第58話 室町幕府の滅亡
自らの死が避けられぬものであると悟った信玄は、今後の方策について多くの遺言を残したらしい。
このあたりは『甲陽軍鑑』に詳しいが、たとえば、武田家の跡目を信玄の孫の信勝にすること。息子の勝頼は信勝が成人するまでその陣代を務めること。信玄死後は上杉謙信を頼り、武田・上杉の同盟を策すこと。織田・徳川勢力に対しては専守防衛に徹し、討って出ることを禁じ、敵を国内深くまで引き入れて戦うこと、などを命じている。
「わしが死んだら、三年その喪を秘し、自重して国を堅固に守れ」
というのが信玄の方針だったようで、あらかじめ信玄自身が署名した白紙の誓紙を八百枚あまりも用意しており、信玄死後の諸方面からの書状の返書はそれを使ってし、その死をあくまで隠せ、などと細々した指示まで行っている。
その遺志を受け、信玄の死は武田家中でさえ厳重に秘密とされ、対内的にも対外的にも「重病」という風にこれを装い、その真相は重臣たち以外には一切知らされなかった。
巨星墜つ――
この事実は曖昧模糊とした闇の中にあり、信長も家康も、足利義昭も本願寺顕如も、しばらくはその確報を得ることができなかった。
ともあれ、武田軍が上洛を断念して三河を去り、信濃を経由して甲斐へ引き上げたことは厳然とした事実である。
信長は、蘇生するような想いであったに違いない。
信玄の安否がどうであれ、半年もの遠征を打ち切った以上、農兵主体の武田軍が再び大規模な遠征を行うことはしばらくあり得ない。当分は、政情不安な畿内の安定と浅井・朝倉対策に全力を傾けることができるであろう。
このとき信長は、以前から考えていた琵琶湖の軍事利用を実施に移した。
岐阜に本拠を置き、畿内を遠隔支配する信長は、岐阜から京までの移動距離の長さに常に頭を痛めていた。直線距離にして百キロ――旅程にして三日。畿内で騒動が起こるたびに、この距離を織田軍は駆け通さねばならず、しかも移動で疲労した軍勢は、一日二日は休ませねば使い物にならないのである。
しかし、近江に横たわる琵琶湖の水運を上手く使えば、この時間は一気に短縮でき、しかも兵たちを疲れさせることもなくなる。たとえば湖東の佐和山から琵琶湖南端の大津までの四十キロを船で移動すれば、これは半日と掛からない。岐阜と京の移動を、丸一日短縮できることになる。
またこの発想は、そのまま浅井・朝倉攻めにも利用できる。船を使えば、南近江の軍勢を湖北まで神速で運ぶことができるであろう。
必要なのは、数千の軍勢を一度に載せて移動できるだけの大きさを持った船なのである。
五月二十二日、信長は琵琶湖畔の佐和山城へ移動し、そこで前代未聞の大船の建造を命じた。
『信長公記』の記述を信じれば、この大型船は長さ三十間(54.5m)、幅七間(12.7m)、百艇の艪を備え、船首と船尾に巨大な櫓を置き、五千人もの軍兵を乗せることが可能であったらしい。
ちなみに同時代のヨーロッパ――大航海時代の真っ只中である――で、マゼランが世界一周に使用したキャラック船(ビクトリア号)やコロンブスがアメリカを「発見」したときに乗ったキャラベル船(サンタ・マリア号)などは、いずれも全長二十五m前後である。琵琶湖という波の穏やかな環境ならではの船で、外洋航海などはまったく不可能であったろうし、搭乗数 五千人というのは大誇張であると筆者は考えているが、造船ドックさえなかった当時の日本で、五十mを越える大型船を作ってしまった信長の発想とそれを実現させた日本の大工たちの技術水準には素直に驚かされる。
おそらく信長は、この頃日本に来ていたポルトガルの宣教師などからヨーロッパの様子を聞き、百里の波濤を越えて極東までやって来たという彼らの航海技術に驚き、触発されるものがあったのに違いない。
いずれにせよ、信長は佐和山城に一ヶ月以上も腰を据えて大船建造に没頭した。
