第56話 信玄西上(1)
元亀元年(1570)の春に信長が朝倉征伐を決意し、越前(福井県)に攻め入り、織田と浅井が手切れとなって以来、これまでの二年間の北近江の戦況というのは、まさに一進一退であった。
信長は諸国の一向一揆と畿内の政情不安に悩まされ、四方の敵と飛び回るようにして戦い続けていたこともあり、浅井攻めに力を集中することができず、湖北の守りは藤吉朗に任せ切りになっていた。最前線の横山城は常に危険にさらされ、事実、何度も浅井勢の攻撃を受け、藤吉朗は姉川以南を維持することに懸命であったと言っていい。
しかし、元亀三年正月の浅井の攻勢を凌いだときから流れが変わった。
藤吉朗が宮部善祥坊を調略し、宮部城を手に入れ、それに端を発して信長が北近江に再侵攻し、さらに虎御前山から姉川まで一里半にわたる長塁を構築したことによって、浅井は虎御前山以南の支配権を完全に失うこととなり、小谷城に追い詰められたのである。
浅井長政は、小谷城に篭る将兵の士気が萎縮することを怖れた。
あの前代未聞の長塁を築いた織田方の狙いは、浅井・朝倉の軍兵の南下を防ぐことはもちろんだが、さらに言えば、小谷城に立て篭もった浅井勢を位押しに押し、その戦意を押し潰してしまうことにあるであろう。
実際、浅井の軍兵たちは、わずか一月足らずであの長大な陣城を創り上げたというその「映像」によって織田家の力の強大さを思い知らされた。以来、信長という男に対する畏怖感と前途に対する絶望感で、明らかに城内が動揺し始めている。長期の篭城はそうでなくとも士卒の士気を保つのが難しいのだが、眼前であんなものを見せ付けられればどうにもならない。この兵たちを鼓舞し、再び士気を高めるには、彼らに勝ち戦の味を思い出させ、敵に対する恐怖心を払拭するしかないであろう。
浅井の独力で大掛かりな反攻を仕掛けるほどの体力はもはやないが、このまま座して待っていれば戦う前から位負けに負けてしまう。長政は三日と開けずに次々と兵を動かし、さかんに織田方に小競り合いを挑ませた。
「敵の挑発に乗るなよ。守っておりゃええんじゃ。柵から外に出るな」
長政が戦を挑むたびに、藤吉朗は揮下の将兵に何度も厳命した。
藤吉朗も、敵の魂胆は解っている。織田方を“長城”の防御線から引きずり出し、野戦で叩こうというのであろう。
藤吉朗の仕事は、小谷城の浅井勢を監視し、敵を城に封じ込めにしてこの戦況を維持しつつ、信長が大軍を率いてやって来るのを待つことであった。で、ある以上、敵に付き合ってやる必要はない。
織田方は、いくら挑発しても“長城”のラインから出ようとしなかった。浅井としても多大な出血を覚悟してまで“長城”そのものに手を出すわけにもいかないから、結局、戦果らしい戦果は挙げられない。
長政は、変化のない戦況に焦りを感じながら、祈るような気持ちで周辺状況の変化を待った。
待つほか手がなかったのである。
浅井は確かにこれまでにない苦境に陥っているが、織田家を取り巻く環境がそれで劇的に好転したというわけではない。大阪石山では本願寺が徹底抗戦の姿勢を崩しておらず、伊勢 長島の一揆も気炎を上げ続けているし、威勢は衰えたものの四国の三好三人衆、越前の朝倉もいまだ健在であり、何より、甲斐の武田信玄がいよいよ上洛に向けて準備を進めつつあるという風聞が、長政を含めた小谷城に篭る将兵たちにとっての一縷の希望になっていた。
(信玄入道が起ちさえすれば・・・・!)
