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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第57話 義昭挙兵――信玄西上(2)

 遠江とおとうみ(静岡県西部)に侵攻した武田軍の様子は、徳川家康からの救援要請と共に頻々と岐阜に伝えられている。


 十月十三日、信玄自身が率いる二万五千余の武田軍本隊が信濃(長野県)から遠江へ侵攻。同時に山県昌景やまがた まさかげの別働隊五千が奥三河(愛知県北東部)に侵入。只来城、天方城、一宮城、飯田城、各和城、向笠城をその日のうちに陥落させ、「一言坂」(磐田市)で徳川の威力偵察隊を一蹴。

 十月十四日、遠江北方の重要拠点である二俣ふたまた城(浜松市二俣町)を包囲。

 十月下旬、別働隊の秋山信友が東美濃に侵攻。

 十一月十四日、秋山信友によって東美濃の岩村城(恵那市岩村町)が陥落。

 十二月十九日、二俣城が陥落。

 十二月二十二日、「三方みかたヶ原」(浜松市北区)において徳川・織田連合軍一万二千余と野外決戦。これを完膚なきまでに叩きのめす。

 十二月末、浜名湖北岸の刑部おさかべ(浜松市細江町)まで進み、刑部城を攻略し、ここで越年。


 これらの報は、岐阜で留守を宰領している木下七朗左衛門(寧々の伯父)から早馬で虎御前山とらごぜやまへもたらされる。聞こえてくるのは武田勢の強さ、その怖ろしさばかりであり、元亀四年(1573)の正月は、織田家に属する人々にとってはまったく重苦しい幕開けとなった。

 無論、反信長の立場の人々にすれば世にこれ以上の吉報はなく、年始の屠蘇とその味さえ格別なものであったろう。


 家康は“海道一の弓取り”とまで謳われ、その率いる三河勢の強さは天下に定評がある。

 信玄は、その家康をまったく問題にせず、徳川・織田連合軍を一撃の下に粉砕した。「三方ヶ原の合戦」の報は衝撃と共に諸国を駆け巡り、あらためて信玄率いる武田勢の強大さを天下に喧伝したのである。

 その信玄が、遠江を押し通り、いよいよ三河に入ろうとしている。信長の本拠である尾張・美濃はそのすぐ隣国であり、すでに指呼の間と言っていい。

 両者が激突する瞬間が、もうそこまで迫っているのだ。


 信玄がこれからどう動き、信長がそれに対してどういう手を打つか――

 世のあらゆる人々が、息をつめるようにしてそれを見守っている。


(打つ手などあるものか。信玄はそのまま京を目指して西上し、やがて信長と決戦する。そのときこそが信長の命日だ)


 反信長の諸勢力は、そう信じていた。これは観測というより、そのように渇望していたと言うほうが正確であるだろう。


(信長さまは、これをどう迎え撃つ腹であろう・・・・?)


 小一郎ならずとも、それが織田家中の最大の関心であることは言うまでもない。


 この時期、小一郎は、宮部城と横山城、さらに前線の虎御前山を忙しく往復しながら主に兵站へいたんの面倒を見ていた。浅井が攻めて来ようが来るまいが、守備についている兵たちは毎日飯を食うわけで、これを途絶えさせては全軍の士気に関わる。幸い、信長が作ってくれた“長城”と軍事道路があるから兵糧の輸送はすこぶる楽で、しかも危険はほとんどない。

 そういうわけで、小一郎は三日に一度は虎御前山の城に登っているのだが、その度に、藤吉朗は渋い顔をして半兵衛と語り合っている。


「岐阜さまは、武田勢をこの岡崎まで引き付けて、三河殿(家康)の勢と共にここで敵を支えることを考えていたのだと思います」


 三河と遠江の略地図を扇子で指しながら、半兵衛が言った。


「浜松に張り付いて動かぬ三河殿に、信長さまは何度も岡崎まで引き返せと命じておったし、加勢に送った右衛門殿(佐久間信盛)や一益かずます(滝川一益)らにもそのように申し含めておったと聞く。じゃが・・・・・」


「はい。三河殿は浜松から退かず、しかも城から出戦し――結果、大きな傷を負いました。残念ですが、徳川はしばらく起き上がれますまい・・・・。これは、岐阜さまにとっても大きな誤算だったのではないでしょうか・・・・・」