お抱えの大工の棟梁である岡部又右衛門を奉行に指名すると、領国中の大工、鍛冶、樵などを呼び集め、近隣の山々から材木を伐り出させ、それを川を使って琵琶湖畔へ流し、浜に作事場を設けて昼夜兼行で建造作業を急がせた。
信長は連日のように建造現場に立ち、人夫たちの働きぶりを監督するという入れ込みようであったらしい。
この大船は、七月初頭に完成し、七月五日に無事進水を果たした。
折りしもこの七月五日、足利義昭が再び反信長の兵を挙げている。
「近々、京でまた戦があるぞ」
藤吉朗がそう言ったのは、湖北に真夏の日差しが降り注ぐ六月末であった。
場面は、虎御前山の城の大広間。
信長に呼び出されて佐和山城まで行っていた藤吉朗は、虎御前山に戻るや諸将を呼び集め、軍議を開いたのである。
「公方さまが、何やらまた癖の悪い企てを致しておるらしいわ」
「癖の悪い――ちゅうと、またぞろ兵を挙げなさると言うんか?」
皆を代表するように小一郎が尋ねると、藤吉朗は腕組みし、頷いた。
「どうもそのおつもりであるようじゃ。宇治の真木島城を密かに改築しておるちゅうし、ホントかどうかは解らんが、中国の毛利から兵糧米が送られて来たっちゅう話もある」
真木島城は、京から南に二十キロ――宇治川が淀川に流れ込む巨椋池の中洲に築かれた要害で、義昭の謀臣 槇島昭光が城主を務めている。
「武田の後は毛利と言うわけか。あの公方さまにも困ったモンじゃな」
苦笑とも呆れともつかない表情で蜂須賀小六が言った。
「じゃが、相手が足利将軍では攻め滅ぼすわけにもいかん。ほんに厄介じゃ」
前野将右衛門が苦々しげに相槌を打つ。
「それで、岐阜さまは、何と?」
半兵衛が藤吉朗に話の続きを促した。
「いや、今度ばかりはさしもの信長さまも迷っておいでのようじゃった。公方さまが兵を挙げたところで怖ろしゅうはないが、これを討つとなると――半端な覚悟ではできんことじゃでな・・・・」
それはそのまま、二百三十年以上続いた室町幕府体制を滅ぼすことに繋がってしまうからである。
信長が己を頂点とするまったく新しい秩序をこの日本に構築しようとするからには――「天下布武」を目指す上は――現実の武家の棟梁である「将軍」をどう扱ってゆくか、というのは避けられぬ問題であった。信長が義昭を奉戴する形で上洛し、幕府体制の庇護者として畿内を制した以上、この矛盾は遅かれ早かれ表面化する宿命だったと言える。
「細川藤孝殿や荒木村重殿などは利口者じゃわ。幕臣たちが、あれらのように物分かりよう公方さまを見限ってくれりゃぁええんじゃが・・・・」
藤吉朗はわざわざ利口者という言葉を使ったが、義昭や幕府の側から見ればこれらは裏切り者、不忠者であり、変節漢と断ぜざるを得ないであろう。
義昭が人間的にどんな男であろうと「足利将軍」には違いなく、幕臣たちは室町幕府体制があってこそ家禄を頂戴でき、二百三十年にわたって高位にあぐらを掻いていられたのである。将軍を否定することは室町幕府を否定することと同義であり、幕臣である彼らは自らの存在そのものを否定することになってしまうのだ。
幕臣たちの多くは、二百三十年以上連綿と続いて来た今の幕府体制の正統性を何の疑問もなく信じているし、それがそのまま未来永劫続いてゆくのだと当たり前に考えている。
このような幕臣たちを、読者はうかつに笑うべきではない。
現代に生きる我々にしても、たった七十年にも満たない戦後の民主主義体制が未来永劫続いてゆくような錯覚を持って生きている者がほとんどであろう。時代の節目とか、歴史の変わり目などと言うものは、何十年、何百年というスパンで過去を振り返ったときにはじめて解るもので、その時代にリアルタイムで生きている人間たちの多くは気づきもしないものなのである。
「いかに公方さまとはいえ、こう何度も天下を乱されては岐阜さまもお許しにはならぬでしょう。ですが、ここであからさまに足利家を滅ぼせば幕臣どもも黙っておらぬでしょうし、世の聞こえも悪い――確かに、難問ですね」