最強の呼び声が高い甲州兵を率いて信玄が上洛の軍を発すれば、いかに信長といえどもタダでは済むまい。その機に合わせて朝倉の援軍を頼み、再反攻を掛け、信長を武田と共に挟み撃ちにすれば――
一発逆転の望みが、そこにまだ残されているのである。
その時までは、なんとか力を温存しておかねばならない。
逆に言えば、信長は、信玄が動き出す前に浅井の息の根を止めてしまいたい。
五月十九日に岐阜に帰還した信長は、二ヶ月岐阜で兵を休めると、七月十九日、再び大軍を催して北近江に攻め入った。三万余の織田勢は関ヶ原から横山城に入り、さらに進んで二十一日には虎御前山に本陣を据えた。
信長は、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、藤吉朗、蜂屋頼隆、西美濃三人衆らに命じて小谷の城下町を打ち壊させ、敵の収穫を刈り倒し、北方の余呉、木ノ本あたりの浅井の拠点を次々と落とし、湖北の名所旧跡を残らず焼き払い、さらに用意させた軍船を琵琶湖の北に回送して海津、塩津、余呉の入海などの湊を手当たり次第に攻撃させ、湖上拠点である竹生島を制圧し、浅井に味方する「渡り衆」や一向一揆勢力を駆逐して小谷城を丸裸にした。
ちなみに今回の戦陣には、この正月に元服を済ませた信長の嫡男 信忠も同行している。
信長は、藤吉朗に信忠の初陣の後見をするよう命じた。
信忠を総大将に戴いた木下勢は、浅井の重臣 阿閉貞征が守る琵琶湖畔の山本山城を包囲し、その山裾を焼き払い、たまらず出戦してきた敵の足軽隊を一蹴し、五十ほどの首を挙げて信忠の初陣の引き出物にしている。
浅井長政は、織田勢の襲来を知るや、朝倉へ救援を要請していた。
浅井氏の窮地を重く見た朝倉義景は、自ら一万五千余の兵を率いて湖北に駆けつけたが、噂に聞く “長城”と地を埋めるような織田の大軍を目の当たりにして戦意を喪失したらしい。小谷山の山頂にある大獄砦に入り、これに篭って動こうともしなかった。
驚くべきことだが、この朝倉の軍勢から、越前の豪族である前波吉継、富田長秀、毛屋猪介らが、白昼堂々、手兵を率いて虎御前山の陣屋に駆け込み、織田に寝返る、という事態が起きている。
これまで織田と朝倉の間には、『姉川』を除けば本格的な戦闘は一度も行われていない。浅井が守る北近江は確かに窮地にあるが、本拠の越前は寸尺たりとも織田に侵食されてはおらず、その意味で朝倉氏の軍勢そのものはほぼ無傷であった。その朝倉に属する越前の豪族たちが、この時点で朝倉家の将来を見限り、織田に寝返るという行動を起こしているのは注目すべきであろう。連年の遠征と琵琶湖の経済封鎖などの影響で朝倉氏の威勢がよほど衰えており、傘下の豪族たちが将来に対する不安を抱き、深刻に動揺していたということを如実に物語る一方、朝倉義景という大将の頼りなさ、求心力のなさというものをも示していると言っていい。
これら豪族たちの調略は、当然、以前からじわじわと行われていたと見るべきで、ここでも信長の政略の抜け目なさを垣間見ることができる。
ともあれ、浅井・朝倉は小谷山に篭って動かず、虎御前山の織田勢と半里(2km)を隔てて睨み合いになり、戦況は膠着した。
信長は、少数の兵を小谷山に登らせてさかんに敵を挑発し、あるいは決戦を申し込む書状を送りつけたりもしたが、浅井・朝倉はこれに応じない。信長の本隊が北近江からいなくなるのをひたすら待っているのであろう。
小谷城は、急峻かつ広大な小谷山の諸所に千余の郭を構える日本屈指の堅城で、「日本五大山城(戦国期にその役割を終えた山城から選りすぐられた名城)」にも挙げられるほどの大要塞である。ここに万を越える軍勢が立て篭もっている以上そうそう落とせるものではなく、四方に敵を持つ信長としても無理攻めして兵を損なうわけにはいかない。
小競り合いのみを繰り返す対陣は、ほぼ二ヶ月にわたって続いた。結局、大きな戦が行われることはなく、信長は――武田信玄がいよいよ上洛準備に入ったという情報がもたらされたためでもあったろう――九月十六日に兵を退き、岐阜に帰っている。
