表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王佐の才  作者: 堀井俊貴
61/105

第61話 十二万石の大名(1)

 武田信玄が死去し、将軍・足利義昭よしあきが京から消え、さらに浅井・朝倉が滅びた天正元年(1573)という年は、我が国の戦国史においてひとつのターニング・ポイントと言えるであろう。


 これに先立つこと二年――元亀二年に中国十ヶ国の覇者であった毛利元就もとなりが老衰死し、関東八ヶ国の王であった北条氏康うじやすが同じく病死している。天正元年に死んだ武田信玄を含め、戦国という時代を彩った巨星が次々と墜ちる中、織田家のみがその勢力を大膨張させることによって、全国統一の機運が否応なく高まってゆくことになる。諸勢力の力が拮抗し、混沌としていた群雄割拠の時代が終焉を迎え、信長という男を中心にして回る時勢が、その勢いをさらに加速させていったのである。

 無論、英明な当主を失ったとはいえ武田氏、毛利氏、北条氏などは広大な領土と巨大な兵力を保持したまま未だ健在であり、さらに関東管領・上杉謙信も北越の地にあり、九州、四国、奥州などにも数多の群雄がひしめき、その意味で織田家の天下統一事業はまだ目鼻さえ付いていない。信長がその“天下布武”を完成するためには、まだまだ多くの悪戦と苦闘を重ねてゆかねばならないであろう。


 とは言うものの、足利義昭を追放して京を中心とした地域を織田領に一元化し、三年間苦しめられ続けた浅井・朝倉を滅亡させたというのは、やはり大きい。

 信長は浅井・朝倉を滅ぼした直後、ついでのように南近江にも兵を進め、鯰江城に六角承禎じょうてい義賢よしかた)を攻め、これを滅ぼしてもいる。このことによって近畿、東海を中心とした巨大な経済ブロックを完全に織田家で独占する形になり、さらに越前、若狭、北近江と合わせて百万石を越える領地が新たに織田領に加わったのである。

 織田家の経済力と動員力は、当然ながら飛躍的に高まった。

 さらに付け加えれば、東方からの武田信玄の脅威が去り、北方の浅井・朝倉が消滅したことによって、織田家の敵が、大阪、加賀、伊勢などで抵抗を続ける本願寺を中心とする勢力だけとなった。その本願寺にしても、単独で織田家に歯向かう不利を悟ったのか、この十月の初めに天下の名物と言われる茶器「白天目」を信長に贈り、和睦を申し込んだりしている。

 織田家の周囲で交戦中の敵と言えば、勢いが衰えた三好三人衆が残るのみである。


 信長は、この機に領国の内政を突き固めようとし、改めて大規模な論功行賞を行った。大幅に増えた領地を再分配し、地域ごとの旗頭を定め、武将の配置転換をすると共に行政区画などを割り直したのである。


 この論功行賞でもっとも出世したのは、藤吉朗であった。

 信長は、浅井・朝倉を押さえ続けたこの三年にわたる藤吉朗の働きを激賞し、浅井の旧領である湖北三郡(浅井郡、坂田郡、伊香郡)十二万石の領地と小谷城をそのまま与えたのである。百姓の子に生まれ、信長の草履取りとして織田家に仕えた藤吉朗が、堂々たる城持ち大名にまで出世を果たした瞬間であった。

 これまでの藤吉朗の禄は五万石ほどであったが、一気に倍以上に膨れた。十二万石といえば織田家数万の侍を見渡しても五指に入るほどの大領であり、織田家の家老おとなである柴田勝家や佐久間信盛、丹羽長秀などと、禄高の上でも肩を並べるまでになった。藤吉朗にとって出世レースの最大のライバルである明智光秀はすでに二年前に坂本で大名になっていたが、これにもようやく追いついた。