半兵衛の懸念が、信長がまさに悩んでいるポイントであった。
「信長さまが、足利尊氏の如く新たに織田幕府でも開けばどうじゃ?」
将右衛門は冗談のつもりでそれを口にしたようだが、案外と的を射ている。
「幕府は征夷大将軍にしか開けず、征夷大将軍は源氏でなければなれん。お屋形さまは平氏を称しておられるから、残念ながらその資格がないな」
宮部善祥坊がいかにも坊主あがりらしく物知り顔で言った。
「初代の征夷大将軍である古の坂上田村麻呂は、源氏でも平氏でもありません。確かに朝廷というのは先例を大事にしますが、そう杓子定規に考えることはないですよ」
半兵衛は、微笑したままやんわりとそれを遮った。
「いま将右殿が申されたことは鋭い。幕府をどうするか、朝廷をどう扱うか――これらを見ることで、岐阜さまが胸の中で描いておられる天下の姿を垣間見ることができるように思います」
「天下の姿――?」
「たとえば足利義教公のように、天子に至尊の価値を置き、武臣の最高位である将軍として世を統べるのか。あるいは平清盛入道のように、武臣を域を越えて朝廷に入り込み、朝臣の最高位である太政大臣を目指されるのか。はたまた唐土の覇王の如く、武をもって世を平らげ、自ら天子を名乗るのか――」
「天子を名乗るじゃと!?」
一座の者たちが、一様に驚愕の表情を浮かべた。
「唐土では、覇者が天子になれるんか?」
藤吉朗が興味深そうな顔をしたが、
「半兵衛殿、そりゃ不遜、いや、不敬じゃ!」
それを遮るように善祥坊が大声を出した。
「異国は知らず、この日の本における天子とは、二千年もの昔から万世一系の血によって繋がる天皇家以外にない! 『古事記』に書かれた国生み以来、この日の本が『神国』であるゆえんはまさにこの点にあり、世にいかな武権が起ころうと、皇祖皇宗(天照大神と神武天皇)の大権に害を為そうとする者はかつて一人たりとなかった。このことを忘れて天子の座を奪おうなどは、大罪以外に言葉もないわい」
「・・・・御坊は『神皇正統記』をお読みですか」
半兵衛がちょっと驚いたように言った。
「わしとて今さら南朝の正統を言い立てる気はないが、『大日本は神国なり』と断じた北畠親房卿の言葉は尊いものじゃと思うておる」
「『天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝え給う。我が国のみこの事あり。異朝にはその類なし。これ故に神国と云うなり』――ですね」
「ほうじゃほうじゃ。よう知っておるではないか」
善祥坊は嬉しそうに笑った。
「善祥坊殿は、叡山で修行をなされたのでしたな。叡山と言えば山王神道の聖地。しかも南朝方として足利尊氏殿に抗うてもおる・・・・。なるほど、これは私がうかつでした」
「幕府を滅ぼすのと天子に取って代わるのではわけが違う。お屋形さまも、この日の本に生まれた人であるに違いはあるまい。よもや唐土の覇者のような増長満を起こすようなことはあるまいよ。そんな事をしようと万一にも企めば、この日の本の八百万の神々がこぞってお屋形さまを呪詛なさり、天罰たちどころに顕われるわ」
「善祥坊、口が過ぎるぞ」
蜂須賀小六が睨んだ。
モノの喩えとはいえ、「信長を呪詛する」などと口にするのは穏便ではない。
「何が過ぎるものか。言い足りんぐらいじゃわ」
善祥坊が鼻息荒く睨み返す。
「いや、小六殿、私が悪かったのです。この話はもう止めにしましょう」
半兵衛が間に入ったので、小六はなんとなくバツが悪そうな、善祥坊は得意満面の顔を、それぞれにした。
半兵衛は、「論議」は好むが「議論」は嫌う。「論議」は深めるものであり、尽くすものだが、「議論」は吹っかけるものであり、戦わせるものであり、要するに口喧嘩と変わらないのである。口喧嘩はどちらが勝ってもほとんど意味などはなく、負けた方に遺恨だけが残る。
