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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第60話 大輪の死に花――小谷城陥落(2)

 足元から吹き上がって来る生ぬるい風が、じっとりと汗ばんだ身体を舐めてゆく。

 頭上に浮かび上がるのは、篝火に照らされた小谷城の輪郭と、落ちてきそうな満天の星。向かいの山の稜線に隠れているのだろう――寝待月ねまちづきは未だ昇らない。

 足元を遠く見晴るかすと、墨を溶かしたような濃淡の闇の中、無数の篝火が十重とえ二十重はたえに山裾を取り巻いているのが見える。

 虫の声さえ死に絶えたか、辺りは不気味なほどの沈黙に包まれていた。


 天正元年(1573)八月二十七日の夜半。

 小一郎は、小谷山の東の峰の山腹で小腰を屈めてうずくまっていた。

 率いるは、木下勢から選りすぐった精兵百人。前野将右衛門を将とする「川並衆」の半数がこれに加わり、さらに道案内として樋口三郎左衛門から借りた援兵を含め、ざっと五百ほどの人数である。

 小一郎たちは、小谷山頂の大獄おおづくから少し南に山を下り、山腹を這うように移動して、小谷城がある尾根の西側斜面――京極丸の直下あたりに身を潜めていた。


 この尾根の側面には階段状に無数の削平地さくへいちがあり、そこに柵を植え込み、矢楯を並べるなどしてそれぞれが小さな砦のようになっている。浅井に十分な兵力があれば、こんな移動はとても不可能であったろう。

 しかし、朝倉軍の撤退とその壊滅によって小谷城の将士は意気消沈し、前途にいよいよ絶望し、信長が織田本隊を引き連れて越前に出張っている間に軍兵の多くが城から逃散してしまっていた。その兵力はすでに千五百人を割り込み、広大な小谷城全域を守備するには決定的に不足を起こしていたのである。

 浅井長政は小谷山の砦のほとんどを放棄し、小谷城内に兵力を集中させざるを得なかった。山腹のあちこちに鳴子なるこを仕掛けるなどして付け焼刃の警戒網を敷いてはいたが、斜面に築かれた大小二百を越える小砦に十人、二十人と兵を割いているような余裕はもはやなかったのだ。


 この隙を、織田方は衝いた。

 隠密裏に、しかも迅速に――


 小一郎たちは鎧が音を立てぬよう草擦くさずりを縄で縛り、手足と顔には炭を塗り、暗夜の山中を松明ひとつ持たず、道案内する樋口内蔵助くらのすけ――樋口三郎左衛門の縁者である――の勘だけを頼りにして山肌を這うように進み、隠密行動を二時間以上も続けてどうにか目的地付近まで辿り着いたのだった。

 野武士あがりの「川並衆」には元盗賊というような忍びの術に長けた者も何人かいるから、それらを使ってすでに尾根までの登り口を確かめさせ、同時に京極丸の柵に数本の長縄を結びつけさせている。その縄を使って崖を一直線に登攀とうはんすれば、ものの数分で上まで駆け登ることができるであろう。

 あとは、突入の合図を待つのみである。


 静寂の世界に、己の鼓動だけがうるさいほどに響いている。

 しつこく血を吸いに来る薮蚊には閉口したが、今はそれどころではない。


「音を立てるなよ。息もひそめよ。しわぶきもするな」


 小一郎はこれを揮下の将兵に厳命していた。


(わしらが速やかに京極丸を取れば、それで戦が決まる・・・・)


 小一郎に与えられた役割は、それだけ重要なものだったのである。



 信長が越前から虎御前山に戻ると、藤吉朗は真っ先に小谷城攻めの先鋒を願い出、許された。

 機は、すでに熟している。

 藤吉朗は大獄おおづくの砦に入り、諸将を集めてすぐさま軍議を開いた。


「朝倉が滅びたことで、戦の大勢はもはや決しました」


 まず半兵衛がそう言った。


「命を惜しむ者は、この数日の間に小谷山から逃げたでしょう。この期に及んでまだ小谷城に篭りおる者のほとんどは、浅井家の滅びに殉じようとする忠義の士。寡兵とはいえ、この敵は侮るべきではありません」


