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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第55話 “長城”――湖北封鎖

 虎御前山とらごぜやまの南方にある宮部村は、横山城から姉川を挟んで一里半(六キロ)ほど北西に位置している。


 ここに築かれた宮部城は、一重の空堀と土塁、木柵によって囲われただけの砦で、城と言うより居館と言った方が正しい。浅井の本拠である小谷城からは南に一里半。時間にすれはほんの一刻(二時間)ほどの距離しかなく、常に危険にさらされているというような状態なのだが、平野に築かれているために要害になるような自然物もなく、これを守るに非常に不便であった。


 宮部善祥坊を調略し、宮部城を手に入れた藤吉朗は、信長が大軍を引き連れて虎御前山に滞陣していた一ヶ月ほどの間に、昼夜兼行の突貫工事で宮部城の大改修を行わしめた。この小城をして、浅井に対する最前線基地にしようというのである。

 浅井が攻めに転じたとき、岐阜からの援軍が来るまでの間――少なくとも二、三日――敵の攻撃を支えることができなければ、付け城としての用を成さない。藤吉朗は半兵衛と相談し、それまでの居館を囲い込むように縄張りを大きく広げ、まず外堀を穿うがたせ、近所に流れる五百川の水を引き入れて大掛かりな水堀を作り、土塁を高く上げ、木柵を厳重に植え込み、虎口こぐちには巨大な櫓門を配するなど、実戦向きの防御要塞に仕立てた。

 山城である横山城ほどの防御力は望めぬにせよ、二、三日の篭城ならば十分に耐えうるであろう。


 一方、信長は、これとは比較にならぬほど雄大な、驚くべき防衛戦略構想を持っていたらしい。


「虎御前山から姉川までの一里半、土塁を築くぞ」


 信長からその命を受けた藤吉朗は、主立つ者たちを集めてそう宣言した。


「一里半じゃと?」


 一里半と言えば約六キロ――土木工事としては途方もない長さである。小一郎をはじめ、蜂須賀小六や前野将右衛門ら幕僚たちはそれぞれ唖然とした表情を浮かべている。


「おう。浅井の奴輩やつばらをこの長塁で堰き止め、南へ往けなくしてやるわけじゃ。高さは一丈(約三m)」


 と言ったから、小一郎は二度驚いた。それだけの高さまで土を積むとなれば、これは大工事である。防御のための土塁であるからその上には柵を植えねばならず、防戦するためのスペースも要るから頂上部はどうしても五mくらいの幅が必要であり、底面の幅は少なくとも十mくらいにはなってしまうであろう。それを六キロに渡って延々築くというのだから、これはもう川の堤防を作るのとほとんど変わりがない。いったいどれほどの土と労力が必要になるというのか――


「信長さまは、お考えになることが常の人とは違っておられるわ。戦をするに、まず地の形から変えるという。天下人のお心っちゅうのは、なんともでっかいのぉ」


 藤吉朗は無邪気に笑っている。


「いや、しかし・・・・まさか、それをわしら一手でやれっちゅうんじゃなかろうな?」


「わしらでやるに決まっとるがや。そのための銭はたんと頂戴してきたで、安心せい」


「なんぼ銭があるっちゅうても・・・・」


 三千人の木下勢が総がかりで働いても、半年や一年は掛かってしまうのではないか。


「小一郎、わりゃ阿呆あほか」


 藤吉朗はちょっと呆れたように言った。


「必要なモンといや、土だけじゃぞ。そんなもん、どこにでもなんぼでもあるやないか。近在の百姓たちに持って来させりゃええ」


「そりゃそうかもしれんが・・・・」


 そうでなくとも北近江の百姓たちは、連年の戦で疲弊し切っている。浅井が兵を起こすたびに何度も動員され、攻める織田軍に村を焼かれ、あるいは作物を刈り捨てにされ、ほとんど生活自体が成り立たなくなっているのである。