「右衛門殿や一益の兵はもちろん、あの三河の武者どもでさえ、甲州勢にはほとんど歯が立たなんだらしい。信玄入道、聞きしに優るな・・・・・」


 敵味方の強弱を語ることは、戦陣の法度である。まして、主将が敵の怖ろしさなどに言及すれば、それはそのまま揮下の将兵の不安を煽り、動揺を生むことになる。それが解っている藤吉朗は、家来たちの前ではこの手の話題には一切触れず、常と変わらぬ陽気さを演じ続けていたが、小一郎と半兵衛の前でだけは、遠慮なく本音を語る。


「いずれにせよ、武田との大戦はもはや避けられまい。信長さまは、これをどう迎え撃つおつもりか・・・・」


「こればかりは――何とも言えませんね・・・・」


 半兵衛は腕を組み、小首を傾げた。


「半兵衛殿でも解らんか。いや、さもあろう・・・・」


「岐阜さまは、必ず勝てるという算段がつかぬ戦はなさらぬお方です。ましてかの人は外交の上手――我らが思いもつかぬような奇手を、腹に蔵してないとも言い切れません。・・・・まぁ、これは見込みというより、そうあって欲しいという話ですが――」


「武田との衝突を避ける手、か――普通に考えりゃ、あらせんわな。飯綱いづなの魔法を使うても無理な話じゃ」


 半兵衛は頷いた。


「しかし――武田勢が尾張や美濃に向かって来てくれるならまだ防ぐ術もありますが、万一、三河から船で伊勢にでも渡られれば、これは一大事です。伊勢の一向門徒たちは喜んでこれに加わりましょうし、伊勢の諸豪もこのときとばかり武田に寝返る者が必ず出ます。三万の武田勢が、五万にも七万にも膨れることになる・・・・」


「伊勢か・・・・・北畠中納言殿(具教)が信玄入道に通じておるちゅう噂もあるな」


「伊勢は、鈴鹿の険を越えさえすれば、もう畿内です。この秋に和睦したとはいえ、奈良の松永弾正殿、河内の三好義継殿などは、武田が来たりと聞けば再び兵を上げましょう。そうなれば、我らに武田勢の上洛を防ぐ手立てはない・・・・」


 この半兵衛の指摘は鋭い。

 事実、信玄は、三河から海路で伊勢へ渡り、鈴鹿山脈を越えて伊賀に抜けるルートで上洛を考えていたらしい。その証拠に、『甲陽軍鑑こうようぐんかん』などを見ると西上作戦に先立って伊勢の海賊衆を手なずけ、さらに駿河の水軍なども使って伊勢湾の制海権確保を策しているし、南伊勢の北畠具教とも秘密同盟を結んでいたらしい痕跡がある。

 伊勢で味方を募りつつ、伊賀を通って奈良あたりに入れば山城(京都府南部)はもう目と鼻の先であり、京を軍事占領することはたやすい。足利義昭は諸手を挙げてこれを迎えるであろうし、織田軍と一体であった幕府軍はそのまま武田軍に鞍替えするであろう。そうなれば常に強者に靡くという点で誰よりも尻の軽い朝廷も当然のように織田から武田に乗り換えるに違いなく、織田家は幕府の敵とされ、信玄の朝廷工作次第では「朝敵」にさえされてしまうかもしれない。

 半兵衛が描く架空の戦略を聞いていただけで、小一郎まで血の気が引いた。


「なるほど。それで先ほど『岡崎で』と言うておられたのか・・・・」


 藤吉朗は納得したように何度も頷き、傍らに置かれていた白湯を飲み干して喉を湿らせた。


「武田勢に畿内に入られてしまえば、もう打つ手はありませんからね」


「逆に言やぁ、まだ今なら打つ手もあるっちゅうことですな?」


 半兵衛は眉根を寄せ、扇子をパチパチと開け閉めした。


「武田勢の泣き所は、その軍兵の大半が百姓であること――つまり、長く国を空け続けられぬという点です。いかに信玄入道とて、百姓たちに田植えをさせぬわけにはいきませんからね。まして雪が解ければ、越後の上杉輝虎殿(謙信)も北から信濃を脅かしましょう。つまり、岡崎あたりで春まで武田勢を支え、伊勢に渡らせさえしなければ、信玄殿も諦めて国に帰らざるを得なくなるということです」