 大獄砦が陥落し、さらに朝倉家の滅亡によって孤立無援となった浅井氏の前途はすでに定まっている。それでも千五百人近い人間が城に残っているというのは、逃げる機会を失した者、積極的に逃げ出すほどの度胸がなかった者などもあるにせよ、それより多分に浅井長政という大将の人徳であったと言っていい。


「死兵は厄介じゃな・・・・」


 藤吉朗が呟いた。


「自ら願い出て先鋒のお許しを頂いた以上、手間取るわけにゃぁいかん。一息に決めたいところやが・・・・」


「城を焼き立てれば話は簡単なのですが、それはできません。まともに正攻法で攻めれば、こちらも相当の血を流さねばならなくなります」


 集まった諸将は、半兵衛の作戦立案にはすでに全幅の信頼を置くようになっている。まずはその意見を傾聴しようと、神妙な顔で絵図を睨んでいる。


「そこで、この“大堀切り”を利用します」


 半兵衛が扇子で指し示したのは、本丸と京極丸の間に描かれた巨大な空堀である。


「本隊が大獄から尾根伝いに六坊りくぼう山王丸さんのうまると攻める間に、一隊が山腹から迂回し、背後の京極丸を奇襲する。この京極丸を取れば本丸から来る敵の援軍を防ぎ止められますし、山王丸や小丸を守る敵が本丸の方へ逃げることもできなくなります。敵を完全に分断できる」


 “大堀切り”の線で少数の敵をさらに二分し、各個撃破しようと言うのだ。


「岐阜さまが山麓からも兵を攻め登らせましょうから、浅井としても大手道の防備を手薄にはできぬはず。からめ手の六坊から京極丸までを守るのは、せいぜい五百ほどと見ます。中ほどにある京極丸は、その中でももっとも防備が手薄になるでしょう。ここを取れば、戦の形勢は一気に決まります」


 藤吉朗は絵図を睨み、さらに諸将に意見を求めたが、半兵衛の戦術案に優るような良案は誰からも出ない。むしろ、半兵衛が描いた大筋をどう肉付けするかに意見が集中した。


「奇襲する兵たちの動きを敵から隠すには、夜動くしかなかろうな」


 と言ったのは蜂須賀小六である。


 小谷城へと至る山腹の斜面はほとんどの木が切り払われて視界が開け切っている。日中に軍勢を移動させたとしても、城から行動が丸見えでどうにもならない。


「当たり前じゃが松明も使えぬ。夜陰に紛れるとなると、よほどこの山に詳しい者が道案内に立たねば、方向を失うぞ」


「その役は、わしの手の者を出そう」


 樋口三郎左衛門が戦場錆びした声で応えた。

 三郎左衛門の部下たちなら、小谷山の間道や裏道、起伏や傾斜も知り尽くしているだろう。


「奇襲の勢は精兵せいびょうを選りすぐる。大将は、小一郎が務めよ。将右殿、樋口殿の勢をこれに付ける。崖から転がり落ちぬよう心して掛かれ。残りはわしが率い、尾根伝いに搦め手から攻める。先手の大将は小六殿。二番手はわし。三番手を後詰め(予備隊)とし、弥兵衛やへえ(義弟の浅野長政)に任す」


 藤吉朗が即決した。


「先だっても言うたことやが、この戦は火を使うてはならんぞ。小谷の城の建物は、茅葺かやぶきか板葺いたぶきやで、火矢など放てばたちまち燃えてまうからの。松明の火にも気をつけよ。間違っても城を燃やすな」


