表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王佐の才  作者: 堀井俊貴
59/105

第59話 朝倉氏の最期――小谷城陥落(1)

 七月十八日に真木島まきのしま城を落とし、足利義昭よしあきを追放した信長は、七月二十一日には京へ馬を返し、軍勢を四方に派して義昭と共に兵を挙げた山城(京都府南部)や近江の豪族たちを鎮圧する一方、畿内の人心安定のために次々と手を打ち始めた。

 焼き払った上京の復興に着手することはもちろん、京に住む人々に地子銭じしせん(宅地税)や諸役(雑税)を免除し、さらに「天下所司代」という役職を新たに設け、村井貞勝さだかつをそれに任じて京の庶政を担当させ、これまで幕府と共同管理していた京とその周辺地域を完全に織田家の直轄領にした。また、朝廷に対しては基本的に幕府がその対応に当たっていたのだが、信長は自ら禁裏の夜間警備などを行うことで、今後は織田家が直接に朝廷に対応することを天下に示した。


 さらに重要なのは、年号を変更する「改元かいげん」の問題であろう。

 信長は、京に帰ったその日に、朝廷に改元の内奏ないそうを行っているのである。


 実はこの「改元問題」にはその前段がある。

 元亀二年、信長は比叡山を攻撃し、僧俗共に殺し尽くし、堂塔伽藍どうとうがらんを焼き払い、延暦寺を事実上消滅させた。「王城の鎮護」である山門が滅亡したことは朝廷にとって衝撃的な大事件で、正親町天皇は「元亀げんき」の元号を不吉とし、年号改元の内意を幕府にたびたび洩らしていた。しかし、義昭は改元の際の諸儀式の費用をケチってこれに応じず、この話は棚上げされた格好になっていた。

 信長は、義昭を追放するやすぐさまこの問題を取り上げ、朝廷に改元を内奏したのである。

 年号を改めることで時代が変わったのだということを世に知らしめ、人心を一新させるという狙いがあることはもちろん、「将軍」に代わる権力者としての信長の巨大な像を、そういう形で世間に見せ付けるつもりであったのだろう。


 今谷明氏の『信長と天皇』によれば、このとき朝廷は信長に「改元勘文かいげんかんもん」(改元の事由じゆうを記した文書)の閲覧えつらんを許し、信長が望んだ通りに「天正てんしょう」の年号を採用することを決めたらしい。信長自身の官位はこのとき弾正忠だんじょうちゅうに過ぎず、これは殿上も許されぬ地下じげの身分なのだが、関白にも劣らぬ礼遇をされているのは注目すべきであろう。

 改元という朝廷の専権事項に武家が介入するのは、足利 三代将軍 義満よしみつ以来、たびたび行われてきたものだが、信長にそれを許しているということは、この時点で朝廷が、信長を将軍並みの権力者と位置づけていたことを物語っている。


 ともあれ、元亀四年(1573)という年は、七月二十八日をもって「天正元年」と改元された。



 真木島城で降伏した義昭が、実子を人質として信長に預けた、というのはすでに触れた。やがて足利義尋よしひろと名付けられ、出家した後は義尋ぎじんという僧名で呼ばれることになるが、この時まだ生後一年にも満たない幼児である。

 信長は、この幼児を「大樹たいじゅ(将軍)の若君」として推戴し、幕府体制を維持するという方針を内外に表明した。


 このことが虎御前山まで聞こえたとき、半兵衛は、


「なるほど。巧妙ですね・・・・・」


 と呟いた。


「どういうことです?」


 小一郎が尋ねると、


「使い古された手と言えば言えますが――要するに岐阜さまは、幕府体制の維持を表看板にして幕臣や畿内の有力者たちを丸め込み、なし崩しに織田家に取り込んでゆこうとなさっているのですよ」


 信長の理屈とは、こうである。

 義昭が京を追放されたのは身から出たさびであって、信長は決して足利将軍家や足利幕府そのものに仇を為しているわけではない。その証拠に、自分は義昭の嫡子を庇護ひごしており、ゆくゆくはこの幼児に将軍職を継がせるつもりである。さしあたり幼児が成人するまでは信長が天下の仕置き(政治)を見てゆくから、幕臣たちは安心して自分に従うが良い。織田家に属する分には、その身分と領地を以前のままに保証してやる・・・・。