ちなみにこの対陣中、信長は虎御前山から姉川までの“長城”の内側に幅六mもの軍事道路を開鑿して軍勢の移動を容易にし、さらに虎御前山の砦は大改修させ、山頂に立派な城を築き、これを藤吉朗に与えている。
以後、木下勢は虎御前山の城に本拠を移し、浅井に相対することになった。
これと同時期の話である。
信長はこの九月、足利義昭に十七条からなる詰問状を送りつけている。
『十七条異見状』と呼ばれるこの詰問状は、定説では、信長による足利義昭に対する恫喝と理解されている。
この『異見状』は、義昭の素行の悪さをあげつらい、これまでの約束違反を責め、反省を促す内容になってはいるが、一条一条をつぶさに見ると、信長が不気味なほどに低姿勢で、しかも取り上げる問題がいちいち細かく、詰問しているというよりは、「どうか足利幕府のために働いている自分の立場をもっと理解し、協力して欲しい」と恨みがましく愁訴しているような臭いさえあり、一読して「恫喝」と解釈するには少々無理があるように思える。明石散人氏の『二人の天魔王』などを読むとむしろ「定説」の方を疑りたくなるのだが、いずれにせよ、この物語は史実を追求することを目的としていないから多くは触れない。
読者には、信長が、この元亀三年の夏ごろには、散々尽くしてやった義昭がどうやら敵に通じているらしい、ということに気付き、諸悪の根源としてこの男を疑い始めていた、ということを知っておいてもらえれば良い。
足利義昭は、紙切れ一枚のこの「詰問状」をまったく無視した。
この頃、義昭の仲介もあって武田信玄と本願寺門主 顕如との間ですでに秘密同盟が結ばれている。北の浅井・朝倉、西の本願寺と三好三人衆、南は大和(奈良)の松永久秀、さらに東は武田という織田の勢力圏を囲い込むような一大包囲網が完成を見ており、しかも信玄は近々の上洛を確約していた。これらの情報を一手に握っている義昭は、そう遠くない将来、信長が没落するであろうことを信じて疑わなかったのである。
これまで表向き信長に従順だったこの男は、この頃から反信長の態度を露骨に硬化させてゆく。
一方、信長は、義昭の腹の底はすでに見抜いている。
本願寺と武田に東西から挟み撃ちにされることを怖れていた信長は、この義昭と信玄、顕如の繋がりを逆手に取り、本願寺と織田の講和を図るよう義昭に働きかけた。
義昭は信長の要請に従う形で、使者を遣わして本願寺に織田と講和するよう勧めている。また、義昭の意を受けた信玄も大阪まで使者を走らせ、織田との講和を仲介する旨を報せたりしている。
武田鏡村氏の『織田信長 石山本願寺合戦全史』からの孫引きだが、『顕如上人文案』には、この際、本願寺側が信玄に送った書状の下書きが残っている。そこには、「内証の仔細有」ることでもあるから、信玄が指示した文案通りの返書を書き、義昭と信玄の顔を立てて講和に応ずる旨が明記されている。
つまり、本願寺は織田と本気で講和する意志なぞさらさらなく、この講和の話自体が信長の油断を誘うための謀略であったらしい。
無論、この程度のことを見抜けぬ信長ではなかったであろう。
そもそも信長が義昭を使って織田・本願寺の講和を斡旋させたのは、裏で敵と通じる義昭に対する痛烈な当てこすりであったに過ぎず、それで本願寺が講和に応じるとは思ってなかったろうし、近い将来、信玄と対決せねばならぬであろうこともすでに覚悟していたであろう。
これら一連の動きは、虎御前山から小谷山を睨んでいる小一郎や半兵衛などからはまったく目の届かない水面下で行われている。信長、義昭、信玄、顕如――四者の虚々実々の駆け引きの様が窺えて、なかなか面白い。
信玄は、講和の話をまとめる気などは最初からない。
十月三日――満を持して上洛の軍を進発させ、甲斐から信濃に入り、南下して徳川家康が本拠を置く遠江(静岡県西部)に侵攻した。
「信玄、ついに動く!」