 さらに細々とした指示を終えると、


「ここで浅井を滅ぼせば、わしらに功名第一のお声が掛かるは疑いない。この一戦を一生の運さだめと覚悟し、大いにふるえと手の者に申し伝えよ!」


 藤吉朗は鼻の穴を大きく広げて力んだ。

 諸将は戦の準備をし、勇みに勇んで日暮れを待った。

 夕日が稜線に没し、闇が辺りを覆うと、小一郎らの部隊はいち早く静々と大獄の陣屋を出発し、京極丸の崖下へと移動したのである。


 そのままジリジリと半刻(一時間)ばかりも待っていると、果然――

 動きは、まず小一郎らの足下で起こった。

 無数の松明が揺れ動き、陣貝かいの音がびょうびょうと吹き渡り、陣太鼓の轟きと共に獣の唸り声のような武者押しの声が、山下から吹き昇ってくる風に乗って遠く響いてきた。

 信長が、全軍を動員して小谷山麓の清水谷に攻撃を仕掛けたのである。


(始まったか・・・・!)


 その松明の動きを眺めやっていると、今度は頭上――角度的に直接は見えないが、稜線の遥か向こう――から、鉄砲の射撃音、陣貝の響き、太鼓の轟き、武者押しの声などが無数の振動となって大気を揺らし、小一郎らの耳朶を打った。それが向かいの山肌にあたって反響し、木霊こだまし、山全体が鳴動しているような不気味な音響世界を闇の中に現出させる。

 藤吉朗の本隊が、総攻撃を開始したのだ。

 そのまま音だけで戦を感じつつさらに四半刻(三十分)ほど我慢していると、突入を命じる合図の法螺貝がついに鳴った。


(すわ!)


 小一郎は立ち上がり、無言のまま大きく采配を振った。

 五百人の兵たちが数筋の縄を繰り、蟻の行列のようになって続々と山肌をよじ登り始める。

 音もなく、粛々と。

 小一郎自身も縄を取り、歯を食いしばりながら鎧で重い身体を上へ上へと懸命にせり上げた。

 ほどなく頭上で多少の騒ぎがあり、誰何すいかする鋭い声や断末魔のような音も聞こえたが、小一郎が身体を京極丸の土塁の中へ転げ入れたときにはすべて収まっていた。見張りをしていたらしい浅井の武者の遺体が三つばかり、首を掻き切られて転がっていたのみである。


(我ながら、存外に落ち着いとるな・・・・)


 先ほどまであれほどの緊張をしていたのに、突入の合図を受けた後は自分でも驚くほど頭の中が冷静で、意識が澄み渡っている。

 兵たちは、その間も柵を越えて続々と京極丸に降り立ち、すぐさま槍を握りなおし、あるいは刀を抜き、敵を求めて思い思いの方向へ駆け出してゆく。


「まず虎口(城門)を押さえよ!」


 小一郎は叫んだ。

 あらかじめ指図しておいた通り、一隊が本丸への出入り口である石垣作りの櫓門へと走る。

 さすがに織田勢の侵入に気付いたらしく、頭上から矢が風を切って幾筋か飛んで来、それが小一郎の鎧の袖をかすめた。視界の中では、篝火に照らされた武者たちの白兵戦があちこちで始まっている。


 京極丸に限らず、小谷城は尾根の起伏を利用して階段状に郭が切られていて、京極丸の中にも石垣や土塁を盛って作った小規模な二の丸と本丸があり、それぞれ兵舎や櫓などが置かれている。この郭を奪うには、最上部の本丸部分を占拠し、敵兵を残らず排除せねばならない。

 幸いなことに――半兵衛が予期していた通り――京極丸の守備のために残っていた浅井方の武者は思いのほか少なかった。


(これならば手間は掛かるまい)


 信長の正面攻撃と藤吉朗の搦め手からの攻撃がすべてこの作戦の陽動になっており、浅井の武者たちはそれぞれの防戦に気を取られ、尾根の中間あたりにある京極丸の防備にまで気が回っていなかったのだろう。何より、兵数の不足が浅井にとって致命的であった。


