。
「わしもな、この城ではどうにもならんと思うておったところや」
この話は半兵衛殿とも相談しておったんじゃがな、と前置きして藤吉朗は続けた。
「わしも国持ちになったからには、城下に岐阜や清洲のような立派な町を開き、商いを栄えさせ、国を富ませたい。じゃが、清水谷は城下町を開くには手狭やし、東山道からも遠い。湖国と言うべきこの近江で商いを考えるとなれば琵琶湖の水運を使わねばどうにもならんが、小谷から今浜まで荷を運んでいちいち右往左往するっちゅうのも無駄過ぎる。城を築くとすりゃ、ええ湊があり、北国街道と東山道の両方に睨みが利く、今浜しかあるまい。あそこは国友村からも近いしの」
今浜は、湖上・陸上交通の要衝なのである。
小一郎とはまったく別の次元で、藤吉朗もあの地に目をつけていたらしい。
「国主さまともなると、言うことが何やらでっかいなぁ」
小一郎は明るく感心してみせた。
「年が明けたら信長さまに言上し、その許可を頂くつもりでおるで、まぁ、この冬ばかりは寒いのも辛抱せえ」
藤吉朗は、小一郎を相手に城下町の構想や新しく築く城の縄張りなどについてさも嬉しそうに語った。
若い頃は法螺吹きとさんざん馬鹿にされた藤吉朗の大風呂敷だが、その構想力、企画力の大きさが、国主という地位を得てようやく現実と一致してきたように小一郎には思われた。いや、むしろ、藤吉朗の出世によって現実の方が藤吉朗のスケールに合ってきた、と言うべきかもしれない。
(兄者は昔から、駄法螺のようなでかいことばっか言うておったが――その器量に相応しい地位を、今になって初めて得たのかもしれん)
同じ母親の腹から生まれたにも関わらず、この種の創造性を自分がほとんど持ち合わせていないということを、小一郎はある種の諦念と共に自覚しているのだった。
激動の天正元年はこうして暮れ、翌天正二年(1574)の正月は、再び岐阜城の正月参賀から幕を開ける。
このとき、信長は、後世にまで悪名高い所業をまたひとつ重ねている。
朝倉義景、浅井久政・長政親子の首を薄濃にし、これを酒の肴ということで酒宴の席に集まった重臣たちに披露したのである。薄濃というのは箔濃とも書き、素地に漆を塗って固め、金箔、銀箔などを貼り重ねて装飾したものと思えばいい。
このエピソードはあまりにも有名であるために、現在は様々な解釈が為され、そういうことが行われたこと自体を疑問視する向きさえある。が、『信長公記』にもその記述がある以上、それに類することがあったのは事実であろう。
しかし、この行為を現代人の感覚で解釈したり、信長の異常さの表れであるとか残虐性の発露であると見る向きには筆者は賛同しない。
信長が生まれる二千年以上昔に書かれた中国の歴史書『十八史略』に「首に漆を塗り飲器になす」という記述があるが、それに倣ってか信長が頭蓋骨の頭頂部を切り取って「盃」にし、それで酒を飲んだというような話が創作されたらしい。この説は小説やドラマなどで広く流布されたために、それが史実であったかのように思われている読者も少なくないであろう。また、たとえば信長が真言密教の行者で、密教・立川流の髑髏本尊を作ったのだというような突飛な解釈まであるが、これはあまりに牽強付会に過ぎる。
そもそもこの「肴」は「頸」つまり「生首」であり、頭蓋骨だとか髑髏だとか、まして「盃」だったなどという表記は近世の小説の他にはどこにも見当たらないのである。
江戸初期に編まれた『信長公記』はもちろん、信長に対して何ら憚ることなくモノが言えたであろう江戸中期以降に書かれた書物でも、この「肴」に関して信長の異常性を強調するような記述は一切ない。また、この「肴」を見た武将たちが、うろたえたり怖れたりするような様子もまったく描かれておらず、酒宴はむしろ大いに盛り上がっている。佐々成政などが酒宴の後に信長を諌めたとする書物もわずかにあるが、これは創作や脚色が多いことで知られる『甫庵信長記』やそれを下敷きにして書かれた『総見記』といった軍記物語の中のエピソードで、その場合も「肴」はあくまで「頸」であって「盃」などではない。
戦国のこの時代、たとえば合戦が行われた後、勝ち戦の酒宴の席に敵の大将首が運ばれてくるなどということはさして珍しいことではなかったであろう。首実検の場ともなれば数百もの首が並ぶこともあるし、名のある武将の首に対してはいちいち洗い清め、化粧を施し、髪なども結い直し、見栄えを良くしてから主に見せるというのが当時においては当然の作法でさえある。
武士は一般に敵将の首に敬意を払うものだが、長年の仇敵の首ともなれば、苦楽を共にした武将たちとそれを眺めながら酒を酌み、勝利の余韻に浸ろうという大将の気持ちも理解できなくはない。
ようするにこの「肴」は――悪趣味であることに違いはないにせよ――信長にとってちょっとした遊び心だったのであろう。信長は、三年間苦渋を舐めさせられ続けたこれらの首を諸将に見せ、それを肴に皆と酒を酌むことで、苦楽を共にした武将たちを慰労しようと思ったのである。
朝倉義景、浅井親子の首は、首実検の後すぐさま京へ運ばれて獄門さらし首にされたことが『信長公記』に記されている。冷凍技術などない当時のことである。放っておけば首は数日で腐ってしまうから、当然、四ヶ月も先の正月の酒宴で「肴」に使うことなどできるはずもない。つまり、首に漆を塗って固めたのは、ようするに腐敗を防止するためである。
それを薄濃にして飾ったのは、何事にもド派手好みな信長の性格ということもあるにせよ、かつて強敵であった敵将の首に対する、死化粧に代わる信長流の敬意、あるいは礼だったのだろう。
信長はそれらの首を非常に鄭重に扱い、「公卿」に置き据えて皆に披露している。「公卿」とは桧の白木の折敷の下に台をつけた衝重と呼ばれる「供笥」のことで、主として神供を載せるために用いる祭具である。この点からも、信長が死者を冒涜するような意図を持っていなかったと筆者は考える。
いずれにしても、この宴席に連なった当時の武将たちにとって、信長の「肴」は、酒の席でのちょっとした悪ふざけに類するものであり、その行為に対して個人個人の好悪はあるにせよ、生理的に受け付けないほど不快に想うような者はなかったのではないかと思うのである。
さて――
藤吉朗は、岐阜城で正月祝賀の酒宴の席に侍り、この「肴」を眺めながら酒を酌み、諸将と共に織田家の繁栄を寿ぎ、祝った。
朝倉義景はともかく、浅井久政・長政親子は、かつて同盟者として伊勢征伐などで戦場を共にし、織田と浅井の手切れの後は直接の敵となって苦闘を続けた相手であるだけに、藤吉朗にとってもことさら縁が深い。頼るべき盟主を間違え、歩むべき道を誤った者の末路を見るにつけ、ある種感慨深い気持ちにもなったであろう。
当然のように小谷城の留守を任された小一郎は、正月の屠蘇も飲まず、山積する政務を地道に片付け続けていた。
帰って来た藤吉朗からその話を聞かされたが、さしたる感想もない。
(そりゃまた趣味の悪い趣向やなぁ・・・・)
と想いはしたが、そのことで信長を非難する気もなければ反発も嫌悪も恐怖も感じはしなかった。
その数日後、それよりはるかに重大な飛報が北からもたらされる。
隣国の越前で、大規模な一揆が勃発したのである。