半兵衛殿らしい――と、小一郎は思った。
「岐阜さまが天下を平らげた後、どういう絵を描こうとなされておられるかは、私にもハキとは解りません。しかし、岐阜さまが公方さまに対してどういう扱いをなされるか――このことは、それを見極める一里塚にはなると思います。私が言いたかったのは、この点です」
「半兵衛殿の申されることはよう解った。が、まぁ、その話は今はちょいと措こう。それよりも戦の話じゃ」
藤吉朗が再び話を引き受けた。
「佐和山で見てきたが、件の大船はもうすぐにも出来上がる。信長さまは、あの船を使って畿内に住む者どもの度肝を抜いてやるおつもりじゃ。今度の戦は、わしらにも出陣のお声掛かりがあった。二千の兵を率いてわしも出陣する。・・・・・小一郎」
「おう」
「この虎御前山はお前に任せる。湖北の守りは、わしが引き連れる分を差っ引いても五千ほどもおるが、お前が大将じゃ。しっかりやれ」
かつてない大役である。
小一郎の中に、武者震いのような興奮がある。
「半兵衛殿と善祥坊殿は、小一郎を援けてやってくだされ。衰えたりとはいえ、相手は浅井じゃ。いつ仕掛けてくるかも知れんから決して気を抜くなよ。万一、朝倉が出張って来るようなら、すぐにわしに報せよ」
「心得た」
藤吉朗は引き連れる武将の人選や持ってゆく兵糧・物資の量などの具体的な話をし、出陣の下知があり次第、すぐに出立できるよう準備を命じて諸将を散会させた。
人々が姿を消し、広間に藤吉朗と小一郎、義弟の浅野弥兵衛のみが残ったとき、
「ところで――」
ふと思い出したという風情で半兵衛が藤吉朗に言った。
「公方さまと畿内で戦をやっておる間、こちらもただ守っておるだけというのはつまりません。山本山城を取ってしまおうかと思うのですが、よろしいですか?」
山本山城は、虎御所山から東に一里(4km)。琵琶湖畔の山本山に築かれた山城で、浅井の重臣 阿閉貞征が守っている。北部山岳地帯を除けば、湖北に残っている浅井方の最後の拠点と言っていい。
「浅井の衰えはもはや明白――いらぬ血を流さずとも済ませられるかも知れませんな」
藤吉朗が応えると、半兵衛は微笑で頷いた。
調略で、という藤吉朗の考えは、半兵衛と一致していたらしい。
「その節は、岐阜さまへお取り成しをお願いできますか」
「お耳に入れておきましょう。信長さまも嫌な顔はなさいますまい。わしの名と花押を書いた誓紙を何枚か作っておきますで、良きように使うてくだされ」
こういうところにも、半兵衛に対する藤吉朗の揺るぎない信頼が見て取れる。
「それはそうと、半兵衛殿――」
藤吉朗が膝で歩くようにして半兵衛ににじり寄り、
「先ほどの話ですがの。天下を取るにも、いろいろとやり方があるもんなんですなぁ」
詠嘆するようにしみじみと言った。
「ご存知の通り、わしも小一郎も、尾張中村で百姓やっとった家に生まれました。織田家に仕え、信長さまにお引き立てを頂き、ようやく侍として人がましい暮らしができるようになりはしましたが、しょせんは野人の倅、書物のひとつも読んだことがにゃぁでいかん。学問がない。教養もない。唐土のことなぞは言うに及ばず、この日の本のことについても昔のことはよう知らん。のう、小一郎」
突然話を振られたので小一郎は慌てたが、とりあえずうんうんと頷いた。
「そこへゆくと半兵衛殿は、何から何まで呆れるほどモノをよう知っておられる。わしゃ、これは、わしの卑しい出自を哀れんだ神仏が、半兵衛殿にお引き合わせくだされ、わしの足りんところ、欠けたるところを埋めてくだされたもんやと正気で思うております」
「・・・・・・・・・・・」
藤吉朗は半兵衛の手を取った。
「それゆえ、半兵衛殿には長う生きてもらわねばならん。幾久しゅうわしの傍らにおってもらい、その知恵を貸してもらわにゃならん・・・・・」
小一郎は眉をひそめた。
(兄者は何を言うておる――?)