「それで畿内の者たちは大人しく降ってきましょうか?」


 京を追われたとはいえ現実に義昭は将軍として世に在り、武家の棟梁としての征夷大将軍の権能と神聖権は依然として義昭にある。信長がかかげる理屈は誰が聞いても詭弁きべんに過ぎず、その狙いが天下を奪うところにあることは見えすぎるほどに見えている。


「大義名分さえ立ててやれば、あとは強者の横車よこぐるまと弱者の自己保全によって回ってゆくのが『政治』というものでしょう。岐阜さまは、そのあたりの機微によく通じていらっしゃいますよ」


 半兵衛は扇子を開け閉めしつつ応えた。


 信長が義昭の嫡子を擁し、これを推戴し、いずれ将軍にすると公式に表明している以上、幕臣や足利家に属していた畿内の豪族たちがここで義昭を見限っても、「足利将軍家に対する不忠」にはならないのである。で、ある以上、現実の強者である信長に従っておくというのが利口というものであろう。彼らの本音は、幕府体制を維持してくれ、自分たちの権益を守ってくれさえすれば、上に戴くのが義昭であろうがその子であろうが信長であろうが構いはしないのだ。


「そういうもんですか・・・・」


 小一郎は不得要領のまま頷いた。


 実際、畿内の有力者であくまで義昭に従おうとした者はほとんど誰もおらず、京を追われた義昭は兄殺しの仇敵であった三好義継よしつぐ、三好三人衆らに救われ、保護されているという始末であった。三好三人衆らにしてみれば反信長の旗頭として義昭には利用価値があったし、義昭にすれば味方になってくれるなら誰とでも喜んで手を組みたいという気持ちであったろう。


 いずれにせよ、山城や近江の一揆が鎮圧された後、京の近辺は完全に織田領となり、それまで幕府傘下だった豪族たちは軒並み織田家に組み込まれることになった。

 ちなみに藤吉朗は、この山城の掃討戦のとき、淀城に篭っていた幕臣二人を調略で寝返らせ、細川藤孝ふじたかと共に淀城を攻め、三好三人衆の一人 岩成友通いわなりともみちを滅ぼしたりしている。


 人並み外れて活動的な信長は、いつまでも一所に留まるようなことはしない。京には数日滞在したのみで、政務と戦務を瞬く間に片付けると風のように畿内を去り、八月四日に岐阜に帰還した。

 この間、半兵衛が、山本山城の阿閉貞征あつじ さだゆきを内応させることに成功している。

 虎御前とらごぜ山に戻った藤吉朗からその報が岐阜に伝えられたのが、八月八日の夜。

 信長は、この吉報を聞くや夜中にも関わらずすぐさま陣触れをし、二万余の兵を引き連れて再び北近江に乗り込んだ。

 武田信玄の脅威が去り、獅子身中の虫であった足利義昭を追放した今こそが、浅井・朝倉との決着をつける好機と見たのであろう。



 浅井が篭る小谷城とは、広大な小谷山の各所に築かれた千余の防御施設の総称である。

 小谷山の尾根に沿ってくるわが数珠玉のように築かれていて、いわゆる「小谷城」というのは山頂の東から南に向かって伸びた尾根にある六坊りくぼう山王さんのう丸、小丸、京極丸、本丸、御茶屋丸、金吾きんご丸などからなる領域を言う。小谷山の山頂を大獄おおづくと言い、ここに堅固な大獄砦が築かれ、さらに小谷城と大獄砦を囲うように周辺の尾根に山崎丸、福寿ふくじゅ丸、焼尾やきお砦、月所げっしょ丸などが置かれ、小谷山全域が要塞化しているのである。