 一般に、この大昇進を機に藤吉朗は旧来の木下姓を捨て、羽柴はしば姓を名乗るようになったと理解されている。

 しかし、『織田信長家臣人名辞典』の著者として著名な谷口克彦氏によれば、「羽柴藤吉朗」という署名が為された書状の初見は元亀四年(天正元年)七月二十日であり、これは小谷城陥落の一ヶ月以上も前である。つまり、信長が足利義昭を真木島まきのしま城に攻めている時期に、藤吉朗は早くも羽柴と改姓していたことになる。この改姓が、藤吉朗自身が言い出したものか信長から命じられたものかは解らぬにしても、浅井氏を滅ぼす前に行われた、ということは知っておくべきであろう。

 ちなみにこの「羽柴」という姓は、織田家の譜代家老として他家にまで名が響いた柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつ頂き、丹羽の「羽」と柴田の「柴」を取って作ったものだという。半兵衛の息子・竹中重門しげかどが著した『豊鏡とよかがみ』にもそのように明記されており、これは事実として差し支えないであろう。


 この物語でもこれ以後は木下の姓を止め、羽柴の姓を使うことにしたい。

 藤吉朗は羽柴 藤吉朗 秀吉であり、言うまでもないが、小一郎の名も、羽柴 小一郎 秀長と変わる。


 ここで少し余談――


 天正元年のこの時期、小一郎の名乗りは「秀長」ではなく、実際は「長秀」であった。

 小一郎は、藤吉朗が木下秀吉と名乗るようになってから木下長秀という名を使っており、これは藤吉朗の上司であった丹羽長秀に好意を持ってもらうために丹羽長秀の「長」の字をもらい、秀吉の「秀」の字を下に付けて出来た名乗りと考えられ、あるいは丹羽長秀の「長」が信長の「長」の字の拝領であることを思えば信長から一字もらったと言えなくもないが、いずれにせよ小一郎が、少なくとも天正十二年まで「長秀」を名乗り続けていたことは歴史的事実と確定されている。

 小一郎が一般によく知られた「秀長」の名乗りを使い始めるのは、秀吉と柴田勝家が織田家内での覇権を賭けて戦った「賤ヶ岳の合戦」の翌年であり、丹羽長秀が実質的に秀吉の家臣に組み込まれた後でなのである。その意味でも、やはり丹羽長秀に気をつかって「長秀」を名乗り、秀吉と丹羽長秀の政治的地位が逆転したことを受けて改名した、と考えるのが正しいであろう。

 この物語では混乱を避けるために、これまで通り馴染み深い「秀長」で通すことにしたい。



 さて――


 小谷城に本拠を据えた藤吉朗は、家臣団の再編成と新領地の検分、その分配といった政務に忙殺されることになった。


 新占領地の統治というのは、容易な仕事ではない。

 野に隠れる浅井の遺臣たちは、織田家の支配を覆そうと反乱の機会を常に窺っている。織田家と敵対関係にある本願寺勢力や六角氏の残党、比叡山の関係者なども、隙あらば乱を起こし、織田の屋台骨を揺さ振ろうとして間者や乱波を送り込んでいよう。そういう者たちが、経済的に困窮している湖北の百姓たちと結びつき、それを指嗾しそうすれば、彼らの怨念や怒りのエネルギーが目標を得て一揆という形で爆発せぬとも限らないのである。


 たとえば、北近江と共に織田領となった越前などは、その好例であった。

 信長は越前の豪族たちの領地をほとんどそのまま安堵し、朝倉氏の重臣であった前波吉継を守護代に指名し、その統治を委任していたのだが、いち早く織田に寝返って信長に取り入った前波吉継と、その出世を妬む朝倉の旧臣たちとの間が上手くいくはずがない。領内に不満が充満し、越前の一向門徒たちがこの不満のエネルギーに乗り、さらに加賀の本願寺勢力がこれを後押しし、同じく早くから織田に寝返った富田長秀を旗頭にして反乱を起こし、前波吉継らの一党を攻め滅ぼすことになる。

 さらに一揆勢は守護代の座を奪った富田長秀までもを攻めて殺し、越前を加賀のような“一揆持ちの国”に変える。越前は織田家の支配が及ばなくなり、いわば本願寺勢力によって切り取られてしまうのである。

 この内乱が、このときからわずか三ヶ月後の天正二年正月に起こる。

 隣国の北近江でも潜在的に反織田の感情を持つ者は多く、一向宗の影響力も根強いから、政情は似たようなものであった。藤吉朗が舵取りをひとつ間違えば、越前のような騒乱に落ち込まぬとも言い切れぬであろう。