 いま、虎御前山以南の地域は新たに織田領となったが、この地域から人夫を募るにしても、織田家に対する怨みは根強く、喜んで動員に応じる者があるとは到底思えない。そういう人間たちを強権をもって無理やり徴発し、仕事を押し付ければ、領民たちからさらに怨みを買うことになるであろう。彼らは地を捨てて逃散するか、あるいは一向一揆にでも奔ってしまうかもしれない。

 そんな懸念を口に出すと、


「ちぃとは頭を使え、小一郎」


 藤吉朗は片眉を吊り上げて笑った。


「百姓どもを無理やり働かそうとするからいかんのじゃ。百姓どもが喜んで土を運んで来るようにしてやりゃぁええだけのことじゃろ」


「・・・・・・・・・・」


「土を買うてやるのよ」


 と言ったから、これには小一郎は三度驚かされた。


「米俵に土を詰めて持って来りゃぁ、俵ひとつにつき銭百文か米一升、好きな方で買うてやると言うたらどうじゃ。ふたつ運んだ者には銭二百文か米二升。一人が日に何度運んでも一向に構わん。いくらでも買うてやる。土が銭や米に変わると知りゃぁ、みな狂ったように土俵を運んで来るじゃろ」


 一般に、この当時の日本の労働力というのは驚くほど安く、人夫の給与は日当で米一升ほどであったらしい。つまり、藤吉朗の提案はあり得ないほどの好条件と言ってよく、たとえば土俵を一日に五つも運べば、五日分の稼ぎがたちまち得られるということなのである。しかもこの仕事は誰にでもでき、元手さえ要らないわけだから、これほど美味しい話もないであろう。


 藤吉朗はそこで半兵衛を見た。


「半兵衛殿、一里半の土塁を築くに、どれほどの土俵が要りますかな?」


「そうですねぇ・・・・米俵四つで、仮に三尺(90cm)四方の大きさとして――それを高さ一丈まで積み上げ、つつみの上の幅を二丈(六m)、底の幅を四丈(十二m)とすると――それだけで百俵ほどは必要になりますか。それを一里半並べると――」


 半兵衛はしばらく宙を睨み、


「ざっと七十万俵。さらに俵が三尺に足らぬ分と積んだ俵の隙間の分を入れ、堤が曲がって距離が伸びることなども勘定に入れると、おおよそ百万俵というところですかね」


 と言って微笑した。

 小一郎をはじめ幕僚たちはその数量の凄まじさに気の遠くなるような想いをしたが、しかし、藤吉朗だけは驚かない。


「なるほどなるほど。で、一俵あたり銭百文か、米一升で買い上げたとすると――」


「百万俵を買ったとして、銭なら十万貫。米なら一万石です」


「ほぉぉ、おもろいな――」


 むしろ目を輝かせている。


「一万石の米なら銭を二万貫も出しゃぁ手に入るはずやのに、銭で払うより米で払う方がはるかに分がええがや。なら、土は米で買い上げることにするか・・・・小一郎」


「なんじゃ?」


「一万石の米を買い集め、すぐに横山城へ運ぶよう手配りせい」


 小一郎は慌てた。


「そんな莫大な米を買う銭なぞどこにもないぞ」


 反論すると、


「岐阜に残してある我が家の銭や米は全部吐き出しても構わん。足らん分はこの秋のお蔵米でも抵当かたにして京なり堺なりの商人あきんどからでも借りりゃええじゃろ」


 この兄は事もなげに言った。


「この普請は信長さま直々のお下知じゃから銭を惜しむ必要はないわ。掛かった銭は後で信長さまから頂戴すりゃええんやからな。じゃが、ご当家に一文でも損を掛けたとあってはこの藤吉朗の男がすたる。米はできるだけ安う買い叩けよ」


 この当時、米の相場は乱高下が激しく、しかも季節ごと、地域ごとに大きな格差がある。例えば奈良なら、普通は京の半値ほどで米が手に入るが、松永久秀の反乱によって彼の地はいま戦場となっており、諸式の相場が荒れている上に輸送の際の危険度も高い。それに比べると岐阜は経済が比較的安定しており、輸送距離も短いからコストも低く済むが、奈良で買うより米自体の値段は二、三割は割高になる。