 この難攻不落の城を、いかにして攻めるか――


 虎御前山に顔を揃えた諸将の関心は、まさにその点に尽きた。


「岐阜さまが大軍を率いて北近江に入れば、すかさず朝倉の援軍がやって来、あの小谷山に篭る。この図式を変えぬ限り、小谷山を短期決戦で落とすことはまず無理です」


 半兵衛が、まずそう言った。


「もっともじゃな。浅井だけならもはや二、三千に過ぎぬが、朝倉が二万も兵を引っ張って来てあの城に篭るから、わしらはいつも攻めあぐんでおる」


 蜂須賀小六が相槌を打った。


「逆に言えば、朝倉の軍勢が小谷山に入れぬようにさえすれば、勝敗はおのずと決まりましょう」


 いかに小谷山が堅牢であろうと、それを守る十分な兵力がなければ守り切ることはできないと言うのである。


「小谷山の背後にある山田山――あそこにいち早く布陣し、北国街道を押さえてしまえば、朝倉は兵を小谷山に入れることができず、立ち往生するハメになります。そうして朝倉を山上から睨みつつ、北方から小谷山に攻め登るが上策と思います」


 今までは、琵琶湖畔の山本山城が敵の拠点として残っていたから、それができなかった。敵地深くに侵入して陣を敷けば、糧道(補給線)を断たれる怖れがあったからである。しかし、山本山城を守る阿閉貞征からはすでに寝返りの確約を得ており、その心配はない。


「この山田山の位置では、南北から朝倉と浅井に挟み撃ちにされることになりゃせんですか?」


 広げられた絵図を睨みながら小一郎が口を挟むと、


「確かに絵図の上では挟まれる形になりますが、浅井に城を出戦するだけの兵力がありませんから、この場合は問題ないでしょう」


 半兵衛がやんわりと言った。


「北から小谷山を攻めるとなると・・・・あの北の尾根にも、小谷城の背後を守る砦がありましたな」


 藤吉朗が視線を向けると、樋口三郎左衛門が重々しく頷いた。

 三郎左衛門は長く浅井方の武将であった過去があり、宮部善祥坊と共に小谷城のことは知り尽くしている。


「焼尾の砦ですな。あの砦を取り、山頂の大獄おおづくへと攻め登るが、小谷攻めの手順としては至当でござろう。頂きの大獄さえ取ってしまえば、小谷城は裏から尾根伝いに攻めることができますからの」


 標高四百四十mを誇る急峻な小谷城を山麓から攻めるのは至難である。山麓の清水谷は浅井家の武家屋敷が並ぶ地域で、ここはそのまま敵の強固な防御陣地であり、尾根の側面は百を越える小砦が斜面に築かれ、無数の堀切りが掘られている。城を力攻めするとなればまず山麓の敵陣を破らねばならず、その後は頭上から無数の矢弾や投石を浴びながら急斜面を登攀とうはんせざるを得ず、味方は数千の損害を覚悟せねばならないであろう。

 しかし、小谷山頂の大獄おおづく砦さえ取れれば、高所から尾根伝いに小谷城を攻められる。山麓から尾根にかけて作られた防御施設はまったく意味をなさなくなり、城にとって絶対確保領域である本丸付近を直接に攻撃することができるのだ。


「篭城となれば、これまでの例から言っても、大将である備前びぜん殿(浅井長政)が当然この本丸に、下野しもつけ殿(長政の父・久政)がこちらの小丸か京極丸に詰めるでしょうな」