 やっとの想いで大名にまで出世を果たした藤吉朗だが、ここで一揆や反乱が起きれば信長からどんな譴責けんせきを食らうか解ったものではない。その統治能力が疑われれば、下手をすれば領地を召し上げられてしまうことだってあり得るのである。

 慎重に、しかも速やかに、領民たちの心を慰撫しながら支配体制を確立していかねばならないのだが、それにしても、現状の羽柴家の人材だけで十二万石もの領地を統治してゆくのはまったく不可能であった。十二万石の大名家に相応しい家臣団を作ることが、まずは急務と言うべきであろう。


 さしあたり藤吉朗は、これまで寄騎として木下勢に付属していた織田家の物頭で羽柴家への転籍に同意してくれる者たちを、信長に頼んでそのまま貰い受けることにした。蜂須賀小六、前野将右衛門ら「川並衆」の棟梁たちや、尾藤知宣とものぶ、生駒親正、神子田みこだ正治まさはる、戸田勝隆、石川光政などといった寄騎の将もこのとき羽柴家に転籍している。

 半兵衛も、このとき初めて藤吉朗から禄を受け、正式に主従の関係を結ぶことになった。

 また、浅井家の遺臣やその陪臣たちも積極的に受け入れ、家臣団に組み込むことにした。浅井の旧臣は、野に潜伏させておくよりも禄を与えて飼う方がはるかに安全だし、統治もしやすくなる。名のある武者は相応の禄をもって招き、仕官を望む者は二つ返事で召し抱え、在野の有能そうな若者も小姓としてどんどんと抱え込んだ。天正四年ごろまでに、その数は七百人にも上ったという。著名なところでは、藤堂高虎、その従兄弟の藤堂玄蕃げんば、寺沢広高、増田長盛、小堀正次(茶人大名として著名な小堀遠州の父)、石田三成、大谷吉継よしつぐ、片桐且元かつもと脇坂わきさか安治やすはるなどがいる。


 藤吉朗が北近江の王になったこの天正元年、羽柴家の家来にどのくらいの禄が与えられていたかという問題は、興味深い。禄高は、そのまま羽柴家内部での序列を表しているからである。

 このことは『武功夜話』に詳しく、千石以上の者が十八名、それ以下の者が四十九名だったと記されている。『武功夜話』は史料価値が疑問視されており、その記述をそのまま信じて良いかは難しいところだが、他に禄高が直接解るような一次資料も見当たらないから、ここではそれを援用することにしたい。


 羽柴家第一の臣として小一郎の禄がやはり飛びぬけて高く、なんと八千五百石もが割かれている。

 一門衆では義弟の浅野弥兵衛やへえが三千八百石、木下孫兵衛(寧々の兄)の三千二百石、木下七朗左衛門(寧々の伯父)の千二百石、青木一矩かずのり(小一郎の父・竹阿弥の縁者)の千二百石などがこれに続く。もともと浅井郡 宮部村に所領を持っていた宮部善祥坊ぜんしょうぼうは、それに多少の加増をされて三千百石である。

 寄騎から羽柴家に転籍してくれた諸将も同様に禄が高く、蜂須賀小六の三千二百石、前野将右衛門の三千百石を筆頭に、生駒親正が二千石、尾藤知宣が千八百石、桑山重晴が千八百石、三輪五郎左衛門(「川並衆」の棟梁の一人)が千六百石、御子田正治が千四百石などと続く。

 木下家時代からの古参の家来としては、横山城の攻防戦で膝に重傷を負った加藤光泰の禄がもっとも高く千五百石。木村定重(「大阪の陣」で名を馳せる木村重成の祖父)の千二百石、一柳直末の千五十石などが高禄で、他は千石以下である。参考までに付け加えると、大河ドラマ「功名が辻」で一躍有名になった山内一豊は、四百石ほどであったらしい。