 こういった経済知識とそれに関わる人脈を、小一郎は京に駐屯しているときに蓄えた。いかに安く、しかも迅速に米を揃えるかが、腕の見せ所であるだろう。


 藤吉朗は信長から当座にもらった銭で人夫を募り、尾張、美濃などから二千人の人間を集めた。これが、築堤作業そのものの主力である。この人数を百人ずつ組にし、組ごとに責任者である奉行と土木監督となる職人を数人置いた。鍬やもっこ、木材などの必要な道具はあらかじめすべて揃え、炊き出しをする炊事班を別に置き、人夫たちの組は二交代制にして昼夜兼行で作業のみに専念させる。しかも、やり方はお得意の「割り普請」である。毎日毎日組ごとの作業量を競わせ、早くし遂げた組には驚くほどの褒美を出し、人夫たちのヤル気と欲をいやが上にも掻き立ててやる。

 人間の集団を機能的に働かせるということにおいて、藤吉朗ほどの巧者は後にも先にもないであろう。


 実際の作業は、信長が京に向かって北近江を去った三月中旬、敵から遠い姉川の河畔から始まった。

 十間(約十八m)ずつ縄張りをすると、まず土を掘って空堀とし、その土で田を埋め、畑を潰し、土塁の基礎部分を作る。その上に百姓たちが運んで来る土俵をどんどんと積み上げ、仕上げに土を盛って突き固め、形を整えるのである。


「信長さまが京から戻られるまでに作り終え、出来栄えを見ていただくのじゃ。皆みな、励め励め!」


 藤吉朗は毎日のように普請場に立ち、人夫たちに笑顔で気さくに声を掛け、あるいは冗談を飛ばし、その働き振りを熱心に監督した。


 最初、近在の百姓や町人たちは、土を持ってゆくだけで米がもらえる、という布告を信じなかった。が、事実と解ると、人々は競うように土俵を抱え、あるいは土俵を山積みにした車を押すなどして、陸続と普請場に集まるようになった。遠く南近江から噂を聞きつけて来る者もいたし、土俵を担いで走りながら日に十度も二十度も米を貰いに来るような豪の者もあり、女・子供や足の悪い老婆までが土俵を引きずってやって来、人々が群れ集まって、連日、縁日のような賑わいを見せるようになった。

 のべ人数で言えば、数万人がこの普請に参加したことになるであろう。


 その意味で、これは一種の公共事業であるとも言えた。

 北近江の百姓たちというのは、織田と浅井の戦いに巻き込まれ、村を焼かれ、稲や麦を刈り倒され、あるいは収穫を奪われるなどして、誰もが生きることそのものに困窮していた。それが、ただ土を俵に詰めて持ってゆくだけで米が手に入る。しかも、その総量たるや一万石――米俵で二万五千俵――重量で千五百トン。それだけの米がこの地域に落ち、人々の生活を潤すのである。


 藤吉朗は、この普請場でも一瞬たりとも時間を無駄に過ごさない。常に四方に目を配り、体格や面構えの良い百姓を見つけては声を掛け、その肩などを叩き、冗談を言って笑わせたり、


「百姓なんぞやっとらんで、侍にならんか。働き次第でなんぼでも立身させてやるで、その気になりゃいつなりとわしのとこに来い」


 などと勧誘したりした。

 こういう大将は、古来ない。

 百姓あがりであるだけに、藤吉朗の気さくさというのはこの時代の武士像からはまったくかけ離れているのである。それを初めて目の当たりにする百姓たちは、真昼に幽霊でも見たほどに驚き、呆然とせざるを得ない。

 やがて人々は藤吉朗という人間を理解し、それに慣れもし、もちろん評判にもなった。なかには藤吉朗に惚れ込み、家来にしてくれと土下座するような者もあったし、この男のためならばと普請そのものを手伝おうとし出す者などもあり、普請現場は藤吉朗の陽気さに釣り込まれるように人々の笑顔と活気とに溢れ、工事は驚くほどはかどった。