 小一郎は、回り道をせず自ら土塁をよじ登り、上段の本丸をまっすぐに目指した。


「御大将、こちらじゃ、こちらじゃ!」


 すでに前野将右衛門らが先行し、敵兵を切り倒して路を開いてくれていた。

「川並衆」の男たちは、野武士あがりであるだけに平野での集団戦よりもこの手の山岳戦や奇襲・夜襲を得意としている。その将である将右衛門も、馬上で槍をとって戦うのはあまり得手ではないようで、今度のように地を自らの足で駆け、刀を振るって働くときの方が顔が生き生きしている。


 小一郎らの部隊は、数十人に過ぎぬ敵をその兵数で圧倒した。負けを悟った敵兵の中には、自ら崖下に向かって身体を投げ出し、尾根を転がり落ちて逃げるような者も相次いだ。

 小一郎が近習に守られながら京極丸の最上段に達したとき、いつの間に昇ったのか冴え冴えとした月が頭上に輝いていた。

 敵兵の姿は、動かぬ遺体の他はすでに見当たらない。

 小一郎はすぐさま櫓の上に瓢箪ひょうたんを染め抜いた木下家の旗と織田家の木瓜もっこう紋の旗を立てさせると、


「勝ち鬨を上げよ!」


 と叫び、兵たちに鬨を作らせた。

 この奇襲の成功は、小一郎らが絶叫した鬨の声によって敵味方に知らしめられ、浅井の武者たちの士気を決定的に挫いたのである。

 京極丸は、こうして呆気ないほど鮮やかに織田方の手に落ちた。


 ほどなく、藤吉朗率いる本隊の攻撃によって六坊、山王丸が相次いで攻略され、浅井久政は二百ほどの残兵と共に京極丸と山王丸の間にある小丸に追い詰められた。

 浅井の残兵たちは最期の最期まで武士らしく決死に防戦したが、しょせんは多勢に無勢である。次々と討ち減らされ、やがて二十人ばかりが残るのみとなった。


「もはやこのあたりでよかろう」


 小丸の屋形の中に入った浅井久政は、日頃から可愛がっていた鶴松太夫という舞いの名手にひとさし舞わせ、末期の酒を飲み干すと、見事に自ら腹を切って死んだ。

 享年四十八。

 その鶴松太夫も、主君を介錯した後、立派に自刃して果てたという。


 残敵の掃討を終え、小一郎が小丸の屋形で藤吉朗らと合流した頃、夜が白々と明け始めた。


「戦はここまでじゃ。本丸は攻めるに及ばん。京極丸を守り、しばらく待て」


 藤吉朗が諸将に下知を下した。


「わしは下野しもつけ殿(久政)の首を信長さまの元に届け、今後のお伺いを立てて来る。備前びぜん殿(長政)の扱いが決まるまで、決して本丸を攻めてはならんぞ。向こうから仕掛けて来ても、こっちからは矢弾を撃つな」


 藤吉朗は守備を小一郎らに任せると、近習だけを連れ、小谷山を駆け下って虎御前山の本陣へと向かった。



 一般に、浅井氏が滅亡したのは、木下勢が京極丸を奪い、浅井久政を自刃に追い込んだ翌日の八月二十八日とされている。『信長公記』もその日付であり、それがそのまま通説になったのだろう。

 しかし、浅井長政がその死の直前、家臣の片桐かたぎり孫右衛門まごえもん宛てに発給した篭城を感謝する書状が残っており、その日付が八月二十九日となっていることから、どうやらこれは誤りである。戦国史研究の第一人者として著名な小和田哲男氏は、小谷城陥落の日を九月一日と推定されており、筆者もこの説を採りたい。