「わしが、八千五百石!?」


 その内示を受けたとき、小一郎は素直に驚いた。


「なんじゃ。足らんか?」


 藤吉朗は満面の笑みである。


「足るも足らんも、多すぎるくらいじゃ。わしが、八千五百石ってか・・・・」


 小一郎が小竹と呼ばれ、尾張 中村で五反ばかりの泥田をかき回していたのは、わずか十三年前に過ぎないのである。この当時の石高を現在の経済価値に直すのは難しいが、目安として一石=十万円で換算する方法があり、その式で見れば小一郎の年収は八億五千万円ということになるから、この変転ぶりは奇跡としか言いようがないであろう。


「皆の俸禄はこんなところで考えておるんやが、何ぞ思うところはないか?」


 藤吉朗は家臣団の分限案を小一郎に見せてくれた。

 小一郎を例外とすれば、三千石を越える浅野弥兵衛、木下孫兵衛、宮部善祥坊、蜂須賀小六、前野将右衛門の五名が、羽柴家の家老格といったところだろう。


「半兵衛殿の名が見えんが・・・・・?」


 小一郎はふとそのことに気付いた。

 これまで常に藤吉朗の隣にあった半兵衛は、誰もが認める羽柴勢の軍師であり、言わば副将格である。小六や将右衛門よりもむしろ上席であり、一門衆以外では最高の禄を与えられるものだと当然のように思っていたのだが、その名がない。


「それがなぁ・・・・」


 藤吉朗は眉尻を下げて唸るように言った。


「わしゃ五千石あたりでと考えておったんやが――内々で聞いてみると、今の食禄のみでええとか、家禄をもらうのは気が重いから蔵米で構わんとか、そんなことを言わっしゃるんや。皆の手前もあるでそれでは困るとわしは言うたんやが、それなら禄は百石でも二百石でもええから、役には就きたくないなぞと申されてのぉ・・・・」


「無役がええと?」


「そうじゃ。無役の侍には千石以上は出せん。それで困っとる」


 物頭や組頭、いくさ奉行、旗奉行、弓奉行などといった特定の役職に付かず、隊を率いない無役の武士を俗に「一騎駆け」と言い、自前の家来のみを率いて戦場で戦う者を指す。「一騎駆け」はあくまで槍働きの武者であり、隊を率いないから武将とは見做されず、これに対する俸禄は、最高でも千石止まりというのが慣例というか常識なのである。何かしらの役職に就いてくれれば役料を付けることもできるし、何千石を扶持しても名目が立つのだが、無役の者に千石以上を与えるような先例を作れば、今後の家政にも色々と悪影響が出てくるだろう。


「相変わらず浮世離れしたお人やわ。無欲も度が過ぎると一種の片輪やな」


 言い方は酷いが、藤吉朗の表情はあくまで好意的である。

 一般に、武士が高禄を求めるのは、何も欲のためばかりではない。俸禄は武士の武勇や能力を客観評価するいわば「男の値段」であり、そのまま名誉の証しなのである。武士たちが命を張って戦場で働くのは、欲得によるところもあるにせよ、より多くが己の「男」を見せるためであり、だからこそその評価としての禄高にこだわり、他人との禄の差にもこだわる。戦国という時代の猛烈な上昇志向と社会的エネルギーは、こういう武士たちの強烈な自尊心と自己顕示欲とによって作り出されていると言っていい。

 にも関わらず、小一郎の周囲に居る人間の中で、ただ一人、半兵衛のみは己の立身にまったく無頓着で、こういう時代の風潮から超然としている。「高士」という言い方もできようが、「変人」とか「奇人」とか見る向きがむしろ一般的であるだろう。


「半兵衛殿は変なところで頑固やで、わしがいかに勧めてものらりくらりとはぐらかすのみで、どうしても高禄は受けてくれんかった。役に就きたくないの一点張りや」


 藤吉朗は苦く笑った。


「それでは・・・・これまで織田家から出ておった食禄が五十三石じゃから、それを足しても千五十三石にしかならんというわけか」


「そういうことになるかの。半兵衛殿は『そんなに要らん』と言いそうじゃが、まぁ、こればかりは受けてもらわなしゃぁないわ。無役ちゅうてもあのご仁だけは別格やで、皆も何も言うまい」