「なるほど――」


 徳川一手で武田軍を支え続けることはもはや不可能であろう。徳川が「三方ヶ原」で受けた傷は深く、家康は命こそ拾ったものの徳川家の名だたる物頭は多くが討ち死にしたと聞く。武田が伊勢に渡る前にその足を止めるには、織田の大軍が三河まで出向いて敵の進路に立ち塞がるしかない。


「岡崎篭城――か・・・・」


「武田勢が三河に入り、吉田(豊橋)を落とし、岡崎にまで迫れば、岐阜さまも黙視はできますまい。そのお覚悟は、しておいた方が良いかもしれません」


「ふむぅ・・・・」


 藤吉朗が何度目かのため息をついた。


「小一郎、二千人が三月食えるだけの米を、岐阜に集めておいてくれ。万一のときは、わしらも三河に出向くことになるかもしれん。そんときは、この北近江はお前に任せることになるで、そのつもりでおれよ」


「・・・・・・解った」


 小一郎には他に返事のしようがなかった。



 ところでこの時期――つまり元亀四年(1573)の正月――不思議な動きをする老人の姿が史書に垣間見える。

 大和(奈良県)の松永 弾正 久秀である。


 松永久秀という男は、その出自がはっきりせず、生まれた年さえ確定できない。『多聞院たもんいん日記』には天文十一年(1542)にその初見があり、このときすでに「弾正」を名乗り、三好家で一隊を率いる武将になっているから、そこから逆算すると、おそらくこのとき六十歳前後――あるいはそれ以上――であったろう。戦国の悪知恵を煮固めたような策謀家で、「戦国の三大悪人」に数えられるほどの食わせ者である。三好三人衆と対立し、三好家から独立して大和を奪い、信長が上洛するやいち早くこれに恭順し、織田家の後ろ盾を得てまんまと大和の守護に収まった。その後、元亀二年の夏に武田信玄に同盟をもちかけ、信長に対して反旗を翻し、以後、本願寺勢力と結び、織田・幕府軍と戦い続けてきた、というのはこれまでにも触れた。


 その松永久秀が、この正月八日、にわかに岐阜に現れ、「天下無双の名物」と謳われた名刀・不動国行を献上して再び信長に恭順しているのである。


 松永久秀が心から信長に忠誠を誓ったとは、この男のその後の行動を見る限り到底思えない。おそらく、後手では信玄と繋がったままであったのだろう。信玄は「三方ヶ原」で大勝するや、真っ先にその事実をこの老人に報じており、松永久秀と信玄の同盟が続いていたことはほぼ間違いない。

 信長と信玄が戦えば、九分九厘、信玄が勝つ、とこの老人は見ていた。だからこそ元亀二年の段階で信玄と同盟したわけだが、勝負事である以上、「絶対に信玄が勝つ」とまでは言い切れない。久秀は、万一、信長が勝ってしまった場合に備え、こういう形で保険を掛けたのであろう。

 この老人らしい、老獪で周到な立ち回りと言えるかもしれない。


 これに比べれば、京の足利義昭はもっと直截的だった。


 義昭は、「三方ヶ原の合戦」の勝報に狂喜し、信玄がいよいよ三河に入ったという報せを受けて想いを決し、信長に対して公然と兵を挙げたのである。

 元亀四年二月六日、義昭はまず京の近辺の豪族――信長上洛の影響で既得権益を奪われた守旧派の国人土豪たち――を一斉に挙兵させ、さらに近江の園城寺の衆徒や一向門徒などに蜂起を命じ、京から比叡山、瀬田、堅田あたりの地域に火をつけるや、自らは将軍御所に兵を集め、二月中旬には信長と軍事対決する姿勢を明確にした。


 東の武田に注意を取られていた矢先であったから、小一郎は西から伝えられたこの報には仰天した。


(なんちゅうことじゃ・・・・!)