 後に藤吉朗は北近江を信長から貰い、長浜に城を築いてこの地域の領主になるのだが、その際、浅井の旧臣や地下じげの人々が反乱や一揆をまったく起こさず、領主である藤吉朗に従順に懐いたのは、ひとつにはこのときの藤吉朗が疲弊する民を無理やり動員するような強権を用いず、その飢えを救ってやったからであり、領民たちに少なからぬ親しみを持たれていたからであったろう。



 人間が、行列を成すようにして姉川河畔に集まって来る。

 浅井長政は、小谷の山上から眺めるこの光景の意味が、最初は解らなかった。

 物見をやって調べさせると、何やら大掛かりな普請をしているという。土塁を掻き上げ、堤防のようなものを作っているらしい。


(あんなところに、何を・・・・?)


 いつ戦場になるかもしれぬ場所で治水工事をするというのも理に合わないだろう。

 長政の常識には、敵の侵入を防ぐために、六キロもの長塁を築くなどという発想がそもそもない。長政に限らず、この日本に住むどの人間の頭の中を覗いても、そんなものはありはしなかったであろう。

 が、日を追うごとに、恐るべき速さでそれは北西に向かって伸び始めた。


(まさか・・・・姉川から延々、陣城を築こうというのか・・・・・?)


 その現実を目の当たりにしても、まだ信じられなかった。

 が、実際に眼下でそれは日に日に成長し、田を埋め、川を埋めながら、虎御前山へと向かって一直線にどんどんと伸びてゆく。


(なんということを考え付くのだ・・・・!)


 戦慄する以外ない。


 あの長塁が完成すれば、浅井勢は南下を物理的に防ぎとめられる。これまでは織田本隊が押し寄せて来たときは小谷城に篭って守り、それが退いた後に姉川までの支配地域を再び取り戻すことができたのだが、あの長塁によって地が仕切られれば、浅井領は完全に切り取られることになるであろう。

 城攻めには、守備側の数倍の人数が必要である。城攻めとまでゆかなくとも、敵があの長塁に篭り、守りに徹して戦うならば、それを抜くには凄まじい出血を覚悟せねばならない。事実上、手出しができなくなるのである。


 長政は事態を重く見、どうにかこの普請を妨害し、失地を回復しようと焦った。


 が、今や、浅井の軍兵は木下勢より数で劣っている。

 兵農分離が行われていない浅井家では、農民兵を常に城に篭らせておくわけにはいかず、無期限に動員を掛け続けることも不可能であった。琵琶湖畔の山本山城や余呉よご、木ノ本などの北方の小城にも数百ずつの兵を配っておかねばならず、小谷城に常時篭っている兵はせいぜい二千ほどに過ぎないのである。

 これに対し、木下勢は藤吉朗の直属軍だけで三千。寝返った宮部善祥坊の兵が三百。南方の鎌刃城から樋口三郎左衛門が五百ほどの援兵を率いてこれに加わり、さらに虎御前山の砦や姉川周辺の小城には信長が数百ずつの守備兵を配置していったから、その総勢は軽く五千を越えるであろう。宮部城に篭って小谷城を監視している軍勢だけで二千を数え、さらに千人ほどが普請場の周囲に配置され、工事を守っているのである。

 小谷城に守備の人数を割かねばならぬ浅井としては、千人以上を出戦させることは難しい。そんな小勢で下手に野に出て決戦を挑めば、敵の包囲を受けて全滅さえしかねない。結局のところゲリラ戦術を駆使して少人数で奇襲を掛けるか、夜討ちを仕掛けたりするくらいしか戦のしようがないのだが、その程度の小競り合いを繰り返して十や二十の雑兵首を挙げたとしても戦況にほとんど変化はなく、朝が来るたびに湖北の田園の姿はみるみる変わっていった。


 天候に恵まれたこともあり、長塁の工事は一月と掛からず、梅雨入り前の四月の上旬(新歴の五月中旬)にはほぼ完成した。

 高さ三mもの土塁が延々五キロ半にわたって築かれ、虎御前山から姉川までの大地が完全に仕切られた。土塁の前に掘られた幅十mほどの堀には、付近の小川の川筋を変えて水が軒並み流れ込むようにされており、姉川に向かって注ぐ新たな川のようになっている。土塁の上には柵がびっしりと植えられ、土塁の後には三層建ての小城のような櫓が幾棟も建ち並び、その姿を遠望すると、湖北の地に現出した“長城”と言うしかない。


(信長という男は・・・・!)