 己で描き上げた小谷城の略地図を指で指しながら、宮部善祥坊が説明した。

 墨で描かれた善祥坊の絵はなかなか秀逸で、郭の並びや植えられた柵や土塁までよく表現されている。


「こりゃなんですか?」


 京極丸と本丸の間に描かれた凹凸を見つけた小一郎が尋ねた。


「そこに“大堀切り”と名づけられたる大きな空堀が切られておるんじゃ。幅は半丁(五十m)ほどもあり、高さは三丈(九m)以上ある」


 とてつもない堀である。


「この堀のせいで、寡兵の浅井勢はさらに兵力を分断されることになりますね。各個に攻めることができますから、裏から攻める我らにはかえって好都合かもしれません」


 それを眺めていた半兵衛が呟くように言った。


「大獄から山王丸、京極丸と攻め落とし、この大堀切りまでを取れば、本丸の長政殿もお覚悟を決めましょう」


「うむ。・・・・まぁ、手順とすりゃそれが一番ええようやな。わしから信長さまに申し上げてみよう」


 藤吉朗は腕を組みつつ言った。


「それはそうと、わしの心配はお市さまがことじゃ」


 お市――信長の妹にして浅井長政の妻である。


「浅井の滅びはもはや避けられぬところじゃろうが、お市さまは何とかしてお助けしたい」


「・・・・信長さまのご内意なんか?」


 小一郎が聞いてみると、


「いや、これは、まぁ、わしの一存じゃな。信長さまは、お市さまのことに関しては何もおっしゃられん・・・・」


 藤吉朗はちょっと微妙な表情で笑った。


「お市さまは、信長さまにとってただ一人のご同腹どうふくの妹君じゃ」


 同腹というのは、同じ母親から生まれた、という意味である。


「幼い頃から、そりゃぁ可愛がられておられた。信長さまにとって、仲睦まじい肉親と言えば、お市さまだけじゃったでな。わしゃそれをこの目でよう見ておる。救えるものなら救いたいと、必ず思うておられるに違いないわ・・・・」


 なんとなくしんみりした場の雰囲気をわざと壊すように、


「政略の上の夫婦めおととはいえ、備前殿とお方さまは、ありゃ好き合うておられるな。その証拠に、お子が四人も授かっておる」


 と善祥坊が軽口を叩いた。


「その備前守殿に腹を切らせれば、お市さままでが死ぬと言い出しかねん・・・・。半兵衛殿、こりゃ何とかならんですかの?」


 藤吉朗に話を振られ、半兵衛は難しい顔をした。


「こればかりは・・・・・。実際にその時にならねば解らぬことが多すぎて、何とも言えませんね・・・・」


「まぁ、難しかろうなぁ・・・・・」


「成り行き任せではありますが、機を見て長政殿に使者を出し、説得するほかありますまい。男のお子はともかく、女のお子の命を岐阜さまが助命なさるとお約束になれば、母であるお市さまも、あるいは落城前に城を出られる気になるかもしれません・・・・」


 子を救いたいという母親の情に訴えるのがもっとも効果的であるだろう。


「お子たちの命か・・・・信長さまに伺っておかねばならんな」


「それと、城攻めの際、焼き討ちをせぬようにすべきでしょう。城が燃えれば、こちらにその気がなくとも焼け死んでしまうようなことは起こり得ますし、あるいはその火を見て絶望し、とっさに自ら死を選ぶというようなことにもなりかねません。女人のことですから、その心を追い詰め過ぎぬようにするが肝要かと・・・・」


「あい解った。そのことも軍議の席で申し上げておこう」


 藤吉朗は何度も頷いた。

 信長が、大軍を引き連れて虎御前山へ入ったのは、その二日後である。



 藤吉朗の献策を容れた信長は、小谷山にはいきなり手をつけず、軍勢を小谷山の北方の山田山に登らせ、展開させた。この地域を封鎖し、援軍の朝倉勢が小谷山へ入るルートを遮断したのである。


 織田軍襲来の報を受け、朝倉義景よしかげは一万五千の兵を率いて越前から駆けつけたが、すでに小谷城は織田軍によって完全に封鎖されており、救援できる状態ではない。

 義景は、山田山のさらに北方の田部の山に軍勢を登らせ、織田軍と二キロを隔てて対陣する構えを取った。平地に居続けるよりは安全だと思ったのだろうが、小谷山を救おうとするでもなく、織田に攻め懸けるでもなく、その動きはいかにも中途半端だ。


 小谷山の北の峰にある焼尾砦は、浅井長政の親族である浅井対馬守つしまのかみと浅井山城守やましろのかみの二将が守っていたが、あらかじめ施しておいた調略が功を奏し、織田軍が山田山に布陣すると共に味方に寝返った。

 この寝返りが、八月十日の夜。

 信長は、これを機として軍勢を小谷山に攻め登らせた。暗中、酷い風雨をついて織田軍は北方から小谷山に侵入し、小谷山頂の大獄おおづく砦を攻めた。大獄砦は朝倉の援軍五百ほどが守備していたのだが、これがあっという間に降伏した。