の報は雷電の如く東海から近畿へと伝わり、諸国の反織田勢力を狂喜させ、同時に織田家に属する人々を不安のどん底に陥れた。
たとえば摂津石山の本願寺はこのときとばかり攻勢を掛け、諸国の門徒たちに激を飛ばした。南近江では信長と和睦していた六角義賢(承禎)がまたも蜂起し、六角氏の残党たちが一向一揆と結んだために静まっていた反織田勢力が再び勢いを盛り返した。京を守る細川藤孝や坂本の明智光秀、佐和山の丹羽長秀などはその対応に追われまくり、信長は岐阜に兵力を集中することさえ満足にできなくなった。
信玄が率いた人数は、別働隊を含めて三万ほどだったと伝えられている。天下に名高いその軍勢の強さというのは、凄まじいものであったらしい。十月十三日に遠江に入った武田軍は、わずか一日で、只来城、天方城、一宮城、飯田城、各和城、向笠城などの徳川方の城を踏み潰すような勢いで次々と落とし、一気に遠州灘を望む三箇野(静岡県袋井市)まで進出し、徳川領を分断した。
このときの信玄と家康とでは横綱と十両力士ほどに実力の開きがあり、単独で戦ったところで勝負は見えている。家康は決戦を避け、本拠の浜松城に篭って信長に援軍を要請した。
信玄は、打つ手にいちいち手が込んでいる。徳川領に乗り込んだこの期に及んでも信長には友好的な書状を送り続け、武田と織田の同盟続行――衝突回避にあくまで含みを持たせつつ、一方で武将の秋山信友に一隊を授け、信濃から東美濃に攻め入らせ、織田方の重要拠点である岩村城を奪い取った。
美濃の東端にある岩村城は、織田家の本拠である岐阜城から東に十五里(60km)――わずか二日の距離しかない。ここに武田勢の侵入を許してしまったことは、信長にとっても大きな衝撃であったろう。
信長はただちに岩村城奪回のために軍勢を派遣したが、「日本三大山城(江戸時代以降も存続していた山城から選りすぐられた名城)」にも数えられる岩村城は難攻不落と言うしかなく、しかもここに篭っているのが天下最強の武田勢というのだから始末に悪い。力攻めでは落とすことができず、付近の小城に兵を増派してこれ以上の西進は押さえたものの、喉首に短刀でも突きつけられたような格好になった。
さらに悪いことに、信玄の攻勢に力を得た伊勢 長島の一向一揆勢が、北上して美濃の南部を侵し、さらに手薄な尾張に攻め込む形勢を見せた。
信長はこれらの手当てのために多くの兵を割かざるを得ず、動こうにも動けない状況に追い込まれたのである。
場面を北近江に戻そう。
信玄の上洛軍を待っていたように、浅井・朝倉が動いた。
朝倉義景は最後まで積極的な出戦を渋っていたのだが、
「信長を滅ぼすは、この機を措いてありませぬぞ!」
と、浅井長政がこれを説き伏せ、浅井七郎率いる一千を先鋒に、長政自身が一千の本隊を率い、さらに朝倉の援軍を一万ほども従えて、小谷山を駆け下りて来たのである。
『信長公記』によると十一月三日――湖北の山並みはすでに雪化粧を終えている。
このとき、虎御前山には四千ほどの兵が篭っていた。藤吉朗率いる木下勢が二千、朝倉から寝返った前波吉継、富田長秀、毛屋猪介らの軍勢が千数百、さらに樋口三郎左衛門の援兵が五百ほどである。
ちなみに半兵衛は、蜂須賀小六らと共に藤吉朗の傍らにいる。
一方、小一郎は一千ほどの兵を預かり、宮部善祥坊の手勢三百と共に南方の宮部城を守っていた。さらに“長城”には、立ち並ぶ櫓を拠点に数百ずつの守備兵が信長によって配置されており、これらの守備軍を総て合わせればざっと七千ほどの人数にはなるが、防衛ラインが長いから兵を分散配備せざるをえず、浅井を押さえるだけならともかく、一万以上の敵の来襲を防ぐとなると容易ではない。
長政は、一万の大軍勢をもって虎御前山の織田勢を牽制してくれるよう朝倉義景に依頼し、自らは二千の全軍を率いて南下し、宮部城へと攻め寄せて来た。
「来おった来おった。おお、あれに見えるは昔の主――備前殿(浅井長政)の馬印か。武家渡世の宿業とはいえ、戦場で旧主とあいまみえるは、ひとしお懐かしさが湧くものじゃ」