藤吉朗はたっぷりと間を取り、おもむろに言った。
「正直に言うてくだされ。どっか――具合の悪いとこはありゃせんですか?」
(――!?)
慌てて半兵衛を見た。
半兵衛はいつもの微笑のままである。
「これといって――どこも悪いところはないと思いますが・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
藤吉朗は探るように上目遣いで半兵衛を見据えていたが、しばらくして、ふっと気を緩めた。
「あっはっは。いやいや、わしの思い過ごしならそれでええんじゃ。まぁ、半兵衛殿、身体にはくれぐれも気ぃつけてくだされよ。わしゃ百まで生きるつもりじゃから、半兵衛殿には九十くらいまではボケずに生きておってもらわにゃならん」
「あと六十年も――これはまた先の長いお話ですね」
半兵衛が困ったように笑った。
「なんの。関東で北条家の礎を築いた早雲・伊勢宗瑞殿は九十近くまで生きておったと聞く。決して無理難題ではあらせんですわい。よろしいな。お頼みしておきましたぞ」
藤吉朗は笑いながら座を立ち、半兵衛の肩を二、三度ぽんぽんと叩くと、足音を響かせて広間を出て行った。
小一郎は、水でも浴びせられたような気分で黙然と座り続けている。
(病――?)
確かに半兵衛は腺病質な体質で、年に数回は熱を出して伏せっているし、しばしばタチの悪い咳をする姿も見る。
それにしても――
半兵衛の顔色はいつものように青白く、その頬はこけている。普段と比べて取り立てて大きな違いがあるわけではないが、やつれていると言えばそう見えなくもない。
「小一郎殿まで・・・・。私はそんなに病人のように見えますか?」
己の顔をまじまじと見つめる小一郎の視線に気付いたのか、半兵衛は少し迷惑そうに苦く笑った。
その数日後、義昭挙兵の報が虎御前山にもたらされた。
信長は、佐和山城でこの報せを受けている。待ってましたとばかりに完成した大船に軍兵を満載し、わずか半日後には琵琶湖南岸の坂本に入り、翌日に京へ駆けつけた。
藤吉朗は長浜から数隻の軍船で坂本に向かい、木下勢の大半は陸路を京へと駆けた。
京の将軍御所は、先日の上京焼き討ちの被害で外郭が焼け、修繕もままならない。
義昭は幕臣の三淵藤英、伊勢伊勢守らに将軍御所の守備を任せ、自らは京を脱出し、宇治の真木島城に入ってここで篭城していた。
義昭とは仇敵であった三好三人衆、三好義継らも共に兵を上げ、共闘する構えを見せたが、このとき、奈良の松永久秀は兵を挙げなかった。信玄の上洛が頓挫した以上、ここで信長に歯向かうのは愚策と見たのであろう。どこまでも時勢に敏感な老人である。
京に入った織田軍はまず将軍御所を包囲し、これを焼き立て、五日で陥落させた。
将軍御所は、信長自らが音頭を取って築いた絢爛豪華な城であったが、名木、名石と共に焼き払い、跡形もなく破却した。
次いで信長は軍を南下させ、七月十六日に真木島に進み、宇治川を渡河し、平等院に本陣を置いた。