 つまり、浅井久政の切腹と浅井長政のそれとの間には、三日もの開きがあった、ということである(旧暦の天正元年八月は小月で、二十九日で終わる)。


 この間、何が行われていたか――


 読者は意外に思われるかもしれないが、信長は、浅井長政の助命を考え、その説得をしていたらしい。


 藤吉朗から報告を受けた信長は、八月二十八日に馬廻り(親衛隊)を引き連れて自ら小谷山を登り、京極丸に入って陣頭指揮を取った。

 本丸への総攻撃は控え、長政に和平交渉の使者を出したのである。


「浅井がわしに叛いたは隠居殿(久政)と一部の家臣たちの策謀からであり、長政の本意でなかったことは承知している。長政はお市の婿むこでもあり、わしに含むところはない。隠居殿が腹切ったことですでに遺恨いこんは晴れているから、湖北の地を明け渡して長政がわしに降るなら、浅井の罪は不問にし、大和(奈良県)かその近国で別の知行地をて行うであろう」


 そういう意向を、信長は示した。

 湖北を浅井から取り上げ、別の地を与えるというのは、浅井を織田の同盟者の位置から家臣の位置に引き下げるということになるが、いずれにせよ、滅びるが当然の浅井の立場からすれば夢のような条件と言っていい。


 死を決していた小谷城内の武者たちは、にわかに動揺した。

 すでに朝倉が滅び、孤立無援となった浅井の命運は尽きている。抗戦の無駄は言うまでもないことであり、浅井家が生き延びる道は完全に閉ざされていた。だからこそ、篭城した将士は、名を惜しんで死ぬ武士の死に様の美しさに自ら陶酔し、華やかな死に花を咲かすというこの一点に心を集中することができたのだが、和睦があると知れば、ひょっとすれば命が助かるかもしれぬと誰もが希望を持ち、必死の気分などは萎えてしまうのものなのである。


 このとき浅井長政が和睦に応じていれば、信長は小谷城を武装解除し、湖北を奪った後に長政を幽閉し、腹を切らせ、やはり浅井を滅ぼしたかもしれないし、むしろその公算が大きかったであろう。戦国武将がよく行う常套手段であり、たとえば武田信玄は、妹婿をその方法で殺し、諏訪すわ地方を奪ったりしている。

 しかし、絶対にそうなったか、と言えば、これも言い切れないように思う。

 信長は眉をひそめたくなるような冷酷な所業も数々やった男だが、場合によっては敵に回った者を許す度量を備えていたことも事実で、たとえば現在の織田家筆頭家老である柴田勝家や宿老の林秀貞ひでさだなどはかつて信長が弟と家督を争ったときは敵であったが、信長に帰順を申し出ると許され、その後は厚遇されているし、美濃や伊勢の豪族たちも敵ではあったがほとんど殺さずに織田家に組み込むことを選んでいる。松永久秀などは二度叛旗を翻してそのたびに許されているし、少し時代が下るが三好三人衆なども滅亡ギリギリまで追い詰められながらその後は許され、織田家に組み込まれている。十年戦い続けた本願寺の場合などは、石山を武装解除し、顕如けんにょを大阪から追放した後、それを捕らえて殺すような処分をせず、そのまま放置しているのである。

 こういう実例がいくつもある以上、信長が冷酷・冷徹なだけの男であったとは考えるべきではないであろう。気短かで激昂しやすい体質であり、容赦ない性格であったことも否定できないが、忍耐強く寛容な面も持ち合わせていたことは間違いない。


 信長は、長政の武辺者肌の気性とその将器を愛していた。まして長政は、実の妹・お市の婿である。今後、織田家に無二の忠誠を尽くし、自分のために犬馬の労を取ってくれるというなら、殺すまでのことはせずとも良い――と信長が考えたとしても、それほど不自然ではない。

 今回の信長の和睦提案は、最初から謀略をもって長政を殺すつもりであったというよりは、交渉をすることで長政の腹を探り、その気持ちを確かめ、状況次第ではお市を平和裏に返還させ、その上で信長自身も腹を決めるつもりだったのではないか――と筆者は考えるのである。