と、軽口を叩くのは宮部善祥坊である。
骨柄の雄偉な男で、肩の肉の厚さなどは樵と見紛うばかりに逞しく、見事に剃り上げられた鉢の大きな頭がなければ、この男がむかし僧だったとはとても思えない。そのくせ顔の作りは全体にこじんまりとしていて、目は小さく優しげで、その瞳は小動物のように常に油断なく動いている。
小一郎の姉の子を養子とした善祥坊は、木下家の一門であり、当然、小一郎とも縁戚である。寝食を共にしてまだ日は浅いが、この男は僧あがりであるだけにお喋り好きで人付き合いが上手く、小一郎とはすぐ打ち解けた。
ちなみに年齢は、小一郎より十ばかり年長である。
「浅井の若殿は、織田に寝返ったわしがよほど憎いと見えますな」
「善祥坊殿の曉勇を、怖れてのことでしょう」
小一郎は如才なくその冗談を流したが、正直なところ、戦巧者として名高いこの男の働きには大いに期待を掛けていた。木下勢の主力は虎御前山にあり、この宮部城に入っているのは老人や新兵といった弱卒が多く、善祥坊手飼いの三百人こそが戦闘の主力なのである。
「いや、こうとなれば御坊だけが頼りじゃ。ここで手柄を立てれば、織田家に対する二なき心を天下に示すことになりましょうし、兄者も上々に大いに面目をほどこせます。よろしゅうお頼み申しますぞ」
小一郎はすぐさま全軍を配置につかせた。
とにかく守戦に徹し、敵の攻撃を凌げるだけ凌いで時間を稼ぎ、状況の変化を待つ腹である。
「浅井の狙いは宮部の城か!」
その頃、藤吉朗は、虎御前山の山頂に新築された城から敵の動きを俯瞰しながら叫んでいる。
「陣頭のあの馬印は備前守殿のものであろう。小勢なりとはいえ、ありゃ侮れんぞ」
虎御前山を“長城”の始点とすると、宮部城はその終点にあたる姉川北岸にある。最前線の虎御前山と後方基地の横山城を繋ぐための重要拠点で、これを敵に奪われれば、敵地に突き出た虎御前山は前線で孤立し、しかも“長城”の裏へと敵の侵入を許すことにもなり、せっかくの防衛ラインが用を成さなくなる。
「小一郎では荷が重いわ」
さしもの藤吉朗も狼狽を隠せない。
「小一郎殿とて、あれで幾度も死線を越えた兵――宮部城が一日二日で落とされるようなことはありません」
半兵衛が請合った。
そのために城郭を広げ、水堀を掘り、防御力を高めておいたのである。
「善祥坊殿は名うての戦巧者でもありますし、ご心配には及びませんよ」
城が落ちるときというのは、純粋に武力で攻略されることはむしろ少なく、城内に敵に通じる裏切り者が出、それが城に放火したり敵を城門内に引き入れたりして落城のきっかけを作ることが多い。しかし、浅井から織田に寝返った善祥坊は、再び浅井に転ぶわけにはいかないであろう。むしろ、決死になって大働きに働くに違いない。
「じゃが、我らが朝倉と睨み合うておるうちに宮部が落ちてまわんとは言い切れん」
藤吉朗の不安は、浅井に城攻めの時間を与えてしまうことであった。宮部城を救援に行こうにも、虎御前山の東麓には朝倉勢一万が陣取り、攻め掛ける態勢を張っているからこちらを手薄にもできないのである。
「一日二日と言わず、今すぐにでも敵を蹴散らして後詰めをしたいところやが、あの大軍に睨まれておってはそれもままならん・・・・」
苛立たしげに呟いた。
半兵衛は、その傍らで睨むように敵の動きを見つめている。
「敵の兵気を観じますに――浅井のそれはいかにも鋭く、決死の気が漲っておりますが、それに比して朝倉の軍容は、旗並み乱れ、兵馬ざわめき、一様に惰気が漂っているように思えますね」
朝倉勢は大軍ではあるが、その旗は振るわず、野に展開する姿はのろく、鋭気とか戦意とかいうものが感じられない。浅井への義理で出戦はしたものの、雑兵の端々まで戦う気がないのであろう。
「ここは守勢に立つより、むしろ進んで朝倉を攻めましょう。朝倉さえ崩せば、背後を扼されることを怖れ、浅井も兵を引かざるを得ぬはず――」