 ついに将軍家が、公然と織田家の敵に回ったのである。


 さすがの信長も、京から湖西にかけての地域の豪族たちがいきなり軒並み敵に回ってしまったことには面食らったらしい。大した軍事力を持たない義昭が、あからさまに兵を挙げるとは想像していなかったし、義昭の影響力というものを見くびっていたことも否めなかった。

 信長はただちに軍を率いて近江に入り、明智光秀、柴田勝家、丹羽長秀などを派遣してこの地域の一揆掃討を命じたが、将軍である義昭を武力で倒すわけにもいかないから、どうにかこれをなだめて和睦を図ろうとし、はにわ直政、島田秀満、松井友閑ゆうかんらを京に派遣して和平交渉をさせた。

 義昭はこの時、十二ヶ条もの要求を突きつけてきたが、信長はそれをすべて唯々諾々と承諾し、実子を人質に送ることまでして和睦の締結を急いだ。この土下座するほどの低姿勢は、東方――武田信玄の脅威の裏返しと言っていい。


 武田勢の進軍速度は、この年明け頃から不自然なほど鈍くなっている。しかし、それでも二月十七日には三河の野田城(新城市豊島本城)を落としており、徳川方の大きな防御拠点といえばもはや吉田城(豊橋市今橋町)と岡崎城くらいしか残っておらず、しかも信玄は別働隊を出して尾張東部をも侵食し始めていて、信長としても待ったなしの状況になっていた。

 二方面作戦ができるような余裕は、もはやなかったのである。


「むしろこの際、京へ兵を向ける方が良いのかもしれません」


 三月に入ったある日、藤吉朗と小一郎が揃ったときに、半兵衛が言った。


「今年に入ってからの武田勢の動きは、明らかに不自然です。すでに桜もほころびようというのに、未だに吉田城さえ落とせておりません。信玄殿は、もはや上洛する意思がないようにも見えます」


「武田が上洛せんっちゅうんですか?」


 小一郎は驚いた。


「此度の武田の目当てを上洛とするなら、これは何より時間との戦いです。武田が国を空けておれるのは、せいぜいあと一月くらいでしょう。雪が解ければ上杉輝虎殿が信濃を脅かすは目に見えておりますからね」


 これから逆算すれば、すでにこの三月には京に旗を立て、幕府対策や朝廷工作や諸国の大小名に対する外交などといった様々な手を打ち、軍を返して京から岐阜に向かい、信長と決戦に及んでおらねばならない時期であろう。

 しかし、現実に武田軍は今年に入ってからはほとんど動きがなく、野田城を落とした後は三河の長篠ながしの城(南設楽郡鳳来町)に足を止めて一ヶ月近くも動かず、西に軍を進めようとしないのである。


「甲斐を出陣したときは上洛を目指しておったかもしれませんが、武田はその方針を変えたと見るべきでしょう。遠江と奥三河を取ったことで満足したのか、あるいは、信玄殿の身に何か起こったか・・・・」


「信玄入道の身に――」


 実はこのとき、信玄は死の病にある。すでに馬にも乗れず、輿を使わねば移動することすらできなくなっており、上洛どころの騒ぎではなくなっていたのである。

 信玄は、長篠城に軍勢を留めたまま自らは近くの鳳来寺ほうらいじに身を移し、静養に専念していた。


 が、そんなことは信長はもちろん、足利義昭にも本願寺顕如けんにょにも伝わっていない。


 信長は義昭との和睦を急ぐべく三月七日に実子を人質として送ったが、義昭はこれを突き返し、和平交渉のご破算を宣言するや、本願寺や三好三人衆らと結び、実の兄を殺した仇敵とも言うべき松永久秀、三好義継らをも味方に引き入れ、あらためて敵対の態度を鮮明にした。


 信長は、この時いったん岐阜に帰っている。使者を送って義昭をなだめつつ時間を稼ぎ、幕府傘下の武将たちを切り崩して味方に付けるなどの工作をしながら、忍耐強く武田信玄の動きを注視し続けていた。

 武田軍が一ヶ月以上も長篠城で動きを止めているというのは、誰の目から見てもおかしい。


(信玄めに、なんぞあったか・・・・・?)