七月十八日、織田勢は軍をふたつに割って宇治の大河を押し渡るや中州の中島に上陸し、真木島城の城壁を突き崩さんばかりに攻め立て、焼き立てた。城攻めは苛烈を極め、義昭は篭城たった一日で事態を諦め、降伏、開城に応じている。
信長は、生後一年にも満たぬ義昭の子を人質にし、義昭を京から追放した。
ちなみにこの時、藤吉朗は、三好義継が守る河内の若江城まで義昭を護送するよう信長に命じられている。
『信長公記』によると、義昭とその近臣たちは篭城時の着の身着のままで城を追い出されたらしい。将軍である義昭にさえ乗り物も許さず、その近臣はいずれも大名並みの官位を持つ者たちであったが裸足で歩く者さえいたという。その惨めな様子は、
『御よろいの袖を濡らさんばかりで、「貧乏公方」と、上下の人は指をさしてあざけった』
とあるから、衆人環視の中を引き回すように徒歩で歩かせたのであろう。
『兼見卿記』には、この途上、義昭主従が土一揆の襲撃を受け、源氏の至宝である甲冑(源太の産着)をはじめ身ぐるみを剥がされたという記述まであるのだが、もしこれが事実なら、護衛役であった藤吉朗は義昭を守らず、賊の略奪行為を黙視したということになる。
詰まるところ、これらは義昭の評判を落とすために、信長が行った謀略であったのだろう。
信長は、捕らえた義昭を殺すこともできたし、幽閉することも流刑に処すこともできた。それをせず、義昭が逃げるに任せたのは、落ち武者さながらの惨めな姿を世間に晒すことで、足利将軍家の権威を地に塗れさせようという信長一流の「政治」であったに違いない。
いずれにせよ、室町幕府はこの七月十八日をもって事実上滅亡したと言っていい。
結果から考え合わせて見ると、なぜこのとき義昭が兵を挙げたのか、筆者は首を捻りたくなる。
義昭は、決して暗愚な男ではない。
暗愚どころか、この男は永禄十一年に信長を利用して京に返り咲き、将軍職に就いて以来、財力も軍事力もほとんど持たないまま「御内書」という紙切れ一枚で諸国の大名や寺社勢力を操り、反信長包囲網を結実させ、あれほど信長を苦しめ続けた戦国時代でも屈指の策士である。
その義昭が、信玄上洛という好機が潰えたにも関わらずまるで勝ち目の見えない戦を自ら仕掛け、しかも織田軍に攻められるやあっさりと降伏し、京を追われ、権威を失墜させてしまっている。
これ以前、これ以後の義昭の粘り強く執念深い行動と、このときの自暴自棄のような挙兵とが、どうにも筆者の中で結びつかないのである。
資料的な裏付けは薄いが、ここで想像の翼を広げるなら、この義昭の挙兵は、もしかしたら信長の側が仕向けたものであったのかもしれない。
軍事的、精神的に義昭を追い詰め、暴発せざるを得ぬように巧妙に誘導していき、兵を挙げさせた上で、世間に対しては「天下静謐のために止むに止まれず」という姿勢で義昭を攻め、これを叩きのめす――これが、信長の描いた絵であったのではないか・・・・。
こう考えれば、武家の棟梁たる将軍を攻めるという信長の悪行にも世間に対して一応の理は立つし、義昭の無謀な挙兵とも辻褄が合う。
もしこの想像に近い状況であったとするならば、信長の知略は、まったくそら怖ろしいと言うほかない。