半兵衛は、巧緻な戦芸を見せた。
まず、朝倉から寝返った前波吉継、富田長秀、毛屋猪介らの軍勢を率いて自ら出戦し、朝倉勢の憎悪を煽り、敵がこれにに食いついて来たら軽くあしらいつつ退却し、敵が陣を戻せば再び突出して銃撃し、小当たりに当てるなどしてうるさく刺激し、朝倉方が攻めに転じざるを得ないように仕向ける。
そうして敵の先鋒三千ばかりを虎御前山の山裾まで引っ張り、そこで支えて時間を稼ぎつつ敵の注意を引き付け、その間に城の裏門から樋口三郎左衛門の兵五百を出戦させて敵の側面を衝き、さらにその機に合わせて藤吉朗率いる二千の本隊が、山上から逆落としにどっと斬りかかったのである。
朝倉の先鋒は、ひとたまりもなく崩れた。
その崩れを追うように織田方は全軍で猛進し、そのまま朝倉本隊へと突き進む。
ここで朝倉全軍が本気になって戦っていれば、人数の上からも依然として有利であり、戦の帰趨はどうなっていたか解らなかったであろう。
しかし、総大将である朝倉義景は先鋒が崩されたと見るや、すぐさま全軍に退却を命じた。このため朝倉勢は大混乱を起こし、後から裏崩れに崩れ、小谷山へと逸散に逃げ散り始めた。
「追え追え! 皆、存分に手柄せい!」
藤吉朗の大声に嗾けられるように織田勢は敵を追った。ことに朝倉から寝返った前波吉継、富田長秀、毛屋猪介らの奮戦は凄まじく、大いに首を稼いだらしい。
織田に寝返ったばかりの彼らにすれば、この戦は織田家に対する忠誠を試される場でもあるわけで、大働きに働いて信長に好印象を持ってもらわねばならないから、それこそ必死であったろう。『信長公記』にもその名が挙がるほどの活躍をし、後日、信長の前に召し出され、大いに面目をほどこしたという。
このあまりに脆い朝倉勢の壊乱に泡を食ったのは、浅井長政であった。
一万もの兵を擁しながら、半日も敵を押さえておれないとはどういうことであろう。
虎御前山を押さえる朝倉勢が崩れれば、宮部城まで足を伸ばしている浅井勢は小谷城への退路を断たれ、敵の包囲の中に孤立することになる。もはや城攻めなどやっている場合ではなく、大急ぎで小谷城まで引き上げざるをえない。
(どこまでも足を引っ張ってくれる・・・・!)
あの暗愚な男を盟主に持ったがために、浅井はどれほど損をしていることか――
心中で呪詛せずにはおられなかったであろう。
長政は退き鉦を打たせ、一族の浅井七郎に殿を任せて全軍に退却を命じた。
虎御前山の織田方の攻勢と朝倉勢の壊乱の様は、遠目の利く者が宮部城の物見櫓から見渡せば、十分に見ることができる。
その報告を受けた小一郎は、驚くと共に狂喜した。
(四千やそこらの兵で、一万の朝倉を破ったか!)
こうなれば、いかに浅井長政でも兵を退かざるをえまい。
攻守が、逆転する。
「追い討ちじゃ! 城門を八の字に開け!」
小一郎は自ら馬を出し、宮部善祥坊と共に浅井勢を追った。
浅井勢は小谷山麓の織田勢を蹴散らすようにして城に退き、多くの血を流しながらも退却を成功させた。
織田方も、深追いはしない。城下を焼き立てて鬱憤を晴らすと、それ以上敵が出て来ないことを見届け、日暮れと共に整然と兵を退いた。
織田方の完勝であったと言っていい。
この戦勝は、思わぬ波及効果を生んだ。
この数日後、小谷城に篭っていた朝倉義景が、全軍を引き連れて越前に帰ってしまったのである。
十一月といえば季節はすでに真冬であり、湖北や越前は雪で埋まるから、退路と糧道(補給線)が断たれることを嫌った、と言えばそうとも言えるが、それ以上に、今回の敗戦によって義景の厭戦気分が決定的なものになったからであろう。
この朝倉義景という男は、どこまでも苦労を知らぬ貴人であったらしい。常に気分屋で、性根が少しも据わっていないのである。
ともあれ、朝倉勢が湖北から消えたことによって、織田家に対する北方の脅威は去ったと言っていい。
信長はその分だけ、軍事的にも精神的にも非常に楽になった。
今回も、敵である朝倉義景に救われた、と言えなくもない。