 信長は必死になってそれを探ろうとしたが、はっきりしたことは解らない。

 しかし、現実に動きがない以上、何かしら上洛戦を断念せざるを得ないような事態が武田軍の中で起こったと見るべきであろう。


 三月二十五日、信長はついに意を決した。

 大軍を率いて岐阜を出陣し、上洛の途についたのである。

 武田軍は相変わらず三河の長篠城にあるが、兵の一部が尾張の東部を侵し、海上かいしょの森(瀬戸市)あたりにまで出没している。信長が京に行ったと知れれば、武田軍が得たりとばかりに濃尾平野へ雪崩れ込まぬとも限らず、その意味でこれは危険な賭けであったが、


(そのときはそのときじゃ・・・・)


 一刻も早く畿内を沈静化し、武田が再び動き出すようなら兵を美濃に返すまでである。


(信玄は何をしておるのじゃ!)


 足利義昭も本願寺顕如も、もちろん松永久秀や浅井長政や六角義賢よしかたなども、動きを止めてしまった武田軍に困惑していた。


 なかでももっとも哀れであったのは、足利義昭であろう。

 信玄の西上を信じて兵を挙げた義昭は、織田の大軍勢に京を包囲されて自分の迂闊さと見通しの甘さを思い知った。織田家に組み込まれた明智光秀は言うに及ばず、細川藤孝、荒木村重といった幕府軍に属していた武将たちさえ、この土壇場に次々と自分を見限って離れてゆく。諸国の武家の棟梁と言うべき「将軍」である自分の命令に従おうとする者がほとんど誰もおらず、ただ「強大な力を持っている」というだけの下賎な信長などに続々と寝返ってゆく人間を見るというこの現実は、義昭にとって認められないほどの痛恨事であったに違いない。


 信長は東山の知恩院に本陣を据え、北方、東方、南方から中京の将軍御所を重厚に包囲すると、ここでも下手に出て義昭に和睦を促している。

 武田信玄の脅威を焦慮しているということもあり、信長があくまで一刻も早い和睦を目指していた、と見ることもできるし、あるいは信長の大戦略として、この時点では室町幕府体制のままでの織田家の勢力伸張を考えており、天下の諸侯を圧倒するだけの勢力を築くまでは義昭を戴いてゆくつもりであった、と見ることもできるかもしれない。

 いずれにせよ義昭は和睦を受けようとせず、信長は四月三日、上京の焼き討ちを敢行して義昭を恫喝し、さらに将軍位の廃立までをチラつかせて義昭を追い詰め、正親町天皇を仲裁に担ぎ出してまで和睦――むしろ降伏と言うに近い――を迫った。


 武田軍の上洛もなく、奈良の松永久秀や本願寺などの援軍もないまま上京が火の海になり、命の危機を実感することで義昭はようやく事態の深刻さを理解したらしい。翌日の夜にはもう意気消沈し、信長の和平提案を丸呑みした。


『信長公記』によると、四月六日には両軍の和睦は成立したらしい。


「将軍家と和睦した」というその事実のみが必要であったのだろう。信長は焼き払った上京の復興などには見向きもせず、翌七日にはすぐさま京を発し、軍を返した。


 ちなみに信長は、行きがけの駄賃とでも言うように近江を南下し、柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、蒲生賢秀がもう かたひでらを派遣して湖東の百済寺はくさいじ金剛輪寺こんごうりんじなどを攻撃している。湖東三山に数えられるこれらの寺は、比叡山 延暦寺と並ぶ天台密教の大刹であり、多数の衆徒を抱え、鯰江なまずえ城(東近江市鯰江町)で兵を挙げた六角義賢と通じ、これを支援していたからである。

「武力を持つ宗教勢力」に対する信長の嫌悪は徹底していて、自分に敵対的な行動を取った場合はまったく容赦がない。本堂や三重塔など宗教的な信仰の中枢部を除き、堂塔、伽藍、坊舎のことごとくを焼き払い、叡山のときのように僧や関係者を撫で斬りにしたらしい。


 ともあれ、信長は、四月十一日に軍を率いて岐阜に戻った。

 この時すでに、武田軍は三河から信濃に向けて撤退を始めている。


 信玄は、信州伊那の駒場こまんばまで進み、信長が岐阜に凱旋した翌日の四月十二日、その地で没したと伝えられている。



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