 いずれにせよ、信長はそうして長政の腹を叩いた。

 これに対する長政の回答は、にべもないものだった。


 和睦の拒否。

 小谷城の落城をもって、浅井家を滅ぼす、という決断である。


 この選択は、多分に浅井長政という男の性格によるものであろう。

 勝敗が誰の目にも明らかとなってからの和睦である。敵から哀れみを受けるようなもので、若い長政の美意識には耐えられなかったのかもしれない。

 信長に降り、城を奪われた後に腹を切らされるようなことになれば、その情けなさは目も当てられない。よしんば命を永らえることができたにせよ、そこに武士としての美しさは微塵みじんもないのである。


(名こそ惜しもう・・・・)


 と、長政は思ったに違いない。


 城を枕に最期まで壮絶に戦い、浅井長政という男の名を後世に残す。

 武門の棟梁として、それ以上の死に様はないではないか――


 長政は、妻・お市と三人の娘、その侍女ら非戦闘員を織田方に返還し、徹底抗戦の構えを貫いた。

 主君のこの断固とした態度によって、浅井の武者たちは再び決死の覚悟を取り戻した。


「あのうつけめが・・・・・」


 信長は呟いた。

 迷惑に思ったに違いない。

 浅井の滅びはすでに決まっているにも関わらず、長政の美意識を満足させるというそのためだけに、さらに数百人の血を無駄に流さねばならなくなったのである。

 無駄ほど、信長が嫌うものはない。


 しかし、武士が己の死に場所を定めた以上、もはや説得は不可能であった。

 進退の振る舞いが美しくあることは信長の好むところでもあり、ここに至っては、長政の心情を汲んでやり、その男を立ててやるのが、武士を遇する道でもあろう。


 八月二十九日、織田軍は、搦め手の京極丸と大手の金吾丸から本丸に向けて総攻撃を掛け、小谷山の尾根を削り潰すような勢いで攻め立てた。

 本丸を中心に守る浅井勢は、すでに七百そこそこの兵力しか残っていない。が、今日を限りと戦う武者たちの奮戦は凄まじく 浅井長政は旗本を率いて自ら槍をとって戦い、大手から攻め寄せて来る織田勢を何度も突き崩し、坂下へ蹴落とした。

 長政は、切腹よりむしろ闘死を望んだのであろう。本丸を出て自ら大手の最前線に立ち、兵たちを叱咤して奮戦した。


 驚くべきことだが、早朝からの総攻めにも関わらず、この日、ついに城は落ちなかった。

 翌九月一日も攻防は続き、長政は鬼神ように闘い続けたが、京極丸から攻める木下勢と信長の旗本によって先に本丸の方が落とされてしまい、進退が窮まった。


(ついに討ち死にさえできなんだか・・・・)


 長政は自嘲したであろう。

 生き残った二十数人の武者たちと共に本丸から東に少し下ったところにあるくるわに入り、重臣・赤尾清綱の屋敷を借り、そこで腹を切った。

 享年二十九。


 こうして、湖北にその武勇を轟かせた浅井家は滅んだのである。



 朝倉義景が、浅井の十倍以上の兵力を持ちながら織田と決戦することさえできず、おたおたと逃げ惑った挙句に一族の裏切りによって滅んだことに比して、義と美意識に殉じることを選び、最期の最期までそれを貫き通した浅井長政という男の死に様は、いかにも清々しく、武士らしい。

 このときから四百年以上も後に生きる我々がこの若者の生涯を想うとき、そこに美しさを見るというこのことにおいて、名を後世に残すという長政の望みは、十二分に果たされていると言うべきであろう。


 養源院天英宗清


 この若者がその死の直前に、浅井家の菩提寺の住職に頼んで用意したという自らの戒名である。



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