 この大獄砦を奪取されたことが、浅井滅亡の致命的な原因と言っていい。小谷城は山麓から攻め上がる場合にはまさに難攻不落の城であったが、山頂の大獄砦から尾根伝いに攻められればもろいのである。

 そしてこのことは、朝倉義景の戦意にも決定的な影響を与えた。大獄砦が落ちた以上、もはや小谷城の落城は避けられぬであろう。すでに後詰めの意味はないと見、越前に向けて退却を始めたのである。

 最後の最後まで、この男は常にこうであった。


 信長は、朝倉義景という男の腰の弱さはすでに知り抜いている。朝倉軍の撤退までを予期していたらしく、


「朝倉左京大夫さきょうだゆう(義景)は、今日明日のうちに必ず兵を退く。この機を逃さず、覚悟して敵を追い撃て」


 と再三諸将に命じたらしい。

 しかし、浅井は朝倉のために戦い続けてきた無二の同盟勢力で、両家の紐帯の強さを考えれば、わざわざ越前から北近江に救援に出張り、浅井の絶体絶命の窮状を間近に見ながらこれを見捨てて帰る大将もないであろう。

 諸将は、まさか朝倉軍が兵を退くとは思っておらず、夜討ちの準備にぬかりがあった。

 が、信長の予期した通り、八月十三日の夜に朝倉軍は撤退を開始した。

 信長は無数の篝火が北を指して動いてゆく様子を山田山山頂のやぐらから眺めていたが、織田の軍勢にはこれを追って駆け出そうとする気配が一向にない。


「あれほど念を押して言うておいたに、わしの下知を軽んじたか!」


 信長は激怒した。

 ただちに陣貝かいを吹き立てさせ、馬に飛び乗り、


「先陣ののろまどもは油断したぞ! 旗本の者ども、功名せい!」


 と叫ぶや、自ら馬廻うままわり(親衛隊)を率いてまっしぐらに山を駆け下り、全軍の先頭に立って朝倉軍を追撃した。諸将は大慌てでこれを追い、二万余の織田勢が怒涛のように駆け出した。


 結局、織田軍は一気に敦賀つるがまで追撃し、逃げる朝倉軍は三千余人が討ち取られ、その倍以上の軍兵が逃散し、大将の朝倉義景はわずか数百人の兵と共に本拠の一乗谷いちじょうだにに逃げ込んだ。

 信長は、敦賀で三日間軍を留めて兵を整え、同時に付近の小城を次々と攻略し、あるいは降伏・開城させ、この地域をまず安定させた。

 ちなみに藤吉朗率いる木下勢は、ここで小谷山に戻り、山頂の大獄砦を死守するよう信長から命じられている。虎御前山で留守を守る織田信忠(信長の嫡男)と共に小谷城を封鎖し、織田本隊が戻ってくるまで浅井を監視するのがその任務である。


 織田軍は、満を持して八月十七日に木の芽峠を越え、越前に攻め込んだ。

 朝倉氏傘下の豪族や平泉寺へいせんじなど越前の有力寺社はほとんど抵抗らしい抵抗もせず、次々と朝倉家を見限って信長に降伏した。あれほどの栄華と強勢を誇った朝倉氏が決戦のために兵力を集結することさえできず、義景は一乗谷を捨ててさらに北方に逃げたが、一族の朝倉景鏡かげあきらに裏切られて捕らえられ、腹を切らされた。その朝倉景鏡は義景の首を手土産にして、ちゃっかり織田に寝返っている。


 信長は、府中(福井県武生市)の竜門寺に本陣を置き、煩雑な戦後処置を次々と片付けながら同時に徹底した落ち武者狩りを行い、朝倉義景の母、子、一門親族などを探し出し、ことごとくはりつけにした。さしあたって越前の守護代に前波吉継まえば よしつぐを指名し、旧朝倉領の豪族や領民の慰撫いぶを明智光秀らに任せると、自らは主力を率いて軍を返し、わずか九日後の八月二十六日には虎御前山へと舞い戻っている。


 その早業は、もはや神速と形容するしかない。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