 実際、これまで半兵衛が戦場で自ら槍働きをしたことなど一度もない。「一騎駆け」と言ったところで半兵衛の働きは常にその頭脳であり、弁舌であり、軍略なのである。役に就いても就かなくとも、半兵衛が藤吉朗の軍師、あるいは参謀として特殊な位置に居ることは周知の事実であり、それはこれからも変わることはないであろう。


「禄を受ければ、半兵衛殿とて兄者の家来やのになぁ・・・・・」


 小一郎が軽口を言うと、


「おうおう。殿様のわしの方が家来によっぽど気ぃ使うとるで」


 兄弟はそこで声を合わせて笑った。


 数日後、小谷城の大広間で正式に論功行賞の場が設けられた。

 侍帳に記された順に家臣の名が読み上げられ、それぞれの者が前に進み出ると、上座で藤吉朗は一人一人にこの数年の働きを労い、新たな領地の朱印状を渡し、あるいは馬とか武具とか金何枚、米何俵とかいった褒美の目録を与えてゆく。

 藤吉朗は、褒賞評価に関しては天才的なところがある。恩賞に対してしわい信長とは対照的で、ちょっとした功にも驚くほどの褒美を出す重賞主義ということもあるが、何より武功に対する評価が公平で、諸将に不満を与えなかった。


 この席での半兵衛の振る舞いは、後々まで小一郎の印象に残るほどに見事だった。

 俸禄の朱印状を藤吉朗から渡されたとき、


「半兵衛殿――」


 と親しげに呼びかける藤吉朗に対し、


「殿」


 半兵衛は折り目正しく拝跪はいきし、


「こうして家禄を頂戴致し、名実共に主従の契りを結びましたる上は、向後、それがしのことは半兵衛とお呼び捨てくださいますように」


 とぴしゃりと言ったのである。

 その一言で、私語で賑々しかった場が一時に静まり返った。


 これまで寄騎として藤吉朗の傘下に居た将たちというのは、藤吉朗とは上司と部下という関係ではあったが主従であったわけではなく、禄高の差こそあれ織田家臣という立場から見れば同格の人々であった。蜂須賀小六や前野将右衛門ら「川並衆」の棟梁たちに至っては、藤吉朗がまだ織田家に仕える以前――諸国を放浪していた頃――からの知り合いであり、その頃は藤吉朗を顎で使っていたような者たちである。それらが、今からにわかに藤吉朗を己の主にするといっても、急に気持ちを切り替えられるものではないであろう。長い付き合いの気安さから、ことさら鄭重ていちょうに接することがどこか気恥ずかしくもあり、悪意はなくともつい会釈が粗略になり、言葉遣いや態度にぞんざいさが出てしまう。

 藤吉朗にしても、今日からは家来と言っても昨日までは同僚であった者たちであり、手の平を返すように接する態度を横柄にしたり尊大にしたりというのも妙な感じであり、尻の据わりが悪いというのが人情であろう。

 しかし、これまで藤吉朗から師のように遇され、別格に扱われていた半兵衛が、藤吉朗の前で犬のように拝跪し、主従のけじめを示したことで、一座の者たち――ことに新たに羽柴家に加わることになった者たちが、水を浴びせられたように粛然となった。


「いやいや、こりゃわしがうかつやった」


 藤吉朗は、嬉しそうな、それでいて気恥ずかしげな顔で笑った。


「じゃがなぁ、半兵衛殿。そうは言うてもわしも急には変われん。おいおい慣れるで、まぁ、しばらくは辛抱してくれい」


 しばらくは――と言ったが、藤吉朗は小六や将右衛門を呼び捨てにするようになっても、半兵衛に対してだけは敬称を付けて呼ぶことをついに止めなかった。半兵衛も名を呼ばれる度に注意を促していたのだが、いつしか諦めたと見えて、この件に関しては結局何も言わなくなった。


 半兵衛を初めて墨俣砦に連れて来た時、「我が師になって頂くのよ」と語った言葉を藤吉朗が覚えていたものかどうか――それは小一郎にも解らない。

 しかし、藤吉朗にとって半兵衛だけは、やはり別格の存在であったらしい。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