 小谷城に篭る将兵たちは、このときほど信長の凄まじさを実感したことはなかったであろう。湖北の山野の姿を変えてしまうことで、信長は己の力の強大さを映像として見せつけたと言っていい。


「古来、城は力で攻めるを下策とし、そこに篭る人の心を攻めることをもって上策とします」


 一日、半兵衛が完成した土塁の上から小谷城を遠望しながら言った。


「この大掛かりな普請は、敵を防ぐためのものと言うより、むしろ城攻めの軍略であったのやもしれませんね。こういう方法があるというのは、私は思いつきもしませんでした・・・・」


 初夏の爽やかな風になぶられたその横顔には、いつもの微笑が浮いていた。

 小一郎は、南東――姉川の方に顎を向けた。全長五キロを越える一直線の長塁は、かすみに溶けて終点が見えない。


「こんなものを見せつけられたら、誰でも気を飲まれてしまいますなぁ」


 ため息をつくような想いである。

 これを城攻めと言うならこんな迂遠うえんな方法もないが、人間の心を打ちのめすというのは、案外、こういうことなのかもしれない。


 実際、これ以降、浅井の軍兵たちの戦意は目に見えて衰え、積極攻勢に出ることもまったくなくなった。


 ここで少し余談をすると――


 藤吉朗は、戦に土木工事を持ち込むという信長のこの発想を、このときに学んだ。

 後に藤吉朗は羽柴秀吉となり、中国地方の軍団長となって毛利氏と対戦するのだが、己の裁量で戦を支配できるようになると、この男は大土木工事を駆使してそれまでの城攻めの概念を根底から覆すような戦を立て続けに行っている。播磨(兵庫県)の三木城や因幡(鳥取県)の鳥取城では城の外をぐるりと土塁で囲い込むような大工事をやり、敵をそこに封じ込めて身動きできなくし、そのまま長期包囲して敵を衰弱死させるような方法を取っているし、備中(岡山県)の高松城ではこの北近江の土木工事をそのまま規模を大きくしてやり、一里もの巨大な堤防を築いて川の水を堰き止め、地上に人工湖を現出させて城を水中に孤立させ、有名な「水攻め」をやったりしている。

 日本史上、戦争のために地形を変えてしまうというような発想を持ったのはおそらく信長が嚆矢こうしであり、藤吉朗は持ち前の大気さで、それを雄大に模倣したのである。


 豊臣秀吉の様々な事績は、徹頭徹尾、信長という偉大な師を模倣するところから始まっている。

 たとえば「本能寺」で信長が死んだ後、まだ幼童であった三法師さんぽうしを担いで織田家の実権を握り、そのまま横さらいに政権を奪い取って織田家を丸々横領したそのやり方は、足利義昭を追放した後、その幼児を推戴して足利幕府を存続させ、幕臣たちや畿内の同盟勢力をなし崩しに織田家に組み込んでゆき、いつの間にか彼らの主君に収まった信長のやり方を真似たものであろうし、大阪石山の地に巨大な城郭を築いて本拠を据えたのも、信長の大阪城構想をそのまま戴いたものであろう。四国、九州を併呑し、その後、関東、奥州を攻めて天下を統一したその戦略の順序も、信長の天下布武の青写真を踏襲したものであろうし、京に築いた聚楽第じゅらくていに天子の行幸を仰ぎ、自らの権勢を決定付けるセレモニーを行ったのも、信長が計画していた安土城への行幸を下敷きにしたものに違いない。


 藤吉朗は信長の冷酷さ、血生臭さは真似なかったが、その革新的な発想法から多くのものを学び、それによって自らを研磨し、自分の血肉にしていったということだけはどうやら間違いがない。



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